~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年6月30日月曜日

ある同和系企業【生立ち編-27】

私が通うH高校近くのオフィスビルに、
ある同和地区の名称を冠した企業がありました。

「同和地区の名称」と書きましたが、
この同和地区名はこの部落だけで使われている名称で、
地区名に一般地区を含みませんので、
この看板を見て直ぐに部落=同和系の企業であることが
高校生の私にもわかりました。
 
その地区はH高校から結構離れていたのに、
何故この場所にオフィスがあったのか分かりませんし、
仕事内容も当時は看板だけを見てもよく分かりませんでしたが、
後年、この企業のダークな話を種々聞き及ぶ事により、
その企業の存在理由がなんとなく理解できました。

誤解を生ずるといけませんので書かせていただきますが、
今、ほとんどの事象で「部落だから」と言う理由が当てはまらないように、
部落の企業事情も一般地区と同じ状況です。
当たり前の事ですが、ダークな企業も一部にはありますが、
そのほとんどが真っ当な企業であることは言うに及びません。

この同和系企業についての思い出話が一つあるのですが、
今日は前置きということで、ここまで。
続きは次回にさせて頂きます。


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2014年6月21日土曜日

さいぼし

部落は長い伝統の中で、
独自の文化を発展させてきました。
特に、食に関しては明治の文明開化までは、
牛・豚・馬などの、いわゆる家畜は
一般家庭の食卓へ上ることはありませんでした。

これは、仏教の教えで肉を食べることが禁じられていたこと、
また、家畜は農家の大切な財産であり、
重要な働き手でありましたので、
勝手に処分して食することは許されておりませんでした。

しかし、農家の働き手の牛や馬は、病気や寿命で
死んでしまうことがあります。
死んでしまった牛や馬(斃牛馬)の処理権は
被差別部落(当時は皮田・革多・穢多)が持っており、
牛が死んだ農家は、部落(皮田村)へ連絡をして、処理を願っておりました。

斃牛馬の処理権は、幕府から付与された特別な職種でありますので、
そこらの人が勝手に処理をする事は許されませんでした。
この権利は部落ごとに持っており、
「草場・旦那場」と呼ばれました。
これは、いわゆる、縄張りです。

その為、部落には牛馬(食肉)の文化が我々より長く、
我々が知らない食肉の知識が部落の人々に受け継がれてきました。

この辺りの事は、この項ではとても書ききれないので、
いずれ、レポートを書きたいと思います。

その食肉文化の一つが、今日紹介する「さいぼし」です。
最近は、B級グルメ・ソウルフードブーム で、
「さいぼし」も随分メジャーな食品になってきたことは、
我々にとってはうれしい限りです。

現在のさいぼしは、馬肉を用いた燻製です。
馬肉のバラ肉を塩を基本にした調味液に浸し、
桜のチップで燻します。
最近のスーパーでは、あらかじめ薄く切られたさいぼしが、
パッケージングされて売られておりますが、
(これも本物のさいぼしなのですが、一般の方々が食べやすいように
薄く切られているようです)

本場部落のものはかたまり。
それを薄く切ってもよし、そのまま厚めに切ってもよし、
好みに応じてカットします。

そのままでも美味しいですが、
私は醤油に唐辛子を振って、酒と一緒に・・・

う~ん、食べたくなってきたぞ~。
でも、材料と手間に比例して、さいぼしは高級食材。
ものすごく高いのです!
そうそうやすやすと食べることはできません。

なので、私は安めのミスジ肉を買ってきて
塩ベースで味付け。
一斗缶を改造した自家製燻製器で燻しております。

これでも、十分さいぼしの雰囲気が味わえて最高です。
コスパもいいですしね~。
少々手間と時間がかかりますが・・・。

こんな美味いもんを、部落の人は食べていたのか!
私たちが肉を食べるずーっと前から・・・

さて、このさいぼしですが、
私はかねてから腑に落ちない事があります。
それは、「燻製」と言う事に凄く違和感を覚えるのです。
その事を、ずーっと調べておりますが、未だ答えは出ておりません。

