~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから読んでいただく事を強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2017年12月6日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その7/見て記行って記被差別歩記-5

前回、隣保館の話題で少し話が脱線してしまったが本題に戻そう。
教育集会所に車を停め、あたりをウロウロしてみる。
高台にある教育集会所から望む部落と川の向こう側の旧本村
前は川、後ろは山の狭小地に存在する川向地区。
(繰り返すが、地区特定に繋がる為仮名とさせていただく)
部落の全体を急な坂が覆うのは、農山村型部落に多い立地ではあるが、
道路が整備された現在でも登り降りに一苦労する。
昔の方の聞き伝えによれば、「道は常に湿り」という記述があるように
相当な悪路だった訳で、そこを農作業の道具や荷を持って或いは、
大八車を引いて歩くのは相当過酷な環境であったと言わざる負えない。
(水がでない部落では、毎日の水汲みだけでも重労働であった)

又、前を流れる桂川は、度々氾濫を起こし、橋も幾度と無く流された。
いにしえの地区写真を見ると、川の傍の家などは橋と屋根の高さがほぼ同じ。
大雨が降るとよく水に浸かったそうで、生きた心地がしなかったに違いない。
一方、急勾配の山側は、土砂崩れや土石流の危険もあった。
川や山の危険性は、なにも川向部落に限ったことではなく、
全国の部落に共通した立地であった。

此処で、もう一冊本を紹介しよう。
『川向区の歴史』と言う書物で、1990年代に川向区歴史調査委員会と言う
地区住民がまとめたものだ。
その書物を元に、川向の歴史を簡単に記してみる。

川向の歴史は古く、江戸時代以前には既に村として存在していたようだ。
“川向は山林を所持している”と言うのがその根拠で、
江戸時代以降に成立した村は山林を持たないという。

余談ではあるが、部落に関する歴史書を読まれた方は、
多くの部落で「山林を持たず、入会(いりあい)権も認められなかった云々」
という記述を目にされた方々もおられることだろうが、この根拠からすれば、
そのような地域は、江戸時代以降に成立した部落であるといえるのかもしれない。
持ち山や入会権を持たない部落が山林の入会権を持つには、
余りにも長い時を経なければならなかった。
川向とは別の地域の解放林。山林の解放には、
長い年月と幾多の「山林解放闘争」があった。
ひと口に、「持ち山・入会権」と言うが、ナゼ入会権が必要だったのか?
このテーマの冒頭、この地域は高級建材である「北山杉」の産地として
名を馳せた旨、書き記したが、それも一つの重要な財産であることには間違いない。
しかし、杉や檜は「爺さんの代に植林して孫の代にようやく切れる」と言われるように、
現金化するまでに莫大な時間がかかる。
それよりも、もっともっと重要な・・・日々の生活に直結する役割があったのだ。

それが、山に於ける燃料の調達である。

今でこそ、ガスをひねれば火がつき、煮炊き物や風呂の湯を沸かすのに
何の労も厭わない。
ボタン一つ押せば、電子ジャーで米が炊け、エアコンで暖を取ることが出来る。

しかし、ガスや電気がなかった時代、又あっても機器が十分に
発達していなかった昭和の中頃までは、部落にかぎらず、
何処の家庭でも、かまど・いろり・風呂などで薪や枯れ草、
山で焼いた炭を用い、燃料としてきた。

昔話「桃太郎」でも“おじいさんが柴刈り”に行く場面が一番はじめに語られるが、
それ程までに、燃料の調達は、日々の暮らしを営む為の重要な仕事の一つなのであり、
『生きていく為』のライフラインであったのだ。

農業をやっている部落では、ワラも一つの『燃料』という選択肢もあったろうが、
部落産業であった草鞋や注連縄を作るための材料であったため、
恐らく無下に使用することは出来なかったに違いない。

持ち山や入会権を持たない多くの部落では、
燃料の調達もままならず、川で僅かな流木を拾ったり、
河原のススキを刈って凌いでいたそうだ。
勿論、それで賄えない場合は購入するか、或いは金を払い山へ
入らしてもらうことになるが、いずれにせよ、
部落住民にとっては相当な出費であったことには間違いない。
この様に、その地域に住みながらも山を使う権利が認められなかったのは、
部落・部落民に対する差別の結果なのだ。

余談が少々長くなってしまったが、本題に戻そう。
江戸時代以前に村が成立したのは先に述べた通りだが、
江戸時代には、今回のテーマになった「牢屋が築かれる役人村」として、
幕府よりその任を受けていた。
この村に、牢屋が築かれた理由は後述するとして、
江戸時代の生業としては、ご多分に漏れず皮革業と、
僅かな土地を利用しての農林業であった。

特に、何度か紹介しているように、この地域の特産である北山杉の切り出し
運搬などの作業に多くの牛馬が使われていた所以で、他地域よりもより多くの
斃牛馬が出た故、この部落での皮革作りも隆盛を極めたことだろう。

やがて明治4年の解放令を迎える。
が、しかし、解放令とは名ばかりで、何処の部落も差別の現状は残ったまま
仕事や特権だけが取り上げられ、おまけにそれまで課せられていなかった税の
負担が重くのしかかり、部落は熾烈な差別と極度の貧困へと突入していく。

役人村として警察業務を担ったこの村も、その役を終える事になった。

激しい差別に劣悪な住環境そして極貧の時代は、明治時代の融和事業・社会事業などで
一部改善が試みられたものの、本格的・抜本的な生活環境の改善は昭和44年の
法律施行迄待たねばならなかった。
以降、暮らしぶりは一定の改善が見られた(未指定地区など一部地域は除く)が、
差別だけは、現在に至っても尚解消されていないのは周知のとおりである。

川に隔たれた川向は、川向地区から見て“川の向う側”である本村へ向かったり、
近隣地域へ向かうためには、地区内前に掛かる橋を渡らなければならなかった。
部落への入り口に架かる八千代橋
現在は八千代橋と呼ばれるこの橋は、度重なる橋の流出被害が出る間、
ビアン橋~睦橋~八千代橋と名を変えている。
雨がふる度に大きな被害が出る橋の修復に辟易した村の住民は、
大正11年にビアン橋を村道として編入するように村へ申請をしている。

しかし、ここでも差別を受ける事になった。
村議会での「なんであいつらの為に村の金を使う必要があるんや!」
という声もあり、村道編入と新橋の建設には8年の歳月を要した。

昭和5年、幾多の差別と困難を乗り越え、遂に睦橋として村道への
昇格を果たしたこの橋は、「被差別部落と他の地域が仲良く睦み合う
ようにとの願いで名がつけられたのでしょう」と川向識字学級発行の
記録集“わかば”に記載されている。

そんな願いが込められた睦橋も昭和24年の台風で流出。
翌年、八千代橋として架橋されるも昭和34年に再度流出。
この様に、長きに渡り流出・架橋を繰り返すことだけを見ても、
この地区の暮らしが、如何に危険と隣り合わせかということがよく分かる。

居住区を固定されていた江戸時代は勿論、
明治に入り自由に居住地を変えれる世になっても、
差別と貧困でこの地に住まねばならなかった。

【その8へつづく】