~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年1月31日金曜日

叔母は部落民(生立ち編-7)

このブログ「被差別部落の暮らし」に度々出てくるように、
叔母は、被差別部落出身の部落民です。
叔母というのは、再度説明しますと、
私の父親の兄、つまり私の叔父の奥さんなのです。
なので、私とは、叔母・甥の関係ですが、
血の繋がりはありません。

叔母が部落民であるということを知ったのは、
小学校の中学年ぐらいでしょうか。
私の祖父は、私が3歳の時に亡くなったので、
あまり覚えていませんが、その祖父の“法事”には
叔母の親類縁者も参加していました。

叔母の親戚縁者は、皆さん部落出身者で、かつ居住者です。
法事が行われていた叔父の家と、叔母親族の部落は近かったので、
法事には、 叔母の父母、叔母の兄夫婦と2人の子供
(二人姉弟の下の男の子は、私と同じ年でした)も一緒に参加していました。

なにぶん、かなり前の話で、自分の祖父でもうろ覚えなのですが、
叔母の父は全盲で、その頃は鍼灸(あんま師)だったのですが、
おそらく、明治の終わりから大正の始まり頃に部落で生を受け、
多大なる差別と、貧困の苦労を味合わい育たれただろう事は、
想像に難くありません。
・・・ただ、想像の範囲ですが。
実際の暮らしや差別は、今となっては分かりません。

しかし、昭和40年台も終わりを迎えるこの頃には、
運動団体の運動成果が徐々に上がり、
部落の暮らしも、良くなっていった時期です。
風が吹き晒し、床が抜ける狭小の不良住宅は団地に建て替えられ、
雨が降ると、共同トイレが溢れ共同井戸に
流れ込む劣悪な未舗装の路地も綺麗に区画整理がなされ、
部落民の暮らしもようやく「人並み」に近づきつつある時期です。

叔母の父は、全盲で顔を見ることができない私に、
よく話しかけてくれました。
かなりの高齢だったので、ゆっくりと話されていたのを覚えていますが、
残念がら、話の内容までは覚えていません。

不思議なものですね。
この頃には、部落に、そして部落民に嫌悪感を持っていた私が、
こと、正統派部落民の、紛れも無く純粋の叔母の親類には、
嫌悪感も、差別心も起きなかったのですから。
結局、差別ってこういうものかも知れません。

「他人の弱点を見つけて、自分が優位になりたい」。
人間が持っている、どうしても消せない人間の性なのでしょうか。
例えば、部落差別が解消したって、次は外国人差別、
障がい者差別、男女差別・・・
形を変えて起こっていくかもしれません。

アフリカン・アメリカン初の大統領オバマ氏が誕生し、
政権の中枢にも、アフリカン・アメリカンが要職につき、
スポーツの世界や芸能の世界でもアフリカン・アメリカンの
活躍が著しい米国でさえ、未だにアフリカン・アメリカン、
つまり“黒人”への差別があります。 
先日、マンデラ氏が亡くなった南アフリカも、
「奴隷解放」と言われていますが、
白人との間には、未だ差別と言うか、いがみ合いがあるようです。

差別や人を卑下することが人間の性としても、
確実に、それを超越することはできるのです。
私の場合は、部落に対する嫌悪感=差別意識を
かなり長い間持ちながら、今やそれを超越し、
部落出身である妻と結婚するに至りました。

何度も言いますが、差別の心は、変えることができる。
そして、自分が変わることができる。
今は、ハッキリとそのことが言えます。

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2014年1月26日日曜日

「特殊部落民」と言う言葉から・・・

全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ

このブログを御覧頂いている皆様なら、
この文言を知っておられる方も多いでしょう。
また、もしかしたら暗記されている方もいるかもしれませんね。

この文章は、1922(大正11)年3月3日、京都市の岡崎公会堂
(現:京都会館第2ホール)で行われた、全国水平社創立大会の
 際に読み上げられた水平社宣言です。
(全国水平社ついては、追々このブログでも記事にしていきたいと思っています)

西光万吉が中心となって作り上げられた水平社宣言の
読み出しには、「特殊部落民」 と書かれています。
特殊部落という言葉は、現在は差別用語とされており、
無闇矢鱈に使うものではありませんが、
大正当時は、特殊部落という言葉は部落民自身にとっても
差別意識がなく使われていたことがわかります。


ただ、その「特殊部落」という言葉の意味は、
現在の特殊部落という言葉が指す「差別的な用法」とは全く違いました。
その意味は、概ね以下のようになるかと思います。

◎(地区・集落を表す)部落の中でも、近隣住民から“差別”を受ける集落がある。
  こんなことがあってはならないが、現実に差別を受ける部落は存在する。
  我々の部落は、他の人から「差別」される特殊な部落なのだ。
 特殊なことは、無くしていかなければならない!

