~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2016年12月25日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その1

~部落差別解消推進法成立の背景~

『部落差別解消推進法』が成立したことは、
先日、このブログでもお知らせしたとおりですが、
その文末に、こう書きました。
この法律成立の“キーパーソン”が(鳥取ループを名乗る)宮部龍彦氏と。

一部には、「部落差別解消推進法」成立の背景には、
宮部氏が探し出し、復刻する予定であった「全國部落調査」が、
大きなファクターでったとの見方をされていますが、
宮部氏自身は、先日のネット放送で、
「この法案は、以前から出ていたもの」とし、
全國部落調査が、引き金ではない旨を説明されていました。

宮部氏のHPによりますと、「全國部落調査」とは、
昭和11年に“中央融和事業協会”内部資料として、
㊙扱いで出版されたようですが、
それが外部に流れ、やがて、時を経て、
部落差別史上、最も劣悪な差別事件の一つとして語られる
『部落地名総鑑』の原本になったと言われる出版物です。

氏が述べられている通り、実際に、ネットでの差別事象は、
全國部落調査発売云々の前に、
数えきれないほどの差別事象が氾濫していました。

特に、「2ちゃん」のカキコは、目を覆いたくなる様なものが、
かなり多く見受けられ、部落が身近な存在の私としては、
本当に怒り心頭。

しかも、大部分がききっかじりで、不十分な知識しかない、
誤った認識での書き込みです。
しかし、これが、今の部落差別の現状なのです。

つまり、誤った認識や迷信、友人や親からの言いくるめ、先入観、
不十分な同和教育、ネット社会がもたらす弊害・・・

これらが、差別者をどんどん増やしていくのです。
そんな中、ネット社会に踊りでたのが、宮部氏でした。


~宮部氏と当ブログ「被差別部落の暮らし」の関係~

実は、前回も少し述べたように、
氏のHP「鳥取ループ」(現在は「示現舎」に移転されました)に、
当ブログ「被差別部落の暮らし」のリンクを貼っていただいておりました。

当ブログを開設したのが2013年。
開設月も12月ということで、
丁度、三周年を迎えたわけですが、
開設早々、随分と早い時期に、
リンクを貼って頂いたことを記憶しております。

そういうわけで、氏も、
当ブログの存在を認識しておられるわけですが、
その頃には、既に、同和地区所在地の
情報公開等々の裁判を起こされており、
私自身、「なぜ。ここまで?」と言う思いと共に、
「このブログでも氏について書かなければ」と言う思いは、
いつも持ち続けいておりました。

それが証拠に、実は、丁度一年程前に、
鳥取ループ(宮部氏)のことを書こうと思い、
一度筆を執ったものが、下書きとして残っていました。
今までにも、何度か公開しようと思っていたものの、
お蔵入りになっていた文章です。

以下、その文章を、一年の時を経て、公開いたします。
今、改めて読んでみますと、概ね、好意的な内容になっています。


~一年前の下書きより・宮部氏について~

氏は、インターネットを中心に、アンチ同和行政の方々や、
部落に批判的な方々の支持を多数集めておられる活動家で、
数々の同和行政に関する裁判などで、
宮部龍彦さんと言う本名も知れ渡っております。

実は、私スギムラは、これまで記事にしてこなかったですが、
氏は、自身のHP「鳥取ループ」に、
かなり早い持期(当ブログ「被差別部落の暮らし」を初めて程無い頃)から
当ブログをリンクをしていただいており、
氏の存在は当方も以前より認識しておりました。

氏は、サイトの中で・・・
>個人の同和マニア、電子雑誌「同和と在日」編集長です。
趣味で同和について研究しています。

とおっしゃていると同時に、
>理由は様々ですが、
第一に「同和はタブー」だと思い込んでいる人をおちょくるためです
とも書いておられる。

氏の活動は、”同和地区を世間一般に公表すること”に尽きるのですが、

(宮部氏。この記事を読んでおられ、当方の解釈が間違っていたら謝罪いたします)
よく読んでみると、「おちょくる」とは言いがたい、
膨大な研究をされていることがよく分かる。

何の目的で被差別部落を晒すことに固辞しておられるのかは、

当方も図り知れぬところであるが、
いずれにしても、部落・同和関係者を始め、国家を含めた社会からは、
”差別者”のレッテルが貼られていることに間違いはないようである。

だが、氏に対する社会一般の批判や差別者のレッテルに対し、

私自身の解釈としては多分に相違が見られる。

先程も書いたように、ナゼ、

氏が部落の所在地を晒すことに固辞しておられるのかは解らない。
しかし、形はどうであれ、
氏が申すように「おちょくり」だけではない”何”かを感じるのであります。

それは、氏の活動=多額の費用と労力がかかるであろう

『裁判』という場で、司法に判断を求めていること。
又、氏のネットや書籍から得られる、
部落研究の熱心さに見ることができる。

私は、氏とは面識も交流もないが、

当ブログやツイッターをフォローして頂いてる事で、
氏には、当方の考えや意識が伝わっていると推測する。

このような事象から、私独自の解釈であるが、

私は氏に対して、世間一般に言われているような
「差別者」と言う認識は持っていない。

むしろ、部落問題解消に向けた「運動家」と言う面を拭えないのである。


現在、国や法務省の指針として、

同和地域を始めとする部落の地区名称や所在地を明らかにすることは、
「差別を助長する行為」としてタブーである。

タブーではあるが、そのタブーを打ち破り、

「同和地区・部落を晒すことによって
差別解消に取り組んでおられるのではないか」
という認識である。

つまり、同和行政が終わって一般地区化した旧同和地区を、

一般地区と見ておられる、又、
一般地区化したと、広く周知されたいのではないでしょうか?

