~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから読んでいただく事を強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2018年9月26日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その10(完)/見て記行って記被差別歩記-5

この連載を始めてから1年以上が経った。
10回という、これまでにない長編に加え、
私の遅筆も重なり、この様な期間を要してしまった。
しかし、「江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村」も、
遂に今回が完結となる。
次作からは、もう少し簡潔にまとめようと思う。

さて、前回は、牢屋の所在地を知ることが出来たが、
残念ながら、既に取り壊されてしまっていた所までお話した。
私も現物を見てみたかったのは山々だが、無いものは仕方がないので、
此処からは、前出の資料を元に、牢屋の解説を行いたい。

尚、再度お断りしておくが、地区特定を防ぐため
部落名は「川向部落(仮名)」とさせて頂く事をご了承願う。

まずは、下の写真をご覧頂きたい。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」表紙より
この写真は、既出の資料である『京北町教育委員会編:「川向区の歴史」』の
表紙に使われた”江戸時代の牢屋”の全景である。そして、下の写真が、
私が撮影した現在の牢屋跡である。
背後の蔵は現在も残っており、車が停まっている場所に、かつて牢屋があった。
発見当時、牢屋は農機具収納庫として利用されていた。

被差別部落に蔵があることを見てもわかるように、
村年寄りとして、ある程度の財を築いていたことが伺い知れる。
蔵には、捕物に使われたであろう武具が収められていた事が、
報告書には記載されている。
映画:人間みな兄弟より
警刑吏役を担った被差別部落の捕物武具

牢屋屋の実寸は4420×3760。
場所柄だろうか?。
時代劇などに見る数部屋ある大き牢屋と比べると、
かなり小ぢんまりした印象がある。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より

牢屋内部は2つに仕切られており、その一つは一般牢。
そしてもう一つが揚り屋であった。
揚り屋は、武士・僧侶・公家など身分が高い罪人を収容した牢で、
当時の罪人には、貴貧の差がつけられていたことがよく分かる。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より
寸法は各部屋とも1880×1970であるから、
人ひとりがなんとか寝れる位のサイズである。
「入牢は長むしいやいや」と書かれた墨書きを見る限り、
このサイズの牢で、長期の入牢はかなり辛いものがあったろうが、
そこは罪人。
それだけの罪を起こしての入牢なのだから致し方あるまい。
以上が牢屋の概要である。

被差別部落の先人たちは、
警刑吏役と言う今で云う警察業務を担ってきた。
又、池番・山番・峠の番などをして、村や都市の警護にあたってきた。
これは治安維持という点で素晴らしい働きをしていたのだが、
村民からは「幕府の犬」として「番太」などと呼ばれ、
差別の対象にされてきた。

当時の穢多たちは、お上の命に忠実に従ったまでで、
もちろん、謂れなき差別であることには間違いない。
(尤も、お上としては、農民と穢多を分断する為に
巧みに仕組んだのは言うまでも無いが・・・)

被差別部落の先人たちは、言わば幕府の、
いや、この国の「役職的殉教者」なのである。

【見て記行って記被差別歩記-5】
江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村(完)

2018年8月12日日曜日

お盆です・被差別部落の墓事情

世間はお盆休み。
私は、仕事のために大型連休には縁がないのですが、
皆様はいかがお過ごしでしょうか?
海外・国内旅行?帰省?それとも家でゆっくりって方も。
お盆に過ごし方は様々ですが、お墓参りに行かれる事も
多いと思います。
今日は、被差別部落の墓事情を書いてみます。

差別が厳しかった時代、部落民は
「来世こそは差別のない世の中に」との思いから信仰心が厚い方が多く、
『家は貧乏だけど寺は立派にしたい」と、
それぞれが苦しい家計からお金を出し合い、
信仰に心の拠り所を求めてきました。

しかし、せっかく建てた寺も穢多寺、僧侶は穢僧と呼ばれ、
宗教界でも差別される存在でした。
しかも、それほどまでに信仰しても、
亡くなった時には「差別戒名」がつけられ、
死して尚、差別される事となるのでした。

近年、各宗派は、これまでの宗教界の差別を改め、
今は部落差別解消に努めています。

さて、本日の本題である墓事情です。

◎都市型部落
都市型部落の特徴として、土地が非常に狭いことが挙げられます。
そのため、改良住宅もアパート・マンション型の縦に長い形になります。
当然、墓地にも十分な土地が確保できないことも多く、
寺の中に納骨堂が設けられていることがあります。

