~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年12月22日月曜日

被差別部落の正月風景(元旦編)

早いもので、もう12月も終わり・・・
と、言うことは、今年も終わりという事になるのですが、
今回のシリーズ「被差別部落の正月風景」は如何でしょうか?
(過去ログはコチラからどうぞ↓)
被差別部落の正月風景(準備編
被差別部落の正月風景(大晦日編)

今回は、正月風景も最終回。
被差別部落の正月風景・元旦編をお届けします。

大晦日は、鐘撞きに行きましたが、
その後、各宅へ帰り、子供たちへの
お年玉授与を行います。

とにかく沢山の人数がいます。
甥姪、従兄弟違い(注:いとこの子)が、
次々にやってきます。

又、一族ではないけど、部落内には親戚が多く
それらの各家庭でも集まりができていますので、
そういった親しくしている親戚には、挨拶回りをします。
当然、子供が居るのでお年玉を渡し、
一盃ごちそうになり、新年の挨拶をします。

部落内の新年は、そういった集まりが各所に出来て、
夜通し賑やかになります。

====================


元旦の朝は、やはり雑煮から始まります。
雑煮は、普通のおすましですが、
私は、それに少し油かすを浮かせるのが好みです。
コクと香りがUPして、スープのような雑煮になります。

雑煮を食べたら、初詣に出かけます。
今でこそ、被差別部落の方々も普通に神社へ参拝に行きますが、
身分制度が実施されていた江戸時代には、
部落民は、“神社の鳥居をくぐることが出来ない”とか、
“神事に参加出来ない”などの差別がありました。

また、とある神社の氏子部落民は、
長きに渡り参道を歩く事が許されず、
参道脇に設けられた一段低い獣道のような
「不浄道」を通りました。
この様に、全く理不尽な差別で、
部落民は「不浄」とされてきたのです。

驚く無かれ、なんと、このような直接的差別は、
明治時代に入り解放令が出された後も、永らく続いたのです。

全く理不尽な話ですが、清目(キヨメ)という役割を担い、
寺社の掃除や死体の片づけに従事していたにも関わらず、
部落民には、信仰も満足に許されなかったのですが、
大正年間に、水平社が結成されて以来、
差別に対する戦いと啓発が実り、
いまでは、神社を始めとする信仰の場で
不利益な直接的差別を受けることはなくなりました。

神社は、部落の近くに大きな神社もあり、
部落の方々はそちらへ向かう方が多いのですが、
当方一家は、年賀状も確認しなければなりませんので、
一旦自宅へ帰り、地元の氏神へ参るのが恒例になっています。

以前、何度か妻の姉一家と一緒に当方の
氏神へ参った事があるのですが、
参道に並んでいるテキヤさんから、「飴持って行き!」とか、
「綿菓子あげる」と言って何だか随分商品を貰ったことがあります。
聞けば、義姉が若い頃にテキヤのバイトをしていたそうで、
それで、知り合いが多いということでした。
全く余談ですが、思い出しましたので、
エピソードとして書いてみました!

=================

さて、昼間、自宅の氏神へ参った後、
又、嫁の実家へ戻ります。
今夜は、新年の食事会です。

大晦日の集まりは親戚入り乱れての
ワイワイ・ガヤガヤでしたが、新年の集まりは直系だけです。
それでも、義母以下、姉一家×2と当家なので、
12人程になりますので賑やかには変わりないですね。

食事が終われば、花札大会です。
一戦一戦、負けたものが酒を呑まなければなりません。
最初は、負けても美味しいお酒が呑めるので嬉しいのですが、
負けが込んでくると、段々と苦痛になってきます。
呑ます方も面白いものですから、どんどん呑ませます。
部落の花札は、普通のルールと少し違います。
ここで、文章にして説明するのは難しいので
割愛させていただきますが、より、エキサイティングンになるように
工夫されていますので、負けた方は大変です。

