~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2015年4月19日日曜日

被差別部落と学校の歴史:その2

さて、ここの所、本業等が忙しく、中々更新ができず申し訳ございませんm(_ _)m
ファンの方々の声も頂いており、嬉しい限りです。
頑張って更新いたしますので、これからもよろしくお願い致します。
さて、今日は被差別部落と学校の歴史:その2です。
では、どうぞ。

》》昭和~同和関連法施行時代

さて、貧困や、差別により学校へ満足に通えなかった部落の子達は、
大正に入り、水平社の登場により、学校へ通える下地はできつつありました。
水平社は、教師や生徒からの差別事例に対し、一つ一つ「糾弾」と言う形で、
差別の解消に取り組みました。

水平社設立からしばらくすると、水平社内での対立や意見の相違が表面化し、
段々と、過激になるグループも現れるようになりました。
それらのグループでは、糾弾が高じ、中には、
直接的な武力闘争へ発展することもありました。
この頃には、西光万吉や南梅吉と言った水平社創設メンバーの意思とは、
大きくかけ離れ、水平社は彼らの理想とは全く違った道を歩み始めます。
そして、創設メンバーの手に負えなくなった水平社は、やがて分裂し、
初期メンバーの殆どが水平社を後にすることになります。

そのような時代背景でしたが、教育現場でのあからさまな差別は
少なくなりつつあったのですが、まだまだ貧困によって学校へ
行けない状況は続いていました。

また、部落の親や周りの者も、「教育の重要性」という事に無関心な時代でもありました。

『はぁ、学校?・・・何寝ぼけたこと言うてんねん。勉強なんかで飯が食えるか!
そんなもん言うてるヒマあったら、早う仕事手伝わんか!!』

『アホかぁ~。学校なんかでてもなぁ、俺らの仕事は決まっとるんじゃ!
なんぼ勉強しても貧乏からは、抜けられんのじゃ!』

あるいは・・・
『あんたとこ、学校なんか行かしとるんやて?ムラのモン皆して笑うてんで!
あそこの家は変わりモンやって。悪いことはいわんから、学校行かすの止めなはれ」

なんて、こんな感じだったようです。

昭和なんて、部落にかぎらず貧困なんて当たり前の時代。
それに戦争が拍車をかけます。
皆がろくに学校なんて行けなかったのですが、
それでも、部落の教育水準の低さは、際立っていました。
なんせ、親達もろくに学校へ行っていないのですから、
「教育の重要を理解せよ」という方が、どだい無理な話です。
それよりも、手に職をつける事を優先されたのが、
部落の“教育”でありました。

それから時代が過ぎ、終戦を迎え日本も戦後復興&高度成長を迎えると、
部落内の仕事も多様化していきます。
例えば、皮革業でも、外部の会社との取引が生まれる。
「スギムラさん。コレ企画書です。この様に加工お願いします」
なんて、注文が来るわけです。
そうすると、「なんや、俺。字も読めんやんか!」なんて事が至るところで起こるわけです。
このころから、教育の重要性というものが、部落内でも認識されるようになってきました。

また、部落が差別される理由として「勉強ができひんから、いい職にも付けへん。そやから、
いつまでたっても貧乏から抜けだせず差別されるんや!」という考え方うまれ、
部落内でも教育の重要性が部落解消につながるという認識に変わりました。

===============
余談ですが、差別によって学校へ通えなかった方々に対して、
数十年前から「識字学級」という取り組みも行われております。
大阪の人権博物館か、奈良の水平社博物館でしたでしょうか?
若しくは、その両方かもしれませんが、そこでの展示で、
識字学級で字をマスターした方々の作文が展示されており、
手にとって読むことが出来ます。
皆さん年配方ですが、それはもう真剣に取り組まれ、
文面からは、字を書くこと&読むことの楽しみや希望が、いきいきと読み取れます。
==================

それから、四半世紀。
部落の就学率を劇的に上げたのは、昭和44年の同和対策事業特別処置法の施行です。
改良住宅が建てられ、部落内が整備されると、
自ずと学校へ行くムード(心の余裕)が生まれる。

