~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年12月22日月曜日

被差別部落の正月風景(元旦編)

早いもので、もう12月も終わり・・・
と、言うことは、今年も終わりという事になるのですが、
今回のシリーズ「被差別部落の正月風景」は如何でしょうか?
(過去ログはコチラからどうぞ↓)
被差別部落の正月風景(準備編
被差別部落の正月風景(大晦日編)

今回は、正月風景も最終回。
被差別部落の正月風景・元旦編をお届けします。

大晦日は、鐘撞きに行きましたが、
その後、各宅へ帰り、子供たちへの
お年玉授与を行います。

とにかく沢山の人数がいます。
甥姪、従兄弟違い(注:いとこの子)が、
次々にやってきます。

又、一族ではないけど、部落内には親戚が多く
それらの各家庭でも集まりができていますので、
そういった親しくしている親戚には、挨拶回りをします。
当然、子供が居るのでお年玉を渡し、
一盃ごちそうになり、新年の挨拶をします。

部落内の新年は、そういった集まりが各所に出来て、
夜通し賑やかになります。

====================


元旦の朝は、やはり雑煮から始まります。
雑煮は、普通のおすましですが、
私は、それに少し油かすを浮かせるのが好みです。
コクと香りがUPして、スープのような雑煮になります。

雑煮を食べたら、初詣に出かけます。
今でこそ、被差別部落の方々も普通に神社へ参拝に行きますが、
身分制度が実施されていた江戸時代には、
部落民は、“神社の鳥居をくぐることが出来ない”とか、
“神事に参加出来ない”などの差別がありました。

また、とある神社の氏子部落民は、
長きに渡り参道を歩く事が許されず、
参道脇に設けられた一段低い獣道のような
「不浄道」を通りました。
この様に、全く理不尽な差別で、
部落民は「不浄」とされてきたのです。

驚く無かれ、なんと、このような直接的差別は、
明治時代に入り解放令が出された後も、永らく続いたのです。

全く理不尽な話ですが、清目(キヨメ)という役割を担い、
寺社の掃除や死体の片づけに従事していたにも関わらず、
部落民には、信仰も満足に許されなかったのですが、
大正年間に、水平社が結成されて以来、
差別に対する戦いと啓発が実り、
いまでは、神社を始めとする信仰の場で
不利益な直接的差別を受けることはなくなりました。

神社は、部落の近くに大きな神社もあり、
部落の方々はそちらへ向かう方が多いのですが、
当方一家は、年賀状も確認しなければなりませんので、
一旦自宅へ帰り、地元の氏神へ参るのが恒例になっています。

以前、何度か妻の姉一家と一緒に当方の
氏神へ参った事があるのですが、
参道に並んでいるテキヤさんから、「飴持って行き!」とか、
「綿菓子あげる」と言って何だか随分商品を貰ったことがあります。
聞けば、義姉が若い頃にテキヤのバイトをしていたそうで、
それで、知り合いが多いということでした。
全く余談ですが、思い出しましたので、
エピソードとして書いてみました!

=================

さて、昼間、自宅の氏神へ参った後、
又、嫁の実家へ戻ります。
今夜は、新年の食事会です。

大晦日の集まりは親戚入り乱れての
ワイワイ・ガヤガヤでしたが、新年の集まりは直系だけです。
それでも、義母以下、姉一家×2と当家なので、
12人程になりますので賑やかには変わりないですね。

食事が終われば、花札大会です。
一戦一戦、負けたものが酒を呑まなければなりません。
最初は、負けても美味しいお酒が呑めるので嬉しいのですが、
負けが込んでくると、段々と苦痛になってきます。
呑ます方も面白いものですから、どんどん呑ませます。
部落の花札は、普通のルールと少し違います。
ここで、文章にして説明するのは難しいので
割愛させていただきますが、より、エキサイティングンになるように
工夫されていますので、負けた方は大変です。

以前、「味いちもんめ」というマンガ本に、
高知を題材にした話が載っていました。
酒豪王国土佐では、鰹のタタキを肴に「ハシケン」という
ゲームを行い、負けたら酒を飲まなければならないのです。
部落の花札遊びは、そんな雰囲気ですね。
さすがに、猪口に穴が開いてはいませんが・・・。
そんな遊びが長く続いてきました。

昔は、部落では娯楽が無かったので、
花札なんかの古来の遊びが、唯一の娯楽でした。
仕事が終わると、酒を片手に路地に集まり、
夜な夜な、このような遊びが行なわれていたのでしょうね。

ひとしきり飲まされ(?)、気分が良くなったら、
そのまま、同じ階の親戚宅へ一升瓶を持って訪問です。
親戚と言っても、妻でさえ遠い親戚なので、
私にとっては赤の他人同然なのですが、
それでも、部落の方々は暖かく迎えてくれます。

部落の方々は、過去の歴史から、
閉鎖的な傾向があるのは事実です。
この傾向は、若い方よりも年配の方々の方が強いのですが、
ひとたび仲間として迎えたら、暖かく接してくれます。
仲間意識は結構強いかと思います。
それが、返って部落外の方々との交流を
断ってしまっていないか?との懸念もあるのですが、
若い方々は、そのような意識も希薄なようですので、
世代交代とともに、部落外住民との交流も
盛んになってきていると感じます。

この様な流れにのって、部落民・部落外民双方の
理解と努力によって、差別のない世の中になる事を
信じてやみません。


====================


さて、正月を前に、3回に渡りお届けした
「被差別部落の正月風景」いかがでしたか?