以前、「味いちもんめ」というマンガ本に、
高知を題材にした話が載っていました。
酒豪王国土佐では、鰹のタタキを肴に「ハシケン」という
ゲームを行い、負けたら酒を飲まなければならないのです。
部落の花札遊びは、そんな雰囲気ですね。
さすがに、猪口に穴が開いてはいませんが・・・。
そんな遊びが長く続いてきました。

昔は、部落では娯楽が無かったので、
花札なんかの古来の遊びが、唯一の娯楽でした。
仕事が終わると、酒を片手に路地に集まり、
夜な夜な、このような遊びが行なわれていたのでしょうね。

ひとしきり飲まされ(?)、気分が良くなったら、
そのまま、同じ階の親戚宅へ一升瓶を持って訪問です。
親戚と言っても、妻でさえ遠い親戚なので、
私にとっては赤の他人同然なのですが、
それでも、部落の方々は暖かく迎えてくれます。

部落の方々は、過去の歴史から、
閉鎖的な傾向があるのは事実です。
この傾向は、若い方よりも年配の方々の方が強いのですが、
ひとたび仲間として迎えたら、暖かく接してくれます。
仲間意識は結構強いかと思います。
それが、返って部落外の方々との交流を
断ってしまっていないか?との懸念もあるのですが、
若い方々は、そのような意識も希薄なようですので、
世代交代とともに、部落外住民との交流も
盛んになってきていると感じます。

この様な流れにのって、部落民・部落外民双方の
理解と努力によって、差別のない世の中になる事を
信じてやみません。


====================


さて、正月を前に、3回に渡りお届けした
「被差別部落の正月風景」いかがでしたか?

正月行事は、「部落」というよりも、
地域性の方が大きいので一概には言えませんが、
当部落では、大体こんな感じになるかと思います。

今日も、最後までお読み頂きありがとうございました。
文末になりますが、前回のお願いを再掲させて頂きます。
よろしくお願いします。


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2014年12月18日木曜日

被差別部落の正月風景(大晦日編)

先日の被差別部落の正月風景(準備編)に続き、
今日は、大晦日編をお届けします。

このブログでも何度か紹介している通り、
正月は、盆と並び親戚縁者が一堂に会する期間であり、
部落内も大いに賑わいます。

そんな中でも、迎春準備を終えて、
来るべき新年を迎える「前夜祭」とも言える大晦日は、
師走の慌ただしさから解放され、
久しぶりにゆっくりとした時間を過ごせる日でもあります。


===========================

部落内は、正月休みに入る頃には徐々に人が集まり始めます。
妻子は、一足先に数日前から実家の部落へ帰っていますが、
私は、仕事の都合で大晦日が仕事納めになりますので、
仕事終了後に、妻の実家の部落へ向かいます。

毎年「紅白歌合戦もあと数組で終り」と言うような時間になりますが、
その頃には、妻の姉妹や甥姪が集まり、
とても賑やかになっています。

さて、大晦日のイベントとしては、やはり除夜の鐘です。
私も毎年、鐘を撞くのを楽しみにしていますが、
紅白歌合戦が終わると、「さあ、行こうか!」となるわけです。

行き先は、部落内の寺です。
中規模の都市型部落である当部落では、
部落内に寺が2箇所があります。
故意か偶然か、東側に存在するのが真宗大谷派、
西側に存在するのが浄土真宗本願寺派なので、
部落の方々は、「西さん・東さん」と呼んでいます。

妻の実家は、「西さん」の檀家なのですが、
西さんの住職が具合が悪く、ここ数年は
除夜の鐘撞きが行なわれておらず、
自然と皆さん、「東さん」へ集まります。

当部落内では、殆どの家庭が、
どちらかの寺の檀家であるわけですが、
皆さん、そんなにこだわりがないようです。

こだわりがない理由としては、その歴史的背景と、
寺の役割が挙げられるかと思います。

部落民にとって寺は、ある時は心の拠り所であり、
ある時はリーダーであり、ある時は集会の場であったのです。

部落の方々は非常に信仰心が強いのです。
現世の境遇を嘆き悲しみ、また、
来世には差別のない世の中に生まれてこれるよう、
部落の方々は、一心に信仰しました。

多くの部落では、最初は道場という形で存在していた信仰の場も、
「何とか寺として昇格させたい!」
「寺だけは立派なものを建てたい!」ということで、
雨漏りのする今にも倒れそうな家に住んでいる方々も、
苦しい暮らしの中から資金を出し合い、
寺を建立してきました。

