~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年5月24日土曜日

勉強嫌い(学習塾と同和学習センター)【生立ち編-25】

中学生になっても私は、あいも変わらず勉強嫌いでした。
当然成績は悪く、かなりの落ちこぼれ状態でした。
小学校の頃は 、家庭訪問期間でもないのに、
私の素行や成績の悪さから、
頻繁に担任教師が自宅に家庭訪問しに来てましたが、
さすがに中学生になるとそれはなくなり、
幾分、気分的には楽でしたが、
成績はドンドン悪くなっておりました。

この頃になると周りの同級生からも、
「さすがに、高校ぐらいは出とかな!」と
いう声も聞こえてきましたし、
自分でもこれはヤバイ!と思い、
同級生が通っていた学習塾に 
口利きで入塾致しました。

とある理由で在籍期間が短く、あまり内情は分かりませんが、
個人経営の塾で、どうやら初老の夫婦が
2人で教えているようでした。
教科は数学と英語の2教科だったと記憶しております。

入塾初日。
教科は英語だったと思います。
そこで私は、大きな屈辱を受けました。

全くひどい話で、今でもきっと「生徒を商品としか
考えていないんだろうな」と思えることなのです。

それは、こういう事でした。

成績が悪いから入塾しているので、
当然、授業内容は「ちんぷんかんぷん」でした。
そんな中でそのオバサン教師は私に当てるわけです。

私は・・・。答えられない・・・・。

そんな私に、ひどい言葉を他の生徒の前で言うわけです。
「こんな簡単なんもわからんの?」みたいな。

明らかに人を馬鹿にしている対応が、
中学2年の私にもわかりました。
そんなやりとりが何度かあって
塾終了後に「学力が相当低く、現学年のクラスでは
やっていけない。2学年くらい下げなければならないが、
とりあえずは1学年下げたクラスでやってもらう!」
概ねこのような理由だったと記憶しております。

言っていることは、確かにその通りで、自分でも
認めますが、あまりにも人を馬鹿にした態度!で
言葉の節々に蔑みが見て取れました。
当然、私はその態度に我慢ならず
その日のうちに塾をやめました。
これが、「とある理由」の一部始終なのです。

その後、私は別の友人の紹介で、
在日韓国人の方が経営している塾に入りました。
この先生兼経営者の方は日本名は確か、
ありふれた苗字でしたが、塾の看板には
韓国(本名)名が掲げられていました。

荒っぽい先生で、「怒りすぎて長机を割った」と言う
逸話の持ち主ですが、教え方は良かったですね。
生徒を生徒として、そして一個人として見てくれました。
間違っても、以前の塾のように個人を攻撃する、
又誹謗中傷をするということはなかったです。
そして、そこで務める他の講師達も
同じく「アツい」先生方達でした。

そんな環境でしたから、わかるんです。
今まで、チンプンカンプンだった勉強がわかるんです。
そして・・・面白いんです。
理解できることが。
解けることが。
勉強ができなかった落ちこぼれでしたので、
初めての感覚でした。

数ヶ月で、なんとか低い偏差値の私立高校へ入れるくらいの
学力が付きました。
今でこそ、少子化の影響で私立高校は男女共学が多いですが、
当時の私立高校は男子校・女子校とキッチリ別けられていました。
「青春まっただ中(笑)」の 頃でしたので、
三年間も男ばっかりはどうしてもイヤだ!!と、動機は不純でしたが、
「よ~し!なんとか男女共学の公立高校へ入ってやるぞ!」と
更に偏差値が高い公立高校へ入る目標を建てました。

この時の勉強経験が今に繋がっています。
本が好きになり、学ぶことが好きになりました。
生涯勉強をモットーに幅広く学習・研究をしていますが
そのカテゴリーの一つが、
このブログにあるように「部落研究」です。

部落研究は、まだまだ奥が深いものです。
一口に「部落」と言っても、多くの地域に異なった歴史を持つので、
それぞれ違った顔を持つ=多様性があります。
皮革産業が盛んな部落・食肉業に長けた部落・土木建築業に強い部落・
農村漁村部落・数百戸の大規模部落・僅か5戸程の零細部落・
川の傍の部落・背後に崖が押し迫る部落・坂がきつい部落・
同和地区指定された部落・未解放部落・消滅した部落・・・etc
コレを研究し尽くすには、多分生きているうちには終わらないでしょうねぇ。

