~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年10月24日金曜日

原発と共に・・・:その3/見て記・行って記・被差別歩記-2

見て記・行って記・被差別歩記-2
「原発と共に・・・:その2」からの続きです(その2はコチラから)

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寺から海へと向かう道は、多くの被差別部落にありがちな、
暗くて細く、曲りくねった路地とは随分様相を異にし、
海水浴場を併せ持つ「観光地部落」独特の“明るさ”があった。

青い空と広い海の開放感はさることながら、
初秋とはいえ、夏と変わらぬ強い日差しが、
あたかも太陽が2つあるように、空と海から
降注いでいるせいかもしれない。
 
それに、何しろ山と海に挟まれた狭小の地。
寺から海までは3分と掛からないので、
この辺りも「海岸」と言ってしまっても差支えがないように思えた。

海岸へ出ると、そこには立派なM漁港が広がっている。
位置関係的に見ると、丁度、冒頭で書いた“高台”へのとば口辺りだ。

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若狭周辺には豊かな漁場が広がっており漁業は盛んだ。
車での輸送が当たり前になる以前は、
ここでとれるグジ(甘鯛)やサバは塩をして、
福井県小浜と京都市を結ぶ「鯖街道」を運び人が魚を背にして京へ運んだ。

人から車へと運搬手段は変わっても、
今も昔も若狭の魚は、京料理を、そして京の台所を支えてきたのである。

漁業が盛んということで、周辺には漁港が多く存在するのであるが、
この部落の漁港では、他の漁港では感じなかった
何かしらの違和感を覚えた。

その違和感とは・・・

「あまりにも綺麗すぎる」のだ。

港湾施設的に、新しくてきれいな漁港というのは他にも勿論あるが、
どこの漁港も、少しのウネリでも互いにきしみ合うほどに漁船が繋いであったり、
うず高く積み上げられた網や錨、発泡スチロールでできた大きなウキなどが、
たいていは港湾敷地内に“足の踏み場がない”ほどに置かれているものである。

そこには、漁港ならではの「匂い」があり、「生活感」があるものであるが、
M漁港からは、それらを全く感じることはなかった。
具体的に言うと、漁業を営んでいる証が殆ど無いのである。

皆さんもご存知のように、海で漁を営むには、
地域の漁業組合に属すなどして「漁業権」を得ることが必要で、
漁業権無しに漁具を用いて漁を営んだり、
海底の定着生物(アワビやワカメ等)を採ることは、密漁として厳しく罰せられる。

しかし、長きに渡り差別を受けてきた海辺の部落では、
この漁業権さえも満足に得ることが出来なかった。

ある資料に目を通してみると、高知県の被差別部落(O部落)に於ける
漁業の実態がレポートされている。

以下要約してみよう。
江戸時代、土佐藩により「穢多漁業雇人不相成事」(注:部落民は漁業に参加させない)
という、差別的なお触れが出された。
やむなく、部落民達は漁具を用いない“素潜り漁”で糊口を凌いだ。
明治に入り身分制度が廃止されたが、
漁協に加わることも出来ず、所謂無許可操業状態であったため、
新聞には「海賊船」などど書かれることもしばしばで、
それが新たな差別の原因となることも多々あった。
また、漁業組合法の施行により、それまで行なわれていた伝統的漁法である
「素潜り漁」も行うことができなくなり、それに伴い動力船による操業を
開始することになるが、港を持たない部落民の船の係留場所をめぐり、
地区外漁師たちとの衝突や差別事象が後を絶たなかった。
その様な、漁業差別の歴史を踏まえ、昭和44年の「同和対策特別基本法」施行
により、“自分たちの漁港を持とう!” というスローガンのもと、
昭和52年に、ついに部落にも漁港が作られた。

いま、M漁港を前にして、この港の成り立ちを知ることは出来ないが、
恐らく高知県のO部落と同じように、
NM部落も漁業差別を受けていた事は容易に想像できるのである。

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再び車に乗り込み、今度は海の反対側、つまり山方面へ向かう。
県道沿いのMセンター(かつての隣保館)から南へ約300m。
ここにも、大きな同和モニュメントがあった。
大抵の同和地区に存在する運動施設「N地区体育館」である。

かつては、地区住民の健康維持管理・娯楽目的で使用されてきた体育館も、
他の同和モニュメント同様に、現在は地区住民以外にも一般開放されている。
実際の施設利用の有無に関わらず、一般地区住民にも広く開放することは、
部落を知ってもらい、互いの理解を促す上で非常に有効な手段である。
そう言う意味では、部落関連法の終了に伴い、
閉鎖的であった部落も「開かれた部落」になりつつあり、
差別解消に向けた良い効果をもたらしていると考える。