地区改良がなされ、不良住宅が立派な団地に代わっても、
寺だけは昔と変わらず、いにしえの姿を保っているのです。

また、寺は、時には住民の代表=「指導者」の役割も持っていました。
実際、部落の決め事や運動などは、
寺が主になり実践されてきた地域が多いのです。

また、かつての部落は、狭い敷地に押し込められ、
人一人通るのがやっとの路地が張り巡らされており、
家も四畳半一間に大人数が暮らすという有り様でしたので、
とても集りなどひらける状況ではありませんでした。
そのかわり、集会所の役割を寺が担っておりました。

このように、被差別部落と寺は非常に密接な関係を持っているのですが、
昨今は、宗教の多様化・宗教離れなどにより、
寺の存在も以前より重要視されなくなってきました。

それでも、盆や命日など、最小限の宗教行事に
僧侶を呼ぶことは、今でも続いています。

そんな、寺の現状ですが、
大晦日に行われる「除夜の鐘撞き」だけは、
地域の人々も沢山集まり、篝火も焚かれた寺の庭は、
冬の寒さを吹き飛ばすかなりの熱気に包まれます。  

私などは、その様子を見る度に、
「熱気あふれる、水平社創設期の頃の寺院は、きっとこんな感じだったのだろうなぁ」と
一人、物思いにふけってしまうのです。

=======================

さて、寺の庭は、先ほど書いた通り、
沢山の方々が来られています。

年老いた方ばかりでなく、子どもや若者の姿も見れます。
篝火が焚かれた周りに手をかざし暖を取る方、
久しぶりに会った知人同士の和、
私達のように、嫁の姉妹や甥姪達の大人数で行っている方などが、
世話役さんの声で列に付きます。

「ぼちぼち始めます~」

一列になり、お賽銭を握って順番を待ちます。
鐘撞き台にあがり、鐘の下に掘ってある穴に賽銭を入れ、
静かに手を合わせ・・・

「ゴ~~~~~~ン!」

大きな音とともに、静かな部落内に鐘の音が響きます。

改良住宅のせいでしょうか?
四方に建っている団地型の改良住宅の壁が、
思わぬ反響効果を生むのかも知れません。
その鐘の音は、他で聞く以上に大きなうねりを伴っています。

撞いたら一礼をして次の方にバトンタッチです。
時を同じくして、本堂では住職の読経が始まりますが、
座って手を合わせている方はまばら。

ほとんどの方が、鐘をついたら暫しの雑談の後、
帰路につきます。
私は、とても興味があったので、十数年来で初めて、
昨年、本堂に上がり込み少し手を合わせていましたが、
雑談の終わった妻が、私を放ったらかして寺を出て行く
姿が見えましたので、諦めて私も寺を後にしました Orz

しかし、今年は、一人で住職の読経を聞いてみようと思います。


========================

鐘撞きが終われば、帰りに世話役の方から
どん兵衛の天ぷらそばとミカンを袋に入れて渡されます。

最初の頃「えっ!こんなん貰えるの?」って
世話役さんに言ったら、

「おじゅっさん(住職の方言)のお心使いやし、どうぞ」
と言っておられました。

私もいくつかの寺で鐘を撞きましたが、
土産をいただける所なんてありませんでした。
それだけ、部落は一つの共同体であると同時に、
寺が地域住民に果たしてきた役割の大きさが、
住職共々、認知されているということなのでしょう。

