~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年4月27日日曜日

親父さんはヤクザ(生立ち編-22)

さて、前回の続き。
部落・改良住宅の同級生宅へ
おじゃました時のことです。

おじゃました改良住宅の一室に、
男性2名がいた事は、先日の記事で書きましたが、
1名は40台位の中年、もう1名はその方より少し若い感じでした。
どうやら、40代のほうが、同級生の親父さんのようでした。
部屋へ上がると、友人はその方々の紹介もしないので、
仕方なく、私からあいさつすることにしましたが、
なんとなく、雰囲気が悪いのです。

なんと言いましょうか?
一見して、「普通じゃないな」と言う感じが、
ひしひしと伝わってきました。
とりあえず、「コンニチワ」と挨拶をしましたが、
男性は、チラリとコチラを見ただけで、
まるで無視。

少し居心地の悪さを感じながらの滞在でしたが、
時間にして30分もおらずに、外へ出たと思います。
後日、事情に詳しい別の友人から、
彼の父親は極道。つまりヤクザであることを
聞きました。
そのとき、あの日の対応が、
普通ではなかった理由が理解出来ました。

ヤクザ映画を見てもしかり、
愛想のいいヤクザなんて登場しませんものね。
多くは、寡黙で無愛想。
とにかく、極道と云うものは、男を売る世界ですから、
そう軽々しくしてはいけません。

そういう意味でも、一度しか会っていませんが、
彼の父親は、渡世を地で行くような方でした。
もう一人の若い方は、親父さんの子分なのか、
舎弟なのでしょうね。

いまから、十数年前に、
風のたよりで彼の父親(ヤクザ)が、
タクシーの運転手をしているという話を聞きました。
稼業から足を洗ったのか、それとも
渡世人のまま運転手になったのかは分かりません。

ただ、現在、全ての自治体条例で、
公営住宅への暴力団(ヤクザ)の入居は出来ません。
というわけで、今、彼らが、あのままあの改良住宅に
住んでいるのかどうか?
私には知るすべがありません。


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2014年4月20日日曜日

部落の同級生宅(生立ち編-21)

先日、「生い立ち編」の中で
隣保館に連れて行ってくれた同級生の話の続きです。

彼の家は、その部落の改良住宅の中でも
比較的新しく建てらてた内の1棟で、
縦横に走る大きな通りの角地に、L字型に建てられていました。
部落の改良住宅が、あたかも大きな壁のように、
外界との接触を避けているような建て方に、
中学生の頃の私は「部落民以外は入ってはいけない場所!!」
の様な感じがしてなりませんでした。

本当に、部落(同和地区)の建物は、
部落を囲むような建て方をしているので、
各所の部落を見るたびに、「もう少しオープンな建て方は出来んのかな?」
と思ってしまいます。
役所仕事って云うものが、そう言うものかもしれませんが・・・。
何と言いますか、風通しがいいと言いましょうか?
気軽に出入り出来る雰囲気と言いましょうか?
そう言う、建て方・街作りが出来ないものかと。

私の義母の部落に至っては、
「団地内に付、通りぬけご遠慮願います」みたいな
旨が書いてあるもんですから、
地区外の人が、尚更近寄りがたい存在になっているのでは
無いかと懸念しております。

「寝た子を起こすな」という考えも部落には未だ多いですが、
私個人としては、もっとオープンな交流があっていいと思います。
「部落」を隠すことなく、「部落」とは何なのか?を知ってもらい、
その上で、互いにわだかまりなく付き合いを していくことが、
真の部落解放につながっていくと思います。

「君はどこの出身ですか?」
「私は、東京出身です」
「あぁ、東京ですか!私は大阪です」
この会話に違和感がないように、
「君はどこの出身ですか?」
「私は○○部落の出身です」
「あぁ、○○部落ですか!」
と、違和感なく言えるようになっていきたいですし、
なっていくと信じています。

でも、その為にも部落のことを、
皆さんにも知っていただきたい。
それと、同時に部落の方々にも、
打ち解けあえる努力をしていただきたいです。

正直、部落の方々も、閉鎖的な部分は多いです。
どうしても、「中と外」と言う意識になってしまう。
この意識は、やはり、若者よりも年配の方々に多いですね。
今の、50代から下の世代は、
その様な意識は少なくなっていると思います。

