~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2015年9月17日木曜日

続・被差別部落と暴力団:山口分裂報道をきっかけに再考する①

以前、当ブログで、「被差別部落と暴力団」と言うタイトルで、
2回にわたり、記事を書きました。

◎被差別部落と暴力団:その1

◎被差別部落と暴力団:その2


さて、8月下旬、『日本最大の暴力団組織“山口組”が分裂した』と、
連日、新聞・テレビなどのメディアを賑わせています。
おそらく、皆様もご存じのことかと思います。

私の、以前の記事「被差別部落と暴力団」では、
『被差別部落民や在日韓国・朝鮮人に暴力団が多い』と言う“噂”は本当か?
と言うことについて、検証しております。
詳しくは本文をお読み頂けたらよく分かると思いますが、
以前は、確かに事実であったと言わざる負えません。

【以下は、その記事の抜粋です】
「部落民は、ヤクザが多い」というのは本当でした
部落民に加え、在日朝鮮・韓国人も同じく、
ヤクザが多いのは事実でしょう。

ただし、「本当でした」と言う様に、過去の話だと思います。
根拠もなく勝手な推測ですが、
終戦から昭和50年代位までではないでしょうか。
それ以降については、部落・在日だけが突出して
多いわけではないと思われます。

(中略)
これ以降は、私の持論ではありますが、
部落民がヤクザ社会に入るのは、
「ごく自然のこと」ではなかったかと考えます。
生まれた時から近くにヤクザの組があって、
周りの大人達もヤクザが多い。
ヤクザではない人たちも、土木業や運輸業なんかで
ヤクザとの関わりが大きいわけです。

それに加えて、劣悪な生活環境と
十分な教育が受けられていない現実がありましたが、
これらは、どちらも“ヤクザになること”に対しては
プラス要因でありました。 

(中略)
ただ、同和対策が施されて生活環境も向上し、
働き口も確保されてくる昭和50年代位からは、
ヤクザへの加入も少なくなってきたのではと考えます。

先にも記した様に、
ヤクザが反社会的勢力であり、一般住民の脅威に
なっているのは事実でありますが、
それと同時に、長きに渡り部落民の重要な
受け皿の一つであったことも、紛れも無い事実なのです。
又、現在は「ヤクザには部落民が多い」と言うことは、
一概には言えない事も、再度付け加えておきます。


私は、暴力団員ではありませんし、
決して暴力団を擁護するわけではありませんが、
過去には、暴力団は「社会から疎外された被差別民の重要な受け皿」でした。

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さて、話の続きです。
これらの事件が報道され始めた頃から、
当ブログにも、ある変化が起こりました。

それは、以前に、被差別部落と暴力団の関係に
ついて書いた上記の記事の閲覧数が飛躍的に伸びたことです。

それだけ、社会の皆様が、
暴力団に対しての関心が非常に高いこと、
また、今回の分裂騒動が、暴力団社会に於ける、
非常に大きな出来事であることが見て取れます。

分裂が、暴力団社会にとって大きな出来事と言うのは、
裏を返せば、それだけ、抗争の危険が強くなったという事が言えます。

古くから、暴力団に「抗争」は付き物なのですが、
それが、暴力団社会だけに留まらず、多くの一般市民を巻き込み、
多大な被害者を出してきたことに、
一般市民も危険を感じているのではないでしょうか。

昨今、小さな小競り合いはあっても、
大きな暴力団抗争は無く、(抗争に関しては)比較的平静を保っていました。
それは、度重なる法律や条例の改訂・制定や、
警察による、暴力団取締りの効果であるといえます。

高倉健や鶴田浩二と言った、
昔の任侠映画・・・昭和残侠伝や唐獅子牡丹などを見ると、
途中の話は作品によって違うのですが、
最後は、健さんが単身または、池辺良を伴って、
「じゃ、参りましょうか・・・」などと、刀片手に
相手の組に殴りこむというパターンが多いですね。
(タマに拳銃も出てきますが)