妻の祖父はこの納骨堂に入っております。
納骨堂は寺の地下にあり、コインロッカーのような形態をしており、
拝む時に扉を開けて礼拝しますが、寺の地下なので、
いつでも自由に墓参という訳には行きません。
日時が決められており、その時間内で礼拝いたします。
改良住宅もアパート型であれば、納骨堂も又、
アパート型と言えるかもしません。

又、先述した通り土地が不足しているために、
十分な墓地が確保できず、他所・・・地区外に墓所を求める
ケースもあります。
被差別部落と六曜~叔父の死から見る~
で紹介した義母の姉の家は、一般地区の寺内に墓を持っています。

◎郊外及び農漁山村型
比較的土地に余裕がある郊外・農漁山村は、
部落内に大きな墓所を持っていることが多く、
寺とは他に、大きなお堂や葬祭会館を併設しているケースもあります。
多宝塔のようなオブジェが設けられている事も。

一般地区の墓所と比べて特徴的なのが墓所管理。
被差別部落の内、同和地区指定されている部落では、
墓所は市町村など、公的に管理されている事が多いです。

これは、同和地区指定された後、地区改良時に墓所を含めた土地を市町村が買い上げ、
改良事業を行った為で、そのような土地に、
改良住宅・隣保館等が設けられました。

また、郊外・農漁山村型部落墓所の特徴として、
三昧(=火葬場)を併設しているケースもあります。
つまり、部落の墓所で火葬し納骨するわけです。
当方の食肉担当顧問をしていただいているN氏の住まいである
大阪府のある部落にも三昧施設があり、
お話を聞いたことがあります。
それによると、三昧は部落の者だけが使用し、
今でも使われているとのことでした。

三昧施設がどのような理由で設置されたかはわからないそうですが、
もしかしたら、部落差別と関係があったのかもしれません。

ここに上げた例は、わたしが知る限られた地区・家庭での話です。
きっと、全国津々浦々の部落には、もっと多様な墓所があることでしょう。
「こんな墓もあるよ!」って方おられましたら、
コメント欄にて教えていただけたら幸いです!
以上、簡単ですが、被差別部落の墓所事情でした。



2018年4月19日木曜日

被差別部落と六曜~叔父の死から見る~

4月8日の早朝、叔父が亡くなりました。
義母の姉の旦那さんなので、私と妻双方、
血の繋がりがない三等身姻族の叔父です。

亡くなられる数週間前に、何度か「危ない」と言う話を
妻から聞いていましたが、前日の土曜日の晩、
仕事帰りの妻からの電話で「いよいよ」と言う連絡を受けました。
死因は肺炎からの多臓器不全。
68歳という若さでした。

義母と同じ部落内に伯父伯母は住んでいるので、
毎年、正月には挨拶に伺っていましたが、
今年は妻からキツく「行ったらアカン!!」と
釘を差されて行くことが出来ませんでした。

なんでも、酔っ払った私は相当騒ぐらしく、
迷惑がかかるからだとか。
酔っていなくても普段から騒がしい私としては、
そんなに自覚がないのですが、酔うと一層拍車がかかるそうです。

「正月ぐらいはいいやないか!!」

そんなこんなで、今年の正月には、
まだ元気だった叔父の元へ、挨拶に行けなかったことが悔やまれます。

さて、我が国には、冠婚葬祭に六曜を重んじる風習があります。
六曜・・・つまり大安・仏滅などですね。

叔父が亡くなったのが4月8日の日曜日。
赤口でした。
法律では、失くなってから24時間は火葬できないので、
葬儀としては、9日の月曜日以降ということになります。

ここで、周辺の六曜を記しておきます。
4月8日 赤口 何事も良くない日。正午から前後1時間は吉とされる。
  9日 先勝 午前は吉。午後からは凶。
 10日 友引 友を引くとして、葬儀は行われない。
 11日 先負 午前は凶。午後は吉。
 12日 仏滅 一日通して凶の日。仏事には向く日。
 13日 大安 何事にもいいが、仏事は行われない。

以上のような暦から、10日の友引を避け、
11日の先負に葬儀と言う日程で行われました。
つまり、日本古来の風習である六曜を重んじた日程となったのです。

ところが、一方で、六曜は差別につながるとして、
廃止する動きも見られます。

部落解放同盟は、かねてより「六曜は迷信で、差別につながる悪習」として、
六曜を排除する方針を打ち出していますし、調べてみると、
明治政府も六曜を禁止する方針だったとか。