10年ほど前に但馬方面のお土産物屋さんに
牛肉の「干し肉」が売ってました。
また、これまで、いろいろな方面から学んだ限りでは、
(結論は出ておりませんが)
◎戸板にバラした肉を広げて干したという記述があり、
どうやら、この辺りが本来の「さいぼし」の
原型ではなかったかと思われます。
また、あるいは、
◎竿に肉を干したことからサオボシ→サイボシ説もあります。

この記述から、私も干し肉を作ったことがあります。
塩水に味の素と醤油を少し入れて、
とびっきり最高のカルビをその中へ
漬け込み一晩。
翌日、串に刺して陰干しで2~3日。
火で軽く炙って食すると・・・

う、美味い!
焼き肉ともサイボシともまた別の素晴らしい味で、
噛めば噛むほど旨味が出てきます。
ただ、こちらも久しく作っておりませんが、
この記事を書いていて、久しぶりに食べたくなってきました。
「久しぶりに作ってみるかな~!」
 
いずれにしても、「燻製」と言う、
調理的に器具・時間・手間が掛る方法が
部落内で行われていたのか?と言う
疑問はあります。

もっと、簡単な行程ではなかったか?と
思われますが、日本の歴史を見直してみると
燻製説にも何やら勝機が・・・

囲炉裏を使用する地方では、
いろりの煙で、イワナなどの川魚や野菜を「燻製」にする事は
いにしえの頃から、ごく当たり前に行われてきた食品保存法であります。

現在主流の西洋式の燻製作りと比較すれば、
囲炉裏上に吊るすだけの、ごく簡単な保存法で、
そこには西洋式の様な手間や技術はいりません。

こうなってくると、燻製・乾燥どちらが原型だったのか、
書いていて改めて分からなくなってきました。
あるいは、同時発生的であったかもしれませんね。

ある部落内のホルモン屋に行った時のことです。
そこの部落は、大きなマンション型の改良住宅と共に、
部落産業の一つである食肉工場がたくさんあります。
部落独特の細い路地を通り、たどり着いた
その商店の軒先には大きなレンガ窯があり、
桜らしきマキが山に積んでありました。
どうやら、ここでサイボシが作られているようです。

店内に入ると、愛想の良さそうなおばちゃんがおられ、
その奥では、お兄さんが何やら作業をされている所でした。
商品棚に目をやると!!
ナント、見慣れたパッケージがあるではないか!

近所のスーパーに並んでいた袋入りの
サイボシが棚を飾っていました。
私が「これ、スーパーに置いてあるやつや!」と
言うと、おばさんは「ここで作ってるんや」と言いました。

なるほど、そう言えばパッケージ裏の製造者住所が
ここだった事を、この時点で思い出したのでした。

いずれにせよ、私達の食肉文化よりも、
はるか数百年前から、部落民は進んだ食肉文化を持っています。
それは、部落の伝統であり文化であるのです。

部落民が差別される理由の一つに、「穢れ」があります。
血まみれになりながら牛馬を解体し、
その肉を食い、皮を干して革を作る。

しかし、肉を食する事が当たり前の現代、
どうして、部落民を差別することが出来るのでしょうか?
牛馬の肉を食する事が「穢れ」であれば、
我々も「穢れ」でありますし、
牛馬を扱う仕事をするのが「穢れ」であれば、
家庭でも俎板の上で肉を切ることは「穢れ」
となるはずです。

しかし、それらは「穢れ」にはならない。
これが、差別以外の何物でもありません。
我々は、自分の都合で物事を見る癖があるようです。
それが、差別の実態なのです。

★今回は、新コーナーとして「部落の文化」をお送りしました。
 新しい構想が色々あるのですが、「生い立ち編」執筆中ですので、
あまり手を広げるのも散漫になってしまいそうで・・・
しかしながら、このような形で少しずつ織り交ぜていこうと思っております。
これからも、ブログ「被差別部落の暮らし」をよろしくお願いいたします。

