~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年5月26日火曜日

被差別部落と学校の歴史:その4(最終回)

》》学校荒廃~現在

 前回は、教育現場にも部落解放闘争が繰り広げられた話をいたしましたが、
皆さんお読みいただけたでしょうか?
学校での『部落解放闘争』と言うことで、
暴力事件などの悪い印象ばかりが先立ちますが、
それが全てではありません。

実際、昔のように、公然と差別されることは少なくなっていましたが、
それでも、学校内で、生徒や保護者、ひいては教師による差別事例が
あったことは事実です。

それらを是正し、正しい人権・同和教育を行い、
差別のない教育現場にするためにも、それらの運動は必要でありました。

さて、今日は、最終回ということですが、
上記のような闘争時代から、現在に至るまでを書いてみようと思います。

70年代後半~80年代にかけて、全国的に、学校の荒廃が問題になりました。
今から30年ほど前、テレビドラマで「スクールウォーズ」という番組をやっていたのを
覚えている方がおられるかもしれません。
荒廃した不良高校をラグビーを通じて立て直すドラマで、
モデルは、その後のラグビー界の名選手をあまた輩出した、
京都の伏見工業高校です。

そのオープニングでは、「ローカをバイクが走り、窓ガラスを割りまくる」と言うシーンが
見られますが、将にその通り。
この時代は、伏見工業だけでなく、全国の中高校がその様な有様でした。

私も、当時は小学生でしたが、タバコを吸うわ、ケンカをするわ、
おまけに、宿題もして行かず成績も悪い。
学校でも問題児だったのでしょう。
毎日のように、教師が家に来ており、その度に、母親が頭を下げていました。

今では、教師の体罰は問題になるのが当然ですが、
当時は、やりたい放題に叩かれました。
教師としては、叩いて脅せば言うことを聞くと思っていたのでしょうが、
小学生だった私は、従順になるどころか、
逆にそれが反抗心へと変わっていくのでした。

話を戻しまして、学校の”荒廃”ということですが、
よく、「部落や在日は不良が多い」と言うことを聞きます。
実際は、どうなのでしょう?

私の学校生活を例に出しますと、中学校は、校区に同和地区を含んでいましたので、
地区生徒も登校しておりました。
私の学年は、3名の男子生徒と、4名の女子生徒が地区から通っていましたが、
「不良生徒」はいませんでした。
むしろ、地区外の生徒によって不良グループが形成されていました。

しかし、先輩は違いました。
2年・3年共に、不良グループの中心は同和地区の生徒でした。
勿論、グループ全てが地区の生徒ではありません。
一般地区のものもいれば、在日もいました。
私は、特に2年の先輩にかわいがってもらいました。

先輩が卒業するときには、お下がりの学ランをもらいました。
当時は、学生服も裾の長い改造学生服が流行っており、
小ラン→中ラン→長ランと行くにしたがって裾が長くなって行きます。

私もそれまで、自分で購入した中ランを持っていたのですが、
先輩から貰ったものは、玉虫色の裏地の左右に、
龍と虎の刺繍が施してある立派なものでした。
また、ズボンも、当時は「ボンタン」と言って、モモが太くて裾がきゅっと締まっている、
建設業御用達のニッカポッカのようなズボンが主流でしたが、
私が、頂いたのは「ドカン」 と言いまして、モモも裾も同じ太さ。
つまり、エントツのようなズボンでした。
また、その太さも尋常じゃなく、裾の太さで、ゆうに靴が隠れるほどでした。

40~50代位の皆様は懐かしいですね。
今では、流行らない(と言うより、ブレザー型が主流のようですね)ですが、
マンガのビーバップハイスクールの世界が現実だったのです。

以前、私はこのブログの”生い立ち編:14”の中で「部落と不良」と言うことで、
記事を書きましたが、その時書いたことと同じことの繰り返しになりますが、
部落だから・在日だから不良が多いと言うことは、全くありません。
一般地区の生徒でも、不良はいました。

ただ、一部の校内暴力事件や風のウワサで、部落は「不良ばかり」
というイメージがクローズアップされていたにすぎません。

私どもも、中学当時は、その様な噂が流れていました。
例えば、「K中学は、市内でも(ケンカ)一番強いやろなぁ。なんせ、
あそこは部落のもんばっかりやし・・・」と、このような感じです。
実際、K中学は強かった。
それに、K中の校区のほとんどが同和地区だったので、
部落生徒の比率が多かったのも事実です。