古来から我が国に伝わる風習がナゼ差別につながるのか?
それには、こんな訳があります。

「六曜は、ハレやケを暦に記したもの。
ケガレを記すことが差別につながる。」

「鎌倉辺りに中国から伝来した六曜が現在のカタチに落ち着いたのは、
江戸時代になってから。比較的歴史が浅く、迷信である。」
と言うのが主な理由のようです。

かつては、役所が配布する手帳や暦に六曜が記載されていたのですが、
部落解放同盟の糾弾によって、今ではどの自治体も、
配布物には六曜の記載はありません。
この様な経緯から、近年では、六曜を記載していないカレンダーも
増えてきました。

「それじゃあ、部落の人は全員、六曜を否定するのか?」

答えは「否」です。

叔父の葬儀の例を見てもわかるように、
部落民だから六曜を否定すると言うことは決してありませんし、
むしろ、六曜を重んじています。

一般的に、部落解放同盟の主義主張が部落民の総意と
思われているフシもありますが、決してそうではありません。
確かに。部落解放同盟は、運動団体としては最大規模を誇っていますが、
解放運動全盛で『猫も杓子も解放同盟』と言う時代から見ると、
現在は部落内でもマイノリティです。

そのような訳で、コアな解放同盟員は六曜廃止主義でしょうが、
あまり運動に積極的じゃない解放同盟員の中には、
“迷信”とされている、六曜を重んじる方々は多いんじゃないかと思われます。

こう書くと、「運動に積極的じゃない同盟員が居るのか?」
ということになってしまいますが、事実、それは有るでしょうね。

私の義母は、遠縁が支部長をやっていたため、
付き合い的に入っていましたし、周りがやっていたから
「なんとなく」ってのはあったと思います。

また、『過密で、新しい住居が必要になった際に、
同盟員には優先で部屋をあてがわれる』などのメリットもありました。

特に近畿地方では、過去に同和枠として公務員の優遇採用がありましたが、
その絶対条件として、同盟員や旧全解連などの運動団体に
所属していることが挙げられます。

又、これは同和利権に当たるので、批判に値する事例ですが、
税金の優遇措置を受けるために同盟員になるケースも有りました。

あの手この手で、同盟員の獲得拡大に努めいて来た解放同盟ですが、
このように書くと、まるで『悪の団体』であるかのようです。

しかし、解放同盟を始めとする各運動団体が、
差別の解消に邁進し、部落改善に大きな働きをしてきたことは事実ですし、
多いに評価されるべきだと考えます。

ただ、再度言いますが、”利権”に関しては、これを完全否定するもので、
部落解放運動に於ける汚点で有ることに間違いはありません。

明治4年の解放令が出てから、約150年と言う歳月が流れました。
しかし、ナゼ今も差別が残るのか?
水平社や部落解放同盟と言った運動団体がナゼ必要であったのか?
また、今日のテーマである『被差別部落と六曜』について、
ナゼ書く必要があったのか?

叔父の死~葬儀を見て、
今一度、考えさせられる今回の出来事でした。

2018年4月1日日曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その9/見て記行って記被差別歩記-5

これは、どこの部落でもそうなのだが、
近年、少子高齢化の波は部落にも例外なく押し寄せ、
部落内の高齢化及び、地区内の空洞化が目立っている。

ここ川向(地区特定につながるので仮名とさせて頂く)もご多分に漏れず、
活動時間帯の朝だと言うのに、とにかく人がいない。
もともと、戸数20個ほどの小さな部落であるが、
実際に、現在住んでおられる方はもっと少ないに違いない。

それが証拠に地区内を回っている時、
幾つかの家に「販売中」の看板が掲げられているのを目にした。
その何れもが、玄関に草が生い茂り、窓はホコリで曇っている。
長く買い手がつかないのであろう。

理由は、此処が「部落」というだけでは恐らくない。
京都市と言えども、市内中心部から遠く離れた辺境の地で、交通の便が著しく悪く、
おまけに生活の基盤となる食料品や日用品を買いに行くにも一苦労となれば、
部落じゃなくても「住みたい」人は極端に少なくなる。
それでも、この地に生まれ、今も生活している方々にとっては“住めば都”で、
先祖代々受け継いだ大切な土地であることに違いない。

さて、肝心の江戸時代の牢屋であるが、
わずか20戸ほどの小さな部落とは言っても、
不案内な場所であるが故、どこにあるのか探しあぐねていたところ、
教育集会所の近くで、一人の女性に詳しく話を聞くことが出来た。

