~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年3月31日月曜日

部落民とのトラブル(生立ち編-19)

さて、以前、ブラックバス釣りにハマった時に、
釣り仲間の一人が部落民だった話をしました。
その友人とは、数回釣行に出かけたり、
同和地区の彼の家にも行った記憶がありますが、
その頃の私は、部落を差別していましたので、
「同級生なので仕方なく・・・」という、半ば社交辞令的な、
表面的な気持ちで付き合っていました。

しかし、しばらく付き合う内に、
その部落民と、あるトラブルを起こしてしまいました。
全面的に、私に非があったのですが、
自分の力では、解決できなくなってしまい、
友人に話をつけてくれるように頼みました。

在日韓国人で、後に地元の暴走族の頭になる
 「顔役」的な友人でしたが、
その時、彼はこう言いました。
「シンちゃん(私の愛称)。こりゃ、相手が悪いわ。
あいつは大したことないけど、部落がなー」
続けて、彼は
「部落が、後々コワイねん」
と言いました。

顔役の友人でさえ敬遠してしまう、
「部落」という、見えないけど強力、かつ巨大な“何か”に
私は、仕方なく詫びを入れることにしました。

その場は、収まったのですが、
二度と、その子とは、話をすることさえなくなりました。
同和指定校であった我が中学では、
部落を好き嫌いにかかわらず、部落民と付き合うことになります。
同和指定校であるがゆえに、同和教育もなされているはずでしたが、
私達、生徒の認識は皆一様に、その様な認識であった様です。
その様な認識とは・・・
部落はコワイ!!
と言う誤った認識です!!

部落って、ホントに怖いのでしょうか?
部落の何が怖いのでしょうか?

誤った認識が、誤った口伝が、都市伝説のように
親から子へ、又、友人から友人へ伝わっていき、
いつしかそれは、その人の中で増大され、
知らず知らずのうちに差別者へとなっていきます。

差別をなくすためにも、「部落」とは何か?
部落ってどんな所?と言うことを、
皆さんに知っていただきたく、このブログを続けています。

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2014年3月26日水曜日

ビートルズ・・・部落差別からの解放(生立ち編-18)

ビートルズ。
偉大なアーティストは、各方面に多大な影響を与えました。
一見、部落とは全く関係のないと思われるビートルズですが、
私にとっては、ビートルズが「私の差別意識解放」の
大きな一つの要因になっていると、今になって思います。

もしかしたら、ビートルズを知らなかったら、
私は、未だに部落を、部落民を差別していたことでしょう。

ビートルズを初めて知ったのは
中学2年の時でした。
正確に云うと、名前は何度も聞いたことがあるし、
曲もテレビなどで耳にすることもしばしば。
しかし、曲とグループ名が一致することはなかったし、
どんな人達なのか?知りませんでした。

その頃、再放送ですが、テレビで「アニメ・ザ・ビートルズ」と言う
アメリカンアニメをやっていたのです。
「キャント・バイ・ミー・ラヴ」のオープンニング曲に始まり、
4人のメンバーが起こすドタバタ劇を描いたものなのですが、
毎回、サブタイトルがついていて、それが曲名になっているのです。
例えば、サブタイトルが「No Riply」となっていても、
何故か、本日の一曲は「I Should have Know Better」というふうに、
必ずしも、サブタイトルと本日の一曲は一致しないようなのですが、
そこが又、なんとも言えない、アメリカアニメのアバウトさというか、
味かもしれませんね~。

当時は、毎日やっていたそのアニメの中の今日の一曲で、
特に覚えているのは、何故か「You've Really Got a Hpld On Me」。
実はこの曲、後で知ったのですが、ビートルズオリジナル曲じゃないんですよね。
元歌は、モータウンのヒーロー「Smokey Robinson & The Miracles」なのです。

ビートルズのオリジナル曲ももちろんいいのですが、
この曲には何か特別なものを感じました。
ロック自体が、ブラックミュージックを主体としているので、
ビートルズだけでなく、ロックグループのほぼすべてが、
何かしら黒人音楽から影響を受けていることは間違いありません。
 その頃、ソロになっていたポール・マッカトニーは、
マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーと言った
ソウル・ミュージックの巨人たちと共演していました。