年配の方々は、劣悪な環境で暮らし、
直接的な差別を経験された方も多く、
どうしても、閉鎖的になってしまわれるのも
やむおえないかもしれませんが、
差別を本気でなくすのであれば、
一般人と部落民、双方に努力が
いるのではないでしょうか。

そういう意味でも、現在多くの地区で、
一般人の改良住宅の入居募集や、
同和保育所の入所、隣保館の一般開放が
行われていることは、凄くいいことだと思います。

話がそれてしまいましたが、
くだんの同級生の家は、5階建て改良住宅の
最上階、5階の一室でした。
彼の棟は前途した通り、比較的新しかったため
未だ手を加えられておりませんでしたが、
その他の棟では、風呂が無いために、
ベランダ部分を増築して風呂を作ったり、
部屋を作ったりした、いわゆる出家(でや)がありました。

出家で有名なのは、今は取り壊された
大阪の「軍艦アパート」ですが、
そこまで大きくなくとも、各部落ではそのような
光景が多く見られました。

ちなみに、私の妻宅も旧棟に住んでいた時は、
ベランダに風呂を増築していたそうです。
妻の出身部落は、大きな部落でしたので、
公営浴場(部落民は市風呂と呼んでいます)までの
距離が遠い。
地区には年寄りも多いので、
その距離もつらいものがあったのです。
ちなみに、増築費用は各個人持ちで、
各々が工務店を手配して増築していたようです。
公営住宅の規約では、
増築は出来ないことになっているのですが、
行政も、そのあたりの事情はわかっているので、
各個人負担ということで容認しておりました。

おっと・・・
また、話がそれてしまいそうになりました。
どうも、書き始めると、あれもこれもという風に
書きたくなってしまします。
いけませんねぇ。

話を戻すと、
彼の家は、5階建ての最上階。
エレベーターはありませんでした。
劣悪な不良住宅時代から比べると
天と地程の差があり、住み良くなった
住宅ですが、それでも、エレベーター無しで
5階まで上がり降りするのは、
結構キツイと思います。

今は、耐用年数を過ぎた住宅が
新しく建て替えられ、ほとんどの住宅で
エレベーターが設置されるようになりましたが、
未だにこの様な旧棟は、各地区多く残っております。

室内も、新築に程近い棟なので、
かなりキレイでした。
入って、直ぐに小さな玄関(靴脱場)があり、
そこが、5~6畳ほどの台所でした。
トイレも近くにあったと思います。
そして、その奥に6畳と4畳半(どちらもうろ覚えの推定)
の2部屋ありました。
部屋に隣接して、洗濯機を置けるようになった
室内状のベランダがありました。

その時代の改良住宅のほとんどが、
その様な作りではなかったかと思います。
少なくとも、この市内では、
同じ仕様で建てられていたはずです。

室内は、キレイでしたね。
殆ど物がなかった記憶があります。
部落の人は、「整理整頓をしない!」
「部屋がキタナイ !」何て事を耳にしますが、
決してそんなことはありません。
キタナイ家もあるし、キレイな家もある。
その点は、一般地区と同じじゃないでしょうか。

家には、母親と、男性が2人おられました。
母親は、金髪でした。
今では、茶髪金髪は当たり前ですが、
当時は、金髪=不良と相場が決まっていたわけで、
それが、年の頃なら30後半~40代のお母さんが
金髪なのには、これはかなり違和感がありました。
衝撃的でしたね。
「やっぱり、部落は違う!」と思ったものです。
一方、男性のほうは、一人は父親のようでしたが、
もう一人は、若かったです。

この後、この家族を巡って、
もう一つの「衝撃」が走る事になるのですが、
それは、又、次回に。



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2014年4月14日月曜日

部落の隣保館とは?