年の頃、60代後半とおぼしき初老の御婦人は、
田舎と言っても流石に京都。
どこか上品で、受け答えもハキハキとされており、
大変貴重なお話を伺うことが出来た。

「この辺りに、江戸時代の牢屋があると言う話ですが・・・」
婦人は一寸考える素振りを見せた。
(後に、振り返って考えてみると、婦人の間は、取りも直さず、
此処を訪れる人がほとんどいない事を物語っていたのだった)

「あぁ、牢屋ね。そこの家の奥に・・・」と、婦人は向かいの旧家を指さした。
なんと、丁度、家の前まで来ていたようだが、牢屋は奥に有る土蔵に併設していた為、
表の路地からは見えなかったのである。

地区で一番大きな旧H家住宅(現在は持ち主が変わっている)
かつては、枝村の庄屋を務め、寺の代わりに村人の集会所となっていた。

スギムラ「牢屋の見学は出来るのでしょうか?」
婦人「今は、持ち主が変わられてね・・・」

何でも、この牢屋が発見されてから暫くは、見学者が怒涛の如く訪れ、
居住者はかなり辟易されていたとのこと。

当時を知る事情通に後日伺った所、部落関係者・学者・教育関係者などが、
連日、観光バスで押し寄せたらしい。
「・・・そんな訳で、牢屋は何年か前に取り壊されたんですよ」
思いがけない婦人の答えは、牢屋目当てで訪れた私のワクワクを
瞬時にかき消す勢いであったが、当の家主の気持ちを考えれば、
十分に納得出来る、いや同情さえしてしまう具合であるから致し方ない。

きっと、牢屋が発見されてからは、生活も一変したことだろう。
見ず知らずの人が、連日大挙をなして、山村の旧家へ押し寄せるわけだから。
それともう一つ。
これは、後で知ったことだが、地区の中でも「牢屋が有るから差別が残る」
と言う意見があり、取り壊しを所望する住民もおられたらしい。
或いは、この様な事も相まって、取り壊しに至ったのかも知れない。

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先に「発見」と書いたが、ここで、この建物が、
どうしてにわかに注目を集めることになったのか少し触れておこう。

調べていくと、この建物が「牢屋らしい」と言う話が出たのが、
どうも、識字学級内でのことのようだ。
恐らく、字が読めるようになった部落の先人諸氏が、
牢屋(当時は農機具の倉庫として使われていたらしい)に
字が書いてあることを発見し、話題になったのであろう。

丸岡忠雄氏の詩「ふるさと」を版画にした識字学級諸氏の作品。
子供の頃に学校に通えなかった部落の方々は、
無くした時間を取り戻すため、ご高齢になってから識字学級へ通った。
では、何と書いてあったのか?
下の冊子「川向(仮名)の歴史」表紙写真の右側に注目いただきたい。


牢屋内の柱の一本に『入牢も長むしハいやいや』と墨書きされていたのだ。
(スギムラ注:文中のハは、漢数字の八ではなくカタカナのハ)
識字学級内でこれが、牢屋ではないかと話題になり、
直ちに、地元の教育委員会・部落問題研究所が中心となって、
本格的な調査がなされた。平成三年のことだ。

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一端、牢屋の話は置いておいて、婦人に伺ったお話を紹介しよう。
川向には、僅かばかりの改良住宅がある。
戸数6戸の二戸一住宅だ。

二戸一の改良住宅。総数6戸

家の前には、八重桜と、この地方名産の園芸用の杉「台杉」が植えられている。
地区一の高台に位置し、とにかく静かで見晴らしが良い反面、
徒歩や自転車では上りが辛く、安全対策派がなされているとは言え、
背後の山からは土石流の危険もないとは言えない。
部落にありがちな立地である。
今現在も入居されている状態では有るが、
御婦人の話では,今後の入居者の募集は行っていないとのこと。
耐用年数の関係で、入居者がなくなり次第、解体の方針であるという。

又、このような話も有る。
「差別の話はありますか?」との問に、
「最近はないけど・・・」と言いつつ、
差別が厳しかった頃の話を聞かせてくださった。

「昔は、川の向こう側の本村の田んぼへ手伝いに行っていたの。
休憩の時にお茶を出してくれるけど、茶碗は欠けてるし、
明らかに洗ってないのね。それでも文句言わずに飲んだって話を聞いたわ」

