~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2017年11月30日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その6/見て記行って記被差別歩記-5

大阪では、もうすぐ造幣局の桜の通り抜け(大阪市・天満の造幣局には、
135種350本の桜が植えられており、期間中は一般開放されている。)
も終ろうかという4月の中頃。
都市部より気温が低いこの地では、季節が半月程遅いようで、
やっと桜が8分咲きというところだった。

4月も半ばというのに朝の空気は冷たく、
街なか仕様の薄着に容赦なく突き刺さる。
深山より流るる雪解け水があたりを冷やし、
より一層「川向(かわむこう)」の桜の開花を遅らせているように感じた。

京都市京北川向(地区特定につながる為、仮名とさせていただく)
ここが、全国的にも珍しい江戸時代の牢屋が
現存するという役人村(=被差別部落)である。

地区は、小さく狭い。
前は川、後ろは山という部落に在りがちな立地の中に、
改良住宅を含む20戸ほどの家が立ち並ぶ。
国道沿いに架かる川向への橋と地区全景
まずは、地区内を2周ほど回ってそれらしき建造物(牢屋)を探したが、
全くもってわからず。
丁度、橋のたもとの工務店前で、せわしなくトラックに
荷の積み込み準備をしていた作業服姿の方がおられたので問うてみたのだが、
「地区内の人間ではないから分からない」というご返事。

小さな地区であるから、すぐに見つかるとタカをくくっていたのもつかの間。
意外とてこずることとなってしまった。
だが、「江戸時代の牢屋がある」ということは、まぎれもない事実であるので、
車を降りて、歩いて調査することにした。

丁度、地区の教育集会所の前にガレージがあったので、そこに車を止めた。
川向地区教育集会所
教育集会所は、かつて隣保館の役割を担った施設で、
地域によっては、解放センター・文化会館・人権センターなどとも呼ばれたが、
おしなべて、隣保館機能をもった公共施設である。

隣保館は、会社組織でいえば総務部のような存在で、
地区住民の総合的な行政サービスを担った他、地区の集会や勉強会などに利用された。
また、解放運動が盛んだった時期は、その拠点として使用された。

しかし、平成14年に地対財特法の期限切れに伴い、
国や地方自治団体の同和施策が完全終了してからは、
隣保館はこれらのサービスを段階的に廃止。
現在では、各自治体とも、会議室や併設する体育館などを一般開放し、
地区住民以外にも広く利用される運びとなっている。

包み隠さす話をしよう。
今から15年ほど前までは、例えば「家の電球が切れたから交換してくれ」
と言う雑務依頼がたしかにあった。そのような雑務依頼にも答えていたり、
運動団体が施設内に本部を置くなど、公私混同があったのは事実である。
また、国・行政も「法律」を前に、それを見過ごしてきた・・・と言うか、
地区住民も行政職員もそれが当たり前だと思っていた時期があった。

しかし、地対財特法が終了して久しい今日では、
特定の運動団体や同和地区住民だけというスタンスからは一線を画し、
広く市民・町民に利用してもらえる施設へと生まれ変わったのと同じく、
地区住民の「隣保館を当てにしない」精神的自立が進んだことが挙げられる。

誤解がないように記しておくが、雑務依頼などは一つの細かい悪例であり全てではない。
大きな流れに沿って言えば、かつて不良住宅が立ち並ぶ貧困生活をしていた被差別部落にとって、部落民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法第25条)」に
隣保館が大いに貢献したことはまぎれもない事実であり、
決して公私混同の施設ではなく、必要不可欠な存在であったことを述べておこう。

*ここでの隣保館の記述は、昭和44年の同対法施行以降、
同和地区指定された被差別部落に対してのものであり、
同じ被差別部落でも、一切の同和施策を放棄した未指定地区に関しては
その限りではない。

【その7に続く】