正月行事は、「部落」というよりも、
地域性の方が大きいので一概には言えませんが、
当部落では、大体こんな感じになるかと思います。

今日も、最後までお読み頂きありがとうございました。
文末になりますが、前回のお願いを再掲させて頂きます。
よろしくお願いします。


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2014年12月18日木曜日

被差別部落の正月風景(大晦日編)

先日の被差別部落の正月風景(準備編)に続き、
今日は、大晦日編をお届けします。

このブログでも何度か紹介している通り、
正月は、盆と並び親戚縁者が一堂に会する期間であり、
部落内も大いに賑わいます。

そんな中でも、迎春準備を終えて、
来るべき新年を迎える「前夜祭」とも言える大晦日は、
師走の慌ただしさから解放され、
久しぶりにゆっくりとした時間を過ごせる日でもあります。


===========================

部落内は、正月休みに入る頃には徐々に人が集まり始めます。
妻子は、一足先に数日前から実家の部落へ帰っていますが、
私は、仕事の都合で大晦日が仕事納めになりますので、
仕事終了後に、妻の実家の部落へ向かいます。

毎年「紅白歌合戦もあと数組で終り」と言うような時間になりますが、
その頃には、妻の姉妹や甥姪が集まり、
とても賑やかになっています。

さて、大晦日のイベントとしては、やはり除夜の鐘です。
私も毎年、鐘を撞くのを楽しみにしていますが、
紅白歌合戦が終わると、「さあ、行こうか!」となるわけです。

行き先は、部落内の寺です。
中規模の都市型部落である当部落では、
部落内に寺が2箇所があります。
故意か偶然か、東側に存在するのが真宗大谷派、
西側に存在するのが浄土真宗本願寺派なので、
部落の方々は、「西さん・東さん」と呼んでいます。

妻の実家は、「西さん」の檀家なのですが、
西さんの住職が具合が悪く、ここ数年は
除夜の鐘撞きが行なわれておらず、
自然と皆さん、「東さん」へ集まります。

当部落内では、殆どの家庭が、
どちらかの寺の檀家であるわけですが、
皆さん、そんなにこだわりがないようです。

こだわりがない理由としては、その歴史的背景と、
寺の役割が挙げられるかと思います。

部落民にとって寺は、ある時は心の拠り所であり、
ある時はリーダーであり、ある時は集会の場であったのです。

部落の方々は非常に信仰心が強いのです。
現世の境遇を嘆き悲しみ、また、
来世には差別のない世の中に生まれてこれるよう、
部落の方々は、一心に信仰しました。

多くの部落では、最初は道場という形で存在していた信仰の場も、
「何とか寺として昇格させたい!」
「寺だけは立派なものを建てたい!」ということで、
雨漏りのする今にも倒れそうな家に住んでいる方々も、
苦しい暮らしの中から資金を出し合い、
寺を建立してきました。

地区改良がなされ、不良住宅が立派な団地に代わっても、
寺だけは昔と変わらず、いにしえの姿を保っているのです。

また、寺は、時には住民の代表=「指導者」の役割も持っていました。
実際、部落の決め事や運動などは、
寺が主になり実践されてきた地域が多いのです。

また、かつての部落は、狭い敷地に押し込められ、
人一人通るのがやっとの路地が張り巡らされており、
家も四畳半一間に大人数が暮らすという有り様でしたので、
とても集りなどひらける状況ではありませんでした。
そのかわり、集会所の役割を寺が担っておりました。

このように、被差別部落と寺は非常に密接な関係を持っているのですが、
昨今は、宗教の多様化・宗教離れなどにより、
寺の存在も以前より重要視されなくなってきました。

それでも、盆や命日など、最小限の宗教行事に
僧侶を呼ぶことは、今でも続いています。

そんな、寺の現状ですが、
大晦日に行われる「除夜の鐘撞き」だけは、
地域の人々も沢山集まり、篝火も焚かれた寺の庭は、
冬の寒さを吹き飛ばすかなりの熱気に包まれます。  

私などは、その様子を見る度に、
「熱気あふれる、水平社創設期の頃の寺院は、きっとこんな感じだったのだろうなぁ」と
一人、物思いにふけってしまうのです。

=======================

さて、寺の庭は、先ほど書いた通り、
沢山の方々が来られています。

年老いた方ばかりでなく、子どもや若者の姿も見れます。
篝火が焚かれた周りに手をかざし暖を取る方、
久しぶりに会った知人同士の和、
私達のように、嫁の姉妹や甥姪達の大人数で行っている方などが、
世話役さんの声で列に付きます。

「ぼちぼち始めます~」

一列になり、お賽銭を握って順番を待ちます。
鐘撞き台にあがり、鐘の下に掘ってある穴に賽銭を入れ、
静かに手を合わせ・・・

「ゴ~~~~~~ン!」

大きな音とともに、静かな部落内に鐘の音が響きます。

改良住宅のせいでしょうか?
四方に建っている団地型の改良住宅の壁が、
思わぬ反響効果を生むのかも知れません。
その鐘の音は、他で聞く以上に大きなうねりを伴っています。