前回は、私が中学3年の時に、
初めて同和地区の隣保館に行った時の事をお話しました。

また、その前の回では、部落と同和地区の
違いをお話しましたが、同和地区には、
同和施策によって作られた、数々の施設があります。

その中でも中心的な役割を果たしていたのが隣保館です。
隣保館自体は、国を挙げて同和施策を行う事を制定した
「同和対策事業特別措置法」(S44年・10年間の時限立法)
以前にも、融和事業等と呼ばれて存在していた部落もありますが、
多くは、法律が制定されてからの同和施策として設けられました。

その後、同和関連の法律は、名を変えながら3度の更新を行い、
平成14年に完全終了いたしました。
これにより、法律的には同和問題は
解決したことになっていますが、実際は(?_?)ですよね。

終了にともなって、地方自治体も国に追随します。
追随というのは、同和問題の終了を表しているのですが、
それまで、部落民のためだけに存在していた隣保館を、
他地域の人達にも開放するようになりました。
現在は、隣保館内の各部屋や体育館を、
地区外の人にも、会議や運動サークル、
文化活動などに有料で使用できるようにしています。

これは、法律が終了したこともありますが、
一般地区の方々の意見も多分に含まれた結果だと思われます。

「部落民は、長い間差別されてきたが、法律が施行されてからは、
税金で部落内が整備され、各種の補助金が交付される。
これは、逆差別じゃないか!」というわけです。


部落解放同盟が行ってきた運動によって、
部落の生活が大きく改善したことは、
最大級の評価を送ることが出来ます。

しかし、残念ながらその反面、
ごく一部の同盟員や幹部(ホントに一部です!!)の方々に於いては、
行政との癒着や利権がありました。
そのようなことから、日本共産党や反解放同盟、
又、一般地区の方々から、
同和優遇是正の声が上がりました。

兎にも角にも、現在においては、
隣保館を始め、部落内の各施設は一般にも開放されています。
特に、かつて「同和保育所」と呼ばれた部落内の保育所は
一般の児童も受け入れる事により、
待機児童の解消にも一役買っています。

◎さて、隣保館の本来の目的とは何でしょうか?

被差別部落は、長きに渡り劣悪な環境と
謂れ無き差別に苦しんできました。

老朽化して今にも倒れそうな傾いた家。
窓も玄関も有って無いような家。
一部屋に親兄弟・親戚縁者が「おしくらまんじゅう」。
朝には行列ができる屋外の共同便所。
雨が降れば、その便所に行くことも困難で、傘をさして用をたす。
大雨が降れば便所が溢れ、共同井戸に流れ込む。
裏山の土砂が崩れたり、向かいの川の水が迫る。

通りの向こうは近代化、こっちは未だに老朽化。
祭りなど、地域の行事に締め出される。
部落民を隠して生きる。

憲法第25条が謳う
「健康で文化的」な生活とは程遠い暮らしでした。
地区によっては、住民や福祉団体によって任意で
「隣保館様」の施設が作られたところもありますが、
行政や国が本格的に隣保館の建設を始めたのは戦後。
日本国憲法が制定され、「福祉の重要性」が
声高に訴えられ始められた頃からでした。

多くの地区では、改良住宅や他の施設に先立って
隣保館が先行で建設されていきました。

今、私の手元に、A市の解放センターで行われた
「部落史講座」(2012年・A市解放センター編:非売品)の
講演録があります。

そこには、A市某部落の1951年当時の
地区写真が数カット掲載されています。
その一枚が、隣保館と部落の写真です。
「老朽化した不良住宅群の中に、鉄筋コンクリートの隣保館」
と言う具合に、改良住宅が整備されるまでの間は、
少し違和感がある状態で建っていたようです。

本題に戻ります。
隣保館は、先にも記した通り、劣悪な暮らしを
「改善もしくは軽減」する目的で建てられました。
具体的には、地域住民からの各種相談、保健衛生、
、社会福祉、文化活動、就職あっせん、教育や学習などです。

その後、部落解放運動が隆盛を極める頃には、
隣保館(地区によっては解放会館や解放センター)が
部落解放同盟の拠点となっていきました。
支部集会や勉強会が行われ、時には糾弾会の場になるなど、
隣保館の役割も変わっていきました。