ビートルズ好きがこうじて、数年後には、どっぷりと
ブラックミュージックにはまっていきました。

ソウルに始まり、ジャズ・ブルース・ファンク・ゴスペル
特にレゲエやヒップホップにはハマりました。
若い頃は、クラブへかよって夜通し踊ったものです。

さて、その後、ブラックミュージックを研究するに従い、
黒人の歴史や文化に興味が湧いてきました。

400年前にアフリカから強制的に連れて来られ、
過酷な労働と暮らしを強制され、社会から阻害され、
虐げられてきた人々・・・。
徹底的な人種差別は、生活の場をも隔離により完全に
分断されていたのです。

バスの座席を分けられるのはまだ軽い方。
公園の水道は2つ蛇口がついており、
ひとつは白人専用、もうひとつはカラード用
(カラードの中には、当然日本人も入っています!!
一昔前は、日本人も差別の対象でした!!)
黒人は立ち入ることさえ出来ない、レストランや公共施設。

本は片っ端からから読み漁りました。
黒人の歴史や暮らしがわかる映画(スパイク・リー監督物)
やドキュメントも見ました。
やがて、マルコムXやマーティン・ルサー・キング、
ルイス・ファーラカンなどの差別解放者の存在も知ることになりました。

私は、日本人ですが、そうした経路から、
完全なる黒人解放者となっていたのです。
(今は、オバマが大統領になるなど、黒人差別はかなり改善されています。それでも、今なお差別は存在するようです)

なぜ、こんな素晴らしい音楽を生み出す黒人を差別するのか?
なぜ、こんなに運動神経がよく、金メダル常連の黒人を差別するのか?
中学2年の時にビートルズを知ってから、
黒人問題を知るまで6~7年の時間を要しましたが、
その頃には徐々に、我が国の差別問題である、
部落差別に関する考え方にも変化が生まれつつありました。

もちろん、ビートルズが全てではありませんが、
ビートルズも、私の差別意識を・・・
部落差別からの解放を助けてくれた、
一つの大きな要因であることは、間違いありません。


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2014年3月21日金曜日

好きになった子は・・・部落民(生立ち編-17)

よほど、部落に縁があるのでしょうか?
中学2年の時に、好きになった女の子は部落民でした。

沢山の恋をした少年期でも、未だにその娘のことを鮮明に
思い出すということは、かなり好きだったのだと思います。

これまで話したように、当時の私は、部落を忌み嫌う
「部落差別者」でした。
それは、「部落とはなにか?どのような歴史があるのか?」
などと言うことも、全く知らないが上に起こり得た結果なのです。
後年、部落を勉強していくに連れて、
また、「自分の出自は?」と考えるようになって、
幼少期にあった差別心は融雪のように、
私の心から消え去っていきました。
(私の出自は、未だ分かりませんが・・・)

彼女は、部落民でしたが、やはり当初は学校だけの出会いなので
部落民とは全く分かりませんでした。
不良でもなく、他の部落の子ともつるむでもなく。
しかも、彼女も好意を持っていてくれている様子でした。

しかし、話をしていくなかで、
段々と、部落民であることがわかってきました。
決定的なのは、住所録を見た時でした。

現在では、個人情報保護の下、全く考えられない話ですが、
当時の学校では、住所録を簡単に閲覧できることが一般的でした。

それからの私は、葛藤の連続でした。
・なんでよりによって部落なんや!?
・好きやけど、部落やしなぁ。。。
・やっぱ、部落の娘はチョット。。。

それからは、自然に距離を置いていきました。
無知と未熟が私を支配していたこの頃、
私の自身の選択以上の、何か強いわだかまりにより、
無意識に気持ちが離れていったことは、
ある意味、自然の結果だったかもしれません。

けれど・・・
これが「差別」というものなのです。
その娘個人ではなく、「部落民」として見た時、


私は・・・。
私は、立派な真の差別者になった瞬間でした。

街にはテクノロジーがあふれ、国際色も豊かになる。
こんな現代でも、結婚差別は大きな人権問題として綿々と続いています。
当時の私は、同じ選択をしていたのです。

幸いにも私は、これまでの勉強や経験を通じ、
過ちに気づき、縁あって出会った”部落民”の妻を娶る事が出来ました。
人間は変われる。
差別もなくなる。
この事を、広く皆様に伝えるのが、
今の私に出来ることと考えています。

 

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2014年3月19日水曜日

改良住宅(同和住宅)

都市の部落は、京都で起こった「オールロマンス事件」を境に、
部落解放運動が大きな盛り上がりを見せ、
部落の生活環境も激変いたしました。
その一つが、改良住宅です。