狭い長屋~1件に数家族・大人数が同居するような~の殺伐とした暮らしから一転。
子供部屋も確保された改良住宅では、今までとは、全く違う生活が営まれることとなりました。
それは、学業だけでなく、憲法25条にも書かれているように、
「健康で文化的な最低限度の生活」つまり、最低限の普通の生活が
やっと得られた瞬間でもありました。

辛くて逃げ出したくなるような、暗くジメジメした路地の生活。
これからは、明るく陽の光が差し込む部屋での暮らし。
活力が湧かないわけがありません。

しかし、次の時代。
部落の子弟は、新たな時代に入っていきます。

次回、被差別部落と学校の歴史:その3をお楽しみに。

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2015年4月1日水曜日

被差別部落と学校の歴史:その1

ここの所、スッカリ春の陽気で、桜も一気に開花って言う感じでしょうか?

今年の冬は、本当に厳しく長い冬でした。
異常気象による積雪被害も各地で見られましたが、被害にあわれた皆様には、
心からお見舞い申し上げますm(_ _)m

さて、もうすぐ入学式ですね。
昨日の、「部落の受験シーズン」に関連して、今日は、「被差別部落と学校の歴史」と言うことで、
少し話をさせていただこうと思います。

今日の、被差別部落では、一般地区と何ら変わらない就学率・進学率を誇っておりますが、
ここに来るまでには、非常に苦難の道程であったと言わざるおえません。

今回は、被差別部落と学校の歴史というお題なのですが、余りにも幅が広く、
私も、文章に起こそうとしても、散漫になってしまい、上手く書くことが出来ませんでした。
そこで、今日は、以下のように、「時代を区切って」書いてみようと思います。

1,幕末~明治~水平社時代
2,昭和~同和関連法律施行時代
3,闘争時代
4,現在

==============

》》1,幕末~明治~水平社時代

約300年続いた江戸幕府も、最後の将軍「徳川慶喜」の大政奉還により、明治新政府へ。
それにより、同じく固定化されていた身分制度も制度上は消滅しました。
所謂、『解放令』です。

明治4年に発令された『解放令』は、実は通称。
正しくは、「穢多・非人の称を廃す」という太政官布告なのですが、『解放令』の方が一般的で、
通りがいいので、このブログでも『解放令』を用いることとします。

解放令が発令され、制度上、国家による「差別」は、なくなりました。
しかし、無くなったのは、「エタ」と言う名称だけではありませんでした。
彼らは、製革業や警察業務などの数々の「職業的特権」を持っておりました。
穢多身分の者しか持ち得なかったこの職業的特権により、
江戸時代の穢多達の生活水準は、決して低くなかったことが分かっています。
いや、むしろ、「年貢」で苦しめられる農民よりも、身分的には差別されるが、
生活的には裕福であったのです。

例えば、時代劇や映画で、百姓たちが貧乏で、今日食べるものにも困っているシーンを
度々目にしますが、年貢に追われ日々の生活が立ち行かない農民たちを尻目に、
穢多身分の者は、日常的に牛や馬の肉を食べていたことでも良くわかります。

しかし、明治政府発足により、この特権も失われることになります。
この後、部落民達の生活は一変。
たちまち、貧困が彼らに襲い掛かりました。

解放令が出されたのはいいのですが、差別の実態は変わらず、
“名称”だけ解放された部落民達は、
(実際には、新平民と呼び方を変えられただけで、差別は続いていたのです)
被差別身分からの解放を諸手を上げて喜ぶことも出来なかったのが実情です。

このような貧困の中、今日の近代学校教育がスタートするわけですが、
部落民達は、「学校へ行きたくても行けない、又、学校へ行きたくない」状況が
長く続くこととなります。