あ、それと・・・
コメント頂けたらとても嬉しいです。
部落問題と言う事でコメントしにくいかも知れませんが、
お気軽にどうぞ!
コメントは、記事下部の「○件のコメント」と言う所をクリックすると
コメントフォームが現れます。

叱咤激励お待ちしておりますが、
誹謗中傷や差別的なコメントはできませんので、
よろしくお願いいたしますm(__)m


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2014年6月16日月曜日

被差別部落の名称と所在地

私が、このブログを始める際に、
最も悩んだのが、被差別部落の名称と所在地に
ついてのことでした。

ブログ記事を書くにあたって、部落(同和地区)の
名称や所在地を書くべきか?
これはかなり迷いました。

地区名を出すことにより、よりリアルな現実を皆さんに
知っていただける。
しかし、その反面、所在地が明らかになる事により
新たな差別が生まれるのではないか?
差別を助長することになりはしないか?
その様な葛藤がありました。

今やインターネットで、どんな情報でも瞬時に入手
することができるこの世の中で、
当然、被差別部落の情報も、うわさ話だけでなく、
実際の所在地や地図、画像、時には動画まで、
種々の情報で溢れております。

丁度、私がこのブログをはじめる少し前に、
橋下徹大阪市長と週間朝日の間に問題が起こっていた事は、
みなさんもご記憶に新しいかと思います。

部落(同和地区)で生まれ育った橋下氏の
出自を暴く週刊朝日の記事は、
同時に、橋下氏に関係する被差別部落の地区名称や
所在地を明らかにしました。
社会の公器であるメディア、とりわけ、社会への影響力がとても大きい
新聞社系の雑誌と言うことも、大きな問題でありました。

《橋下氏の週刊朝日問題に対する会見放送はこちらです↓》
 http://www.ustream.tv/recorded/26233118 (28分頃~)

これらを踏まえた上で、私が出した結論は、
地区名や所在地を「あえて公表しない」ことでした。

何度も、書いておりますように、
部落関連の法律が失効して久しい今、
国や行政の見解としては、
「同和地区は無くなった」=部落問題は解決した、
となっているようですが、実際問題として、
本当に部落差別は無くなったのでしょうか?

言わずとも答えは「NO」です。

真の部落解放とは、被差別部落を一般地区と同じ

生活水準にすることではありません。
もちろん、それも部落問題解決の一つのファクター
であることは、紛れもない事実であります。
しかし、それだけではないのです。

「心の解放」・・・
差別者も被差別者も「心の解放」がない限り、
真の部落問題の解決とはいえないでしょう。
お互いのわだかまりをなくし、誤解を解き、
そして双方が理解と尊重をすることによって、
差別は解消されると考えます。

そのためにも、このブログが、
部落民と部落外民、双方の架け橋の一つになればと、
切に願う次第であります。

最後に繰り返しますが、
このブログでは、被差別地区の名称や所在地を
公表することは、現在のところありません。
ただし、必要に応じての都道府県レベルの
所在地公表については、先述した通り、
皆様に、より具体的・現実的に部落問題を
認識していただけるということもあり、
都道府県名を公表するか否か、現在検討いたしております。

また、公に被差別部落の場所が明らかにされている場合
-例えば、水平社博物館がある奈良県の柏原部落は、
水平社発祥の部落として広く認識されております。
この様な部落の地区名称公表については、全く問題がないと考えております。

近い将来、差別がなくなったら、
いいえ、無くなると決まっているのですが・・・。
その時が来たら、声を大にして公表します。
「皆さん!被差別部落があった場所はココですよ!」と。