話を元に戻しますが、
その後、成績も奇跡的に伸びて
念願の“男女共学!”の公立高校へ入学することが出来ました。
この高校での3年間が、その後の私の「差別者からの解放」への
大きな影響を与えた存在の内の一つであると思います。

次回以降は、生い立ち編も高校へ舞台を移します。
ただ、その前に「部落の塾」である“同和関連施設・学習センター”について
お話させていただこうと思います。



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2014年5月18日日曜日

部落のお風呂に行ってみ~(生立ち編-24)

「○○のなぁ、お風呂に行ってみ~。安いらしいで~」
「でもな~、他所から来たら睨まれるんやって!」
中学校からの帰リ道、友人が言いました。

「どこから、そんな情報を聞いてきたのかなぁ?」

○○は同和地区で、
その風呂と言うのが、同和施策で建てられた同和風呂です。
(ウチの嫁や地区住民は市風呂(シブロ)と言っていますが)
結局、その時には同和風呂には行かず、
初めて行ったのが、今から10年ほど前。
嫁の部落の同和風呂でした。
あの日の友人の話から20年ほど経っており、
同和風呂に入るまでに随分時間が掛かったものです。

初めて行った時には、嫁の姉の子、
つまり甥っ子を連れていきましたが、
やはり、皆さんに「ギロッ」とされましたね。
友人の言っていたことは本当でした。

さらに、甥っ子が風呂場で暴れるものですから、
番台のオバサンにも注意されるわで、
散々な同和風呂デビューでした。
(ちなみに、コチラの同和風呂の場合、
地域住民が委託されて管理しております。
なので、注意したオバサンも地区住民です)

今から10年前といえば、丁度最後の同和法である
 「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」
という、何やら長ったらしい名前の法律が
期限切れを迎え、事実上、
国の同和対策が終結した時期に当たります。

なので、今よりもかなり「部落」は閉鎖的であったと思います。
閉鎖的というのは、度々書いておりますように、
一般地区民・部落民双方の風通しの悪さと言いましょうか?
そんな「空気」があったような気がします。

一般地区民は「部落はコワイぞ!」「糾弾されるぞ!」
だから、「部落には触れるな!」「ソっとしとけ!」と思い、
一方、部落民も「中の人・外の人」など云う
仲間意識みたいなもので、一般地区民を
受け入れない姿勢があったのは事実です。

ただ、ここ数年は確実に変わってきていますね。
それも良い方に・・・。
かなり風通しが良くなってきました・・・。
双方ともに・・・。

同和保育所には一般地区民の園児が通園し、
市営住宅にも、徐々ではあるが部落外からの
引っ越しもあります。
そして、同和風呂も・・・。

かつては、「入浴料が安い!」と言われた
同和風呂ですが、現在はほとんど一般浴場と
入浴料に変わりがなく、さすがに頻繁には通えないのですが、
それでも、年に数回は入浴しております。
この地区の近くに大学があり、
最近は学生たちの姿もよく見るようになりました。

そこに、かつての「ギロッ」は存在しません。

この様な、風通しのよい交流を続けていけば、
いずれ部落問題は解決すると信じております。
ただし、部落民のアイデンティティを忘れることなく、
堂々と部落民を公言する。
それでも、何ら差別されることのない、
《部落=フツー》の関係であるのは言うまでもありません。


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2014年5月14日水曜日

バラック(生立ち編-23)

川。
古来より川は、道とともに
文化交流や物流に欠かせない存在でした。
一方で川は、地域を隔てる存在でもありました。
又、川は長きに渡り被差別民が集い住まう場所でした。

中学生くらいになると、
行動範囲も大きく広がり、
自転車で色々な場所へ行き始めました。
当時は、20インチ位の「ママチャリ」を改造して
色々なパーツを付けて自慢するのが流行りでした。

河原に広がる光景を初めて見たのも、
そんな中学生時代だと記憶しております。

そこは、駅の傍の大きな部落でした。
他の多くの部落がそうであるように
この部落も又、御多分にもれず川に隣接していました。

この部落から少し上流の一般地区では、
度重なる洪水の対策として
河川の改良が行われていましたが、
この地域は、いわゆる「放ったらかし」状態でした。
普段は水量の少ない浅い川でしたが、
街なかを流れているため川幅が狭く土手も低い。
おまけに川はほとんど蛇行せず直線的。
そのため、一度大雨が降ると
一気に水量が増え、荒ぶる川へと変身するのでした。