先にも述べたように、氏の真意については、私は計り知れない。

しかし、形や方法は違えども、
行き着く先は当方と同じく、部落問題の解消ではないかと思っている。

何度も書くように、いずれにしても、氏の真意はわからない。

「わからないからわかりたい」とは人の常であります。

そのことからも、ぜひとも、氏とは個人的にお会いして・・・

いや、会うことがかなわないなら、
メール及びコメントに於いて、
氏に真相を確かめたいところである。

いずれにしても、鳥取ループ=宮部氏に於いては、

少なくとも私は悪い印象を持っていない事を書き留め、
今回は記事を終わらせていただきます。


~この一年の動き~

さて、以上の記事は、一年前に執筆し、
公開せぬままお蔵入りになっていた、
鳥取ループ=宮部氏に関する私見であります。

この記事を改めて読んでみて、
幾つかの点で、当時とは相違する部分も出てきました。
そういう訳で、宮部氏に関して、
現在の見解を書き記してみようと思います。

まず、宮部氏を取り巻く状況は、
ここ一年で大きく変わったのではないかと感じます。

そのきっかけは、やはり、先述した通り、
「全國部落調査」の復刻計画ではないかと思われます。

それまでにも、氏の活動として、同和地区名の公表を求めるなどの、
多くの裁判を抱え、中には最高裁へその判断を委ねるなど、
多大な労力と資金が掛かる活動や、
地区住民の個人情報検索サイト「住所でポン・苗字でポン」の公開、
「同和Wiki」サイトの運営或いは、
「全国部落解放協議会」と言う、ネット上での団体を立ち上げ、
そのHPに、全国各地の部落所在地をUPするなどの、
一般的に言う、“部落差別事象”を行ってきましたが、
解放同盟をはじめとする、各運動団体は、
それほど大きな糾弾運動はなされていなかったように捉えています。

しかし、氏が昨年末に、「全國部落調査」発見してからは、
状況が一変。
氏は、遂に復刊の動きに乗り出しました。

復刊といえど、「全國部落調査」そのものを再発するのではなく、
氏自身(恐らく?)がきちんと編集をしなおし、
オマケに現住所も書き加えるという熱の入れようでした。

そして、再発に先立ち、ネット上にそのファイルを公開したのでした。

それからは、部落解放同盟を始め、各運動団体からの告発による
発禁処分や、「全國部落調査」差し抑えの為のガサ入れ、
そして、大規模な糾弾運動の展開など、
一年前とは、状況が大きく動き、
現在は「全國部落調査・復刻版出版事件」や、
「同和Wiki」事件の被告として、
幾つかの裁判を抱えられているようです。

この様に、鳥取ループ=宮部氏について、
一年前の当方が感じ取っていた文章と、
その後の動きについて書いてきました。

次回は、これらのことを踏まえ、
現在の私見など、もう少し、
踏み込んで報告しようと思っています。

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2016年12月11日日曜日

部落差別解消推進法成立

先日(12月9日)参議院にて、「部落差別解消推進法成立」が可決。
衆参共に可決したことで、法案が成立しました。

(見て記・行って記・被差別歩記-4・北山十八間戸の連載途中ですが、
速報として、今回、この話題を差し込ませていただきます)

以下、報道各社の抜粋記事です。

◎先ずは、NHKニュースより。




部落差別解消推進法 参院で可決 成立

部落差別解消推進法 参院で可決 成立
部落差別の解消に向けて、国や地方自治体に対し相談体制の充実や啓発活動などへの取り組みを求める部落差別解消推進法が、9日の参議院本会議で自民・公明両党や民進党、日本維新の会などの賛成多数で可決されて成立しました。
部落差別解消推進法は、現在も部落差別があるとしたうえでインターネット上に差別的な情報が掲載されていることを踏まえ、国には基本的人権を保障する憲法の理念に基づいて差別の解消に向けた施策を講じる責務があると明記しています。

そして、国が自治体の協力を得て実態調査を行うことを義務づけ、国や地方自治体に対し相談体制の充実や差別解消に向けた教育・啓発活動を行うよう求めています。

この法律は自民・公明両党と民進党が提出してすでに衆議院を通過していて、9日の参議院本会議で自民・公明両党や民進党、日本維新の会などの賛成多数で可決されて成立しました。
◎次に、朝日新聞です

部落差別、ネットで浮かぶ新たな問題 解消推進法が成立

部落差別解消推進法が9日、参院本会議で可決され成立した。「部落差別」の言葉を冠した初めての法律で、国や自治体の責務として相談態勢の充実や教育・啓発、実態調査の実施を明記した。成立の背景には、インターネット上での同和地区の地名リスト掲示など新たな問題がある。
 自民党は2012年12月の衆院選で政権に復帰する際、民主党政権が提案した人権委員会設置法案に反対し「個別法による人権救済」を公約に掲げた。障害者差別解消法やヘイトスピーチ対策法など、それぞれ個別法で対応してきた。
 部落問題では、昨年9月の自民党総裁選安倍晋三氏の再選を支えた二階俊博・総務会長(現幹事長)の派閥が、政策提言で「同和人権対策に関する法整備」に言及した。自民党は「差別問題に関する特命委員会」に「部落問題に関する小委員会」を設置。今年3月、自由同和会や部落解放同盟の幹部らの意見を聴き、戦前の「全国部落調査」の復刻版の出版が計画され、ネット上で同和地区の地名リストが掲示された問題などが説明された。
 「現在もなお部落差別が存在し、情報化の進展に伴って差別に関する状況の変化が生じている」などと盛り込まれた法案は、自民、公明、民進の3党が5月、衆院に共同で提案した。
 今月6日に参院法務委が参考人の意見を聴いた際、解放同盟は、ネット上の地名リストが就職や結婚の際の身元調査につながっていることを指摘。被差別部落出身を理由として家族が結婚に反対する「結婚差別」も残っていると訴えた。
 一方、部落問題に対する認識をめぐって解放同盟と対立する共産党や全国地域人権運動総連合は「法律は部落差別を固定化し、同和対策事業の復活や、民間団体による自治体への介入のきっかけになる」として法案に反対した。
 8日に参院法務委で可決された際には「過去の運動団体の行き過ぎた言動など、部落差別の解消を阻害した要因に対する対策を講じる」「教育・啓発や実態調査により新たな差別を生むことがないよう留意する」との付帯決議も、あわせて可決された。(編集委員・北野隆一
  • ◎最後に、日経新聞より
  • 部落差別解消推進法が成立 罰則ない理念法 