「もしよかったら、昼から教育集会所で編み物教室があるのね。
その時に姉が来るから、差別の話は、姉の方が詳しいので聞いてみたら」
と、お話をいただいたが、残念ながら時間の関係でお伺いは出来なかった。
代わりに、前出「川向区の歴史」に差別の聞き取りが有るので書き出してみよう。

◎『Kさんのお爺さんは医者だったが、患者の家に上げてもらえず、
玄関先で患者を診た』

◎『患者に触ることが許されず、杖で脈を測った』

◎『雨宿りをしていたら、(部落のモンは)あっち行けと言われた』

◎全国的に、祭りや神事に参加できなかった事例は多々あるが、
此処でも例外なく神社の氏子として長く認められなかった。
その理由が『部落のモンは汚い』と。
ただ、大正13年には氏子として認められたと言うから、
同様の差別事象よりは、比較的早く神事に参加することが出来てはいるが、
本来、地域住民なら、古の頃から平等に氏子になっていなければならないわけで、
差別によって排除されたこと自体が問題なのである。

【続く】

2018年2月8日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その8/見て記行って記被差別歩記-5

八千代橋が流失した翌年の昭和35年。
この部落では、一つの大きな事業の誘致活動をきっかけに、
またもや差別と言う辛酸を嘗めることになってしまう。
それが「京都府職員住宅誘致運動」である。
概要は以下の通りだ。

京都府は、府職員住宅建設を計画。
京北町から要請を受けた周山大区は、
川向部落を含む近隣区での建設地の選定に入った。
その要請にいち早く答えたのが、川向部落の地主H氏だった。
H氏は「川向の発展の為になるのであれば」と、所有地を無償提供
することを決意、村をあげて職員住宅の誘致に乗り出した。

府の担当者は「住宅地が無償で手に入るなら」と言うことで、
川向への建設を進めようとするが、当の府職員連がこれに反対することになる。
「実際に入居するのは自分達なのに・・・」と不満を口にする職員連は、
「夜道に街灯がない」「タバコを買うにも一苦労」「近くの駅に急行が停まらない」
などと難クセをつけて建設を阻もうとする。

一見もっともらしいとも思えるが、この難クセは全て差別からくるもので、
職員連は、別地に職員住宅を建設するよう要望を出している。
府の担当者・入居予定の職員、そして川向の役員の三つ巴で協議は難航、
地域発展のためにと、無償で土地を提供しようとしたH氏の気持ちを、
公務員でさえ“差別”で踏み躙る。これが、当時の部落差別の実情であった。
川向地区の端に位置する府職員住宅と旧京北町庁舎
(鉄筋造りの大きな建物)
前出の資料「川向区の歴史」では、当時のやり取りを記録した議事録の掲載はあるが、
残念ながら、住宅が誘致出来たか否かは記載されていなかった。
しかし、現地のフィールドワークから、職員住宅と共に旧京北町庁舎を確認。
何れも現在はその役目を終えており、取り壊しを待つかの如く辺りには
フェンスが張り巡らされてはいたが、この様子から察すると誘致には
成功したようである。

~~~~~~~~~

多くの部落では、住民たちが金を出し合って寺を作るのが慣例であった。
その理由はこの場では書かないが、以前にこのテーマについて書いているので、
詳しくは、そちらを参照願いたい
burakunokurasi.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
寺は、部落民にとっても心の拠り所であったと同時に、
寄り合いを行う為の重要な場所であったし、時には、
抗議や闘争の決起集会の現場でもあった。

川向部落には寺がなかった関係で、住民たちが集まる場所がなかった。
(その後の調査で、川向の村年寄り宅の仏間が広く、
寺の役割を担っていたのでは?と言う報告がなされている)

寺がなく、住民が集う場が十分に確保されていなかったこの部落にも、
ようやく公的な公民館が設置されたのが、京都府職員住宅誘致運動から
2年後の昭和37年のことだ。

昭和40年同和対策審議会答申の政府提出、
昭和44年同和対策事業特別措置法施行・・・
国が、ようやく重い腰を上げ、本格的に部落改善の狼煙を上げる様子を、
この公民館は見守ってきたのだ。
住民たちが集い、議論し、ときに戦いの場として使われてきたであろうこの場も、
昭和53年に同和対策事業にて、教育集会所が設置されるまで使用された。
隣保館の役割を果たす川向地区教育集会所
~~~~~~~~~~~~

川向部落の解放運動は、かなりのスローペースであった。
地区世帯が少なかったせいか、はたまた、同和事業を受け入れない
方向に向かおうとしていたのか?
同対法施行から16年も経った昭和60年、
ようやく川向にも部落解放同盟の支部が結成された。

結成の経緯について詳しい内容は分からないが、支部結成の一年前、
昭和59年に「京北町差別言動事件起こる」の記述が見られる。

資料から読み取ることが出来る範囲での推測に過ぎぬが、
恐らく、川向としての意向は、同和対策事業尾を受け入れない・・・
つまり、未指定地区として存続していく道を歩もうとしていたのではあるまいか?