また、行政が制定する条例には、

「隣保館は住民の苦情に対し善処する」旨が明記されており、
隣保館が地域の「雑用係・トラブル処理係」のような役割を
担っていました。

例えば、同和施策に反対する著者が記した本には、
ある部落の隣保館の実情が記されております。
その内容を要約すると・・・
「自分がいつも駐車している道路(駐車場ではなく道路です!)に、
他人の車が停まっている。何とかしろ!」と
隣保館に苦情を言ってきたというのです。
同和施策に反対する著者が記した本ですので、多少の誇張が
あるかもしれませんが、概ねこんな感じだっただろう事は、
我が嫁も申しておりました。

(ちなみに、私は著者の主義主張に関係なく、
部落関連書物は読むことにしております。
なので同和行政や、時には「同和地区」自体を批判する書物も、
別け隔てなく読むように心がけております。)

部落関連の法律の終了とともに、その役目を終えた隣保館は今、
部落解放同盟の支部も隣保館から移転し、
多くの地域で文化センター・コミュニティセンター・
ふれあい会館などと名前を変え、一般市民にも開放されております。


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2014年4月9日水曜日

初めての同和隣保館訪問(生立ち編-20)

我々の同級生には、男性3名と女性4名の合計7名が
同和地区から通学していました。
中学2年の時、その内の一人の部落民同級生とトラブルがあったことは、
以前「生い立ち編」にて紹介いたしました。

やがて、中学3年になり、組み替えで同じクラスになったのは、
部落民男性生徒3人の内の一人でした。
よく、「部落民は集団で固まる」なんて言いますが、
中学の同級生は、その限りではなかったようです。
むしろ、各々バラバラの傾向が強かったです。
それぞれが、地区外の生徒とも友達付き合いをしていました。

部落への偏見は未だある上に、
部落民とのトラブル・・・
部落民との付き合いは気が進みませんが、
仲良くしていた友人の友人ということで、
数度、部落内の彼の改良住宅へも行きました。

改良住宅へ行くのは、前回トラブルを起こした同級生以来。
20戸×6~7棟程の小さな部落でしたが、
トラブルの同級生と棟は違いました。

しかし、前回の彼の時は、その棟の自宅だけでしたが、
今回は、かなり部落内をウロウロしました。

市営浴場・保育所・保健センター・学習センター
・立派な遊具がある公園、そして、隣保館など・・・
部落住民には見慣れた光景かもしれませんが、
私には、全く異質の光景に感じました。

それらの施設を実際に見たことで、
本当に「来てはいけない場所」へ
足を踏み入れた感覚さえ覚えました。

それほどまでに、なんとも言えない威圧感がありました。

そして、ナゼか知らないけど、
その彼は、用もないのに我々を隣保館へ連れて行き、
そして、館内に招き入れました。

本当に、ナゼかわからないのです。
つまり、彼にとっては、
隣保館へ出入りすること自体が、
何気ない自然なことなのです。
いや、彼だけではなく、部落住民全体が
その様な感覚だったと思います。

ただ、私にとっては、やはり、
「えっ?入っていいの?何しに?」ていう感じでした。

玄関で靴を脱ぎ、階段を上がった覚えがあります。
館内はジュウタン敷で、玄関脇に事務室があって
職員さんが居たような気がします。
滞在時間はそんなに長くなかったと思います。

なんせ、随分昔のことなのでほとんど覚えていないのですが、
断片的な記憶をつなぎつなぎ書いています。

隣保館・・・
それは、同和施設の中核をなす施設です。
隣保館については、紙面がいくつあっても足りません。
詳細は、以降に回すとして、今日はこの辺で終わらせていただきます。


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2014年4月4日金曜日

被差別部落と同和地区の話

部落と同和は、現在ではほぼ同じ意味で使われています。
もちろん間違いではありませんが、
厳密に言うと、かなりの違いが有ります。

そもそも、「部落」の定義が曖昧な部分も多くて、
都市型部落のように明確に「部落」と定義できる場所以外に、
農村にあるような小さな地区では、
本来は部落ではないのですが、
慣例として差別されているような場所もあります。