改良住宅とは、行政用語です。
それまで、部落に建っていた不良住宅を
行政が買い上げ、新しい形に「改良」して住宅を建て、
同時に行政主導で、街づくりをしていきました。

これは、先に記した通り、
部落解放同盟の運動が 実った瞬間でもありました。

大正11年、奈良の柏原の青年が中心となり
結成された水平社。
その流れをくむ部落解放同盟は、各地に支部を結成し
運動は隆盛を極めました。
多くの部落民の声が届いた結果、国を動かす事になり、
数多くの同和施策が施されるに至りました。
その一つが、昭和35年に制定された
「住宅地区改良法」です。

少し話は逸れますが、
長い運動の中で、大きな改善と成果を上げた
部落解放同盟の運動ですが、実際問題として、
行き過ぎた運動方法や不正があったことは事実です。
ただし、このブログはあくまで運動から離れた
スタンスを取っておりますので、事実は記事に致しますが、
部落解放同盟の功罪を、このブログで行うことはありません。

さて、住宅地区改良法により建てられた改良住宅ですが、
都市の部落の場合は、多くは団地形式の建て方が
主流になっているようです。
もともと、部落は狭い土地に多くの人がひしめき合って
暮らしていたものですから、土地の確保が難しい。
だから、どうしてもタテに長くなるわけです。

しかし、国や行政の仕事ってどうして
あのようになるのですかね?
部落をぐるっと取り囲むように、
あるいは「壁」のように建てられた共同住宅。
同じ形のそれが、整然と立ち並ぶ。

なんだかそれは、住宅という「温かい」ものではなく、
何だか、無機質で「冷たい」ただのコンクリートの塊に見えてしまう。
そう、例えるなら、学校の校舎のようではないか!

同色に塗られた壁の様な住宅は、
あたかも、外界との接触を避けるている様な・・・。
その有り様に、どうも、「足を踏み入れてはいけない場所」、
アンタッチャブルな雰囲気が漂っていました。

ただ、付け加えておきますが、
現在は、第一次建設の改良住宅が、
順次、耐用年数経過の建て替えがなされており、
住民を交えたワークショップも行われるなど、
新しい形での改良住宅が建ってきている。
私の妻の実家も、10年ほど前に建て替えられ、
およそ、他の高級マンションと見分けがつかないような
立派な建物に仕上がっている。
無機質だった第一次建設の建物と違い、
そこには、暖かな「家」の姿が有ります。

*よく、「部落の家賃は安い!補助も有り、逆差別だ!!」と批判されております
改良住宅の家賃ですが、2002年に法律(注)が終了してからは、
民間との格差は全くなくなり、実勢価格に見合った家賃が
居住者に課せられております。
しかも、同和地区住民への補助金もありません。
つまり、実際は差別は残っておりますが、
法律上では、「部落問題は解決している」のです。

(注) 地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律

この様な、当時の改良住宅でも、部落の暮らしは、
以前と比べて格段に良くなりました。
ただ、それでもまだ半世紀ほど。

健康で文化的なな生活になり半世紀・・・
長いですか?短いですか?
みなさんどう思われますか?

これまで、何百年にわたって虐げられてきた
部落全体の歴史に比すれば「短い」と思ってしまうのは、
部落を身近な存在に感じている私だけなのでしょうか?



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被差別部落へ行く(生立ち編-16)

当初は、学校内での付き合いでしたので
その子が部落民かどうかは、わかりませんでした。
しかし、その子の家へ遊びに行く機会があったのです。
小学校高学年になると行動範囲も広がるので、
部落の場所も、その頃にはもちろん知っていましたが、
実際には地区内へ入ったことはありませんでした。

中学2年だったと記憶しています。
初めて部落に入ったのは・・・。
その時初めて、彼が部落民であることを知りました。

以前から申しておりますように、
現在は、部落民の妻をもらい、部落の暮らしにも
良さを感じる私ですが、当時は、
部落を忌み嫌う文字通りの「差別者」でした。
部落民を低く見てしまう。
「部落民のくせに!」という感じでしょうか。

そんな勢いでしたが、学校には多くの部落民が
存在しており、それ相応の付き合いも必要でした。
先輩との付き合い、同級生との付き合い、
また、それらの家へ行ったら、その家族との付き合い・・・。
しかし、不思議なもので、だんだんと慣れてくるものですね。
フッと、彼らが部落民である事を、少なくとも学校にいる間や、
一緒にバス釣りに行っている間には忘れるのです。