この体育館の隣に大きな駐車場があり、
さらにその奥に、遊具を兼ね備えた立派な児童公園がある。
名前をI公園と言い、何でも、現在はアメリカ在住でこの部落出身のI氏が、
地区児童の為に私財を投じて建設した公園であるという旨が書かれている。
そういう事なので公園名に氏の名を冠しているわけであるが、
どうやら現在は、町が運営管理しているようである。

また、この公園の更に山側には団地型の町営住宅が数棟建っているが、
NM部落からは少し離れているので、関連性は今のところ不明である。
(過密で、この場所に改良住宅として建てられた可能性はあるが・・・)

以上が、おおまかなNM部落の概要である。
今回のその3は、ここで終にさせて頂くが、
次回:その4では、いよいよタイトルにある「原発」とNM部落との
関連性をレポート致します。


 「原発と共に・・・その3」 了

《その4へ続く 》

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見て記・行って記・被差別歩記-2
 ←その1  ←その2  「原発と共に・・・その3」    
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2014年10月15日水曜日

原発と共に・・・:その2/見て記・行って記・被差別歩記-2

見て記・行って記・被差別歩記-2
「原発と共に・・・:その1」からの続きです。《その1へはコチラからどうぞ》
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だが、今・・・
あたりを見渡してみても、そんな“役人村”の面影は、
何一つ残っていない。

代わりに目立って多く見られるのは「旅館群」である。
 
駅前のシティホテルのような高い建物はないが、
いずれも大きくて立派。

しかも、比較的新しいものが多く、
外見上は創業○○年のような、所謂、老舗旅館の風体ではない。
いや、歴史的には、老舗的な年月を重ねた旅館もあるのかもしれないが、
現在の建物の綺麗さからは、その過去を窺い知ることは出来ない。


その旅館が、海と山に挟まれた狭小の地に林立してるのであるから、
まさに「旅館群」と呼ぶに相応しいのである。
(調べたところ、地区内には20軒もの旅館が存在する)

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話は変わるが、
ここで、ざっと地区の様子を記しておこう。
福井県T町NM地区は、隣接したHM地区と合わせて
M地区と呼ばれ、地区内にあるJR線の駅名もM駅になっている。

しかし、NMとHMは、名前こそ同じであるが、
村のあり方は全く異なるのである。

それはつまり、HM地区は一般地区、
一方のNM地区は被差別部落であることを意味している。

【追記】
本田豊著 「部落史を歩く」によると、
HM地区内には、かつて非人小屋があり、
近年に至るまでいがみ合いが有ったと言う。
以下、その点を留意して読み進められたい。

昔の行政区分けであれば、本村のHM村に対して、
枝村のNM村ということになろうか。

実際、M地区は、左右を山と山に挟まれ、
前方を海に面する扇状地のような三角形の土地で、
地区の中を流れるS川でNMとHMが分かれている。

当然、HMの方が地区面積は大きく、田畑などの農作地も多い。
その上、家の区画もゆったりとしていて、田舎ならではの
農村風景が見て取れる。

しかし、NM地区は兎に角土地が狭い。
しかも、村の成り立ちを見てみると、
大黒山※(仮名)を削って土地を造成した事になっている。
そんな訳で、多くの「旅館群」や住宅が
所狭しと並ぶことになってしまったのであろう。

地区の中心から、山手へ向った道路沿いに「Mセンター」と言う
T町立の施設が建っている。
これが、所謂「隣保館」であるが、
鉄筋コンクリートの役所様の建物は、
静かな海辺の村には些か不釣り合いなほど、
その存在感を示しているのだった。

“存在感”の一つが、建物正面に掲げられた「人権スローガン」である。
各地の部落の人権センターや隣保館を回っているが、
未だにこのような大きなスローガンが掲げてあるのはとても珍しい。

それだけ、この町内が部落差別問題に真摯に
取り組んでいる証拠なのであるが、
それは、NM地区の部落解放運動史からも知ることが出来る。

福井県嶺南には7箇所の被差別部落があるが、
福井県内で唯一「部落解放同盟」が結成されたのが、
このNM地区なのである。

実は、解放同盟の前進の水平社は、嶺南の部落でも組織されたが、
その後の融和ムードにより「部落解放同盟」の組織化には至らなかったのだ。

被差別部落全てに、部落解放同盟が組織されたわけではない。
行政による“同和地区指定”の条件には、
部落解放同盟を始めとする指定運動団体が組織されていることなのだが、
やはり、「そっとしておいてくれ!」と言う方々も多い。

同和地区に指定されると、地区改善事業など数々の施策が行われる。
住民の生活は劇的に向上する反面、
それと引き換えに「ここは部落です!」と言う事が一目でわかる各施設
=同和モニュメントが建てられる。