撞いたら一礼をして次の方にバトンタッチです。
時を同じくして、本堂では住職の読経が始まりますが、
座って手を合わせている方はまばら。

ほとんどの方が、鐘をついたら暫しの雑談の後、
帰路につきます。
私は、とても興味があったので、十数年来で初めて、
昨年、本堂に上がり込み少し手を合わせていましたが、
雑談の終わった妻が、私を放ったらかして寺を出て行く
姿が見えましたので、諦めて私も寺を後にしました Orz

しかし、今年は、一人で住職の読経を聞いてみようと思います。


========================

鐘撞きが終われば、帰りに世話役の方から
どん兵衛の天ぷらそばとミカンを袋に入れて渡されます。

最初の頃「えっ!こんなん貰えるの?」って
世話役さんに言ったら、

「おじゅっさん(住職の方言)のお心使いやし、どうぞ」
と言っておられました。

私もいくつかの寺で鐘を撞きましたが、
土産をいただける所なんてありませんでした。
それだけ、部落は一つの共同体であると同時に、
寺が地域住民に果たしてきた役割の大きさが、
住職共々、認知されているということなのでしょう。

以前なら、東さんが終われば西さんへ鐘撞きのハシゴ!?でしたが、
前途した理由により、止む無くここ数年は鐘撞きが行なわれておらず、
そのまま、帰路につきます。

また、仏様(ご先祖様)がおられる家庭では、
納骨堂が解放されますので、合わせて拝礼をされることもありますが、
最近は、どうもお年を召した方ばかりのようです。

ちなみに、部落の墓地については地域差が有り、
郊外型・農漁村型では墓地がある地区が多いですが、
団地・マンション型の高層改良住宅が立ち並ぶ
都市型部落では、墓地の確保が難しく、
寺院内に納骨堂が作られている場合が多い様です。

妻のご先祖は納骨堂におられますが、
義母の姉、つまり、私の嫁方の叔母家は、
地区外に墓地を建立しておられます。

地域差があるでしょうが、この様な大晦日風景が、
嫁の出身部落では繰り広げられます。

さて、今回もお読み頂きありがとうございました。
次回は、最終回「被差別部落の正月風景(元旦編)」を
お届けいたします。

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2014年12月12日金曜日

被差別部落の正月風景(準備編)

早いもので、もうすぐ今年も終わりですね。
今回は、少し早いですが「被差別部落の正月風景」をお届けします。

被差別部落と言っても、都市型部落である嫁の実家の部落は、
今では殆ど、一般地区と相違がないと思います。

残念ながら、昔(地区が改良される以前)は、わかりません。
私の義母なら知っているのですが、
あまり過去のことを話したがりませんので、
私も聞かないようにしています。

なので、以下は、現在私が体感している
「被差別部落の正月風景」になります。

まず、今回は準備編をお届けいたします。

 ====================== 

以前、被差別部落のお盆風景をお届けいたしましたが、
お盆同様に、正月の部落は、とても賑わいます。
(勿論地区外も同じでしょうが・・)

親戚縁者が一堂に会するわけですから、
賑やかなのは当然ですが、いつも申しますように、
人数がハンパないのですね。

部落民は、その歴史的背景から、
親戚縁者間の関係は強固で、
しかも、同じ部落内か、又は
近くに住んでいる方が多いのです。

正月準備というと、地区内外を問わず、
子供達のお年玉の準備があげられますが、
地区外と異なる所は、その人数です。

親戚が多いということは、子供も多いのです。
部落が一つの親戚のようなものですから、
それぞれに渡していては、お金がいくらあっても足りません。
だから、妻の実家では、ある一定のルールを設けております。

お年玉は、従兄弟の子供(従兄弟違い)まで、
かつ、高校生までと言うルールですが、
それでも、最大時で15人程いましたし、
それ以外にも任意で、親戚に渡しますので
20人ほど渡さなければいけません。

非常に辛い出費ですが、我が妻もそのようにして
貰ってきているので、伝統ということで致し方ありません。

まぁ、我が家にも子供がいますので
幾分は返ってくるのですが、どっちみち子供の
お金になるのですから辛いのには変わりありませんねorz

今年も、早く郵便局へ行って両替を済ませておかなければ・・・。

次に、おせちですが、これは地区外と変わらないかと思います。
作る家庭もあるし、購入する家庭もある。
また、最近はおせちを用意しない家庭もありますね。

核家族化で若い方が増えているせいかもしれませんし、
第一、ひと昔前のように正月は「どこもかしこも休み」と
言うことはありませんから。
おせちの代わりに、“外食”も多いですね。

ただ、おせちは日本古来の伝統でもありますし、
縁起担ぎの為に食べるものでもあります。
これらの風習が無くなることはないでしょうが、
最近は有名シェフのイタリアンおせちなども好評のようです。

さて、おせちと並んで欠かせないのが、
部落独自の食文化です。
正月には、牛スジ・ホルモン・油かすなどの、
部落の伝統食材を使った料理も並びます。
この点は、地区外とは違うところだと思います。

それらの食材の仕入れも正月準備の一つです。
先日、私も“油かす”と“さいぼし”の仕入れに行ってきました。

あ、いい忘れていましたが、
私は、正月は妻の実家の部落で過ごします。
私の両親も健在で、自宅から車で10分ほどの
場所に住んでいるのですが、なぜか、
嫁の実家のほうが居心地がいいのです。
まぁ、賑やか好きなのもありますが・・・
(勿論、正月挨拶には私の両親宅にも参ります)

それから、ビールや酒などのアルコール類、
子供のジュースなども大量に用意します。
なんせ、部落内が親戚のようなものなので
取っ替え引っ替え来客があります。
それらの方々にも召し上がっていただかなければなりませんので。

後は、大掃除をして、お仏壇にきれいな花を飾ります。
注連縄や門松は、部落内ではあまり見ませんね。
ナゼでしょう?