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2014年6月7日土曜日

俺は部落のモンじゃ!(トラブル再び)【生立ち編-26】

前回の「生い立ち編」は、私が高校に受かり
高校生活をスタートさせるところまで
お話をいたしました。

今日は、高校へ入学してからの部落の思い出です。
当時、多くの公立高校がそうであったように、
私の地域でも高校へは「通学圏制」が導入されておりまして、
ここの地区は「○○高校」と、強制的に決まっておりました。
そんなわけで、中学時代には通学圏に
部落を含む“同和指定校”でしたが、
高校は通学圏に、部落を含まない高校でした。
なので、自ずと部落に関する思い出は
中学校時代よりかなり少ないですね。

そんな中でも、今でも覚えている出来事の一つが、
またもや、部落民とのトラブルだったわけです。

高校2年ぐらいの時だったと思います。
友人数人と自転車での帰宅中、
後ろから「邪魔じゃ!どかんか!」と声が聞こえました。

突然のことでしたので、私も反射的に振り返るやいなや
「なんじゃい!ワレ!文句あんのか!」となったわけです。

見ると、年の頃なら私達と同じ位の少年で、
自転車に乗り、白衣を着ていました。
格好から飲食店の従業員であることは間違いありません。
その白衣少年が・・・
「ワシはS部落のモンじゃ!文句あるんか!」
と、このような事を言うではありませんか。

部落の名前を出せば、
何でも通る時代でもありましたから、
私達が引き下がると思ったのでしょうか?
S部落は、この市内では最も大きな部落で、
人口も多く改良住宅も沢山建っていました。

私は、とっさに「S部落がなんぼのもんじゃい!、
そんなん全然怖ないわ!そんなもんでビビるかい!」
と返しました。

傍に居た友人たちはこのやりとりを聞いて
「唖然」としていました。と言うか、
完全に白衣少年に呑まれていたようです。

この後、同様のやりとりがあって
少年は「覚えとけ!」と言って立ち去りました。
去り際に私は、「そこのH高校のモンじゃ!
いつでも来んかい!」などと言ったものですから、
白衣少年に取っては怒り心頭だったことでしょう。

その時の心境を、私は今でも覚えていますが、
「イザとなったら、中学の時の部落の先輩に
話をつけてもらったらいいや!」と考えていました。
この点では、私は部落を嫌っておきながら、
完全に頼っていた。
普段は距離を置いていたいのに、事が起こると
近づいて解決してもらう・・・
矛盾ですね。当時の私は都合が良すぎました。

そんなことがあった次の日。
私は、授業を昼前にフケ(いなくなって)て、
喫茶店か自宅へ帰ったと思います。
とにかく、その日は下校時間まで学校には居なかった。

翌日、友人が血相を変えてやってきて
私にこう言いました「こないだの奴、族車2台で校門につけてたぞ!」
そして、一人ひとりチエックしていたと言うのです。
(族車=暴走族の車)

私は、「お前大丈夫やったんか?」。
友人は、「俺はなんともなかったけど、
シンちゃんの事探してたみたいや」。
私「族車2台か!」
友人「フイルム貼ってたしよくわからんけど、5~6人はおったやろなぁ」
私「5~6人?そりゃヤバかった。命拾いや!」

そんなこんなでしたが、彼らも暇ではなかったのでしょう。
その日には現れることなく、それ以降も来ることはありませんでした。

ケンカ売る方も「部落じゃ!」
買う方も「部落がナンボのモンじゃ!」

部落、部落って・・・
こんなやり取りがまかり通った時代。
これでは、差別がいくらたっても無くなる訳がありません。
繰り返し、この場を借りて言いますが、
差別からの真の解放は、差別する方・される方お互いの“努力”が
あってこそ実現します。
そして、お互いの“理解”があってこそ実現するものなのです。

部落民は部落のアイデンティティを「脅し」という形で
持つのではなく、真の解放のために持つべきです。
一方、我々は部落=コワイ・ヤヤコシイではなく、
本当にに怖いのか? 本当にヤヤコシイのか?
イメージや風評、周りからの言い伝えではなく、
部落についての正しい理解と認識を持たねばなりません。