    2016/12/9 20:07
    部落差別の解消を目指し、国や自治体に相談体制の充実や実態調査を求める「部落差別解消推進法」が9日、参院本会議で与野党の賛成多数で可決、成立した。罰則のない理念法。自民、公明、民進の議員が今年5月に共同提出していた。
     推進法は「現在もなお部落差別は存在する」と明記。「基本的人権を保障する憲法の理念にのっとり許されない」として対策を求めている。
     法務省によると、同和問題に関する人権侵犯事案は減少傾向にあるものの、法務局が調査を始めた件数は2011~15年に年間85~137件で推移している。インターネット上に同和地区として特定の地域を書き込むケースもある。
     部落差別問題は00年施行の人権教育・啓発推進法に基づく基本計画で、高齢者や障害者などとともに重点課題として列挙された。
     1969年に制定された同和対策事業特別措置法により、同和地区で公民館の設置や道路整備が進められ、生活環境の改善が図られた。02年に事業が終了し、それ以降は同和対策に関する法律がない状態が続いていた。〔共同〕
  • ◎部落差別解消推進法とは・・・
  • そもそも、今回可決された部落差別解消推進法とは、
  • どのような法律なのでしょうか?
  • 以下は、衆参にて提出された法律案です。
  • 部落差別の解消の推進に関する法律案
     (目的)
    第一条 この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。
     (基本理念)
    第二条 部落差別の解消に関する施策は、全ての国民が等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、部落差別を解消する必要性に対する国民一人一人の理解を深めるよう努めることにより、部落差別のない社会を実現することを旨として、行われなければならない。
     (国及び地方公共団体の責務)
    第三条 国は、前条の基本理念にのっとり、部落差別の解消に関する施策を講ずるとともに、地方公共団体が講ずる部落差別の解消に関する施策を推進するために必要な情報の提供、指導及び助言を行う責務を有する。
    2 地方公共団体は、前条の基本理念にのっとり、部落差別の解消に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、国及び他の地方公共団体との連携を図りつつ、その地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとする。
     (相談体制の充実)
    第四条 国は、部落差別に関する相談に的確に応ずるための体制の充実を図るものとする。
    2 地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえて、その地域の実情に応じ、部落差別に関する相談に的確に応ずるための体制の充実を図るよう努めるものとする。
     (教育及び啓発)
    第五条 国は、部落差別を解消するため、必要な教育及び啓発を行うものとする。
    2 地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえて、その地域の実情に応じ、部落差別を解消するため、必要な教育及び啓発を行うよう努めるものとする。
     (部落差別の実態に係る調査)
    第六条 国は、部落差別の解消に関する施策の実施に資するため、地方公共団体の協力を得て、部落差別の実態に係る調査を行うものとする。
       附 則
     この法律は、公布の日から施行する。

         理 由
     現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現するため、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。
  • ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  • なぜ、部落差別解消推進法が必要なのか?
  • このブログでも度々紹介していますように、
  • 平成14年「地対財特法」が終了して、
  • 約30余年に渡る同和関連の法律は、全て終了しました。
  • それは、当時の世論・差別意識の変化・部落民の生活向上などを理由に、
  • 差別は未だ続いているにもかかわらず、
  • 「同和問題は解消した」と、一方的な国の判断で、終了したものであります。

  • つまり、もう、我が国に、「同和地区=被差別部落は存在しない」と、
  • 言っていた訳です。
  • それが、この度、14年の時を経て、再度、
  • 部落に関する法律が制定されました。

  • これは、以前の同和関連の法律のように、
  • 生活救済の為の援助を主としたものではありません。
  • 今尚残る部落差別の「解消」のみに集点を当てた法律なのです。

  • その背景には、現在のネット社会の「大きな影響力」があります。
  • また、その主たるキーパーソンが、
  • ハンドルネーム『鳥取ループ』を名乗る宮部氏であろうと思われます。
  • 実は、宮部氏に関しては、今までこのブログでは、
  • 全く触れておりませんでしたが、かなり前から、
  • 氏の動向はブログなどで得ていました。
  • やはりどこかで触れなければと、長い間思っていましたが、
  • 今回、このような形で、氏について触れる事になりそうです。

  • 宮部氏は、当ブログ「被差別部落の暮らし」を
  • 開始して、まだ間がない頃、早々と氏のブログ
  • 「鳥取ループ」に、リンクを張ってい頂いておりました。
  • 又、私のツイッターもフォローしていただいていることから、
  • 当ブログも、目を通していただいていることと存じます。

  • このブログをご覧頂いている方は、恐らく、
  • 氏の存在をご存知のことでしょうが、
  • なぜ、氏がこの法律「部落差別解消推進法」成立の
  • キーパーソンであるのか?
  • 次回は、そのことについて書いてみようと思います。

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2016年10月31日月曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その4/見て記行って記被差別歩記-4

さて、改めて北山十八間戸の考察をしている間、
15分ほどで、「奈良県同和問題史料センター」へ到着した。

・・・いや、実は、簡単には到着しなかったのである。

と、言うのも、奈良県同和問題史料センターは、
県道から一段下がった場所に立地しており、
不覚にも、一度通り過ぎてしまったのだ。
グーグルマップより
少し走ってから気がつき、
同和問題史料センターの裏をぐるっと回る形で、
史料センター迄戻ってきた。

近隣を一周し、史料センターへ入るスロープを下ってビックリ。
駐車場には車が満杯で、人の出入りも多く、
かなりの混雑ぶりを見せていたからだ。

しかし、人々が出入りしているのは、
史料センターではない。

この敷地には、隣接して「奈良県人権センター(旧奈良県解放センター)」があり、
そこへの人の出入りが激しいのである。



些か、話は変わるが、
過去は、解放センターとして、
部落解放同盟の拠点であった「奈良県人権センター」は、
現在は公益財団法人となっており、
人権センターのHPを覗いてみると・・・