昭和初期以前はそのような「殴りこみ(出入り)」が一般的だったようです。
だが、そのような出入りも過去の話。
今は、飲み屋・ホテルロビー・病院など、
一般市民が巻き込まれ、犠牲になっているような形に変化しています。

また、一度抗争が起これば、それらの事務所への発砲や、
ダンプ等の突っ込みなど、事務所近くの住民に度々
不安と恐怖を与えており、まれに誤射などで、
「隣の家に銃弾が撃ち込まれた」なんて事も起こっています。

それに伴い、一般社会からの呼び方も、
古くは任侠・極道・やくざと言われていたのが、
「暴力団」へと変化していきます。

だが、ここ数年の間に、そのような大きな抗争事件も
そう簡単には起こせなくなったのです。
それが、前出の法律や条例、警察官の取り締まりの
強化と言うことになります。

抗争事件以外にも、暴力団員が起こした事件の判決自体が、
非常に重くなっていますし、
例え、末端の組員が起こした事件でも、
使用者責任としてその組織のトップが逮捕され、
犠牲者がいる場合には、民事訴訟で、賠償金の支払義務が生じます。

また、抗争事件以外でも、銀行取引やゴルフ場への出入りの禁止、
守り代(みかじめ料)の徴収禁止、公共住宅への入居禁止など、
多くの制限が課せられてきました。

さらに、今までは、暴力団員だけへ制裁であったのが、
全国各地で制定された「暴廃条例」により、
暴力団と付き合いのある一般人も処罰の対象となります。
このようなことから、暴力団の弱体化につなげようというのが、
今の社会の流れなのです。

================

そもそも、暴力団とはどのような存在なのでしょうか?
現在の暴力団・ヤクザのルーツは、大きく分けて2つに分かれます。

一つが「博徒」と言われる、博打を主な生業とするグループ。
そして、もう一つは、「神農」つまり、テキヤのグループです。

昔は、“家業違い”と言って、決して交わることがなかった両者ですが、
時代の流れとともに、次第に一体化し、
(多くは、博徒系団体に神農団体が吸収された)現在は、
両者とも暴力団・ヤクザに一くくりにされています。

ヤクザと言うのは、神道を重んじており、
組事務所には神棚が掲げられ、
そして、ヤクザの重要な儀式である「盃事」には、
祭壇とともに、三神の軸が掛けられます。

祭る神は、博徒と神農では異なっています。
博徒の場合は、向って左から
春日大明神・天照皇大神・八幡大菩薩の三神。
そして、神農の場合は、同じく左から、
今上天皇・天照皇大神・神農皇帝となり、
暴力団として一体化した現在でも、これらは頑なに守られています。
現在の暴力団の主流としては、博徒の流れを汲む集団になります。

博徒は、その名の通り、博打を生業としていた集団であると
いうことは先ほど書きましたが、博打を打つことだけではなく、
博打を開催することが、その大きな収入源でした。

しかし、時代とともに、博打以外にも、
土木業・金融業・芸能業などに進出していきます。
また、クスリや飲食店の守りなど、
非合法なシノギを行い、それらの上がりが、
上納金(義理)として上部団体に納入されます。

つまり、ヤクザとは、暴力や非合法活動を伴う
営利集団と言うことになります。

ただ、それを「必要」とする人がいるのも事実です。
例えば・・・なんでもいいのですが、
A工場があるとします。
A工場は、支払の期限が迫っているのですが、
預金も現金も無し。
手元にあるのは自分では回収不能な債権のみ。

どうしても、早急に現金が必要なA社長は、
知り合いのヤクザに債権の回収を依頼します。

ヤクザの債権回収の相場は折半~10分の1。
1000万円の債権でしたが、紙切れになるよりましと、
A社長は、ヤクザに債権を50万円で譲渡しました。

しかし、その取り立て先も、同じくヤクザでした。
ヤクザから、ヤクザが取り立てるのですから、
当然回収は困難です。
そんなときに、モノを言うのが「代紋」です。

代紋の強い組織に属している方が当然有利になります。
そこで、こぞって強い組織に加盟するのです。
今回、分裂騒動の山口組と言うのは、
ヤクザ社会では、超一流ブランド。
「菱の代紋」には、それほどの効力があるのです。

