~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年8月1日土曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その2/見て記・行って記・被差別歩記-3

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見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その2―

今から、5年程前。
私が、但馬のこの被差別部落を訪問したのは、
7月半ば過ぎた頃だった。

未だ梅雨が明けきらない但馬の地は、
周りを山に囲まれているせいか、
街中より幾分涼しく感じられ、山々は、ガスで覆われていた。

それにしても、この豪雨である。
朝方は、曇り空であったが、午前10時ごろから降ったりやんだり。
雨脚はきつく、時折このような豪雨にも遭遇。
車のワイパーを最大にするが、それでも追い付かない程だ。

私が山陰方面に向かうときは、いつもこのように雨が降っているのだ。
しかも、初日が雨で、次の日が晴れと言う状況が、ここ2回も連続している。
一日目にフィールドワークの大半を組み込んでいるので、
「両日晴れがベストだけど、せめて反対やったらまだいいのに」
と思うこともしばしばである。

八鹿高校事件(部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件。
しかし、このブログでは、便宜上、八鹿高校事件とさせていただきます。)は、
それ単体で、突発的に起こった事件ではない。
実は、それ以前から続く、部落解放同盟vs共産党の
一連の出来事の一つのなのである。
前回は、八鹿事件の概要を簡単に説明したが、
訪問の前に、それ以前の流れについて加筆しておこう。

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1960年~70年代に掛けて、全国的に部落解放同盟をはじめとする、
部落解放運動団体の結成が加速していく。

ここ但馬の地でも同じく、八鹿高校事件が起こる前年、
つまり、1974年7月に、南但馬地域の部落が
“一致団結し、差別の解消に当たる”目的で
「部落解放同盟南但馬支部連絡協議会」が結成された。
そのイニシァチブを取ったのが、S部落のM氏であった。

結成後間もなく、この地域で2つの差別事件が発生する。
いずれも、恋愛に対する差別であるが、
そのうちの一つは、「差別が原因で、女子生徒が死亡」するという、
あってはならない“事件”に発展した。

これらを機に、M氏率いる行動隊は、糾弾から暴力へと、
次第に行動をエスカレートさせていく。

決して、暴力を肯定する訳ではないが、
その根底には、差別に対する怒りや憎しみがあったに違いない。
だが、それを上回る行き過ぎた行動が、
差別糾弾闘争を“事件”へと追いやってしまった。
『暴力に訴える』これは、大きな過ちである。

だが、何度も書くようだが、そこに至った大きな要因の一つと言えるのが、
共産党との対立=政治闘争と言うことになる。

この辺りの時代は、部落に限らず、
日本全土到る所で共産党系団体が勢力をふるっていた。
成田空港反対などの公共施設闘争、労働組合による会社闘争・
過激派による学内闘争・やや時代は遡るが炭鉱闘争など、その殆どが、
暴力とは無縁ではなかった。

現在の、共産党はクリーンなイメージを前面に押し出し、
議席・党員の増加に力を注いでいるが、
以前は、共産党=過激派=国賊と言うイメージが、
世間一般の認識であった。
そんな時代である。

M氏率いる行動隊の闘争は、次第に教育現場への介入・糾弾、
そして共産党との戦いに発展していく。
そこには、学生達も動員されたことを付け加えておこう。

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さて、雨もやまないまま、車はS部落周辺へさしかかった。
S部落のある地区は、周りを山に囲まれ、
山間を縫うように但馬~山陰へ抜け、
日本海にそそぐ但馬随一の大河、円山川が流れ、
その谷地、つまり両岸に僅かばかりの平地が和田山まで続く。

円山川と並行して国道と、現在の播但道が走る。
そのような、立地であるから、
時折見られる平野部に小さな集落が固まって存在するのである。

但馬と言う言葉は、シマを“島”ではなく“馬”と書く。
地図を見てみると、山の稜線が永遠と続く。
それを見てみると、あたかも馬の背のようである。
そこから、タジマの『但馬』の字をあてたのではなったのではないかと、
勝手に思ってみる。
もしくは、逆に、円山川にそって続く、わずかな平地が、
馬の背のように見えるからかもしれない。