行政・教育・運動にたずさわる各機関・
団体の有機的連携を図るための施設を提供及び同和問題等について、
より一層県民の理解、協力を得るための普及・啓発活動の促進等。

差別・偏見の防止・根絶:人種、性別その他の事由による不当な差別
又は偏見の防止及び根絶を目的とする事業

と、その存在理由がうたわれており、
人権センター二階には、部落解放同盟の奈良県連が置かれている。

平時の昼下がりに、多くの人々が出入りしているのには、
かなりの違和感を覚えたのだが、
それよりも、なにより私の目を引いたのが、
建物正面に置かれた「荊冠旗」を掲げた彫刻である。

と、言うのも、かの「同和関連」の法律が全て終了してからは、
それまで大きく掲げられてきた荊冠旗が、
旧解放センターや、同盟事務所、関連施設から次々に取り外されており、
今となっては、建物に掲げられた荊冠旗を、
殆ど見なくなったからである。

余談ではあるが、今から、約20年ほど前、
浪速部落にあった、芦原病院の荊冠旗を初めて見た時、
そのスケールの大きさに度肝を抜いたのが、
昨日のように懐かしい・・・。


又、ここには、「奈良県人権センター」、「奈良県同和問題史料センター」に加え、
(後に、ネット検索をしていて分かったのだが)
もう一つ、一般財団法人「奈良県人権部落解放研究所」と言う施設があるようだ。

Wikによると、一般財団法人とは、

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(一般社団・財団法人法)に基づいて
一定の要件を満たしていれば、事業目的に公益性がなくても設立できる法人である。
機関は理事、監事、評議員から成る。

原則として、株式会社と同様に、全ての事業が課税対象となる。
設立許可を必要とした従来の財団法人とは違い、
一定の手続き及び登記さえ経れば、主務官庁の許可を得るのではなく
準則主義によって誰でも設立することができる。

この様に説明されている。
部落解放同盟との関係はどうなんであろう?

HPからは、よくわからなかったが、
唯一、書籍紹介のページに、以下の本が紹介されており、
「テキストとしても活用されています」等というくだりを読む限り、
部落解放同盟との関係云々と言うよりも、
どうも、解放同盟内の研究機関のようである。

とにかく、この地は、
人権・部落関係の施設が集まっており、
さながら、奈良県に於ける、「人権銀座」の様相を呈している。

さて、気になる、人権センターへの“人の出入り”の真相であるが、
残念ながら、今日は、夜も更けてきた。

今回のテーマ『坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸』
とは、大きく異る展開になってきた感がなきにしもあらず。
キチンと本編も押さえることを約束して、
次回に続きたい。