部落の南端に大きな通りが通っており、
 一本の橋がかかっていました。
橋の真下に広がる光景が、
今でも私の脳裏に焼き付いて離れません。

河原に広がる多くの家。
辺りに落ちている廃材を
つぎはぎにした家は今にも倒れそう。
多分電気も水道も無いであろうが、
確かに、そこには人が住んでいる。
ほそぼそながら、営みがあるわけです。

大雨が降れば、いとも簡単に流されてしまいそうな
危険極まりないその地区は、素人目に見ても
非常に劣悪な住環境でありました。


当時はバラックという言葉は知りませんでしたが、
まさしく、バラックそのものだったのです。

後年、その地区は、日本の部落に隣接する
在日朝鮮・韓国人の集落であることを知るのですが、
(当時我々は、朝鮮部落=チョンブラと呼んでいましたが、
今考えると、この言葉自体にかなりの差別意識がありますね)
被差別部落が、同和行政により概ね住環境が
改善されていることに対し、在日集落は手付かずのままでした。

しかし、近年の高まる人権意識に押され、
今から十数年前に、行政も重い腰を上げて
この地区の改善を行いました。

いまでは、部落に隣接した場所に建てられた
きれいな市営住宅に在日住民が移り住み、
河川の不良住宅は取り壊されました。
この集落の光景は、かつての被差別部落を彷彿させますが、
現在も尚、この様な在日集落は各地に点在しており、
未だ行政の手が入っていない場所も多い様です。

そのうえ、多くの地区では国有地や民有地を不法占拠した
状態が指摘され、 「立退き要請」も行われていると聞きます。
(在日住民が不法に占拠していることは事実です)

この様な問題は、北朝鮮・韓国との関係悪化による
国民感情もある今、非常に難しい問題ですが、
地域住民・行政双方の努力により解決すべき問題であろうと考えます。

行政は、国際情勢に左右されない
人道的な見地で対応することが必要ではないかと考えます。
又、反対に地域住民も国や行政だけに責任を負わせて
「おんぶに抱っこ」するのではなく、自分たちも努力し
改善する姿勢であって欲しいと思います。

互いにいがみ合うだけでは
問題は解決しないだけでなく、
新たな差別や諍いを生みだしかねません。



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2014年5月2日金曜日

被差別部落と暴力団:その2


前回を読んでおられない方は《こちらへ》

さて、被差別部落と暴力団:その1の続きです。

「まだ残る日本の三大差別」と題されたに項は、
在日朝鮮・韓国人として、又、ヤクザとして「暴力団対策法」に
よって差別されているという高山登久太郎氏 の
心情が綴られているのです。
氏は、この中で部落問題についても言及しております。
その一節を紹介しましょう。

「 出生で差別されることは、差別される者にとっては
言いようのない憤りがあるはずだ。(中略)朝鮮、
韓国、同和出身者がヤクザ社会にはいる動機は、
大方はこのような理由が多い」

「関西の大きな部落と言われるところには必ずと言って
よいほど大親分の事務所があったが、
今でも残っているところがある(地区名の為、中略)
その他市町村も親方、親分と言われる人は
ほとんど地域の部落出身者だ。」

私は、ヤクザではありませんので、詳しい内情は
分かりませんが、高山氏が書いている事に
おおむね間違いはないと思います。

ヤクザが反社会的勢力であり、主に法律に反した活動
(シノギ)を行う事によって一般社会に害をなすことは
紛れも無い事実であります。
ただ、氏が言われるように、差別があるが上に
ヤクザに成るという図式も又、事実であろうかと思いますし、
一般社会から取り残された
彼らの重要な受け皿であったことも事実です。

これ以降は、私の持論ではありますが、
部落民がヤクザ社会に入るのは、
「ごく自然のこと」ではなかったかと考えます。

生まれた時から近くにヤクザの組があって、
周りの大人達もヤクザが多い。
ヤクザではない人たちも、土木業や運輸業なんかで
ヤクザとの関わりが大きいわけです。

それに加えて、劣悪な生活環境と
十分な教育が受けられていない現実がありましたが、
これらは、どちらも“ヤクザになること”に対しては
プラス要因でありました。

在日韓国・朝鮮人の場合は、幾分違っていたでしょう。
彼らは、戦後「戦勝国民」と言う事で
虐げられてきたこれまでの鬱憤を晴らすかのように
徒党を組んで暴れまわった。
俗に三国人と言われるのですが、
これには、警察機関も手を焼いていたようです。