これは推測ですが、もしかしたら、
注連縄は「売り物」であって商品だったからかもしれません。
よく漁師さんは、「自分のとった獲物を食べたことがない」といいますが、
その感覚に似ているのではないでしょうか?

被差別部落の特産物の一つとして、
縄細工が挙げられます。
草鞋や草履、注連縄などを作るのが上手だったのですが、
商品なので、自分の家には飾る風習が
無かったのではないのでしょうか?

もちろん、今現在、嫁の実家の部落内で
縄細工を営んでいる家庭は皆無ですが、
習慣として飾らない風習が残っているのかもしれません。
これも、我妻の部落で見ている限りですから、
他の部落では当てはまらないかもしれません。

余談になりますが、
部落と言っても千差万別で、それらの風習や
習慣・伝統は、”部落”の共通概念よりも、
地域性が優先されると言うことです。
言い換えれば、地域の風習・習慣がベースにある上に
部落共通の独自文化が成り立っているということでしょうか。

この様なことが、主に部落の迎春準備と言えますが、
昨今は、部落と一般地区の違いは、
殆ど見られないのではないでしょうか?
(ただ、地区改良以前は大きく違ったものと思われます)

地区改良以前の正月準備は
一体どのようなものだったのでしょう。
興味はつきませんが、追々調査研究を進めたいかと思います!


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2014年12月9日火曜日

生立ち編が読みやすくなりました!

いつも「被差別部落の暮らし」をお読み頂きありがとうございます。
また、叱咤激励のコメントも頂戴し、合わせてお礼申し上げますm(_ _)m。

さて、現在、当ブログは複数のコーナーを運営しておりますが、
記事数が増えるに従い、読みにくさが目立ってきました。

特に、これまで長期連載の「生い立ち編」は、
記事数が最も多く、時代関係もわかりにくいため、
お読みいただいている皆様に、
ご迷惑をお掛けしているのではないかとの懸念を抱いておりました。

そこで、今回、「読みやすいブログ」を目指し、
「生い立ち編」に通し番号を振る、マイナーチェンジを行いました。

以降も、徐々に改善を加え、
読みやすくわかりやすいブログを心がけていきます。

これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願いいたしますm(_ _)m。

                               S,スギムラ


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2014年12月3日水曜日

被差別部落と川

先日、「川の向こう側」と題した記事を書きましたが、
今日は、“被差別部落と川”について書いてみます。

皆さんの家の近くには、被差別部落がありますか?

大きな部落、小さな部落、都会の部落、農村部落、
同和地区、未指定部落・・・

いろいろな形の部落がありますが、
ある共通点が多いことがお分かりでしょうか?


それは。。。


川の近くに存在する(ことが多い)のです!

ことが多いと書いたのは、もちろん、
全ての部落が川の近くにあるわけではありませんが、
部落と川は、非常に密接な関係があると言えます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


被差別部落の形成は、まだまだわからないことが多く、
研究者や書物によっても異なりますが、
江戸時代は「穢多」、それ以前は「かわた(=皮多・革田など)」と呼ばれており、
主に、斃牛馬(死んでしまった牛馬)から革を作る製革業が主な仕事でした。

古代より革は非常に大切な軍需産業でした。
馬具・甲冑などの防具・弓弦などに用いられ、
各大名はお抱えのカワタ・穢多を持っており、
参勤交代の際には、穢多集団も連れて行ったと言います。

現在では、鞄や靴、衣料などに用いられ、
非常に貴重で高価な革も、
国内では昔と変わらず、主に被差別部落でなめされています。

 「皮を革」にすることを「なめす」といいますが、
機械化が進み、化学薬品を用いるようになった現在でも
非常に技術を要する仕事ですが、
それ以前は技術に加え、かなりの手間=時間を要したそうです。
(現在、これらの技術を復元し、製革されている方もおられます)

その際に欠かせないのが「川」でした。

あ・・・それと、いい忘れていましたが、
牛馬を解体するのにも水がいるでしょうし、
解体場所も広くて汚れが気にならない
河原がうってつけだったわけです。

さて、なめしの続きです。
動物から剥いだ皮を原皮といいますが、
原皮は剥いだままですから、毛や脂がついていたり、
ともすればナマモノなので腐ってしまう事もあります。

その為、皮剥が終わった皮は直ぐに川に浸けられます。
浸けられた皮はバクテリアの作用で毛穴周りだけを腐らせ、
毛を抜きやすくします。
実際の作業では、引き上げのタイミングが難しいそうです。

以降の作業行程は非常に多岐に渡るため、
ここでは割愛いたしますが、
行程中に刷り込んだ塩を抜くために、
再度、皮を川に浸けたり、
河原で天日干しにする場面があります。

この様に、“川で皮を革にする”のですが、
室町~江戸時代の京の町を屏風に描いた「洛中洛外図」というものがあります。
いくつかの種類(現在、約100種類ほど確認)があるのですが、
その一つに、穢多が河原で皮を干している姿が描かれています。


余談ですが、洛中洛外図は当時の人々の姿も
いきいきと細かく描写されており、公家大名などの姿も見れる反面、
弦召・鉢叩き・乞食など、現在の被差別部落につながる賤民達の
姿も同時に見る事ができます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