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2016年9月30日金曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その3/見て記行って記被差別歩記-4

~~~はじめに~~~
長らく、当ブログを休んでしまった事、お許し下さい。
理由は、一にも二にも、「ズルズル病」です。
忙しさにかまけ、「明日書こう、明後日書こう」と言っている間に、
ズルズル・ズルズル・・・こんなに期間が過ぎてしましました。
又、「見て記・行って記・被差別歩記:北山十八間戸」の
話の途中で休眠してしまったことも、併せてお詫び申し上げます。

これからも少しずつではありますが、
前進していく所存でありますので、
皆様、これからも引き続き、よろしくお願いいたします。
スギムラ シンジ

===============

さて、奈良県同和問題研究所へ向かう間に、
もう一度、北山十八間戸について整理しておこう。

先ずは、下の文章を読んでいただきたい。

「鎌倉時代の中頃、僧「忍性(にんしょう)」が不治患者救済のため、
北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、
はじめ、般若寺の東北に建立されたが、
永禄十年に焼けたため、寛文年間に、
東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、
不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、
鎌倉時代の遺風を承け継いで建てられたものである。
建物は、十八の間数のほかに仏間をつけ、
裏戸に『北山十八間戸』と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された」

これは、北山十八間戸に掲げられた、
案内看板の文言である。

先にも書いた通り、鉄門扉の中に設置されている上に、
案内板の字が、今にも消えかかっており、
些か読みにくかったが、それは、取りも直さず、
ハンセン病が過去の病として、社会からの忘却がなされるが如く、
北山十八間戸も、世間の関心を失いつつ有るようにも感じ取れるのであった。
グーグルマップより

この案内板からもわかるように、
北山十八間戸は、最古級の癩者救済の為の福祉施設なのであるが、
この施設を語る上で、忘れてはいけないのが、
鎌倉期に、生涯をかけて福祉事業に尽力した孤高の僧、忍性の存在である。

良観房忍性坐像
忍性像:ウィキペディアより
折しも、先日まで、奈良国立博物館において「忍性生誕800年記念展」
が行われていた。
次の文章は、そのHPより忍性の略歴を抜き出したものである。

良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)は、
建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。
早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、
西大寺の叡尊(えいそん)を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、
貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。
特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話
(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。 
 後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、
より大規模に戒律復興と社会事業を展開しました。
人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。
(奈良国立博物館 忍性展HPより引用)

◎9月19日に終了した忍性展であるが、
HPは現在も残っている。
アドレスを記しておくので、興味が有る方はご覧頂きたい。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2016toku/ninshou/ninshou_index.html

文中にも有るように、西大寺・叡尊を師と仰ぎ、
福祉活動に尽力したのであるが、
一説に、その根底には、奈良時代・聖武天皇の后、
光明皇后の存在があったと言われている。

光明皇后(光明子)は、あらゆる策を用いて、
出身母体である藤原家(これまでは、内親王から皇后が選ばれていた。
皇族意外からの皇后は光明子が初めてである)の
威信を守るべく奔走した「政争人生」を送ったが、
その反面、仏教信仰にも熱心で、
法華寺の建立や東大寺の大仏建立を成し遂げた他、
福祉活動にも精力的で、同じく仏教による国造りを行った聖徳太子に習い、
皇后宮職として、施薬院や悲田院を官職として制定した慈悲深い人物でもある。

特に、光明皇后が、ハンセン病患者(癩者)に施した行いは、
光明皇后の人物を語る上でも有名なエピソードである。
簡単ではあるが、そのエピソードを紹介したい。

福祉活動に熱心であった光明皇后は、
法華寺の「から風呂」(サウナのようなもの)で、
千人の病人や浮浪者の体を洗い清めることで、
「病気治療や民の幸せを願う」と言う願掛けを行った。

ところが、999人目を洗い終えたところで、最後の一人。
皇后の目の前に現れたのは、重い癩病者であった。

癩者の皮膚はただれ、そこからウミが吹き出し、
「から風呂」の中は、異様な臭気に包まれた。

千人目の癩者は、「体中が痛くてたまらん。
どうか、私の膿を吸い出してくれないでしょうか」と、
皇后に悲願した。

それを聞いた皇后は、何の迷いもなく、
癩者のウミを吸いだした。

すると、程なくして、
癩者は阿閦如来(あしゅくにょらい)に姿を変えたと言う・・・・。

もちろん、これは、後に作られた物語の類いであるが、
このような話が語り継がれるように、
非常に慈悲深い皇后であったことに間違いはないであろう。

===============

さて、忍性に話を戻そう。

忍性の福祉精神の根底は、光明皇后であるが故に、
仏に帰依しても尚、癩者をおぶりまちに向かい、
北山十八間戸やその他の救済施設で、
病人や孤児の面倒を見る事こそが、
彼のライフワークであったのだ。

その活動ぶりは、忍性が師と仰いだ叡尊をもってして、
修行そっちのけで、福祉活動を行う忍性を、
「慈悲二過ギタ」と言って批判している。

つまり、独立した共同体のように思われている非人宿であるが、
実は、この忍性のように、或いは、
各地の寺院の庇護のもとに成立していたのである。

北山宿に設けられた、癩者救済所「北山十八間戸」の
概要は以上であるが、詳細については、
同和問題研究所でお伺いした話とともに、
次回、お伝えしたい。


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2016年4月2日土曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その2/見て記行って記被差別歩記-4

遠くに若草山を望む朝の遺構は、行き交う人もなく、
ただただ静かに朝日を受け、光り輝いていた。

「1.2.3・・・」