「学校へ行くことなんぞもってのほか!そんな暇があったら家の手伝いせぇ!」と言う親。
「はぁ?学校へ行かす?あんたとこは変わっとるなぁ」と言う同じ部落の隣人。
「エタの子!エタの子!」と言う同級生。
「お前んとこは貧乏やからなぁ!」と皆の前で笑いものにして言う教師。
「俺は、もう学校へ行きとうない」と言う部落の子・・・etc
いろいろな事情が子供達を、そして部落を取り巻きます。

ただ、この様な貧困・劣悪な生活を極めた明治時代ですが、
いくつかの地域では、教育の重要性を認識する地域の篤志家、又、
地域住民有志でお金を出し合い、部落民が通う為の「学校」を建設する動きも見られます。

また、当時は、融和運動が盛んでしたので、部落外の運動家が、
子供たちを学校へ通わせる活動をしていました。
しかし、まだまだ、学校へ通える子供たちは極々一部で、
そのほとんどが、前途したような理由で、学校へ通うことが出来ませんでした。

これは、本当に近年まで続く悪しき伝統で、今でも高齢の方は“文字”さえも、
十分に読み書きすることが出来ない方が多いのです。

明治時代は、一貫して子供たちを学校へ通わせるための下準備的な時代でしたが、
まだまだ、現実に学校へ通える状態ではありませんでした。

部落出身の女性解放家であり、作家でもある住井すゑさんの
有名な部落小説「橋のない川」。
明治~大正初期の被差別部落に暮らす少年の成長をテーマにした、長編小説ですが、
その中に、未だに私の心に残る、とても切ない描写があります。

主人公「畑中孝二」は、奈良県の部落(実在の奈良県K部落がモデルと言われている)に
住む高等小学生。
修学旅行で京都へ行った時のことだ。
クラスの修学旅行リーダーに任命され、これまで受けてきた差別にも負けず、
気丈にリーダーを務めるが、事件は夜起こった。

孝二は、一般地区の同級生3人と計4人で相部屋で寝ることになったのだが、
消灯前、一般地区の子達は、「連ションや~!」といって、次々に部屋を出てしまう。
10分・・・30分・・・。
孝二は、一人ポツンと部屋で待っている。
消灯時間はとっくに過ぎたが、「もしかしたら、他部屋の生徒に捕まって戻ってこれないのかも。
自分一人先に寝てしまっては悪い」と、プラス思考の反面、フッと嫌な予感がよぎる。
そして遂に、同級生たちは戻ってくることがなく、孝二は一人朝を迎えることになる。

スイマセン。
自分でこれを書いていて、今、私は目頭が熱くなっています。
涙がこぼれそうです。
部落出身者ではなく、部落差別も経験したことがない私でも、
その光景を思い浮かべ、泣きそうになる。
すごい小説です。「橋のない川」。

仮に、学校へ行けたとしても、あらゆる差別が待っている。
それは、同級生からであり、教師からであり、保護者からである。
この様な、学校での不当な差別に対し、対抗する手段を持たない部落の子供たちは、
次第に、学校へ行く気力を失っていくのです。

このような状況を打破し、部落の子供達が、学校での不当な差別を受けずに通える
(と、言っても、貧困その他の家庭の事情で通えない子達が大半でしたが)ようになるには、
大正11年の全国水平社の誕生を待つしかありませんでした。

水平社は、これまでの「部落が差別されるのは自分たちの生活環境や風紀の乱れによるもの。
自分達が努力して、生活改善を行なわければならない」との考え(融和思想)からの脱却、
「差別の原因は差別する者にある」と言う糾弾主義で部落解放運動の礎を築きました。

水平社の誕生は、部落の生活向上に大きな恩恵をもたらしたことは、
紛れも無い事実であり、又、その運動により、『入会権や祭りへの除外』等々の直接的差別は、
圧倒的に少なくなっていきますが、残念ながら、それは、差別が影に隠れただけでした。

水平社誕生から、約100年。
未だに差別が残っているのは悲しい限りですが、
就学率・進学率が、一般地区と変わらなくなったことについては、
今回のテーマの主眼として書いておかなければなりません。

【次回は、被差別部落と学校の歴史:その2です】
お楽しみに。

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