終戦の混乱もあり、当時の警察は相当警察力も弱っており、
三国人が警察署を襲撃すると言う事態も起きています。
困った警察は、ヤクザに応援を頼むのです。
今では考えられないことですが、
当時は、三国人の愚連隊に対向するために、
ヤクザや右翼団体が警察と一体になって事にあたっていました。
警察官がヤクザの親分に頭を下げていた時代もあったのです。

そして、全国各地で暴れまわっていた三国人たちも、
やはり、ヤクザの組織力にはかなわなかったのでしょう。
やがて、愚連隊は次々に
ヤクザに取り込まれていく事になったのです。

ただ、同和対策が施されて生活環境も向上し、
働き口も確保されてくる昭和50年代位からは、
ヤクザへの加入も少なくなってきたのではと考えます。

先にも記した様に、
ヤクザが反社会的勢力であり、一般住民の脅威に
なっているのは事実でありますが、
それと同時に、長きに渡り部落民の重要な
受け皿の一つであったことも、紛れも無い事実なのです。
又、現在は「ヤクザには部落民が多い」と言うことは、
一概には言えない事も、再度付け加えておきます。

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被差別部落と暴力団:その1

先日は、部落の同級生の父親が
「ヤクザ」だったという話をいたしましたが、
今回は、「被差別部落と暴力団」と言うテーマで
書いてみたいと思います。

◎さて、本文をお読み頂く前に、
はじめに書いておきたいことがあります。

現在、暴力団(ヤクザ)は、「暴力団対策法」と言う
法律により、著しく活動を制限されております。

昨今、この法律に加え、各都道府県に於いて、
一般人が暴力団と付き合う事を厳しく禁止する
「暴力団排除条例=暴排条例」が施行されております。

「暴対法」は、暴力団が処罰の対象者でしたが、
「暴排条例」は、一般市民が処罰の対象となっており、
世間一般の風潮として、より一層、
暴力団排除の方向に進んでいるのは事実であります。

しかし、このブログでは、
暴力団の「是非」を“問題提議”する目的ではないため、
私の個人的思想や世間一般の風潮に基づくものではなく、
「事実を事実」として書き記すことをお断りしておきます。
そのため、受け取り方によっては、暴力団を肯定している、
又は、逆に批判していると映る場合がありますが、
以上の旨をご了承の上、読み進めていただければ幸いです。
                                                                        S,Sugimura

部落とヤクザの関係については、
人のうわさや最近のネット上などでも、
盛んに語られております。
・「ヤクザの殆どは、部落と在日」
・「部落民は全員ヤクザ!」
・「部落解放同盟は人権ヤクザ」
etc・・・
 これは、本当なのでしょうか?

確かに、前出の同級生の父親はヤクザでした。
それに加え、彼と同じ部落の一年上のサッカー部の
先輩の父親もヤクザでした。
それ以外で、「家族にヤクザがいる」と言う話は
聞いたことがありませんので、
私が通っていた中学校(同和教育研究指定校)では、
ヤクザ=部落と言う図式は、確かに成り立っていました。

では、他地区ではどうなのでしょう?

答えは・・・
「部落民は、ヤクザが多い」というのは本当でした
部落民に加え、在日朝鮮・韓国人も同じく、
ヤクザが多いのは事実でしょう。

ただし、「本当でした」と言う様に、過去の話だと思います。
根拠もなく勝手な推測ですが、
終戦から昭和50年代位までではないでしょうか。
それ以降については、部落・在日だけが突出して
多いわけではないと思われます。
ただし、私はヤクザではありませんし、
統計を見たわけでもなく、全く根拠の無い
勝手な推測であることを繰り返します。

私の手元に一冊の本があります。
いや、正確には、パート1とパート2があるので、
2冊というべきかもしれません。
この本は、題名を「警鐘」といいます。
著者は、京都の独立団体
「会津小鉄会」4代目高山登久太郎氏(故人)です。

「警鐘」自体の主旨は、新暴力団対策法の施行、及び
「指定暴力団」としての指定を受けたことに対する
反対論文であります。
その中に、とても興味深い項がありますが、
少し長くなりますので、本日はここまでに致します。

《被差別部落と暴力団:その2へ続きます》


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