また、古い事件では、大分別府の「的ヶ浜焼き討ち事件」などでは、
一般的には、部落とサンカが混同されていました。

部落の定義が曖昧なのに、さらに、部落と同和の
違いというのは、少々乱暴な気がしますが、
私ながらの見解を述べさせていただきます。

これには、先に「同和」を説明したほうが早いと思います。

◎同和(同和地区・地区指定部落)
実は、同和と言うのは、行政用語なのです。
つまり、行政が「部落」の中でも、「ここは同和地区です」と
認定された地区が、同和地区なのです。
2002年に「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が
期限切れを迎えた今、厳密には、同和地区は「0」と
いうことになっています。
つまり、政府や行政の見解では、
同和問題は既に解消されたとしているのです。
結婚やインターネットでの差別は未だに残っているのにですよ。

全国に4533地区ある同和地区では、これまでに数々の同和施策が行なわれ、
地区住民の生活はかなりの改善を見ることが出来ました。
憲法第25条にあるように
「・すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
が実践されてきたことは、大きく評価することが出来ます。

ただし、地区指定を受けるには、
解放同盟の支部を結成し、
行政の認定を受けなければなりませんでした。
よって、地区指定を受けずに(もしくは受けられず)に
存在する被差別部落も有ります。

未指定地区未解放部落
全国に1000地区ほど存在しているようなのですが、
行政の資料にも挙がってこないため、詳細はわからないようです。
同和地区指定にならなかった(なれなかった)部落は、
現在も、劣悪な環境な中で暮らされている方も多いようです。

反対に、地区指定を受けなかったため、現在では
消滅してしまった「部落」もあります。
つまり、地区外から一般人が流入してきて混在、
そして、時の流れとともに、一般地区として既成事実化するわけです。
周りの人も、現在住んでいる住民も「部落」であったことを知らない。
知っている「長老」達は、徐々に他界する・・・。
このような図式です。
つまり、人の出入りが激しいのです。
反対に、いわゆる同和地区では、人の出入りは極端に少ないですね。
地区外に出る人は多くても、地区に入ってくる人はかなり少ない。
当市でも、ここ数年は、地区外の方も改良住宅へ入居出来るように
なっているのですが、やはり敬遠されるのでしょうかねぇ?

◎地区指定を受けなかった(受けれなかった)理由
これは、その部落によって様々ですので、
私の分かる範囲で記載したいと思います。

・地区人口が少ない。
都市部落では、住民1000人超と言う地域も
ありますが、農村や山間では地区戸数が5戸とか6戸などと言う
極小の地区もあります。
そのため、解放同盟の結成や運動ができないと言う地区もありました。

・比較的裕福
産業や、農業がさかんであり、部落ではあるが、
経済的に余裕のある地区では、地区指定は受けなかったようです。

・「寝た子を起こすな」
地区住民の中には、事を荒立てて新たな差別につながるより、
今のままでいいから、そっとしておいて欲しいと言う
方が多い地区もありました。
その様な地区では、解放同盟も組織されず、地区指定も行われませんでした。

・政治的対立
解放同盟に対立する共産党系の住民が多い地域では、
部落内で政治闘争が起きたようです。
村を二分する過激な対立もあったようですが、
結果的に共産党の強い地区では、
同和行政を受けない方向へ向かっていったようです。

・顔役(部落のドン)の存在
部落だけではないですが、地区には必ず顔役がいるでしょう。
その顔役=ドンが、地区の存在を左右する事が有りました。
地区住民は、ドンの存在には逆らえず、
地区指定を受けられない原因でありました。

こんなところでしょうか?
実際は、私の知り得ない理由が、まだまだあるでしょうね。
いずれにせよ、現在の未指定地区の状況については、
部落のあり方も、2つに分かれていると言ってもいいでしょう。

ひとつは、未だに劣悪な環境で暮らし、差別に苦しんでいる
未指定地区の方々。
もう一つは、「部落」が解消されてしまった地区。

しかし、皮肉なことに、同和施策が行われ、
いち早く部落解放が叫ばれた地域のほうが、
現在も差別が多いような気がします。
インターネットで晒されているのも、
この様な地区ばかりなのは残念です。
改良住宅や隣保館、福祉センターなどの
数々の行政施設が、「部落」のランドマーク になっていることは
紛れも無い事実なのです。

最後になりますが、
この事は、いずれ「生い立ち編」で詳しく書こうと思っていますが、


実は・・・
 
いやいや
これは、やはり・・・

後ほど書くことにいたしましょう。

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