しかし、件の差別事件を契機に、解放同盟の支部が結成され、
部落として、差別と戦う道を選んだのではないだろうか。
(今回の取材では、江戸時代の牢屋がテーマであるから、
このあたりの事には触れていなかった次第。
何れ折を見て、解放同盟結成の経緯も取材したい)

同盟が結成された後は、地区内の整備が順次進められていき、
現在に至る。
その後、大きく変わったことと言えば、
このテーマの冒頭に書いた通り、
平成の大合併で、この部落が京都市に組み込まれたことだろう。
川向が属する右京区は、新たに同和地区を持つことになったのだ。

簡単ではあるが、以上が川向の歴史である。
次回は、いよいよ本題の『江戸時代の牢屋』の全貌に迫る。

【続く】    

★お知らせ★

★お知らせ★

初めに、長らく更新をしなかったこと、お詫び申し上げます。
以前もお知らせしましたが、此処で改めて経緯を報告いたします。

12月9日、午前3時。
救急病院からの電話で、私は目を覚ましました。
「お父さんが救急車で運ばれ重篤な状態です。すぐに来ていただけますか」
私は、電話口の医師に「それは、危ないと言うことですか?」と聞き返しましたが、
「意識レベルが低い状態ですので・・・取り敢えず、来ていただいたら説明します」
と言う返事。お酒を飲んでいたので妻を起こし、
寝起きの悪い子には、「じいちゃんのお別れに行こ」と、
着替えさせて病院に向かいました。

途中、病院にいる母に電話するも、
「待っているだけで、病状の説明は受けてないのでわからん」との返事。
20分ほどで病院に着き、待合で一時間ほど待ったでしょうか。
夜の救急病院には、我々以外に人はなく静かでしたが、
母親が一人、しきりに今日の出来事を説明していました。

ようやく医師に入室を認められ、救急処置室へ入ったのですが、
多くの管に繋がれた父親は、ストレッチャーの上で目を見開き、
瞬き一つもせずに、ずっと暴れていました。
所謂、意識障害、せん妄と言うやつでしょう。

担当した救急医から大まかな状況が説明され始めました。
PCの画面には、頭部の画像が映し出されていました。

医師からは、大きな脳腫瘍が見つかったこと、
そして、重度の感染症にかかっているので非常に危険なことが告げられました。

腫瘍については、検査をしなければわからないのですが、
縦5cm横6cmと言う巨大なもので、脳幹や血管をガッツリ覆っているため、
手術は不可能。悪性(ガン)であれば尚の事、良性であってもこの場合は、
悪性として診断が下ると言う旨の説明でした。

そして、「今は感染症のほうが重症で、正直いつ亡くなってもおかしくない。
むしろ、なくなる確率のほうが大きいので、
会わせたい方がいる場合は、今のうちに会わせてあげてください」と。

取り敢えず、病室に搬送され、改めて説明室で担当医になる脳外科医より説明。
腫瘍が大きくなり、頭蓋底骨を破壊しているために、
頭蓋内戸の隙間が何処かに出来て、菌が侵入して髄膜炎を起こした
可能性を説明されました。

一通りの説明を終え、最後に医師から「延命」について選択を迫られましたが、
救命はするが延命はしない事を決め、説明室を後にしました。
病院の夜は、暖房が非常に効き、12月と言うのにかなり暑く感じ、
説明室を出る頃には喉がカラカラ。
ミーティングルームの自販機で一息つき、取り敢えず一旦帰ることにしました。
自宅に着いたら午前6時半。
3時間でしたが、色々なことが怒涛のように起こり、
あっという間でした。

寝ている暇はなく、そのまま仕事に出ることになるのですが、
その間、ネットで葬儀の情報を仕入れていました。
正直、この時は父親は長くないという思いでしたし、
それなりの気持ちの整理もできていました。