私は、3年前に訪れた時と何一つ変わらないその遺構を、
もう一度、端から端まで歩いてみた。

「4.5.6・・・
確かに18に仕切られている」

改めてゆっくりと数えながら歩いてみると、
その名の通り、18に仕切られた小部屋があった。

その一つ一つに“裏扉”が設けられており、
今にも消えそうな字で、一扉毎に「北山十八間戸」と縦書きされていた。

“裏扉”・・・
そう、ここは、十八間戸の裏側なのだ。

道路より一段低い建物は、
手を伸ばせば屋根にこそ、手が届きそうではあるが、
残念ながら、周りをぐるりと金網フェンスで取り囲まれているため、
建物正面を覗くことは出来ない。

しかし、一見すると寺のようにも見えるそれは、
建築物としては、独自の構造を持つものであった。

(グーグルマップより)

それを説明するには、まず、立地を見てみよう。

坂の中腹に位置する十八間戸は、
丁度、海の岬のように、丘陵の突き出た場所に、
崖側を正面にして建てられており、
裏側が通りに面するという特異な建て方であること。

又、今でこそ、周りには家が立ち並ぶ住宅街となっているが、
古くは、この地には墓が立ち並ぶ葬送の場であった事があげられる。

次に、建物であるが、
「十八間戸」というだけあり、平屋建ての非常に長い建物であるが、
内部は、仕切られた部屋だけなので、それに見合う奥行きがなく、
見た目には、古城の渡り廊下のようで、
「妙に“薄い”建物」と言う印象があるが、
最も、現在で言うならば、アパートやマンションのように、
横長の建物が普通に見みられるので、
言うならば、十八間戸は、住居効率のよい集合住宅のハシリみたいなものであろう。

ただ、先程も述べた通り、その立地に於ける建物構造は、
建物自体が『塀』のようになっており、
あたかも、外界との接触を拒んでいるかのように見て取れる。

===============

私は、しばらくその場に佇んだあと、
しばしあたりを見回し、中への入り口を探したが、
建物西側に、どうやらそれとわかる鉄門扉を見つけた。

しかし、意外にも、その鉄門扉の辺りには、
十八間戸の由来を示す案内板と、名を記した石碑とともに、
大量の植木鉢やプランターなどが置かれており、
隣接したお好み焼き屋さんの庭のようになっていたのである。
(グーグルマップより)

いや、隣接と言って良いのだろうか?
十八間戸は、この、お好み焼き屋(以下“お好み”と略)さんと、
一部敷地を共有しているようで、
権利関係が一体どうなっているのか知る由もないが、
どうやら、このお好みさんが、十八間戸を管理しているようであった。

私は、再度辺りを見回したが、
どうもそれ以外に出入り口はないようなので、
お好みさんの引き戸に手をかけた。

暖簾が掛かっていないばかりか、
幾ばくか商いを営んでいるような気配がないお好みさんの扉は、
案の定開くことがなく、呼び声にも応答がなかった。

私は、がっかりと肩を落としながらも、
とりあえず、全貌を見ようと、
お好みさん横の階段状の道を降り、
周りを一周してみることにしたが、
だが・・・と言うか、しかし・・・と言うか、崖の上の建物が見えるはずもなく、
うなだれながら、再度、十八間戸の裏口へ戻ってきた。

すると、それまで人っ子一人見なかった私の前に、
腰を曲げたおばあさんが、ゆっくりと歩いてきた。

「あぁ、あそこなら、町内会長さんが鍵持ってますよ」・・・

などという、嬉しい言葉を期待していたが、
返ってきた言葉は、
「あのお店に声掛けはったらよろしいいわ」・・・と言う、
ある意味、当然といえば当然の答えが返ってきたのだった。

これで、お好みさんの管理が決定的になったわけで、
その肝心のお好みさんが居ないことにはどうしようも無いので、
私は、このフィールドワークで見出した幾つかの疑問を晴らすべく、
その足で、北山十八間戸の研究に明るい
『奈良県同和問題関係史料センター』へと向かった。

【その3へ続く】
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2016年3月9日水曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その1/見て記行って記被差別歩記-4

坂・・・

坂は、まだ見ぬ新しい土地への玄関口であり、
文化の流入点でもある。

他の国から人が入り、そして出て行く。
他の国で作られた物が、坂を通ってこの国に入り、そして出て行く。
坂には、関所が設けられ国を守る要所にもなった。

だから、昔から坂には人が集まり、物が集まった。
人が集まるところに、更に人が集まるのが自然の摂理である。

==================

奈良に本格的な春の訪れを告げる東大寺の「お水取り」を前に、
冬籠りで閑散としていた奈良の街にも、
ようやく行き交う観光客の活気が戻ってきた。

2月中旬。
私は、久しぶりに『坂』へ向かった。

『坂』には、過去3~4回訪れている。
前回の訪問から、おそらく3年は経っているだろうが、
数百年間も風雪に耐え忍んできたその建物は、
3年ほどの月日では、前回訪問時と、
何も変わらない佇まいを見せていた。

ここは、奈良坂。
奈良阪という名が示す通り、
この坂は奈良県を代表する坂である。

かつて、大阪へ続く西之阪に対し、
奈良阪は東之阪とも呼ばれ、
その先は、京の都に続いた。

坂には、そのものズバリ『坂』、或いは『坂の者』、
又ある時には、『宿・夙(どちらも読みはシュク)』
と呼ばれる集団の本拠地があった。

やがて彼らは、近世の身分制度下では、
広義に「非人」と呼ばれひとくくりにされるが、
宿の成立自体は意外と古く、
既に、中世頃には、宿が形成されていたと言う説が有力である。

ただ、宿の形成には、まだまだわからないことが多く、
いずれも、有力な“説”の一つであるのだが、
少なくとも、その構成に大きく携わったのが、
癩者(ハンセン病患者)であったことは間違いない。

今でも続く元ハンセン病患者への差別・・・
いや、
この話を語る前に、もう一度ハンセン病のおさらいをしておこう。

===================

ハンセン病は、かつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、
その病状から、有史以来、我が国のみならず、
世界各国で差別の対象とされてきた歴史がある。

ハンセン病は、らい菌による細菌性の病で、
感染力は極めて弱いが、人から人へとうつる伝染病である。

ただ、感染力は極めて弱く、幼少期に頻繁にらい菌保有者と
接触しない限り、発病まで至るケースは少ないが、
ひと度発症してしまえば、その病状は劇的で、
手や足の発疹から始まり、神経麻痺、
皮膚のただれや壊死などで手足を失い、
顔面の変形や失明などで姿形が著しく変わることから、
古の頃より、ハンセン病は「業病」と言われ、
『前世の行いが悪かった』・『信心不足』・『呪い』など、
その人の悪行によりかかる病として、
人々の畏怖の対象であり、差別の対象であった。

ハンセン病患者自身も、輪廻転生・因果応報と、
その境遇を恨み諦めた。

又、遺伝性の病気であると長く信じられ、
明治期に施行された「らい予防に関する件」と言う法律により、
らい療養施設への強制隔離政策が取られ、
家族とも引き離され、文字通り強制収容された。

しかし、療養施設とは名ばかりで、
そこは、シベリア抑留所さながらの強制労働施設であり、
多くの患者は、病気を悪化させ、
療養所内で命を落とすものも少なくなかった上、