この様に、見てみると部落と川の関係が
よく理解していただけるかと思いますが、
実は、もう一つ押さえておかなければならないのが、
やはり、「差別的に川に住まわされた」と言うことです。

川というのは、普段は小さな流れでも、
ひと度雨が降ると、最も甚大な被害を受ける場所の一つです。
又、川だけでなく、崖下や急坂の上、湿地帯なども同じ理由で、
危険・不便など、人が住めない場所にあえて住まわされたり
、強制的に移転させられたのです。

もう一つ、川という場所は、人が集まる場所でもあったわけです。
再度、京の話になりますが、
京都の街中を流れる鴨川には、
平安~明治初期まで複数の刑場がありました。

夜の鴨川、特に四条大橋~三条大橋間に
カップルが等間隔に並んで座っている光景は、
今やテレビなんかでも有名ですが、
そんな、三条河原にも刑場と、斬首された首を晒す“獄門台”が
あり、通行人たちの見せしめとされていたのです。
被差別部落につながる人々は、この様に、
刑場で刑の執行や死体の処理等にあたりました。

また、河原には「小屋掛け」も多く、多数の観客が
出入りするエンターテイメントの場でもありましたし、
出雲阿国が四条河原で初めて歌舞伎を舞ったのは
とても有名な話です。
現在の被差別部落にはいくつかの系統がありますが、
この様な“芸能・エンターテイメント”も、
被差別部落につながる系統の内の一つです。

人が集まるといえば、
或いは、このような話もあります。
トラックや鉄道などが無かった時代には、
船は大切な輸送手段でした。
川を使い街から街へ荷物を運ぶ。
荷揚げの人夫や大八車や馬力での輸送など、
運輸の役を担ったのも部落の先人たちでした。

最後に、川は地区と地区を隔てる。
つまり、被差別人達を隔離するのに非常に
都合のいい場所であった事も、
誠に残念なことですが、書いておかなければなりません。


これら、種々の要因が地域的かつ、複合的に絡み合い、
部落は川の側に存在し、今に至るわけですが、
これらの生業(なりわい)に携わる人々も、我々の生活に
必要不可欠でありながらも賤視されてきたのでした。


部落を皆さんに知ってもらいたい!
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2014年11月25日火曜日

「川の向こう側」に頂いたコメントについてのアンサー

いつも、「被差別部落の暮らし」をお読みいただきまして
ありがとうございます。

先日の投稿記事「川の向こう側」如何でしたでしょうか?
沢山の方々にお読みいただきまして、
この場で感謝とお礼を申し上げますm(_ _)m

コメントもたくさんいただきました。
「叱咤激励」という言葉にふさわしく、
当ブログに関するご意見や応援などを頂戴いたしました。
いずれの御方に置かれましても、文面は違えども、
皆様の差別解消に向けての思いが
ひしひしと伝わってくる素晴らしいコメントです。

さて、今回は、その中でも一つ気がかりな事がございまして、
この場を通して、再度、
コメントに対するアンサーをさせていただくことにしました。

事を簡単に説明いたしますと・・・。
「川の向こう側」に対するコメントを“匿名さん”(コメント欄の上から3~4件目)から
頂きましたが、当方の都合で返信ができずに居りました。
そんな中、当ブログにご訪問頂いたお客様(コメント欄の上から5件目)から
コメントを頂いたのですが、お返事の文面から察する所、
どうやら、“匿名さん”はお客様のコメントを、
私の見解としてお受け取りになったようで、
再度、“匿名さん”の見解として、お返事(コメント欄の上から6件目)を頂きました。

過日、私の見解をコメント致しました。
その際には、「運動団体や同和利権」については、
時期尚早(その前に、書いておかなければならない事がまだまだあるため)と
考え、その場では深く見解を述べる事は致しませんでした。
しかし、私の心のなかにも、これは、
非常に大切な問題であると言う考えはございまして、
この度、「川の向こう側」に頂いたコメントについてのアンサーということで、
記事を設けた次第であります。

=========================

今回、匿名さんに頂いたコメントに付いての私の所見を述べる前に、
大前提と致しまして、私のスタンスと、同和施策の現状について
整理をしておかなければなりません。

★【私のスタンス】

このブログを書くに当たり、私が最も大切にしていることは、
「公平性と事実に忠実」と言うことです。

私は、部落解放同盟他、どこの運動団体にも所属しておりません

なので、特定の運動団体のみを美化したり、
逆に敵対視するわけではありません。
「良いことは良い、悪いことは悪い」と、ごく当たり前の事ですが、
私の中のモノサシで判断し、事実を曲げることなく、
かつ主義・主張に囚われることなく自由に書くことが出来ます。

また、昨今、メデイアやHP上には、
部落に関する沢山の記述があります。
例えば、かなり前になりますが、
宝島社から出版された「同和利権の真相」と言う、
部落解放運動のダークな部分を批判する本が出版されました。
対して、部落解放同盟が「同和利権の真相」を批判する
「同和利権の真相の深層」を出版しました。
私は、それらの本が発売されるとすぐに買い求め、
両本とも読みました。

その理由といたしましては、
やはり、「公平性」と言うものを大事にしたいと考えるからです。
どちらか一方の主張だけでなく、それぞれの主張をよく読み、
私のモノサシで判断し、正しい答えを引き出すことが大切だと常々考えています。

