~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年11月18日水曜日

私が部落差別者だった理由【生立ち編-36】

部落出身の妻を持ち、被差別部落をこよなく愛す
スギムラ シンジです。

さて、先日は、私が幼き頃から少年期に渡って、
部落を差別していた“差別者”であったことを書きましたが、
今回は、その理由について語りたいとおもいます。

私が部落を差別していた理由・・・
それは、ズバリ『被差別部落に対する恐怖』からだったのです。

いえ、決して部落自体が怖かったわけではありません。
それは、私自身に感じていた恐怖であり、怯えであり、
又、否定であったわけです。

このブログの「生立ち編」でもこれまでに何度か書いているのですが、
私の母親の家は、代々、ある村の庄屋であり地主。
曾祖父の代には村長を務める名家でした。
それだけに、母方の出自はハッキリとわかっているのです。

しかし、一方で父親の方は、父自身も「よくわからない」と言うので、
『生立ちと部落の縁【生立ち編-1】参照
当然私がわかるわけがなく、しかも、父親の兄(つまり私にとっては叔父)の
奥さん(血のつながりはないが、私にとっては叔母)が被差別部落の出身なので、
その子供達(いとこ、もちろん血のつながりはある)も、
部落民であります。
また、父方の親族行事、例えば法事などがあった時は、
被差別部落に住んでいる叔母の親族も沢山やってきましたので、
他家の親戚付き合いと何ら変わらぬ光景が見られました。

このような事情から、私にとっては、
幼き頃から「被差別部落」は、大いに近い関係でありました・・・
というよりも、生まれた時から、部落とは切っても切れない縁が
あったのだと思います。

だから、一般地区で育った私は、ある意味、
近隣の子供たちが感ずるよりもずっと早く、
部落の存在を意識していたといえるかもしれません。

育った所が一般地区であるので、
否が応でも、部落に対する差別や噂を耳にすることもあります。
『続・部落を知らない差別主義者【生立ち編-5】参照

そして、中学校は、校区に同和地区を含んでおり、
部落からも生徒が通っておりました。
そこでは、もっと沢山の差別事例を耳にします。

流石に、部落生徒本人に面と向かっての“直接的差別”はありませんが、
やはり、影で差別的な噂話の類いはありました。

そんな、こんなで、幼少の頃から日に日に、
私の中の恐怖や怯えは増大していったのです。

恐怖。。。
怯え。。。
否定。。。

それは、「私は部落民ではないのか!?」という思いからくるものでした。
幼少の頃は、出自云々などということはわからないので、
余計に、その思い(部落の親戚を持って)は大きいものでした。

そして、それと同時に、私の中である一つの“心”が芽生えます。
それが、部落に対する否定でした。

「オレは部落民じゃないんや!,!絶対部落民じゃないんや!!!」・・・
この“心”が、私を差別者に仕立てあげました。

前回書いた、『私は部落差別者【生立ち編-35】』の中で書いた
私の差別意識(もちろん全て周りからの噂の受け売りで誤りですが)は、
こうして私の中で又、日々の暮らしの上で、大きなエフェクトとなっていき、
部落を差別しながらも、いつも“部落”の存在を忘れることはできなくなったのです。

この読者の方は、よくご存知の一冊かも知れませんが、
以前読んだ本の中で、自分で自分への差別手紙を
送り続けていた・・・所謂「部落差別自作自演事件」を主題にした、
高山文彦氏著作の「どん底」という作品があります。

この中で高山氏は、主人公(?)の山岡一郎が、
部落民である自身への否定が、この事件を引き起こしたのでは?
と言っていますが、ちょうど、私も、山岡一郎のような感情であったかもしれません。

被差別部落民の否定。
それが、私の差別者たる大きな要因でした。
父親の出自は未だわかりませんが、成長する中で“ある出会い”があり、
それ以来、部落以外のあらゆる差別意識はすっかり消え、
私の中では、部落民であってもなかってもそれを「自然」のこととして受け止められるだけの
大きな心境の変化が起こりました。