遺伝性の病気であるという理由から、
子供の強制堕胎や断種(所謂パイプカット)が、
患者の意思なしに、強制的に行われた。

ハンセン病は、栄養状態が悪いと感染しやすく、
アフリカなどの発展途上国では、
現在もこの病の発生が深刻な状況であるが、
戦後、急速に生活環境が向上した我が国では、
新規患者はほぼ出ておらず、もはや過去の病気になりつつある。

又、1943年にハンセン病の特効薬「プロミン」が生まれると、
ハンセン病の治癒が容易に行われ、
“不治の病から、治る病気”へと変化を遂げた。

しかし、差別は残った・・・。

それは、今も尚、綿々と続く差別と後遺症で、
治癒に成功し、菌陰性者となった方々も、
社会復帰どころか、家族にさえ未だに会うことが出来ないという。

十数年前に熊本のホテルで起きた、
元ハンセン病者への宿泊拒否事件は、
メディアによって大々的に報道され記憶に残っているが、
報道に乗らない小さな差別は、現在も日常的に起こっている。

最も、先程も書いたように、
新規の患者が殆ど出なくなって久しい我が国では、
元ハンセン病患者の方々もかなりの高齢になっており、
親族と縁を切り、断種や堕胎によって子を持たぬ身の上では、
到底生活もままならないため、
療養所から出たくても出れないのが現状なのだ。

これも、長く続いた国の差別政策の結果といえるだろう。
ハンセン病が根絶し、療養所の必要性が無くなりつつある今、
今も療養所で暮らす元ハンセン病患者さんは言う。
「近い将来、我々が死んでしまったらこの施設はどうなるのだろうか?、
仲間や、妻が眠る納骨堂の面倒を誰が見てくれるのだろうか?・・・」

================

さて、話を続けよう。
冒頭、坂には人が集まり、
それが更に人を呼ぶと書いたが、
ここ、奈良阪の場合は、京の都へ続く坂。

人や物の流通も半端なく、
決して広く大きいとは言えない“大道”を
日々行き交っていたことだろう。

そして、その行き交う人々に「更に呼ばれる人」、
それが坂の者だった。

つまりはこうだ。
当時、自活することが出来ない癩者や障がい者、
又、浮浪者などの社会的弱者は、
施しを求め、より多くの人々が往来する「坂」周辺に集まりだした。
やがて、時代と共に、それが組織化され、集団化していった。

坂の者の成立は、このように自然発生的なものであったと考えるのは、
当然の成り行きではないだろうか。

【その2へ続く】
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2016年2月25日木曜日

ジブリ・宮﨑駿氏ハンセン病を語る:その2~ハンセン病と被差別部落

かつて、ハンセン病は、日本では癩病(らいびょう)と呼ばれており、
世界的に見ても、間違った認識や偏見から、差別や畏怖の対象と
されてきました。

その歴史は相当古く、日本書紀『推古天皇』の項には、
既に「らい」の記述が見られます。
おそらく、有史以来、世界各国でも差別の対象になっていたことは
間違いありません。

日本国内でも、その病史を紐解けば、
既に、聖徳太子の時代に建立された「悲田院」の周りに、
癩者をはじめとした、非人のルーツに繋がる人々が生活しておりました。

癩病が恐れられた原因の一つが、その病変で、
癩病にかかると、神経の麻痺や皮膚のただれや壊疽などで、
顔や身体の至る所が変形ないし、損失し、
健常者とは大きく風貌が変わることから、
「業病」と呼ばれ、恐れられてきました。

医療が確立していない太古の時代
『“業病”は、前世の悪事で起こる病気』と長く信じられており、
その考えは、世間のみならず、患者自身も同じような認識でした。

又、同時に癩病は、後世に繋がる遺伝病であると考えられてきました。
そのため、癩者は輪廻転生・因果応報と自身を恨み、
仏教にすがる事で、この現状を打破しようとする動きが見られましたが、
実は、癩病(=ハンセン病)はらい菌による感染性の伝染病で、
西洋医学会では、既に1873年(明治6年)に、
ハンセン氏がらい菌を発見しており、
癩病は細菌性の病であるということがわかっています。
なおかつ、伝染病であっても、らい菌の感染力は極めて弱く、
仮にらい菌を取り込むようなことがあっても、
その免疫力で、ほとんど感染に至ることはないそうです。

しかし、日本では、まだまだ上記のような考えが主流を占めていたわけです。
私が以前読んだ、元ハンセン病患者「近藤宏一」氏の著書“闇を光に”の中には、
驚くなかれ、そのような考え方が昭和に入ってからも、
世間一般の認識であったことが書かれています。

ただ、感染力が弱く、発症しにくい病気であっても、
ひと度発症してしまえば、治癒が困難で、
非常に厄介な病気であることに間違いはありませんでした。

医学の進歩とともに、ハンセン病治療の研究が重ねられ、
やっとのこと1943年に、癩病治療薬「プロミン」が開発され、
癩病は不治の病から、治る病気へと劇的な変化を遂げました。

我が国でも1947年には、それまで主流であった
植物由来の「タイフウシユ」と言う、大して効き目のない薬に変わり、
プロミンの治験が始まりました。

しかし、その間、国をあげて、悲惨極まりない『差別施策』が取られてきたのです。
例えば、明治40年には、“らい予防に関する件”と言う法律のもと、
癩患者は強制隔離されるのです。

家族は、近所へ知られるのが嫌なことや、
患者との離別を惜しみ、納屋などへ患者を匿いましたが、
内務省は警察権力と結託し、近所の噂などで患者を見つけ出し、
強制的に施設へ入所させました。
現在でも〇〇園などと存在するハンセン病療養所がそれです。

療養所とは、名ばかりで、一度入所してしまえば、
ほぼ、園からの出所は不可能で、
死ぬまで、園の中で暮らすことになります。

そのため、園には、食堂や宿舎と言った基本的な施設の他に、
学校や売店、果てには火葬施設に納骨堂まで完備されていました。

そのため、例えば、恋愛や結婚も入所者同士で行われましたが、
優生保護法により、子供が罹患するのを防ぐ意味で、
断種(所謂パイプカット)や堕胎が、
患者の意思無しで強制的に行わていました。

それ程までに、癩病は社会的にも差別を受け続けていた病なのでした。

いにしえより、癩病は、業病とされてきたのは、先に申したとおりです。
そして、長きに渡り社会的に差別を受けていたのも紛れも無い事実であります。

江戸時代には、癩者は非人身分に組み込まれ、
後に穢多村の支配下にあったことは間違いありません。

江戸期以前にも、そのような弱者(身障者やその他の罹患者、経済的困窮者)は、
賤民という認識がなされてきました。

実は、被差別部落の起源は、未だ解明されておらず、
ハッキリとしたことが、わかっていないのが現状です。

しかし、私の私見ではありますが、
そのような弱者が、後世の被差別部落民へと連なったと考えるのが
自然ではないでしょうか?
(被差別部落民の根源は、朝鮮半島などからの移民だという、
全く根拠のない『珍説』もあるようですが・・・)

いずれにせよ、癩病者と被差別部落の繋がりは、
かなり深いもであったことは確かであると信じてやみません。

おまけに、国策により、長年差別されてきた歴史も、
被差別部落とかなる部分が多いですね。

そんな、国策差別が、平成の世に入っても続けられてきたこと、
皆様は信じられますか?

1960年台には、プロミンの効能が認知され、
一時退所者もいるにはいたのですが、
基本的に平成8年に、らい予防法が廃止されるまで、
このような、信じがたい事実があったのです。