あっ。
話が随分それてしましましたが、
今回のテーマである、「学校荒廃」については、
なにも、部落に限った話では無いことを繰り返し書いておきますが、
「被差別部落と学校」と言う大テーマに関しては、その様な荒廃の時代があったことも、
書き留めておかなければならないと思います。

さて、その様な荒廃の時代は、高校・大学進学率も低かったのですが、
同和施策が種々、行われだした頃から、進学率も上昇していきました。
(ちなみに、数々の同和施策も、平成14年の
「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」
の終結とともに完全終了となり、今は実施されておりません)

同和施策は、大きく別けて、2つの柱で行われました。
一つ目の柱が、経済的な援助です。
被差別部落は、一様に経済的困窮があり、その事が要因となり、
進学することが出来ない。
だったら、経済的に困窮していても進学できるように、
「奨学金を貸与しましょう」と言うことです。
所謂これが、同和奨学金というものです。

そしてもう一つの柱が、学習面の援助です。
同和学習と言っても、同和教育のことではありません。
ここで言う同和学習は、同和地区生徒に施された学習援助です。
簡単にいえば、隣保館の学習室や、教育会館といった場所で行われる、
同和子弟向けの学習塾のようなものです。

ただ、普通の学習塾と違うところは、
地域の学校教諭が、夜間に、隣保館なり、学習センターなりへ出向き、
補習授業を行う点です。
(詳しくは、過去に、同和指定校と普通中学の違いは?と言うことで書いておりますので、
よろしければ御覧くださいm(__)m)

この教諭の、学校外での業務に対する
報酬がどうなっていたのかは知る由もありませんが、
少なくとも、ボランティアではないでしょうね。
当番か?それとも、本人の希望でしょうか?
もしかしたら、先輩教諭からの指名かもしれませんね。

それはともかく、学校の授業が終了して、同和地区内の学習施設へ出向き、
部落の子弟へ勉強を教える。
それらの、同和施策の甲斐が実って、
高校・大学進学率も上昇していきました。

勿論、部落内でも、その間に世代交代が起こり、
「学校へは行くのが当然」のムードに変わってきたことも一つの要因であります。

ちなみに、地域の学習施設での補習授業は、
同和施策が終了してからは、同和地区以外の生徒も対象に、
近くの大学生が、ボランティアで教えてくれています。

現在は、同和地区と一般地区との格差が、
殆ど是正されたと言って過言ではありません。
だからこそ、国や地方自治体も、部落(同和地区)に対する
施策や援助等を終了させたわけです。

過去には、学校教育を受けられなかったが為に、
更に、差別や貧困に苦しむ「負の連鎖」も、
ようやく断ち切ることが出来るようになりました。

今、そして、これから未来に向って、
部落子弟が、各方面で更なる活躍をしてくれることを祈っております。

もちろん、私の大切な子供たちも、
「部落民」と言うアイデンティティを忘れすに、
将来に向って飛躍してほしいと願っています。

以上、四回に渡ってお送りしてきました、
「被差別部落と学校の歴史」簡単ではございますが、
これにて終了とさせて頂きます。
ありがとうございました。

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2015年5月17日日曜日

被差別部落と学校の歴史:その3

》》闘争時代

同和関連の法律が施行され、各部落で同和対策事業が開始されると、
やっと、一般地区との格差是正が、徐々に見られるようになりました。
同和地区指定を受けた部落にとっては、大きな生活改善が行われ、
以前に比べて著しく住環境が改善されていきました。

※ただし、これは、同和地区指定を受けた部落での話で、
同和地区指定を受けなかった、小規模部落や未指定地区では、
この限りではありません。

この頃には、就学率も以前とは比べ物にならないくらい、
飛躍的な伸びを見せます。

大阪市立大学の名誉教授で、部落問題研究の権威「原田伴彦」先生の
著書の中に、改良住宅が建ち、引っ越しした時の気持ちを綴った、
ある少女の作文が紹介されています。
その中の一部を紹介しましょう。