部落という言葉は、現在では被差別部落を
指すことが一般的ですが、本来は、“地区・集落”と言う意味で
用いられてきました。この事は、今でも地方などでは、
差別的な使用ではない「部落」と言う言葉が残っています。
例えば、私が中国地方のT地区を尋ねた時には、
町の案内板に、被差別部落ではないのに「〇〇部落」と書かれていました。

本来なら、差別されること=特殊という意味で使われていた訳です。
しかし、時が経つと、特殊=部落になってしまい、
又、特殊=部落出身者、部落民 になってしまいました。
つまり、部落は“特殊”な存在で、
そこに住んでいる部落民は“特殊”な人になってしまったのです。

私は少し前の記事で、「部落民と言う言葉自体が、
差別的に感じる」という事を書きました。
「部落民」はなんだか、日本人とは違う、
独立した別のカテゴリーに入れられているような気がします。
部落側からのアイデンティティの主張には、
有効な表現かもしれませんが・・・。

「部落民」が差別的に感ずる。
その気持は、今でも変わりありません。
だから、 ブログ書くに当たり「部落民」は、
あまり使わないでおこうと思っていました。
そこで、「部落出身者」や「部落居住者」と言う言い回しを
使ってきましたが、記事を書き重ねるに従い、
言葉の限界を感じました。

部落関係の本やメディアの多くは、
「部落民」と言う語を好んで使っております。
やはり、しっくり来るのでしょうか?

水平社宣言で使われた「部落民」に沿い、
今後は、このブログでも、部落出身者・居住者を
「部落民」と言う語で 表現していこうと思います。


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2014年1月23日木曜日

あの子と遊んだらアカン!(生立ち編-6)

「あの子と遊んだらアカン!」
部落、在日外国人、素行不良・・・
こんな子供たちに、陰で囁かれる常套句です。

かつて、私の近所にも、多くの親から「あの子と遊んだらアカン!」と
言われていた少年が居りました。
話は、35年以上前に遡るので、記憶の断片をつなげるのに大変なのですが、
覚えていることをお話したいと思います。

名前はT君。
年齢は、私より5つくらい上だったと思います。
彼の家は、私の自宅から徒歩で5分ほど。
ですから、同じ小学校だったと思いますが、
小学校で見かけた記憶がありません。
もしかしたら、学校に通っていなかったのかもしれません。

彼の家の前まで、何度か行ったことがるですが、
夜に行った時の光景が、今でも脳裏に焼き付いています。
(ただ、何をしに行ったのか全く覚えていません。
夜のこともあり、友人と面白半分での行動だったかもしれません)

先程も申したとおり、彼の家は、私の自宅から5分ほど。
直線距離にしても、500m以内だったと思います。
自宅周辺には、在日朝鮮人居住者が多かったのですが、
日本人、在日とも普通の暮らし(特別裕福でも貧乏でもなく、
ごく一般的な暮らし)をしておりましたが、
なぜが、T君の自宅の路地5~6世帯だけ、
地域から取り残されたようでした。
昭和40~50年初めですから、市内の道路は
アスファルト舗装が普通であるにもかかわらず、
その路地だけは舗装がなく、家はバラック状で、
裸電球だけが、割れたスリ硝子から、うっすらと明かりを放っていました。

自宅や友人宅には、蛍光灯が明々と灯り、
家庭からは、テレビのこぼれ音と共に家族の笑いが聞こえる・・・
コレがあたりまえの「暮らし」だと思っていました。

T君宅のような暮らしを見たことがなかったので、
あまりにもショッキングな光景でした。


このブログをご覧の方は、ある程度知識を
お持ちの方もおられるでしょう。
私も、当時はわからなかったのですが、今思えば
所謂、「同和施策の施行前の部落の暮らし」その物だったのです。
だが、彼の家は同和地区ではありませんし、その頃の部落は既に、
法律に基づいて 、改良住宅が建てられ、
多くの公共施設が地区内に作られており、
「健康で文化的な、普通の暮らし」が行われていたので、
T君の暮らしぶりは、“非常に劣悪”であったと言わざるおえません。