====================
以上、かいつまんでですが、
癩病についての歴史と被差別部落との関係を書いてみました。

次回の「見て記・行って記・被差別歩記」のコーナーでは、
鎌倉時代から続く、奈良県の癩収容施設「北山十八間戸」を
レポートいたします。
乞うご期待。

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2016年2月10日水曜日

ジブリ・宮﨑駿氏ハンセン病を語る:その1~宮崎氏の記事より

ここの所、新聞記事からの投稿が続きますが、
今回も、非常に興味深い記事を目にしましたので、
皆様にも紹介いたします。

今日のテーマは、『宮﨑駿氏ハンセン病を語る』です。
先ずは、記事をご覧ください。

宮崎駿監督、生への思い 「もののけ姫」ハンセン病患者

 映画監督の宮崎駿さん(75)が28日、
東京都港区で開かれた「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」で講演し、
代表作の一つ「もののけ姫」(1997年公開)の一場面で
ハンセン病患者を描いた経緯について語った。

「もののけ姫」でハンセン病患者描いた 宮崎駿監督語る
 題目は「全生園で出会ったこと」。
宮崎さんは「もののけ姫」の制作中、
自宅から歩いて15分ほどの国立ハンセン病療養所多磨全生園(東村山市)を訪れた。
園内の資料館で、患者の脱走防止策として療養所内で使われていた
ブリキやプラスチック製の「通貨」などの展示を見て衝撃を受けた。
「おろそかに生きてはいけない。
作品を真っ正面からやらなければならない」と思ったという。

 「もののけ姫」にハンセン病患者を思わせる
包帯姿の人々を登場させたのは「業病(ごうびょう)と言われながら
生きた人たちを描かなければ」との思いに駆られたからだったというが、
一方で「(当事者が)どう受け取るのかが恐ろしかった。
映画を見た入所者たちが喜んでくれてよかった」と振り返った。

 療養所に入所する佐川修さんと平沢保治さんが友人として登壇。
2人から「子孫を残さないよう断種された」と苦しんだ体験を聞いた宮崎さんは
「何かの教訓に残ることが大事。病気に生きる苦しさの巨大な記念碑を
ずっと残していけたらいいんじゃないか」と述べ、施設の保存を訴えた。

 全生園の入所者は最大1500人以上だったが、
28日現在で195人に減り、平均年齢は84・5歳と高齢化が進む。
宮崎さんは、隔離の歴史を伝える記念公園として
全生園の施設などの保存を図る「人権の森構想」に協力。
園内の寮の復元のために寄付をしている。(青木美希)

【朝日新聞デジタルより ★ 1月29日付】

====================

ハンセン病という病気は、ある意味、
現在の被差別部落のルーツ一つと言っても過言のない病気で、
長きに渡り不治の病とされてきました。

そして、国家による強制隔離政策で、
驚くべきことに、つい最近(平成8年)まで、
自由を奪われ、差別的扱いを受けてきました。

ハンセン病については、かねてより、
「いずれ、必ず取り上げなければならない事柄」と考えておりましたが、
今回の宮崎氏の記事から、
この機会に、書いていこうと思っております。

ハンセン病には、まだまだ深い差別の歴史がありますが、
話せば長くなりますので、本日は、記事の紹介ということにして、
続きは次回にしたいと思います。

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2016年1月27日水曜日

馳浩大臣が部落差別発言!?

馳浩が好きだった。
議員じゃなく、プロレスラー時代の・・・。

プロレスが、最もプロレスらしかった頃、
度々、地元興行を見に行ったものです。
猪木や藤浪、ブッチャー、スタン・ハンセン。。。
テレビでは、古舘伊知郎が熱血中継をしていました。

まだ、ジャイアント馬場やジャンボ鶴田、ブルーザー・ブロディも健在で、
アンドレ・ザ・ジャイアントを生で見た時は、その巨大さに、
本当に驚いたものです。

さて、馳浩ですが、プロレスラー時代は、
相手の足を持って、コマのようにクルクルと回す
「ジャイアントスイング」と言う得意技があり、
試合中に、半ば『お約束』でこの技を繰り出していました。
回される対戦相手も当然慣れており、
それなりの演出でジャイアントスイングを迎え入れます。

そして、なんといっても、一番盛り上がるのが観客です!
観客も、「今日は何回まわるのか?」を楽しみにしており、
馳の回転に合わせ「い~ち、に~い・・・」と数えます。
もちろん私も、テレビにかじりつきながら、
「い~ち、に~い・・・」とやったものです。

そんな馳浩ですが、いつの間にか、
プロレスラーをしながら国会議員になっていました。

そして、議員になってからもトントン拍子に出世し、
今や、文科相と言う地位まで上り詰めました。

議員になってからの馳浩には関心がありませんが、
プロレスラー時代の彼は、本当に周りを魅了していたものです。

しかし、先日、馳大臣からとても意味深な発言がありましたので、
それを掲載いたします。

【朝日デジタル 1月23日付】
馳浩文部科学相は23日、茨城県つくば市での講演で、
「公営住宅のある地域の小中学校は、家庭が混乱している。
子どもたちも日常生活が混乱しているのだから、
なかなか授業に向き合える状況にはない」と発言した。

 全国の市区町村教育委員会の教育長約60人を対象にしたセミナーでの講演。
馳氏は「朝ご飯、晩ご飯も食べさせてもらえなかったり、
洗濯さえしてもらえなかったりする子どもがいっぱいいる。
風呂にも入れてもらえないという状況だ」などと述べた上で、
「みなさんは現場で(教員)人事に配慮をしておられると思う。
我々は大問題だと思っている」と語った。

 馳氏は講演後、朝日新聞の取材に対し、
「教育困難な学校には適切な教員配置が必要だとの趣旨で申し上げた。
公営住宅にお住まいの方々、ご家庭を軽んじるような意図はない。
誤解を生むようであるなら申し訳ない。今後言葉には配慮したい」と釈明した。

なんという発言だ!!!
これを見た私は、馳大臣の言う公営住宅が、
『被差別部落の改良住宅』を指しているとしか思えないのでした。

馳大臣の出身を見てみると、出生は富山県で、育ちは金沢となっています。
金沢といえば、被差別部落を指して「藤内(とうない)」と呼ぶが、
元々、穢多と藤内は別々のグループであったが、
近世に入り同一視されたようです。

そう言う意味では、プロレスラー時代や、議員になってからの馳大臣も、
地方遠征や遊説などで、被差別部落の存在や現状を少なからず知っているのだろう。
しかし、彼は、それを間違った解釈をしているようで、

公営住宅=部落=同和地区=ガラが悪い

というような、認識をしているのではないでしょうか?

記事中からは、馳大臣の真意はわかりませんが、
どうも、部落のことを指しているのではないかと考えてやみません。

いや、たとえ、部落のことでなくとも
公営住宅に住む方々を、根も葉もない偽りの根拠で差別しており、
馳大臣が、差別者であることに違いはありません。

今でもYou Tubeで、馳浩のジャイアントスイングを見るとホノボノします。
笑みさえこぼれるほどです。

でも、今回のような差別の気持ちを彼が持っている限り、
一国の要職を担う大臣としての資質が問われるのではないでしょうか?


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