次に、このブログでも詳しく書いていますように、
現在は、私も部落出身の妻を持ち、
部落差別解消に向けてこのブログを続けていますが、
幼少~青年期には部落を差別していた“差別者”の一人
であったと言うことです。

それと同時に、私自身、部落を“外と中”から見てきました。
妻と結婚する前に、すでに差別者からの転換を迎えていましたが、
結婚して、部落を「中から」見るようになって、
被差別部落に対する、自身の考えも更に大きな転換を致しました。

以上のような事から、
より公平に物事を見ることが出来るようになりました。

「先入観なく、物事を客観的に見て正しい判断を行う」
簡単に言いますと、これが私のスタンスです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

次に、同和施策の現状を報告いたします。
★【同和施策の現状】
水平社創立~戦後、緩やかにかつ、
単発的に細々と行なわれてきた同和施策は、
昭和44年の「同和対策事業特別措置法」の制定を基に、
本格的に改善事業が始まり、ようやく多くの被差別部落で、
憲法第25条が謳っているように、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
“暮らし”ができるようになりました。

「同和対策事業特別措置法」を始めとした
同和関連の法律はその後、三度、名を変え、
最後の「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」
の期限終了を基に、平成14年、
33年間に渡る同和対策事業も完全終了いたしました。

この間、何度も書きますように、
部落解放運動及び、行政による同和施策は、
部落の生活改善に大きな役割を果たしたことは、
紛れも無い事実であります。

その施策が完全終了して12年。
同和地区も、大きな転換を迎えました。
長年「同和地区住民だけのもの」として使用されてきた
隣保館や解放会館を始めとする同和関連施設、
所謂“同和地区のランドマーク”は、今や、その名称を変え、
一般地区住民も自由に使用出来る施設として、
広く開放されております。

また、少子化が叫ばれて久しい割には、
全国各地で、保育園・幼稚園での待機児童問題が浮上しております。

同和地区内には、ほぼ、公営の保育所が設置されているのですが、
それらの、保育所も、待機児童解消のために一役買っており、
地区住民の高齢化が進んでいる同和地区において、
今や、地区外児童のほうが、圧倒的に多く登園している現状が有ります。

また、度々「逆差別」と俎上に上がる
各種の優遇措置については、
最もわかりやすい“家賃”を例に、現状を報告いたします。

同和関連法が施行されていた当時は、
確かに、家賃は他の公営住宅に比べ安く設定されていました。
しかし、法律終了後は、
国の解釈としては「同和問題は解消された」ので、
家賃も他の公営住宅と、何ら変わらない金額になりました。

つまり、地勢価格や建物の資産価値を考慮しながら、
世帯収入に応じて、家賃が設定されております。

ちなみに、妻の実家では、
対応年数を過ぎた改良住宅の立て直しで、
平成15年に建て替えられた比較的新しい改良住宅に入居しており、
その家賃は、月に約10万円です。

それだけ払えば、地区外に家を持つことも可能です。
私も以前「お義母さん、そんなに払ってるのやったら、家買わへんの?」と
聞いたことがあるのですが、定年間近の義母は、
「今更生まれ育った土地から出るのはイヤ」と申しております。
他の方々もそうだと思います。
年老いてから、長く住み慣れた土地から離れるのは、
どれほど酷な事か、想像に難くないでしょう。

ただし、若い世帯は地区外へ出てる方々が多です。
部落の高齢化が指摘されている事情には、
このようなことがあるかと思います。

同和地区の浴場も、段階を経て大幅値上げされ、
現在は、地区外の銭湯と殆ど変わらない金額になっています。

このように、法律の終了と共に、
同和地区住民への同和施策・優遇処置は
現在、全くございません。
(国の見解=同和問題は解決済み)

このことを、まず始めに大前提として、
この場に記させていただきます。

====================
★【権利(ケンリ)と利権(リケン)】
次に、私の見解といたしまして、
キチンと整理して置かなければならないのですが、
権利(ケンリ)と利権(リケン)は全く異なるということです。
その前提の上に、私の見解を述べさせて頂きます。
(*権利・利権と字が似ていますので、以下、カタカナで表記します)

第一に、同和リケンについては、匿名さん同様、
私もこれを否定いたします
それは、ともすれば法を犯す、
つまり“犯罪”である要素も多分に含むからです。

“匿名さん”は私と考えが全く異なると書いておられるのですが、
リケンにつきましては、私も過去に当ブログで見解を述べております。
その時の、記事を以下に抜粋しておきます。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「部落の隣保館とは?」(2014年4月14日投稿から抜粋)

部落解放同盟が行ってきた運動によって、
部落の生活が大きく改善したことは、
最大級の評価を送ることが出来ます。

しかし、残念ながらその反面、
ごく一部の同盟員や幹部(ホントに一部です!!)の方々に於いては、
行政との癒着や利権がありました。
そのようなことから、日本共産党や反解放同盟、
又、一般地区の方々から、
同和優遇是正の声が上がりました。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「同和リケンは無い」と言いたいところですが、
実際の所は、残念ながら「リケンはあった」と
言わざる負えない現状です。

このことは、部落解放同盟も
認めておりますので間違いはございませんが、
ただし、“リケンはあった”と言うように過去の話。
又、当時でも、同和地区住民の特権階級に
属する極々少数の方々の話です。