でも、部落に入ると・・・
改良住宅を目の前にすると・・・
やっぱり、心の何処かでは差別しているのですね。
でも、家にも上がるし、友達付き合いもしている。
本当は嫌なら付き合わなければいいはずなのに・・・。

部落を、部落民を嫌いなはずなのに、
そうやって付き合いをしていたことは、
今思えば、従兄弟や叔母が部落民で、
部落が身近な存在であると言うことが、
心の何処かにあったのかもしれません。


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2014年3月12日水曜日

部落の友達(生立ち編-15)

小学校の時から、よくケンカをしました。
気に入らないことがあると直ぐに手が出てしまう。
宿題はしていかない、忘れ物は良くする、
いつも、教師に怒られローカに立たされることも日常茶飯事で、
高学年には既に校舎裏などでタバコを吸う。
その頃、憧れていた暴走族の特攻服を買って
学校に着ていき、親が呼び出しされたり、
自宅に教師が来ることも日常茶飯事。
そんな小学生時代でしたから、かなりの問題児であったのでしょう。

今では信じられませんが、この時代は、
教師の体罰なんて当たり前でしたから、よく教師に叩かれました。
それも、私だけ。
壇上に上げられ、他の生徒の前で目の敵のように
私だけ叩くのです。
なので、当時の私は、教師への反抗心が
生まれていたことも事実です。

そんな小学生時代でしたから、
中学に入ってからも不良仲間と一緒だった事は、前回お話しました。
しかし、初めのほうこそ「ケンカだ、なんだ」と言う事が多かったのですが、
しばらくすると、他校とのケンカもなくなり、全校一丸で集まるというのは
少なくなり、代わりに、小さなグループで行動するようになっていきました。

変わって私が夢中になったのは、当時流行り始めた
「ブラックバス釣り」です。
ルアーを持っては、改造したやんちゃ自転車に乗って
よく釣に行ったものです。

その頃は、釣りをする同級生も限られていましたので、
自ずとその仲間たちと釣へ行ったり、
遊んだりするケースが増えてきました。

その内の一人が、部落民でした。

部落に対して差別を持っていた私が、
とうとう部落民と友達付き合いを
始めることになるのでした。

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2014年3月10日月曜日

部落とテレビ

今日は、生い立ち編から少し離れて、
テレビのお話をしたいと思います。
毎週、日曜日の朝には「遠くへ行きたい」を見るのが、
出勤前の習慣になっています。
「遠くへ行きたい」といえば、長寿旅番組で、
皆様も良く知っておられると思いますが、
この番組中で、“部落”が取り上げられていました。

ある俳優さんが、「太鼓製造店とその太鼓を使った
地域の伝統芸能を紹介する」という企画でした。
地域の人が集まり、太鼓の練習をする際、
太鼓屋さんの主人が持ってきたのが「さいぼし」。
番組中では、主人は「干し肉」と紹介していました。

太鼓作りは、部落の伝統的な産業です。
今も昔も、国内の皮革業と部落とは
切って切れないほど密接な関係を持っており、
全国各地に、皮革部落が存在しております。
その中で、出来上がった皮革で太鼓を作る事が、
部落の伝統として綿々と受け継がれてきました。

現在では「鬼太鼓座」や「鼓童」と
いった太鼓集団も国内外で大きな評価を得てるように、
日本人にとって太鼓は、最も身近な楽器の一つです。

太鼓つながりで話は変わりますが、
平日の朝は、子どもとチャンネル争いです。
子供は小学生と園児ですので、NHK教育の
子供番組が見たいのです、しかし、私はニュースが見たい!
それで、最初は子供相手にケンカ状態でしたが、
最終的には、私が折れて子供番組を見るようになったのですが、
これが、中々面白い!!。
番組によっては、我々大人も勉強になる番組もあります。

その中で、「みいつけた」と云う番組があります。
コッシーと云うしゃべる椅子とスイちゃん(逆読みするとイスちゃん)
が主人公の、イスをフューチャーした番組です。
番組中は、色々なイスが擬人化されて出てくるのですが、
なぜ、コンセプトがイスなのかは、番組を見ていても
全く分かりませんが・・・?
ちなみに、コッシーの声はサバンナの高橋君です。

この番組中の一つのコーナーで、
「できてく」というコーナーがあり、
色々な商品の製造現場を見せる“工場見学”コーナーが
あるのですが、このコーナーで「太鼓作り」が
放送されていました。