それを嫌う住民の方々、特に高齢の方に多かったと聞く。

水平社にせよ部落解放同盟にせよ、創世記の運動団体の中心を担ったのが
いずれも若い解放運動家達であったことを考えても、
このことは頷ける。

ある種“闘争”と言っていい、本格的な部落解放運動が起こる水平社結成以前、
部落の運動と言えば融和運動が中心であった。
つまり、差別される側の原因は、不良住宅に住み、
身なりも粗悪、ひと度伝染病が流行ると、
差別的にその“発生源”にされてしまう部落。

「原因は、我々とムラにあるのだ!」(*地域によっては、部落をムラと呼ぶ)
「私達は、このような生活環境であるから差別されるんだ!」
「私達が身なりを整え、住環境を整備することで差別はなくなるのだ!」・・・

このような考え方が部落内部で起こったのが融和運動である。
同じく、融和思想は、部落外でもそのように理解されており、
行政や一部の企業などが、慈善活動として部落改善に取り組むのであるが、
そこには、いつも部落に対する“憐れみ”がついて回った。
それに警鐘を鳴らし、部落の自主解放を目指して組織されたのが
水平社である。

水平社の運動方針は、これまでの“融和”を否定し、
部落差別は、差別する側に問題があるということで、
「差別者の徹底糾弾」をもって部落差別を解消する画期的な運動であり、
水平社の流れをくむ「部落解放同盟」も、
運動の基本方針として、現在も尚、この姿勢を継承しているのである。

このような運動団体の概要であるが、
前途した通り、地区によっては運動を嫌う共同体もあり、
その様な地区では、運動自体も盛り上がらなかった。
これには、種々の理由が考えられるであろうが、
その理由の一つが、部落の経済性にあったことが挙げられる。

つまり、行政介入による同和施策を行なわずとも、
住民の生活が成り立っていたということなのだ。

部落には、所謂「部落産業」と呼ばれる産業を持った地区がある。
例えば、「☓☓畜産」と言った畜産業者が多く盛んな部落、
「○○製革」などの製革業者が固まっている部落、「△△造園」と言った
作庭・造園業者が集まった地区。

他に、農地があり農業で生計が立てられる地域などは、
経済的にも自立しており、生活に窮する状況ではない部落もあった。

その様な地域では、「わざわざ寝た子を起こさなくとも・・・」
と言う考えを持つ方々も多かった。
実際のところ、このような方針を持ち、
地区指定を受けいていない部落は、
都市と周辺の郊外に限っては、
現在、一般住民との混住が進み、
「消滅」してしまった地区も少なくない。

福井県内で唯一の部落解放同盟が組織され、
部落解放運動が盛んであったNM地区には、
現在、部落解放同盟福井県連の本部が置かれている。
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センターの横手には、地区住民の拠り所となったR寺が建っている。
部落の場合、同和施策が施された地域では改良住宅や
同和関連施設、公園などが作られ、
昔の不良住宅時代の町並みとはスッカリ変わってしまう。
そのなかでも、唯一変わらないのが寺である。
他の部落同様に、このR寺も恐らく地区内最古の建造物であろう。

かつて、謂れのない差別をされ続けてきた被差別部落民の
信仰心は特に強く、地区の道場を「寺」へと昇格させるために、
貧乏ながらも住民が金を出しあい“寺をつくった”歴史がある。

ただ、「寺」とは残酷なもので、
それだけの信仰心を持ってしても「部落寺院・穢多寺」と呼ばれ、
僧侶は“穢僧”として扱われ、 部落民は死して尚、差別戒名を付けられるなど、
兎に角、差別的な扱いを受け続けてきたのである。
(勿論、今となってはその様な扱いは行なわれていないのであるが)

それでも、部落民は熱心に信仰を行ってきた。
今世での現状が、少しでも良くなるように、
そして来世には、差別のない世に生まれてこれる様にとの願いを込めて。
それが、差別という理不尽な世の中に対して、
彼らが出来うる精一杯の術だったのである。

「原発と共に・・・その2」 了

《その3へ続く 》

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見て記・行って記・被差別歩記-2
←その1  「原発と共に・・・その2」 その3→   
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2014年10月9日木曜日

原発と共に・・・:その1/見て記・行って記・被差別歩記-2

先日、見て記・行って記・被差別歩記-1で、
福井県・若狭の水上勉氏の生家を訪ねましたが、
今回も、若狭を舞台にお届けします。
位置関係的には、水上氏の生家・O町の隣に位置する風光明媚な小さな部落です。
規模的には「小さな部落」でありますが、
部落史的に見れば、各方面から見ても非常に重要な部落でもあります。
では、今日のテーマ「原発と共に・・・」始まります。
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◎見て記・行って記・被差別歩記-2
 (みてき・いってき・ひさべつあるき-2)