殆どの同和地区住民には、
全く関係のない話なのでありますが、
それが、どうも、同和地区全体のように
聞こえてしまっているのです。

それには原因があると考えます。
その原因というのが、「リケンとケンリの区別がつかない状況」
になっているのではないかということです。

つまり、同和地区住民のケンリが広く知られていない為、
リケン問題と相まって、地区外の方々に
混同されているのではないかと言う懸念です。

「同和事業」と聞くと、何もかもが全て「リケン」という事に
結びついていると考えられているのではないかと懸念するのでありますが、
実は、「同和事業」は、そのほとんどが、
国から認められた「ケンリ」なのであります。

ただ、それらのケンリが、「差別の温床」であるということに関しては
それを完全否定しなければいけません。

同和施策は、国・地方自治体の
法律・条例に基づいて行なわれており、
我々が選んだ国会議員・地方議員により
決議・承認された「ケンリ」なのです
つまり、言い換えれば、我々が同和施策を認めているということです。

これは、どんな法律でもそうですが、
当然のことながら、全ての国民がおしなべて賛成という
訳にはいかないこともあるでしょう。

しかし、民主主義の原理として、

確かに、私も以前は「何で部落は家賃が安いんだ?」などと
同和行政に疑問を持っていた時期もありましたが、
同和行政に関しての見聞を広げていくうち、
それは、「私が無知なだけ」だったと気がついたのでした。

=====================

一方、未指定地区についてはどうでしょう?
このブログを御覧の皆様については、
未指定地区については、既にご承知のとおりかと思いますが、
再度、簡単に説明しますと、同和地区として地区指定されなかった部落です。
地区指定をされていない部落なのですから、
一切の同和施策が行なわれておりません。

では、同和施策が行われていない未指定地区では、
部落差別はないのでしょうか?

答えとしては、歴然として「ある」と答えなけれればならないケースが
圧倒的に多いのです。
未指定地区は、地区戸数が3戸とか5戸とかの
小さな部落が多かったり、田舎村の一角に存在したりと、
むしろ同和地区指定された部落より、
より深刻な差別がある場合が多いのです。
(差別に大小は無いですが・・・)

話が戻るようですが、再度、属地について考えてみますが、
はたして・・・
◎同和地区(被差別部落)に居住しているから
差別を受けるのでしょうか?

◎同和地区に居住の方々が皆さん、
他地区へ転居すれば部落差別はなくなるのでしょうか?

私は、声を大にして、この答えはNOと言えます。

皆さんご存知かもしれませんが、
“人権板”と呼ばれる差別的なスレッドが乱立している
2ちゃんねる上において、部落出身者や
在日の有名・芸能人を晒すスレッドが有ります。

スレッド中の有名人たちの出自の
信ぴょう性は、疑わしいものもかなりありますが、
中には本当に被差別部落出身者の名前も晒されています。

例えば、もう亡くなられましたが、
自ら「部落民」を公表している
名俳優・三國連太郎さんの名前も挙がっています。

静岡県沼津市にある三國さんの自宅は、
さすが、国民的名俳優ということで、
豪邸と呼ぶに相応しい非常に大きなご自宅です。

テレビで芸能人、有名人の自宅訪問番組がよくやっています。
「家賃は数十万」とか、「総工費何億円」などという話をよく聞くなかで、
部落出身の有名・芸能人諸氏は、
きっと同和地区には住んでいないでしょう。
また、同和施策とも無縁だと思います。

同和地区から離れ大きな家を建て、一切の同和施策を受けなくとも、
「部落出身者」と言うことで、出自を探られ晒されるわけです。
これを差別と言わずに何と言いましょうか?

このことからも分かるように、部落(同和地区)に
住んでいるから差別されるのではないのです。

 =====================


★【双方の努力と理解】
最後になりますが、差別が「差別する側・される側」双方の
努力と理解が必要なことは、このブログでも度々書いております。
その辺りは、“匿名さん”の主張とも重なる部分があるかと思います。

以下、それらの記事を抜粋しておきます。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

◎部落の同級生宅 (2014年4月20日投稿から抜粋)

「寝た子を起こすな」という考えも部落には未だ多いですが、 私個人としては、もっとオープンな交流があっていいと思います。 「部落」を隠すことなく、「部落」とは何なのか?を知ってもらい、 その上で、互いにわだかまりなく付き合いを していくことが、 真の部落解放につながっていくと思います。
(中略)
でも、その為にも部落のことを、 皆さんにも知っていただきたい。 それと、同時に部落の方々にも、 打ち解けあえる努力をしていただきたいです。
正直、部落の方々も、閉鎖的な部分は多いです。 どうしても、「中と外」と言う意識になってしまう。 この意識は、やはり、若者よりも年配の方々に多いですね。 今の、50代から下の世代は、 その様な意識は少なくなっていると思います。
年配の方々は、劣悪な環境で暮らし、 直接的な差別を経験された方も多く、 どうしても、閉鎖的になってしまわれるのも やむおえないかもしれませんが、 差別を本気でなくすのであれば、 一般人と部落民、双方に努力が いるのではないでしょうか。


◎バラック( 2014年5月14日投稿から抜粋)

行政は、国際情勢に左右されない
人道的な見地で対応することが必要ではないかと考えます。
又、反対に地域住民も国や行政だけに責任を負わせて
「おんぶに抱っこ」するのではなく、自分たちも努力し
改善する姿勢であって欲しいと思います。