菱の代紋を得るために加盟した組織は、
その利用料として、義理(上納金)を納入します。
企業でいえば、フランチャイズのロイヤルティーのようなものです。

皆さんは、水國闘争と言う言葉をご存知でしょうか?
かつて、奈良県で起きた部落差別事件をきっかけに、
全国水平社と国粋主義・民族派団体(今で言う右翼団体)である
“大日本國粋会”の衝突事件です。
この流れを汲む、現在の暴力団組織=老舗の「國粋会」でさえ、
2005年に山口組へ加入しています。
それほどまでに、山口組の「菱の代紋」は魅力があるのです。

また、実は政治家も、表では暴力団追放を掲げながら、
古よりトラブル処理などで深いつながりがあり、
政治とヤクザは切っても切れない仲であるといえます。

このように、利用する一般人がいるからこそ、
ヤクザは存在しているのです。
彼らに言わせると、度々「ヤクザは必要悪」言う言葉を口にします。
非合法活動の集団で“悪”でありながら、
居なければ困る存在、それがヤクザであるという理論です。

また、中には、ヤクザの取り締まりがキツクなれば、
『蛇頭やチャイニーズ怒羅権、関東連合などのマフィアや半グレを
のさばらす原因になる。ヤクザはそれらをけん制する役割も担っている』
と言う向きもあります。

そのように、擁護する意見が少なからずあることは事実ですが、
現行法上は、暴力団を非合法・不法集団と位置付けており、
それに関しては、何の異論もありません。

再度付け加えておきますが、私は、暴力団員ではありません。
しかし、実は、私は若年時代に、
ヤクザへあこがれを抱いていた一人でした。

ヤクザがカッコイイ。
肩で風を切って歩き、町衆からは義理固い親分として慕われ
沢山の金を持っていい車に乗り、リッチな生活をする・・・
そんなヤクザ社会へ、(若気の至りでありながら)
身を投じるのもいいかなぁと考えた時期もありました。
ただ、私には、そんな器量やキッカケがなかったのです。

以前、何かのテレビ?又は本?で目にしたのですが、
『ヤクザ映画全盛のころ、映画館から出てきた男連中は、
皆、ポケットに手をっ込み肩で風を切って出てきた。
ヤクザ映画を見ての感情移入ではあるが、男はだれしも
ヤクザ=強い者へのあこがれがあるのではないか?』
と言う言葉に深い感銘を受けたことがあります。

だが、それも昔の話。
いまや、ヤクザ社会も「♪義理と人情をはかりにかけりゃ~」とはいかないようです。

金・金・金。
新聞記事等によると、今回の山口組分裂騒動は、
拝金主義に走った六代目への批判が、引き金の一つとなったようです。

かつて、ヤクザ社会にカッコ良さを感じた私も、
現在のヤクザ社会には幾多の疑問を持ち得ません。

ヤクザの本業のシノギがきつくなったから、
『現在はタクシーの運転手をして凌いでいる。』
これが、現在の末端ヤクザの真の姿です。

それなら、何故カタギ(一般人)にならないのか?
堅気で生業につくほうが、よほど得るものは大きいの
ではないかと思われてならないのです。

でも、彼らは、そのような考えを持ち得ません。
なぜなら、いったんヤクザ社会にゲソ(所属)をつけ、
親分から盃を得ているからです。

盃とは、ヤクザ社会にとって最も重要なこの一つですが、
今回は、話が長くなってしましました。
以降、続きは改めて書きたいかと思いますが、
今日はこの辺で、ペンを・・・いや、キーボードを置かせていただきます!