その日の夕方、抗生物質の効果が現れたのか、
父親の意識が戻り、少しの会話が出来ました。
私は仕事終了後の午後9時半頃に病院に向かったのですが、
個室でしたので、気兼ねなく見舞うことが出来ました。
この日は、福井から出てきた妹が病室に泊まり込んでいましたが、
「老人(76歳)の様態は急変しやすいから、ある程度の覚悟はしといてくれ、
万が一、感染症が治っても腫瘍の治療は難しいから」
と言い、病院を後にしました。

月曜日、昼過ぎでしたが、病院から電話が。
案の定、様態が急変したとのこと。
これから、二週間ほど父親は意識が殆どない状態で過ごすことになるのですが、
途中、水曜日の夕方見舞った時には、意識がない上に口での呼吸でかなり早く、
看護師さんに聞いても、「いよいよかもしれません、でも最後まで頑張ります」と。

その日の夜中2時に、又病院から電話が。
実は、これまでに、「死の直前行動」とか、「余命一週間前の状態」などの、
色々なサイトを見ており、合致する点が多かったので正直、
「遂に来たな」問感じでした。

この日も、妻子を起こし、実家の母親を拾って病院へ向かいました。
病院に着き、ナースステーションへ行くと、
ICUに入っているので、待合で待つようにとの事でした。
しばらく待っていると、看護師さんが呼びに来ましたが、
子供達の入室は出来ないということなので、
仕方なく、待合で待たしておくことにして、
我々は、ICUへと入りました。

呼吸器が挿管された父親を前に、医師から説明があった説明の内容は、
次のとおりでした。

「腫瘍の生検をする為に、前日に鼻から採った部分の血が止まらず喉に溜まり、
窒息を起こした。非常に危険な状態であったが、すぐに処置をし一命はとりとめた」

ICUへ入るのは初めてだったが、そこは一般病棟とは大きく異なり、
非常に沢山の医療機器とパソコン。
そして、夜中だと言うのに、スタッフが絶え間なく動き回る。
部屋の電気は消えているが、PCのモニターの明かりに照らし出されながら、
説明をしてくれる医師は、緑色の処置着を着たままでした。

言わば、腫瘍から出た「鼻血」なのであるが、意識がない父親の場合は、
喉に溜まった血液を飲み込むことも、吐き出すことも出来ないがため、
やがてそれが固まりだし、窒息に至ったわけです。

ICUに居たのはそんなに長くない。
時間にして10分ほどだったでしょうか。
夜中の2時過ぎだと言うのに、担当の医師が隣県から駆けつけ、
処置医といくらか言葉をかわし、我々はICUを後にしました。

説明室では、件の担当医が今回の状況を説明いただきました。
説明内容は処置医とほぼ同内容であったが、
今後は、生検の為の組織採取が困難になり、
最終的な診断が遅れる可能性を指摘、
人工呼吸器の経口挿管は長く続けられない為、
病状の改善を見て、気管を切開して管を通す手術をすること。
それと、糖尿病により、感染症の菌が減らず、
依然、重篤な状態であると付け加えられたのです。

夜中でも、私達が病院へ向かうと同時に、医師も病院へ向かう事を知り、
大変ありがたい気持ちで一杯になった。
この夜の出来事は、これまで私が持っていた「病院の医師とは、
どこか冷酷で機械的に患者を診ているものだ」という、
先入観(多くは、これまでの経験から来ているものなのだが)を覆す出来事で、
これ以降、担当医を始めとする医師達の見方が変わったのでした。

次の日、前日に連絡を取っていた従兄弟が見舞いに来てくれた。
このブログにも度々登場する従兄弟は、父親の兄(私にとっては叔父)の子で、
勿論、私と血の繋がりがあるわけですが、同時に、被差別部落の血も継いでいる。
つまり、叔父の妻(叔母)が被差別部落の出身でした。

この様な環境下でしたから、幼い頃の友人達の中でも、
いち早く部落問題に敏感でしたし、それが後に部落への関心、勉強へとつながり、
今日、被差別部落のブログを書くに至った一つの要因でもあります。

ICUへ入り一週間ほどして、ようやく抗生物質が効き、
感染症の症状が落ち着きはじめた頃、気管挿管の為の切開手術を受け、
(その後、意識が戻り、結局気管挿管での酸素吸入は一度も行わなかったが、
保険的な意味合いで、穴は暫く残しておくことになったのです)
一般病棟へ移ることになりました。
この時は、入院から2週間以上経った12月の下旬頃でした。