以前なら、東さんが終われば西さんへ鐘撞きのハシゴ!?でしたが、
前途した理由により、止む無くここ数年は鐘撞きが行なわれておらず、
そのまま、帰路につきます。

また、仏様(ご先祖様)がおられる家庭では、
納骨堂が解放されますので、合わせて拝礼をされることもありますが、
最近は、どうもお年を召した方ばかりのようです。

ちなみに、部落の墓地については地域差が有り、
郊外型・農漁村型では墓地がある地区が多いですが、
団地・マンション型の高層改良住宅が立ち並ぶ
都市型部落では、墓地の確保が難しく、
寺院内に納骨堂が作られている場合が多い様です。

妻のご先祖は納骨堂におられますが、
義母の姉、つまり、私の嫁方の叔母家は、
地区外に墓地を建立しておられます。

地域差があるでしょうが、この様な大晦日風景が、
嫁の出身部落では繰り広げられます。

さて、今回もお読み頂きありがとうございました。
次回は、最終回「被差別部落の正月風景(元旦編)」を
お届けいたします。

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2014年12月12日金曜日

被差別部落の正月風景(準備編)

早いもので、もうすぐ今年も終わりですね。
今回は、少し早いですが「被差別部落の正月風景」をお届けします。

被差別部落と言っても、都市型部落である嫁の実家の部落は、
今では殆ど、一般地区と相違がないと思います。

残念ながら、昔(地区が改良される以前)は、わかりません。
私の義母なら知っているのですが、
あまり過去のことを話したがりませんので、
私も聞かないようにしています。

なので、以下は、現在私が体感している
「被差別部落の正月風景」になります。

まず、今回は準備編をお届けいたします。

 ====================== 

以前、被差別部落のお盆風景をお届けいたしましたが、
お盆同様に、正月の部落は、とても賑わいます。
(勿論地区外も同じでしょうが・・)

親戚縁者が一堂に会するわけですから、
賑やかなのは当然ですが、いつも申しますように、
人数がハンパないのですね。

部落民は、その歴史的背景から、
親戚縁者間の関係は強固で、
しかも、同じ部落内か、又は
近くに住んでいる方が多いのです。

正月準備というと、地区内外を問わず、
子供達のお年玉の準備があげられますが、
地区外と異なる所は、その人数です。

親戚が多いということは、子供も多いのです。
部落が一つの親戚のようなものですから、
それぞれに渡していては、お金がいくらあっても足りません。
だから、妻の実家では、ある一定のルールを設けております。

お年玉は、従兄弟の子供(従兄弟違い)まで、
かつ、高校生までと言うルールですが、
それでも、最大時で15人程いましたし、
それ以外にも任意で、親戚に渡しますので
20人ほど渡さなければいけません。

非常に辛い出費ですが、我が妻もそのようにして
貰ってきているので、伝統ということで致し方ありません。

まぁ、我が家にも子供がいますので
幾分は返ってくるのですが、どっちみち子供の
お金になるのですから辛いのには変わりありませんねorz

今年も、早く郵便局へ行って両替を済ませておかなければ・・・。

次に、おせちですが、これは地区外と変わらないかと思います。
作る家庭もあるし、購入する家庭もある。
また、最近はおせちを用意しない家庭もありますね。

核家族化で若い方が増えているせいかもしれませんし、
第一、ひと昔前のように正月は「どこもかしこも休み」と
言うことはありませんから。
おせちの代わりに、“外食”も多いですね。

ただ、おせちは日本古来の伝統でもありますし、
縁起担ぎの為に食べるものでもあります。
これらの風習が無くなることはないでしょうが、
最近は有名シェフのイタリアンおせちなども好評のようです。

さて、おせちと並んで欠かせないのが、
部落独自の食文化です。
正月には、牛スジ・ホルモン・油かすなどの、
部落の伝統食材を使った料理も並びます。
この点は、地区外とは違うところだと思います。

それらの食材の仕入れも正月準備の一つです。
先日、私も“油かす”と“さいぼし”の仕入れに行ってきました。

あ、いい忘れていましたが、
私は、正月は妻の実家の部落で過ごします。
私の両親も健在で、自宅から車で10分ほどの
場所に住んでいるのですが、なぜか、
嫁の実家のほうが居心地がいいのです。
まぁ、賑やか好きなのもありますが・・・
(勿論、正月挨拶には私の両親宅にも参ります)

それから、ビールや酒などのアルコール類、
子供のジュースなども大量に用意します。
なんせ、部落内が親戚のようなものなので
取っ替え引っ替え来客があります。
それらの方々にも召し上がっていただかなければなりませんので。

後は、大掃除をして、お仏壇にきれいな花を飾ります。
注連縄や門松は、部落内ではあまり見ませんね。
ナゼでしょう?