(要約)
「団地に移って、その日は、家族全員が嬉しくて眠れませんでした。
前の家は、冬は寒く、夏は暑い。
雨が降ると、家やトイレで傘をささなければなりませんでした。
それに、前の道は、ドロドロで歩けないくらいにひどかった。
私は、この家にずっと住めると思うと、学校に行くのがとても嬉しいです」

原田先生は、この作文の最後の部分をフューチャーし、
『住環境が変わると、学校へ行くのが楽しくなり、
そして、彼女は自分でも気が付かないうちに、解放への一歩を踏み出した』 と
結んでおられます。

さて、この様に、被差別部落が大きな変化をみせる中、
学校教育においても、種々の変化が見られるようになりました。

その一つが、教育現場でも“部落解放闘争”が盛んになったことが挙げられます。
例えば、「ゼッケン登校」や「同盟休校」などがあります。

ゼッケン登校とは、子どもたちが、登校の際に「部落解放!」とか、
「石川さん無罪!」「狭山不当裁判!」などと言ったゼッケンを着けて登校します。
このゼッケン登校は、部落解放同盟の指導のもと、部落の学童を中心に行われていました。

※狭山事件は、埼玉県狭山市で起こった殺人事件。
被差別部落民の石川一雄氏が「部落民」と言うことで逮捕され、
不当な裁判が行われたとして、部落解放同盟を始め、左翼系政治団体(過激派)なども
闘争の象徴として取り上げている。
 
※部落の子供達だけではなく、部落の生徒比率が多い学校では、
一般地区住民の子供達も参加した。

また、同盟休校と言って、前途のようなスローガンを掲げ、
全国一斉に休校(授業ボイコット)が行われました。

その他には、ハンガーストライキや校舎内への抗議の泊まり込みなど、
労働闘争さながらの活動が校内で行われていました。

これらには、賛否両論があると思います。
悪く言えば、教育現場での部落解放闘争は、子どもたちを「利用」したとの
取り方ができますが、逆に言えば、これらの活動を通じ、子どもたちの中に、
「部落民としてのアイデンティティと、解放への決意」が芽生えたのも確かな事でしょう。

先にも書いた通り、これらの抗議活動は、部落解放同盟主導で行われましたが、
部落民全員が、必ずしも一枚岩という訳ではありませんでした。

部落解放運動団体の歴史を紐解いてみますと、
大正11年の「全国水平社結成」から、僅か数年後には内紛が起こり、
初期創設メンバーのほとんどが、水平社から離れています。
以来、運動団体は、分裂・細分化の歴史を歩んでいきます。

特に、大きな流れとしては、共産対反共産という事になります。

学校闘争の中でも、特に有名なのが「八鹿高校(差別)事件」 ではないでしょうか。
この事件は、皆さんも御存知かもしれませんね。
改めて、この場で、事件を振り返ることはしませんが、
これなどは、 学校という場を借りた、
共産対反共産の典型的な政治闘争に他なりません。

八鹿高校事件は、暴力事件として、当時のマスコミでも大きく取り上げられました。
暴力を肯定する事は決して無い上で書きますが、
当時の時代背景として、政治団体が細分化し、
いずれも暴力を伴った、過激な行動が多くなっていた時代でありました。

例えば、学生運動もゲバ棒を手に、暴力化していましたし、
他団体との抗争以外にも、各団体内の内部分裂で、
リンチ殺人なども多く起こっており、連合赤軍による浅間山荘事件に
象徴されるように、より過激に、より暴力的になっていた時代でした。

このような流れの中、部落解放同盟の中にも、
一部過激な集団ができたことも、ある意味、
自然な流れだったのかもしれません。

いずれにせよ、先にも書いたように、生徒も一緒に、
ハンストや泊まり込み、ゼッケン登校などで闘争に参加した教育現場への
闘争・糾弾は、この時期が最も多く、かつ過激になった時代でもありましたが、
これを機に、それまで細々だった同和教育への取り組みが、
真摯に行われるようになったことも付け加えておかなければなりません。

=======================
 
4回に渡る「被差別部落と学校の歴史」シリーズも、
いよいよ次回が最終回です。
今回の闘争時代を経て現在に至るまでを書きたいかと思います。
次回もよろしくお願い致します。
                          S.スギムラ

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2015年5月3日日曜日

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