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2015年9月9日水曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その3/見て記・行って記・被差別歩記-3

←その1 【八鹿闘争勝利記念碑】 その2→


見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その3―


さて、前回の終わりに「・・・ただ、2か所を除いては」
(八鹿闘争勝利記念碑:その2)と書いたが、
この2か所というのが、何処にでもありそうな、
のどかな山農村のこのムラを“被差別部落”であることを決定づけているのだ。

その一つが隣保館である。
隣保館は、かつて、「差別をなくす為」の拠点として、
同和地区を中心に建設された。

当時は、隣保館・解放センター・解放会館・教育集会所などと呼ばれたこの施設も、
同和対策終了後の現在は、市民会館・文化センター・ふれあいセンターなどと名を変え、
同和地区住民のみならず、広く市民にも一般開放されている。

だが、それはかつて差別解放の拠点として存在した隣保館が、
逆に、同和地区のランドマークとして存在するが故に、
そこが、同和地区であるという「特定」につながっているということだ。 

もちろん、隣保館がこれまで担ってきた役割は、
言葉で言い表せない程多大のものがあるし、
差別解消に大きな推進力となってきたことも事実である。

しかし、差別が完全解消されぬまま、
同和対策が終了し、行政により大きくその位置等を告知されることで、
善意の利用者のみならず、差別者にも同和地区(部落)の場所を
認知させるに至っている。

この、S部落の隣保館(現在はA福祉会館)も、ご多分にもれず。

小さな山農村部落にあって、明らかに目立つ
“白い外壁に覆われた鉄筋コンクリート造り”の建物は、
語らずとも、此処が部落であることを感じさせるに充分である。

ただ、このS部落の場合は、他の大多数の部落とは幾分違う点がある。
それが、集落から少し離れていると言うことだ。

例外もあるが、たいていの部落は、
その集落内に隣保館が存在するのだが、
まれに、何らかの理由で、集落(部落)から離れた場所に造られた場合がある。
大多数と言うのはそう言う意味で、
このS部落の場合は、前回、“集落内住宅の立地事情”の辺りにも書いたが、
どうやら状況から、「集落(部落)内に、建設スペースが無かったからではないか?」
と、推測される。
*さらに、余談であるが、隣保館と言えば、同和地区(部落)特有の施設のように
一般的に認知されているようであるが、
キリスト教関連の施設には、隣保館・隣保園・隣保事業などと言うように、
『隣保』をと言う言葉を好んで使う傾向にあり、
これは隣人への“博愛”という教義にのっとったもので、
隣保が、同和地区限定のものではないことを断わっておく。

地図上から見ると、S部落と隣の集落の丁度中間あたり、
田畑のど真ん中にA福祉会館は存在する。

私の不勉強で、申し訳ないが、
私は、当初、隣の集落も合わせてS部落であると認識していた。
訪問当時も、その認識でどちらの集落も回ってみたが、
なぜ、左右に分かれているのだろう?という程度で、特に違和感がなかった。
それに、今までの先入観で、この程度の離れた所なら、
部落が手狭である場合、「過密」として本所から離れた場所に、
新たに住宅を建設するケースが多いからだ。

その為、その中間にA福祉会館が存在すると思っていたが、
その後の調査で、どうやら、隣の地区は一般地区のようなのだ。
なにより、隣の集落名が「S」では無いところからも、そう思い直したのだ。

これも、左右の集落の中間にA福祉会館があるために勘違いをしてしまったのだが、
これとて、過密の為に、部落内に建設用地が確保できなかったのであろう。

このような、私の推測であるが、
このあたりの事情に詳しい方がおられたら、
ぜひともご教示願いたい。


======================

さて、一通り地区内を見て回り、車へ乗り込む。
車を走らせる(と言っても、狭い地区内なのですぐ近くなのだが)頃には、
雲は未だ厚く掛かっているものの、雨はすっかり上がっていた。
S地区の北のはずれに、地区の氏神だろうか?
山裾に沿って小さな神社がある。
その前に車を停め、“もう一つのランドマーク”へ向かう。

