~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年6月15日月曜日

屑屋さん【生立ち編‐34】

「おっちゃん。ただいま~」
『おう!シンちゃん帰ってきたんか』
私は、学校から帰ってくるとランドセルもそのままに、
おじさんの元へ駆け寄ります。

「おっちゃん。これは何?あっちは何?」・・・

私が矢継ぎ早に質問するので、おじさんは仕事になりません。

それでも、おじさんは、機械油で真っ黒になった手を動かしながら、
『これはなぁ、車のエンジンや!』
『それから、こっちはなぁ・・・』
と、説明してくれます。

「うわっ、面白そ~、これレジやんか、触られて!」

ガシャガシャ・・・チーン!

おじさんの家の前には、所狭しとガラクタが積まれており、
車のエンジンや電気機器に混じって、商店のレジ(当時は懐かしの機械式レジ)
や古金庫などがあり、私の好奇心は否が応でも高まるのでした。

車が通らない、家の前の細い路地がおじさんの仕事場です。

今日は、先日「長屋【生立ち編‐33】」で紹介した私が育った家。
例の長屋の話の続きです。

私の家の隣のおじさんは、私が学校から帰るころには、
いつも家の前でスパナやハンマーを手に仕事をしていました。
「おっちゃん。僕にもやらせて~」
好奇心旺盛な私は、ときに、私が仕事を手伝う・・・と言うか、邪魔をするのでしたが、
機械いじりが好な私は、おじさんの仕事に興味津々。

父親も鉄工所に勤務していましたが、
遠くの会社へ出かけ、どんなことをするのかわからない父の仕事よりも、
真近で見ることが出来るおじさんの仕事が本当に好きでした。

特に、私がもっとも期待したのは、車での遠征(?)でした。
「おっちゃん。連れてって~」
「おう、シンちゃんか。ほなら行こか~」
てなわけで、トラックに乗り込み出発です。
車での遠征は、古紙の処理工場や屑鉄屋などへの搬入することと、
反対に、工場などを回って、不要機械や鉄屑などを引き取るのが仕事でした。

あるとき、おじさんの家に上がりこんでいると、
筆と墨汁を取り出し、おもむろに新聞紙を広げながら
「シンちゃん。字はなぁ、大きい書かんとあかんで。大きい書かな、大きい人間になれへんで」
なんて、字を書きながら教えてくれました。
おじさんは新聞紙に目いっぱい大きな字を書くと、
「ウチのなぁ、ノブ(おじさんの次男で、私より10歳位上のお兄さん)にもそう言うてんのやぁ」

その後、確かに、ノブ兄さんは、テレビでも度々見かける、
宮大工関係の著名な棟梁になりました。
一方、私の方は、なぜ大きい人間になれなかったのは別にして、
そのころから、とにかく字は人一倍大きく書くようになりました。

これは、以前【生い立ち編-5続・部落を知らない差別主義者】で記事にしましたが、
ノブ兄さんのお兄さん、つまり、おじさんの長男が、お嫁さんをもらったのもその頃です。

登場人物が多くてややこしいですが、
ノブ兄さんのお兄さんは、部落出身のお嫁さんをもらいましたので、
近所のオバサン連中が、井戸端会議で心無い事を言っているのを聞いたことがあります。
私は、子供ながらも、そのような中傷を聞いて、
私の叔母や従兄弟が部落民であることを、
“決して口外してはいけない”と悟ったものです。

さて、話を戻しますが、屑屋さんという仕事は、
被差別部落民や在日韓国朝鮮人が多く従事していました。
例えば、大阪府と京都府の境にある「Y」と言う部落は、
自動車解体業が盛んな部落で、その成り立ちは、
やはり、廃品回収業が始まりでした。

今でも、ちり紙交換や「家電引き取ります」のような、
廃品回収を生業とされている方がおられますが、
このような業務は、タダで引き取ってきたものをお金にするので、
とても儲かりそうな感じがあるのですが、実は、
非常に不安定な仕事なのです。

まず、廃品や古紙を回収できなければ、お金になりません。
もしかしたら、その日のガソリン代も出ないかもしれません。
それに、買い取り相場も変動が激しいようです。
「回収損」と言うことも当然あるでしょうね。
雨が降れば仕事にならないでしょうし、
その日暮らし的な側面がある仕事です。

それでも、私が子供のころは、
まだ景気がよくて、隣のおじさんも、毎日忙しそうにしていました。

私の育った長屋は、被差別部落ではありませんでしたが、
もしかしたら、おじさんは、部落出身の方だったかもしれません。
根拠はないのですが、今思えば、なんとなく・・・
なんとなく、そんな感じがします。

そんな、おじさんの仕事も、いつのころからか、
外で「カンカン」やっているのを見なくなりました。
おじさんも、だいぶ年だったので、仕事を辞めてしまったのか、
それとも、儲けが少なくなったのか、
今となっては、私は知る由もないですが・・・。

昨年の話だったと思うのですが、
実家へ行ったときに、(現在の実家は、以前の長屋から車で20分ほどの場所。
引っ越して早20数年になります)母親が、
「谷さん(おじさんの苗字)なぁ、ここの近くに住んではるんやで~」と。

私は、「えっ!?そうなんやぁ。結構長いんか?」
母「私らが、引っ越してからすぐ見たいやで」
・・・そんなやり取りがありました。

なんでも、例の有名棟梁のノブ兄ちゃんが、
ご両親に家を建ててあげたそうな。
今は、悠々自適な生活をされているようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前回と今回。
私が育った長屋時代の思い出を書いてみました。
以前にも書いたように、記憶を頼りに、
今から40年近く前のことを書いておりますので、
話が前後してわかりにくいかもしれませんね。
すいません。

でも、これからも、時系列を超えて
思い出すことがあるかもしれませんので、
その際はよろしくお願いいたいますm(__)m
                                        S,スギムラ

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