これは推測ですが、もしかしたら、
注連縄は「売り物」であって商品だったからかもしれません。
よく漁師さんは、「自分のとった獲物を食べたことがない」といいますが、
その感覚に似ているのではないでしょうか?

被差別部落の特産物の一つとして、
縄細工が挙げられます。
草鞋や草履、注連縄などを作るのが上手だったのですが、
商品なので、自分の家には飾る風習が
無かったのではないのでしょうか?

もちろん、今現在、嫁の実家の部落内で
縄細工を営んでいる家庭は皆無ですが、
習慣として飾らない風習が残っているのかもしれません。
これも、我妻の部落で見ている限りですから、
他の部落では当てはまらないかもしれません。

余談になりますが、
部落と言っても千差万別で、それらの風習や
習慣・伝統は、”部落”の共通概念よりも、
地域性が優先されると言うことです。
言い換えれば、地域の風習・習慣がベースにある上に
部落共通の独自文化が成り立っているということでしょうか。

この様なことが、主に部落の迎春準備と言えますが、
昨今は、部落と一般地区の違いは、
殆ど見られないのではないでしょうか?
(ただ、地区改良以前は大きく違ったものと思われます)

地区改良以前の正月準備は
一体どのようなものだったのでしょう。
興味はつきませんが、追々調査研究を進めたいかと思います!


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2014年12月9日火曜日

生立ち編が読みやすくなりました!

いつも「被差別部落の暮らし」をお読み頂きありがとうございます。
また、叱咤激励のコメントも頂戴し、合わせてお礼申し上げますm(_ _)m。

さて、現在、当ブログは複数のコーナーを運営しておりますが、
記事数が増えるに従い、読みにくさが目立ってきました。

特に、これまで長期連載の「生い立ち編」は、
記事数が最も多く、時代関係もわかりにくいため、
お読みいただいている皆様に、
ご迷惑をお掛けしているのではないかとの懸念を抱いておりました。

そこで、今回、「読みやすいブログ」を目指し、
「生い立ち編」に通し番号を振る、マイナーチェンジを行いました。

以降も、徐々に改善を加え、
読みやすくわかりやすいブログを心がけていきます。

これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願いいたしますm(_ _)m。

                               S,スギムラ


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2014年12月3日水曜日

被差別部落と川

先日、「川の向こう側」と題した記事を書きましたが、
今日は、“被差別部落と川”について書いてみます。

皆さんの家の近くには、被差別部落がありますか?

大きな部落、小さな部落、都会の部落、農村部落、
同和地区、未指定部落・・・

いろいろな形の部落がありますが、
ある共通点が多いことがお分かりでしょうか?


それは。。。


川の近くに存在する(ことが多い)のです!

ことが多いと書いたのは、もちろん、
全ての部落が川の近くにあるわけではありませんが、
部落と川は、非常に密接な関係があると言えます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


被差別部落の形成は、まだまだわからないことが多く、
研究者や書物によっても異なりますが、
江戸時代は「穢多」、それ以前は「かわた(=皮多・革田など)」と呼ばれており、
主に、斃牛馬(死んでしまった牛馬)から革を作る製革業が主な仕事でした。

古代より革は非常に大切な軍需産業でした。
馬具・甲冑などの防具・弓弦などに用いられ、
各大名はお抱えのカワタ・穢多を持っており、
参勤交代の際には、穢多集団も連れて行ったと言います。