しかし、悲しいかな、こんな世の中になっても、
この様な“劣悪”な地区は、今尚、全国に散在していると思われます。
その一つが、被差別部落でありながら、
同和施策を受けてこなかった(受けられなかった)「未解放部落」の存在があります。
被差別部落と言うのは、同和地区のことだけではありません。
同和地区というのは、被差別部落の中でも、行政による「施策」を
受けた地域のことであり、未解放部落は、同和地区ではないが、被差別部落なのです。

*スギムラ注:本来、「未解放部落」は共産党系の運動団体であった「全解連」が、被差別部落を指して用いた用語ですが、
当方の解釈として、【解放された部落=同和地区とするなら、
手付かずの部落=所謂、未指定地区を指すのに適しているのでは?】
と言う独自解釈のもと、当ブログでは、未解放部落は未指定地区を指すものと、理解して頂けたらありがたいです。

未解放部落が存在する原因はいくつか考えられます。
例えば、「部落規模があまりにも小さく、部落解放同盟が組織されなかった」、
「地区が、部落解放運動に消極的だった」などということが言えますが、
この事は、いずれ又、機会を見つけてお話させていただきます。

さて、話を戻しましょう。
この様な暮らしをしていたT君ですから、
身なりも、それ相応で、地域の親たちを不安がらせるに十分な格好でした。
それに、コレも貧乏な子供にありがちな話・・・「泥棒」。
貧乏と言えばこんな話、よく聞きますよね。
「給食費がなくなり、貧しい子どもが疑われる」などというケースは
ドラマの格好の常套句でもありました。

T君も、そんな噂が親たちの間で立っていました。
しかし、残念ながら、T君の場合は単なる噂ではなく、
実際に 他人のものを盗んだりしていたようです。

こんなT君でしたが、不思議なことに 親の不安をよそに、
一部の子供達には人気がありました。
「一部 」と言うことは、残りはやはり親の影響でしょうか?
「Tどっかいけ!」
「アホが来たぞ~!逃げろ!」と忌み嫌う子供は実際いました。

私は、タマに遊んだ事がある口ですが、
どの様な事をして遊んだとか、彼の顔さえも
うまく思い出せないのですが、なんというのでしょう?
人を惹きつけるものを持っているとでもいいましょうか?
とにかくそう言う人物でした。

多くの親が「あの子と遊んだらアカン!」と
言うのに対して、私の場合、親には言われなかったです。
又、T(呼び捨て)と呼び捨てにされるケースが多かったのですが、
私の母は、「T君」と 君付けで呼んでいました。
一部の親の中にも、私の親のようにある程度「好意的」に
思っている親もおられましたが、やはり多数は「遊んだらアカン!」でした。

少年時代、後にも先にも「あの子と遊んだらアカン!」という事を
見聞きしたのはT君だけでした。
しかし、今考えればあれが“差別”なんだと思います。
直接的な“差別”なのです。

私は、これまで、被差別部落を始め、在日外国人、身体障がい者の方々への
「差別」について学んできました。
いろんな人がいて、いろんな差別がある。
この事は残念ながら、人間が超えなければならない
「永遠のテーマ」なのかもしれません。
自分と誰かを比べたくなる。
自分より劣っている所を探してしまう。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」は、身分制度時代の格言?でありますが、
他人の(悪い所もあるでしょうが、それ以上に)良い所を見つけて認め、
尊敬できるようになればと願います。



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2014年1月17日金曜日

続・部落を知らない差別主義者(生立ち編-5)

さて、前回は、少し違う話題をはさみましたが、
本編の続きをしたいと思います。

私が、“部落”というものは何なのか?
“部落”の歴史は?
どの人が、“部落”出身者なのか?
etc・・・

部落のことを、本当に何も知らないのに、
部落を差別するようになった、直接の原因は何なのでしょうか?