その『出会い』とは・・・
これまでにも、折に触れ当ブログに書いていますが、
それは次回に詳しく述べることといたしましょう。

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2015年11月4日水曜日

私は部落差別者【生立ち編‐35】

このブログでも、何度か書いていますように、
私は、幼少の頃から、高校生の頃まで、
長きに渡って被差別部落を・・・そして、部落民を差別していました。

まだ、“部落”の真の姿を知らず、
周り近所の大人たちの風評や噂話を真に受けていた小学生の頃、
今となっては、全て誤った認識なのですが・・・

・部落は怖い所
・古い家が立ち並び衛生的にも悪く、汚い所
(この頃は、同和地区の本格整備も始まってから数年なので、未着工の地区もあった)
・部落民は穢れている
・部落民と関わってはいけない
・他の人からいじめられる存在
・嫌われ者
・ヨッツなどの差別語や仕草
 etc・・・

そして、同和地区を校区に含む中学校に入ると、
同和地区の同級生達と机を並べることになり、
実際に部落民との学校生活から、部落以外の同級生達から、
また、本来部落差別をなくすために
施される『同和教育』ですら、私の中の差別意識を
増長させるのに大きな影響を与えました。
(現在、どのような同和(人権)教育が行われているかはわかりませんが)
この頃になると、年齢的にも、
より多くの情報知識を理解できるようになり、
より複雑な差別意識を持つようになります。

ただ、同じ学校で、同級生や先輩後輩たちが実際に居るわけで、
あからさまにその態度を出すことは勿論しません。

表面上では、部落差別者であることを出さず、
それ相応に付き合い、部落に対する差別は、
あくまで、私の心の中での思いであって、
今考えれば、まさしく典型的な部落差別者というべき以外の
言葉がありません。

先程も言いましたように、部落外の同級生達も
同じような付き合い方だったと思います。
それが証拠に、やはり、いろいろな場面で、
“噂”をすることがあったからです。

・社会からの阻害者
・血が濃くて、部落独特の顔つきがある
・性への芽生えが早い
・穢れているので触れてはいけない、触れられたくない
・穢多(同和教育からの受け売り言葉)
・部落民は恋愛対象外
・部落民とモメてはいけない
・部落民は集団意識が強い
・教師達ですら気を使う特別な存在
・ヤクザが多い
・ヤクザの息子が多い
・部落民だけの特別教室や、無償の補習授業がある
etc・・・


全く勝手な話ですが、自分の叔母やいとこには、
なんの差別意識も感情もなく、その他一般の被差別部落に対しては、
このような差別意識を持っていたのです。

これが、高校生になると、被差別部落観も形を変え、
より複雑な意識へと変わっていきます。
また、行動範囲もかなり広くなり、
中学校区にあった部落以外の周辺部落を目にする機会が増えました。

・同和地区は、特別な場所
・前は通れるが、中に入ることが憚られる所
・同和地区・部落民は優遇されている
・家賃も安く、補助金も沢山もらっている
・公務員への就職も有利らしい
・部落民との結婚は反対が多い
・落書き等の差別事件が多い
・同和地区前にデカデカと掲げられた攻撃的なスローガン
etc・・・

この頃は、それまでの差別感に加え、
所謂、『逆差別』意識が芽生えてきます。

それと、平行して、興味本位としての、
部落に対する関心も日に日に増していきました。
成績は悪かったですが、その中でも“社会”が
好きだったせいもあるのでしょう。

色々な地区へ行ってみたり、
河川に立ち並ぶバラックを見に行ったりと、
ホント興味本位からでしたが、
徐々に、部落やその他の差別からの、
意識転換を予期する行動も多くなってきたように思います。

先程も書きましたが、私には血が繋がった部落民の従兄弟がいます。
父親のお兄さん、つまり叔父の奥さん(私にとっては叔母ですね)が、
被差別部落出身者でしたから。

でも、その従兄弟や叔母には、
なんの差別感情もいだかなかったことも
先に述べたとおりです。

それと、続・部落を知らない差別主義者【生立ち編-5】でも書いている、
隣家のお嫁さんも部落出身者でしたが、
そのような感情は持ち得ず、むしろ、「優しいお姉さん」と言う認識でした。

このようなことから見ても、私にとっての部落差別は、
被差別部落と、そこに住む部落民に対してのものだったのかもしれません。
今考えると、一旦、部落を出て、身近な存在になると、
案外許容していたようです。

それは、やはり、自分の叔母やいとこが部落民であるということもありますが、
それ以上に、私が、このような差別者であった『真の理由』にも
大きく関係しているのかもしれません。

それは、その頃には曖昧でわかりにくかった“理由”ですが、
今では、はっきりとその“理由”はわかっています。

その“理由”とは・・・

それは、次回に書くことといたしましょう。

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