現在では、鞄や靴、衣料などに用いられ、
非常に貴重で高価な革も、
国内では昔と変わらず、主に被差別部落でなめされています。

 「皮を革」にすることを「なめす」といいますが、
機械化が進み、化学薬品を用いるようになった現在でも
非常に技術を要する仕事ですが、
それ以前は技術に加え、かなりの手間=時間を要したそうです。
(現在、これらの技術を復元し、製革されている方もおられます)

その際に欠かせないのが「川」でした。

あ・・・それと、いい忘れていましたが、
牛馬を解体するのにも水がいるでしょうし、
解体場所も広くて汚れが気にならない
河原がうってつけだったわけです。

さて、なめしの続きです。
動物から剥いだ皮を原皮といいますが、
原皮は剥いだままですから、毛や脂がついていたり、
ともすればナマモノなので腐ってしまう事もあります。

その為、皮剥が終わった皮は直ぐに川に浸けられます。
浸けられた皮はバクテリアの作用で毛穴周りだけを腐らせ、
毛を抜きやすくします。
実際の作業では、引き上げのタイミングが難しいそうです。

以降の作業行程は非常に多岐に渡るため、
ここでは割愛いたしますが、
行程中に刷り込んだ塩を抜くために、
再度、皮を川に浸けたり、
河原で天日干しにする場面があります。

この様に、“川で皮を革にする”のですが、
室町~江戸時代の京の町を屏風に描いた「洛中洛外図」というものがあります。
いくつかの種類(現在、約100種類ほど確認)があるのですが、
その一つに、穢多が河原で皮を干している姿が描かれています。


余談ですが、洛中洛外図は当時の人々の姿も
いきいきと細かく描写されており、公家大名などの姿も見れる反面、
弦召・鉢叩き・乞食など、現在の被差別部落につながる賤民達の
姿も同時に見る事ができます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


この様に、見てみると部落と川の関係が
よく理解していただけるかと思いますが、
実は、もう一つ押さえておかなければならないのが、
やはり、「差別的に川に住まわされた」と言うことです。

川というのは、普段は小さな流れでも、
ひと度雨が降ると、最も甚大な被害を受ける場所の一つです。
又、川だけでなく、崖下や急坂の上、湿地帯なども同じ理由で、
危険・不便など、人が住めない場所にあえて住まわされたり
、強制的に移転させられたのです。

もう一つ、川という場所は、人が集まる場所でもあったわけです。
再度、京の話になりますが、
京都の街中を流れる鴨川には、
平安~明治初期まで複数の刑場がありました。

夜の鴨川、特に四条大橋~三条大橋間に
カップルが等間隔に並んで座っている光景は、
今やテレビなんかでも有名ですが、
そんな、三条河原にも刑場と、斬首された首を晒す“獄門台”が
あり、通行人たちの見せしめとされていたのです。
被差別部落につながる人々は、この様に、
刑場で刑の執行や死体の処理等にあたりました。

また、河原には「小屋掛け」も多く、多数の観客が
出入りするエンターテイメントの場でもありましたし、
出雲阿国が四条河原で初めて歌舞伎を舞ったのは
とても有名な話です。
現在の被差別部落にはいくつかの系統がありますが、
この様な“芸能・エンターテイメント”も、
被差別部落につながる系統の内の一つです。

人が集まるといえば、
或いは、このような話もあります。
トラックや鉄道などが無かった時代には、
船は大切な輸送手段でした。
川を使い街から街へ荷物を運ぶ。
荷揚げの人夫や大八車や馬力での輸送など、
運輸の役を担ったのも部落の先人たちでした。

最後に、川は地区と地区を隔てる。
つまり、被差別人達を隔離するのに非常に
都合のいい場所であった事も、
誠に残念なことですが、書いておかなければなりません。


これら、種々の要因が地域的かつ、複合的に絡み合い、
部落は川の側に存在し、今に至るわけですが、
これらの生業(なりわい)に携わる人々も、我々の生活に
必要不可欠でありながらも賤視されてきたのでした。


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