~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから読んでいただく事を強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2018年9月26日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その10(完)/見て記行って記被差別歩記-5

この連載を始めてから1年以上が経った。
10回という、これまでにない長編に加え、
私の遅筆も重なり、この様な期間を要してしまった。
しかし、「江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村」も、
遂に今回が完結となる。
次作からは、もう少し簡潔にまとめようと思う。

さて、前回は、牢屋の所在地を知ることが出来たが、
残念ながら、既に取り壊されてしまっていた所までお話した。
私も現物を見てみたかったのは山々だが、無いものは仕方がないので、
此処からは、前出の資料を元に、牢屋の解説を行いたい。

尚、再度お断りしておくが、地区特定を防ぐため
部落名は「川向部落(仮名)」とさせて頂く事をご了承願う。

まずは、下の写真をご覧頂きたい。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」表紙より
この写真は、既出の資料である『京北町教育委員会編:「川向区の歴史」』の
表紙に使われた”江戸時代の牢屋”の全景である。そして、下の写真が、
私が撮影した現在の牢屋跡である。
背後の蔵は現在も残っており、車が停まっている場所に、かつて牢屋があった。
発見当時、牢屋は農機具収納庫として利用されていた。

被差別部落に蔵があることを見てもわかるように、
村年寄りとして、ある程度の財を築いていたことが伺い知れる。
蔵には、捕物に使われたであろう武具が収められていた事が、
報告書には記載されている。
映画:人間みな兄弟より
警刑吏役を担った被差別部落の捕物武具

牢屋屋の実寸は4420×3760。
場所柄だろうか?。
時代劇などに見る数部屋ある大き牢屋と比べると、
かなり小ぢんまりした印象がある。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より

牢屋内部は2つに仕切られており、その一つは一般牢。
そしてもう一つが揚り屋であった。
揚り屋は、武士・僧侶・公家など身分が高い罪人を収容した牢で、
当時の罪人には、貴貧の差がつけられていたことがよく分かる。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より
寸法は各部屋とも1880×1970であるから、
人ひとりがなんとか寝れる位のサイズである。
「入牢は長むしいやいや」と書かれた墨書きを見る限り、
このサイズの牢で、長期の入牢はかなり辛いものがあったろうが、
そこは罪人。
それだけの罪を起こしての入牢なのだから致し方あるまい。
以上が牢屋の概要である。

被差別部落の先人たちは、
警刑吏役と言う今で云う警察業務を担ってきた。
又、池番・山番・峠の番などをして、村や都市の警護にあたってきた。
これは治安維持という点で素晴らしい働きをしていたのだが、
村民からは「幕府の犬」として「番太」などと呼ばれ、
差別の対象にされてきた。

当時の穢多たちは、お上の命に忠実に従ったまでで、
もちろん、謂れなき差別であることには間違いない。
(尤も、お上としては、農民と穢多を分断する為に
巧みに仕組んだのは言うまでも無いが・・・)

被差別部落の先人たちは、言わば幕府の、
いや、この国の「役職的殉教者」なのである。

【見て記行って記被差別歩記-5】
江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村(完)