それは、ズバリ・・・
周りのうわさ話や誹謗中傷からでした。
それも、部落出身者には直接言わないけど、
どこからともなく聞こえてくる「部落への生の声」なのでした。
ちょうど、私がこのブログを始めようとしたきっかけ、
ブログタイトルの下に「はじめに」と書いているように、
このような状況での“差別の声”があまりにも多かったように感じます。
 
小学生の頃には、学区も同和地区を含んでいなかったのですが、
中学校区には同和地区があり、中学校も同和指定校でありました。
その関係で、周りの大人達、例えば近所のおばさんやおじさん、
同級生の親族、塾や習い事などの場などでそのような声を聞くことが
あるのでしょうが、やはり、親兄弟から聞くケースも最も多いかもしれませんね。

私の場合は、母親から聞いた話も、とても印象に残っています。
母親は、A県出身(詳しくはこちらの記事へ)でした。
A県は、県面積の割には非常に多くの同和地区があり、
現在でも多くの同和地区が残っています。
母親は、中学時代に、意味もなく突然に、「部落の生徒数人に取り囲まれた」そうです。
その時の詳しい状況は知りませんが、
母親は、そのことが“トラウマ”になっているらしく、
その後も何度か、そのことを聞いた記憶があります。

私の叔母(つまり、母からすれば義姉になります)が部落出身である事は
以前に述べたとおりですが、
母親は、特に叔母の事や、法事の場などで出会う叔母の
親族(全員部落出身者です)については何も言っていませんでした。
この事から、母親は、“部落”を差別しているのではなく、
体験した事柄に対してに恐怖を感じていたのでしょうが、
聞いている、当時小学生の私には、「部落は嫌や!!」と
思わせるに至る一つの要因であったことは否めません。

また、この様な話もありました。
当時の私の家は、所謂、長屋でありまして、
近所さんも仲の良い方ばかりでした。
なので、いつもどこかでおばさん達の「井戸端会議」が行われていました。
長屋の路地も袋小路になっており、車の往来がないので
幼なじみたちとよく遊んでいたのですが、
そこでおばさん達の会話を聞いたことがあります。

私の隣の息子さん(私より20歳位年上)が、お嫁さんをもらいました。
息子さんは、向かいの家を買ってお嫁さんと暮らし始めました。
そのお嫁さんが、部落出身者の方だったのです。
中学校区に同和地区が含まれていたのは先に述べたとおりですが、
そこの部落の方なので、息子さんはその頃からの付き合いだったのかもしれません。

さて、ある日の井戸端会議(母親はいなかった)での近所さんの話題は・・・
ズバリ、そのお嫁さんの“部落ネタ”でした。
周りに私達がいたのですが、
子供たちなので理解できない=安心して、話をしていたのでしょうが、
他の子達はともかく、私は部落への縁が深かったせいもあり、
すぐに反応し、聞こえてくる声に耳を澄ませました。

そこでは、母親が言っていたようなものよりも、
もっとひどい中傷がなされていた記憶があります。
(汚いとか、貧乏とか・・・その頃には同和施策がなされ、
部落の生活向上があったにも関わらず)

また、私は武道を習っていたのですが、
その道場などでも、内容は覚えてませんが、
そのような会話を大人たちがしていた記憶があります。

私が、特に部落に敏感だったせいもありますが、
その頃には既に「四つ」という差別語や、手で4本指の仕草などを覚えていました。
(部落が長きに渡り、斃牛馬を生業としていたことから。4本足=四つ)

それ以外にも、覚えてはいませんが、
いろんなところから、色んな話を聞き、
小学生の頃には、“部落”を知らない差別主義者になっていました。

本当に、今は心から言えることですが、
「人の言葉には、重みがあるなぁ」 と思います。
特に少年少女に向けての言葉は大切です。
私のような、差別者を簡単に作ってしまうのですから。

差別者として、そんな幼少時代を過ごした私が、
部落を・・・部落の歴史を・・・部落差別の実態を知った上で、
その差別心を乗り越え、部落出身者の妻と結婚することになったのか?
話は、まだまだ続きます。


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2014年1月13日月曜日

子供の頃感じた、地域での差別実態(生立ち編-4)

先に述べたような理由で、小学生の頃は、地域に被差別部落がなかった
(中学校区には部落がありました)割には、「部落」に関しては、
周りの子供よりは馴染みがあったと思います。

それでも・・・
そう言えば、小学校から中学校に上がるとき、
数人の同級生が「あんな危ない、中学に行くのは嫌や!」と
いっていたのを思い出しました。
当時の中学校は、同和校だったからという訳ではありませんが、
相当に荒れていたのは事実です。