一般病棟へ移り、ようやく診断が下りました。
形質細胞腫という血液の癌で、白血球の内の一つ形質細胞が癌化したもので、
血流に乗り骨に付いて腫瘍化するということでした。

しかも、運悪く、父親の場合は頭蓋底に付いて腫瘍化、
上は脳内、下は鼻の方向へ向かって成長している。
抗がん剤をやらなければ、早ければ今月中、
遅くとも1月中には亡くなると言うことでした。

当初は、治療を行わないことも選択肢のうちの一つとして考えていましたが、
新港のスピードが早く、当方の予想を上回る余命一ヶ月ということで、
抗癌剤治療を行うことにしましたが、
リスクのほうがかなり多い旨の説明が有りました。

つまり、抗がん剤をやり、効いた場合、
頭蓋底骨の代わりにフタをしている腫瘍が縮み、
髄液漏・脳ヘルニア・脳内出血の恐れのほうが強いのです。
おまけに、開いた隙間から細菌が侵入し、
髄膜炎等の感染症を再発する可能性も高いという。
そうなれば、外科医と結託して穴を埋める手術もしなければならないし、
そうでなくとも、死の危険性のほうが高い。
治療を始めるにあたって、その点を覚悟しておくようにと。

まさに、四面楚歌の状態での治療となるわけですが、
以外にも私としては、初日に死の宣告をされていて、
ある程度覚悟はできていましたので、「ダメ元で」と言う気持ちで
治療をはじめました。

このときには、脳外科から血液内科に担当が変わっていましたが、
新たな主治医から、「世界で30例」しかない症例と言われ驚くと同時に、
治療がいかに難しいかということに改めて気が付かされました。

2週間、計三回の注射と点滴に寄る抗がん剤投与でしたが、
「途中経過を見る為に撮ったCT。腫瘍に変わりがない。
再度、検査をし直した所、どうも別の腫瘍であるような可能性がある」と
医師から電話がありました。

これまでに、何度か医師とのミーティングを重ねてきましたが、
今度は、内分泌科に担当が変わるという。
つまり、最終的に付いた診断は、
下垂体腫瘍で、プロラクチンというホルモンの向上を促す、
プロラクチノーマ・下垂体PRL分泌亢進症というものでした。

全く聞いたことのない名前でしたが、
結局は良性腫瘍。
しかし、縦5cm横6cmとかなり大きいく、
脳幹や血管を取り巻いている上に、手術不可能のこの手の腫瘍は、
良性でも悪性と診断がつくのだそうです。
年が明け、1月が始まって一週間ほど経ったときのことでした。

その間、父親の病状(感染症の方)は快方に向かい、
何とか、倒れる以前の生活水準に戻りつつ有りました。
腫瘍を除いては。

この間、先生方も、外部の権威の先生などに意見を伺っていただいたりして、
治療方針の検討をしていただきました。

私も毎週のように先生とミーティングを行い、
父親の年齢(76)や平均寿命の事を鑑み、又、父親の意向で
治療をしない選択をしましたが、
やはり、ホルモンの値が以前高いままなので、
その値を下げるために最低限の薬を投与するカタチで
最終的に治療方針が決まりました。

これが、2月6日。
つまり、つい先日のことなんです。

なぜ。此処までに治療方針が定まらなかったのかというと、
やはり、全ては腫瘍の大きさ。
つまりそれは、「手遅れ」を意味していたのです。

本来は、何らかの前兆や異変があり、
此処まで大きくならずとも受診をされ見つかるケースが多いこの腫瘍。

ある程度の大きさなら薬も効きやすく、
以外に完治が早いそうですが、
父親は年がいつていたことも有り、老化が重なり異変に気がつかずに
ここまで大きくなったのでしょう。

一応、退院のメドが付き、喉の装置も外して切開部を閉じました。
2月13日に退院し、自宅にて療養を行います。
この先、腫瘍の成長に合わせ、視神経が圧迫され失明の恐れがあります。
又、脳出血や感染症は、健常者よりかなり高いリスクがあります。
また、血糖値や血圧の管理も行わばならず、
自宅に帰ったら帰ったで、大変なことも多くなりますが、
基本的には、治療はしません。
寿命が尽きるのが先か、腫瘍が大きくなるのが先かって感じです。

スギムラシンジ

P.S
これからは、ブログも再開していきます。
以前にも増して、応援お願い申し上げます。