かつて、差別者として部落を、
そして部落民を忌み嫌った私がそうであったように、
皆様も部落が好きになれる日が来るように。
部落が好きな方はより一層好きになれるように・・・。
私はこれからも書き綴って行きます。
「この世から差別がなくなるように」との願いを込め、
私の拙いブログではありますが、
お読みいただければ幸いでございます。 



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2014年6月2日月曜日

同和関連施設:学習センター

被差別部落にもいくつかの形がありますが、
現在最も多いのが、「同和地区」と呼ばれる形の部落です。
これは、過去、国の法律に基づいて行政が地区指定した部落です。
行政により地区指定された部落は「同和地区」と呼ばれ、
多くの施策や施設の建設が行われた訳です。
ただし、2002年に同和法が完全終了してからは、
実情はともかく、国や行政の見方としては、
同和問題は解決した事になっています。
今日のお話は、そんな時代に作られた同和施設
「学習センター」についてお話します。

学習センターとは、文字どおり「部落内の学習施設」なのですが、
地域によっては、「教育集会所」「教育会館」「学習室」などと
呼ぶところもありますし、独立した建物がない所や
比較的小さな部落では、隣保館内に「学習室」を
設けるところもありました。

当地域の学習センター、というよりも、
一般的な同和学習施設の役割は、
すなわち部落児童の学力向上のためでした。
この様な取り組みは、独立した学習施設が
設けられる前から、各部落で任意に行われてきました。

法律制定前の多くの部落では、非常に貧困かつ劣悪な環境で、
勉強どころではありませんでした。
子どもといえども、大切な働き手の一人であった訳です。
それに、たとえ学校へ行っても今度は学校での「差別」がある。
とてもとても勉強する環境ではありません。

しかし、一部の融和団体や教師達は、
部落の貧困や差別の原因は、
「学力の無さ」にも大きな要因があると考え、
今で言う「ボランティア」のような形で
部落内の児童に勉強を教えてたそうです。

やがて、時代が移り、同和法が制定される頃には、
今度は、一般地区より「非行の多さや進学率の低さ」が
問題となり、学習施設もその役割を大きく変えていきます。

それが、「同和学習施設の進学塾化」 になっていきます。
ただ、街にある進学塾と大きく異なる点は、
塾講師を“同和指定校の教職員が務める”ことにありました。
つまり、昼間は学校で教鞭をとっていた教師が、
夜には同和地区の学習施設へ出向き、
「部落児童」だけに勉強を教えるわけです。

また、一方で、これまで勉強する機会に恵まれず、
字もロクに読めない方々への「識字学級」も
同時に行われるようになりました。
今では、「字が読めない!」なんて方は少ないでしょうが、
おじいさんおばあさん、とりわけ部落民は字が読めない方も
未だに多くおられます。

大阪の人権博物館だったか、
奈良の水平社博物館だったか忘れましたが、
そこに、識字学級で大人になってから
字を覚えた方の作文が展示されています。
そこには、私達には当たり前過ぎて気づいていない、
「字を書くこと、読むことの」喜びが満ち溢れた
文章が綴られています。

この様な、同和学習施設ですが、
同和法の終結とともに、その役割を部落民だけから、
一般地区民へ対象を広げていきました。
そこには、部落内の施設で部落子弟と一般子弟が
共に学ぶ姿があったことでしょう。

その後、数年の経過期間を経て、
現在、この様な学習施設は行政により
廃止されその役目を終えることになりました。

幸い、現在の同和地区児童の学力・進学率は
一般地区と変わりないほど向上しています。
これは、生活環境や地区住民(生徒自身も)の
意識の変化があげられるでしょうが、
しかし、その陰には「同和学習施設」が
大きな役割を担っていたことも忘れることが出来ません。


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