「あんな危ない」が、同和=部落なので嫌なのか、
荒廃していたので嫌なのかは分かりませんが、
ひょっとしたら、やはり周りから、「あれこれ」言われていたのかもしれません。
周りというのは、親兄弟や友達ということになるのでしょうが、
その人達から、情報として、部落のことを聞いていても不思議ではありませんが、
小学生の頃は、同級生間では「部落」という単語は出てこなかったと記憶しています。

話は少し逸れますが、私の育った地域というのが、
非常に多くの在日朝鮮人達が住んでおりました。
同級生の中にも、多数在日朝鮮人がしましたが、
今のように、アイデンティティを主張し、本名を名乗る時代ではなかったですね。
ほとんど、いや、在日朝鮮人の同級生全員が通名を名乗っていたと思います。
小学校の各クラスの4分の1位、つまり10名位はいたと思います。

そのことで、私は小学校卒業時に、大きなミスを犯してしまった経験があります。
それは、体育館での卒業式を終え、各クラスに帰ってきた時だったのですが、
会場では、時間の関係からか、代表だけが卒業証書を受け取り、
後は各クラスで担任から個別に卒業証書を受け取るわけです。
私の隣の女の子が持っていた卒業証書を見た時、
クラスでも“やんちゃ”だった私は、「こいつ、名前が違う!」
と大声で叫んでしまったのです。

もちろん、その時には在日のことは、うっすらわかっていましたが、
通名と本名があることなどは知りませんでしたし、
その女の子が、朝鮮人であることも知りませんでした。
ただ、単純に「不思議に思ったこと」が口をついて出てきたわけですが、
その女の子にしては、“単純”な問題ではなかったはずです。

女の子は、私の叫び声を聞くやいなや、大声で泣き始めました。
私も、悪意はなかったのですが、無知から、一人の人間を
傷つけてしまったわけです。

ただ、地域では在日朝鮮人が多くいたせいか、
私の知る限り、在日に対する差別はなかったと思います。

こんなエピソードがあります。
ある時、在日の同級生M君の家で「豆もやし」が出てきたのですが、
私は、そんなもの見るのも食べるのも初めて。
そして、食べてビックリ!とっても美味しいじゃありませんか!

帰宅後すぐに、母親に「大きいもやし買って!」と言ったのですが、
買い物から帰った母親は、「そんなの売ってなかった、きっと、
朝鮮の方専門のお店があるんだろう。今度、M君のお母さんに聞いてみる」 と、
母親同士も仲が良かった記憶があります。

このように、私の中では、在日朝鮮人との関係には、
大きな問題はなかったのですが、
こと被差別部落へは、部落との縁が深いにも関わらず、
悶々とした差別心が宿っていたのです。



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2014年1月8日水曜日

”部落”を知らない差別主義者(生立ち編-3)

前回の続きです。
小学校に入学すると、年齢的にもある程度「言葉」が理解できるようになります。
言葉が理解できると、そこに、自分の考え方=自我が芽生えます。

私が生まれた昭和40代。
父親は、自動車板金工でしたが、
勤めていた板金所の経営が行き詰まり、
給料も滞納されるようになったそうです。
職安でも久しく仕事が見つからず、
母と私が居るのに、仕事もお金もないのには、大変困ったそうです。
そんな折、父が定年まで働くことになる「鉄工所」を紹介してくれたのは、
前出の、部落出身者の叔母(父親の兄の奥さん)のお兄さんでした。

少し、人物関係がややこしいですが、叔母のお兄さん
(私は、「おっちゃん」と呼んでいましたが、私との正しい
関係は何というのでしょうね?単に「親戚」でしょうか?)の
住まいは、その頃、解放運動の成果が実り始め、重い腰を上げた、
国や市の同和施策によって建ち始めた「改良住宅」でしたが、
仕事は、近くに工場を借り、鉄工所を自営していました。

その「おっちゃん」の取引先の鉄工所に、父は務めることが出来ました。
記憶が定かではありませんが、この話は、私が小学校高学年か中校生になる頃、
たまに母が言っているのを聞いたことがあります。

一時は、家庭崩壊の危機に見まわれながらも、 
その後、父は、家を建てるなど、普通の生活が送れるようになりました。
部落の 「おっちゃん」に我が家は助けられたわけですが、
この頃には、私は、「部落とは何なのか?」という
部落の本質を知らないながらも、立派な“部落差別者” になっていたのでした。


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