お子様がおられる方々なら、繰り返し放送されているので
ご覧になった方もおられると思います。
場所は、江戸時代には全国の部落から
出来上がった皮革が集まる一大集積地です。
現在は、部落内も改良住宅、しかも、かなり高層で大規模な
ものが沢山立ち並び、皮革業も収縮の傾向にあるようですが、
それでも、綿々と伝統を守っておられる方々もたくさんおられます。

この番組内では、太鼓作りや皮革製造に関する
大変興味深い工程が、短く、しかもわかりやすく
編集されており、どれも非常に貴重な光景であります。

又、関西ローカルでしょうが、「よーいドン」と言う
朝の情報番組でも、履物名産地(履物も部落の重要な伝統産業です)にて
飛び込み取材を行っていました。

このように、最近はいろいろな番組で「部落」が取り上げられるように
なってきました。
一昔前は、部落物といえば、解放同盟がキッチリ監修した
啓発番組や差別の現状を伝えるドキュメンタリーが主でしたが、
テレビ業界も、随分と変わったものです。
もちろん、「変わった」のも良い方向に変わってきたのです。
気軽にテレビが部落内に入り取材を行い、番組として放送される。
この場面だけ見れば、そこには「差別」は存在いたしません。
かつては、差別用語や差別的表現(いわゆる放送事故)を放送しようなら、
即刻糾弾という事で、テレビ局も及び腰になっていたのでしょうね。
アンタッチャブルな存在から、気軽に取材に訪れる、開かれた存在へ・・・
テレビの影響力なら、部落差別をなくすための
一つの要因になるかもしれませんね。

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2014年3月1日土曜日

不良と部落(生立ち編-14)

「部落には不良が多い」
よく聞く言葉です。
2ちゃんねるの「人権板」と呼ばれる
差別的なスレッドでも、
「部落はDQNが多い」(DQN=2ちゃんねる上でヤンキー・不良を指す)
「DQNはほとんどが、同和か在日」などと語られています。




以下は、中学入学当時の話です。 中学に入学すると、私も少々やんちゃだったので、
いわゆる「不良グループ」の一員として行動をしていました。
当時の中学では、クラブ活動が必須だったので、
出席するしないは別にして、
必ずどこかのクラブに所属しなければなりませんでした。

その時の3年生の不良グループの中心の方々が
ラグビー部に所属していました。
そして、2年生の不良グループの中心が、
サッカー部でした。

我々1年生の間では、ラグビー部に所属する者が
多かったのですが、私は、サッカー部に所属しましたので、
2年生の先輩にはよくかわいがってもらいました。
各クラブで分かれているからといって、それぞれが
仲が悪いということはありませんでした。
一旦“事”(他校とのケンカ)が起これば、
一丸となってまとまったものです。

さて、メンバーの内訳ですが、
3年生は、少々古い言い方ですが、「番=頭」と、
副番の方が部落の方でした。
その他は、在日、一般地区生の混在でした。
2年制もやはり、番と副が部落民で、
後は同じような構成でした。
そして、3・2年が部落民とくれば、
我々1年生も部落民?となると思うでしょうが、
実際は、不良グループには、一人も部落民はいませんでした。
構成は、在日と一般地区生です。

すべての学年で言えることですが、
不良が部落民だけのものでは決してありません。
「部落に不良が多い」という説は、全くの誤りであります。
「部落に不良がいるかいないか?」と聞かれれば、
“いる ”のでしょうが、それは、一般地区でも一緒。
不良・ヤンキーは出身地・出自・門地に関係ありません。
部落を含まない一般地区でも、不良・ヤンキーはいますし、
元に、現在私の住んでいる地域も、
同和地区を含んでいませんが、不良・ヤンキーはいます。

ちなみに、部落出身の私の妻には、姉が二人います。
長女は、地域でも指折りの不良、
次女は、姉ほどでは無いちょいワル、
そして妻は、不良ではありませんでした。
部落=不良・ヤンキーであれば、私の妻も
不良・ヤンキーであったはずでしょう。

「差別と偏見というのは、こういうことだなぁ」と思います。
たまたま見かけた、たまたま出会ったなどの、
“たまたま”が、「いつも・常に」と言うイメージに
変わる事こそが偏見なのです。
だけど、不思議なことに一般地区では、
“たまたま”があっても、これが「いつも」にはならない。

こうした、偏見と誤った考えがある限り、
差別は一向になくなりません。

長きに渡り続いてきた差別は、我々の偏見や認識を
改めることによって、なくなっていくものだと思います。


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