「原発と共に・・・」その1
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空が高いとは、今日のような日を言うのだろう。
すっかり稲刈りが終った田んぼは、
辺り一面、緑から茶色に変わり、
空の青さと絶妙なコントラストを見せている。

ただ、小雨ながらも、昨夜から降リ続いた雨が完全に上がり、
この様に高い空を見せるようになったのは、
本当についさっきのことだ。

その高い空から少し視線を落とすと、

まだ紅葉の始まらぬ緑一面が連なる山々の中でも、
一際目立った山が見えている。
全国各地に「○○富士」と呼ばれる山はたくさんあるが、
このA山も、そんな「富士」の一つだ。

福井県T町NM地区。
海と山に挟まれた狭小の被差別部落が、私の今回の訪問地である。

私がここを訪れるのは今回が初めてではない。
実は随分と前から、取材のために足繁く通っているのだ。

このNM地区から駆け上がりの高台は、
綺麗に整備された公園になっている。

私は、ここから見る若狭湾が大好きで、
フィールドワークでこの地へ入ると真っ先にこの場へ立ち寄り、
そして広大な海を眺めるのだ。

先ほど“若狭湾”と書いたが、この公園から見える若狭湾は
荒々しく波がたち、侵食された岸壁に打ち付けては白い泡となり消えていく。  

それもそのはず。
福井県T町は若狭湾の西端に位置し、
“湾”というよりも多分に外海の要素を含んでいるので、
秋の訪れと共に幾分肌寒くなったにもかかわらず、
多くのサーファー達がこぞってやってくる。
そして、何よりも水の綺麗さには、何度通っていても感心させられるのだった。

公園にて暫く佇んだ後、浜辺へ出るために車に乗り込む。
-乗り込むと言っても、たかだか300mほどではあるが-
NM地区には、水のきれいな浜辺があり、
「だいこく浜(仮名)」という名が付けられ、夏には多くの海水浴客で賑わう。

(部落所在地の公表につながるため、以下文章も含め、
印の箇所は仮名・仮定とさせて頂きます。あしからずご了承ください。)

だいこく浜前の駐車場に車を停め、
浜辺へのアプローチをゆっくりと進むと、
管理棟の横手にある、大きなモニュメントが目に入った。
「大黒様」をかたどった像には銘板が付けられ、
この浜の由来が記されていた。

以下は、銘板の由来書きである
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この公園は、地域住民の長年の願いにより、
ふれあい浜辺整備事業として平成十年七月に竣工した。
当集落がここに形成されたのは、天和三年(一六八三年)頃とされている。
中ほどに小さな山があり、「大黒山」と呼称され、
守り神として人々に慕われ てきた。
以来三百年余に渡り、この地の繁栄を見守ってきた。
事業施工の際、大黒山が取り除かれたため、
人々のこの山への郷愁はことに強く、この思いを形にしたいと願ってきた。
この事業の随行に関わった多くの関係者 に対する感謝と、
この公園が地域と高浜町の発展に大きく寄与することを願 い、
ここに大黒像を建立する。
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銘板に「当集落の形成」とあるように、
このNM地区は、元々現在地より丹後街道沿いにあったそうである。
“小浜藩が刑場を作る際に移転させられた”とあるので、
それが、天和三年なのであろう。

私の不勉強で申し訳ないが、資料からでは
小浜藩の刑場が丹後街道沿いに出来たのか、はたまた、
移転先のNM地区に出来たのかは、現時点では特定することが出来なかったが、
刑場の特性から言うと、この時代の処刑は、
ある種の“見せしめ”的な効果を狙っていた事もあり、
人々が集う、目立つ場所に刑場を作るのが通例である。

と、なると、「丹後街道沿いに刑場が作られたので、
NM地区民達は現在地へ移された」と考えるのが妥当であろう。

ただ、これだけは言える。
いずれにせよ、部落は長きに渡り“役人村”でもあった。
役人村というのは現在の警察のようなもので、
刑の執行には、穢多・非人(地域により異なる)達がこれに当たった。

犯罪者とはいえ、賤民が平民を殺めるのであるから、
平民が賤民に持つ恨み辛みは相当なものであろう。
平民たちの怒りの矛先が、幕府ではなく賤民に向くのである。

つまり、このことも、江戸時代の身分制度システムの一つであり、
また、幕府を維持するためのシステムでもあった。
将に、巧妙に作り上げられた「差別」のカタチなのである。

NM地区もそんな役人村の一つであったので、
死刑が執行される際には槍を持って断罪し、
その遺体の処理に当たったのである。

《その2へ続く》
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見て記・行って記・被差別歩記-2

  「原発と共に・・・」その1 了   
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