氏神の隣を綺麗に造成し、国道から一段高い位置に、
そのランドマークは、高々と誇らしげに建っている。
造成された広場には、植林が施され、丁寧に敷石が敷詰められており、
その姿に更なる(ある人が見れば、畏怖かもしれない)『威圧感』を与えている。

八鹿闘争勝利記念碑

高さが、ゆうに5mを超えるだろうこの建造物は、
何度も書くように、小さな田舎の山農村集落にはあまりにも不釣り合いで、
このS地区が被差別部落であるということを、如実に物語っているのであった。

周りは静かだ。
誰もいない。
空は、相変わらず曇ってはいるが、とにかく明るい。
山裾を造成した高台にあるため、木々で“鬱蒼”というわけでもない。
それは、裏を返せば、意図的にこの碑を『誇示』する事を意味する。

「八鹿闘争勝利記念碑」と大きく彫りこまれた表面から裏へまわってみる。
そこには、この碑を建立した理由が彫りこまれていた。

1974年11月
八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑を建立する。

よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会

誰もいない静かなこの碑の前で、私は声をあげてこの碑文を読み上げてみた。
この碑の存在は知っていたが、碑文の内容までは知らなかった。
私の読解力の至らなさもあるだろうが、
碑文を読んでも、その場では、正直、
にわかにどう言う意味か理解ができなかった。

いや、書いてある内容自体は、文章を読めば理解できる。
この碑を建立した側からすれば、(それが正しいかどうかは別にして)
この出来事の「正当性」を訴えたいという気持ちは伝わってくる。

意味がわからないと言ったのは、「建立」の意味だ。
事件からかなりの年月が経った今、
なぜこの碑が建立されなければならなかったのか?

もちろん、事件はとっくに風化してしまっている。
事件自体を知らない、もしくは、忘れてしまっている部落民も、
私の周りでは大多数を占める有様であるから、
一般地区住民にとっては尚更であろう。

たまに、部落関係の雑誌やインターネットで、
過去の振り返りとして目にする程度だ。

しかし、この事件のもう一つの組織、すなわち共産党では、
今もこの事件を「部落解放同盟が行った忌まわしい暴力事件」として、
度々俎上に挙げ、部落解放同盟を批判するプロダカンダとして用いている。
共産党員であり、「同和利権の真相」「誰も書かなかった部落」などの
著者である寺園氏のブログには、「誰のための何に対する勝利か」と題し、
この建造物に対する批判記事を載せている。

確かに、この事件を起こしたS部落のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』のメンバーは、
傷害で逮捕されており、怪我をした教師から起こされた民事裁判でも、
賠償金の支払いが命じられている。
更に、事件を重くみた部落解放同盟の執行部から「除名」の処分を受けている。
これだけ見れば、八鹿高校事件は、一方的にM氏側の“敗北”であろう。

しかし、M氏をはじめとする当時の同盟員達は、
民事判決で出た賠償金については一切支払っていないという。

設置場所の造成や、この碑の荘厳さは先にも書いたとおりである。
つまり、かなりの『カネ』がつぎ込まれているということだ。
おそらく、100・200万ではないはずだ。

八鹿闘争勝利記念碑建立委員会が、どのようなメンバーで
構成されているのか私には分からない。
(もしかしたら、M氏個人が名乗っているのかもしれないが・・・)

ただ、彼らの思惑としては、
「賠償金を払わずにこの立派な石碑を建立した!」
それが、『我々の勝利である!!』と言うことでは無いだろうか?

碑の建立の意図は、関係者以外、今のところ誰もわからないようである。
しかし、人により取り方は様々であるのは当然のこと。
この碑を否定する人、又肯定する人あって良しだが、
これが、あの碑を見てから5年間考え続けた、私なりの解釈である。

碑を見学していた時間は10分少々だろうか。
それ以外には、見学する場所もないので、
早々車へ向かった。

その10分の間に、速い流れの雲の隙間から、
幾分薄明かりが顔をのぞかせた。
振り返れば、その弱々しい陽の光が、
“八鹿闘争勝利記念碑”を、やはり弱々しく照らしていた。


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見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑・終―