その平野と言っても、本当に小さななもので、
農地とて、人口比に対して充分に確保できないのは見てわかる。

竹田の地は、同時に「家具の街」としても有名である。
竹田の歴史を紐解いてみると、
『今から400年前に、竹田城主が木地師を招いて作らせた漆器が始まり」となっているが、
農業よりも林業が盛んなことも、これとは無関係ではないであろう。

さて、S部落がある、そんな小さな平野の一つには、
僅かな土地に、3つの集落がひしめき合っているが、
ことS部落に関しては、円山川へそそぐ地区内を流れる谷川と、
山裾に挟まれた小さな場所に押し込まれるように、
たくさんの家が建っている。
このような立地は、S部落に限らず、多くの農村部落で見ることができる。

多くの部落は、本村に属する「枝村」として存在していた。
本村が、豊かな大地に存在する反面、
枝村であるエタ村は、河原・崖下・傾斜地など、
人が住めず、農地にも適さず、かつ、危険極まりない場所をあてがわれた。
だが、それは、彼らの生活に必要不可欠の場所であった事も、
併せて書き留めなければならない。

当時の部落民つまり、エタは、皮革業を主な生業とすることを、
幕府より命ぜられていた。
(他に、牢屋番・町の治安維持・水場の管理・処刑人などを担ってきた。
つまり、現在の公務員の走りである)

牛馬を解体し、「皮から革」を作るのには、
広い場所と、大量の水を要した。
そんなわけで、河原というのは、
危険であるのに違いないが、カワタ(部落民)にとっては、
大切な生業の場所でもあったのだが、
国策による差別が公然とまかり通っていた時代には、
「解体・製革の際の臭いがキツイ!」という理由で、
より、本村から離れた場所へ、村を移転させられた記録が残っている地域もある。

かつて、S部落の先祖さまも、谷川で“なめし”をしていたのだろう。
この時代、出来上がった革は、大切な軍事用品であった。
甲冑や馬具にもちいられ、そのほとんどが、藩主のもとへ献上された。
今でも、城の周りに皮革産業が盛んな部落が残っているのは、
このような理由によるものである。

危険な地域で、製革業を営む代償として、
エタ村は、除地と言って年貢、つまり税金が免除されていた。
時代劇なんかでも、よく見るが、年貢の取り立てというのは非常に厳しく、
生活に困窮した貧しい農民たちは、逃亡して野非人にならないように、
5人組制度を作って互いに監視させたり、
逃亡までに至らなくとも、口減らしのために、
子達を売り飛ばすことは日常茶飯事であった。

エタ身分の人々には、この悲惨な年貢は課せられなかった。
代わりに、農民よりも下の位におかれ、
そして、虐げられ、憂さ晴らしの対象にされた。
それは、悲惨な農民よりも、さらに悲惨極まるものであった。
幕府に不満が行かぬように、巧妙に作り上げられた身分制度は、
「差別」という形で、現在に至るまで、長きにわたり存在することになる。

住居は、圧倒的に谷川と山裾に挟まれた場所に集中しているが、
谷川の反対方面にも、少数の住居がある。
そこには、比較的新しい住居と共に、10戸ほどの同じつくりの集合住宅が並ぶ。
或いは、これは、公営住宅かもしれないが、いずれにせよ、
川の向こう側は、過密により、近年築された住居であろう。

しかし、静かである。
部落内を周っている間に、雨が小雨になったせいもあるのだろうか、
または、平日の昼間ということもあるのかもしれない。
かつて、この部落を中心として、糾弾闘争が繰り広げられたとは思えないほど、
極々ありふれた農村である。

・・・ただ、2か所を除いては。

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「被差別部落の暮らし」見て記・行って記・被差別歩記-3
「八鹿闘争勝利記念碑:その3」へ続く。

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