互いにいがみ合うだけでは
問題は解決しないだけでなく、
新たな差別や諍いを生みだしかねません。


◎俺は部落のモンじゃ!(トラブル再び)(2014年6月7日投稿から抜粋)

部落、部落って・・・
こんなやり取りがまかり通った時代。
これでは、差別がいくらたっても無くなる訳がありません。
繰り返し、この場を借りて言いますが、
差別からの真の解放は、差別する方・される方お互いの“努力”が
あってこそ実現します。
そして、お互いの“理解”があってこそ実現するものなのです。

部落民は部落のアイデンティティを「脅し」という形で
持つのではなく、真の解放のために持つべきです。
一方、我々は部落=コワイ・ヤヤコシイではなく、
本当にに怖いのか? 本当にヤヤコシイのか?
イメージや風評、周りからの言い伝えではなく、
部落についての正しい理解と認識を持たねばなりません。


===========================

以上、非常に長文になりましたが、
今回は「川の向こう側」に頂いた“匿名さん”の
コメントについてのアンサーです。

それと、いつもこのブログを読んでいただいている
読者の方々、コメントを頂ける方々、
この場を借りてお礼申し上げますm(_ _)m

また、“匿名さん”の
>私はあらゆる差別、区別、利権(逆差別)には断固反対である。
と言うお言葉、非常に心強く、ありがたい気持ちです。

私は、今回大きな勉強をさせていただきました。
皆さんの差別解消に対するお考えは千差万別ですが、
それは、方法論であって、 「差別を無くしたい」と言う結論、
・・・「辿り着く先は皆さん一緒なんだ!」と言うことに気が付きました。

重ねて申し上げますが、
今回は、皆さん本当に有難うございます。
それと・・・
これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願い申し上げます。
                   
                                   S.スギムラ


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2014年11月10日月曜日

被差別部落の暮らしを御覧の皆様へ~先日の通信障害についての報告~

被差別部落の暮らしを御覧の皆様へ

平素は、当ブログ「被差別部落の暮らし」を応援して頂き
誠にありがとうございます。

さて、一昨日から、障害のために当ブログを御覧いただけない
事態が続いておりました。

お楽しみにして居られた方々、
せっかくご訪問頂いた方々には、大変ご迷惑をおかけいたしましたが、

これは、Google Bloggerの通信障害のようです。

以下、詳細を載せておきますので、よろしかったら御覧くださいませ。
 

Bloggerで障害発生、日本からブログページを閲覧できない状況に

2014年11月9日 07時39分 (2014年11月10日 00時30分 更新) 

GoogleのBloggerサービスで障害が発生し、日本からブログページを閲覧できない状況になっていたよう だ。8日21時17分の発表によれば、一部のユーザーについては既に復旧しており、12時間以内にすべて復旧する予定とのこと。9日7時ごろまで閲覧でき なかった Google Japan Blog も復旧しており、他のブログページも間もなく復旧するだろう(Google - Appステータスダッシュボード)。

この件についてあるAnonymous Coward 曰く、
Google のブログサービスBloggerのURLは日本では「[ブログ名].blogspot.jp」になるのだけれども、この「blogspot.jp」が 11/7~8頃に無効化された模様。こういうときにありがちな理由があれこれ推測されているが、blogger 内コンテンツがレジストラにとっての規約違反に該当という説も出ているようだ(インターノット崩壊論者の独り言)。

BloggerのURLは以前、すべて「[ブログ名].blogspot.com」を使用していたが、現在はアクセス元別に国別コードトップレベルドメイン(ccTLD)を使用したURLを使用するように変更されている(過去記事)。 そのため、日本から「[ブログ名].blogspot.com」にアクセスしても、障害発生中の「[ブログ名].blogspot.jp」へリダイレクト されるため閲覧できない。一方、 国別リダイレクトを無効にするURL「[ブログ名].blogspot.com/ncr」や、日本以外のccTLDを使用したURL「[ブログ 名].blogspot.in」などを指定した場合は閲覧可能。なお、Bloggerのブログ作成は「blogger.com」であり、影響を受けていな い。


_____________________________

以上、今回の通信障害についてのニュース記事でした。

最後になりますが、これからも、「被差別部落の暮らし」を
よろしくお願い申し上げますm(_ _)m


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2014年11月6日木曜日

川の向こう側【生立ち編-32】

当時、私が通っていた高校では、
部活動が必須になっておりまして、
どこかの部活動に所属しなければ、
進級できない仕組みになっておりました。

元々運動系は嫌いではなかったので、
私は、某運動部に所属することにしました。

まぁ、運動は好きと言っても、
強制されるのはあまり好きじゃなかったので、
数日に一度の割合でしか参加していなかったのですが・・・。

高校は、街中にありましたのでとても校庭が狭く、
放課後の校庭は、沢山の部活動で半ば取り合いになっていましたが、
私の所属していた運動部は、
そんなに真剣に部活動に打ち込んでいるわけではないので、
近くの公園や河川敷など、もっぱら校外へ出かけることが多かったです。

「キンコ~ン」と終業のベルが鳴ると、
まず、部室へ集まります。
私達の部では、先輩後輩・男女合わせて10名程の、
運動部中最小人数の部員でこじんまりと活動していましたので、
練習スケジュールもありません。

「今日は、何しよっか~?」
「昨日は、公園で野球したしなぁ、今日は走りに行くか?」
「そうやな。走りに行こ!」
と言う具合でした。
だから、強制的な他の部活動よりも所属しやすかったです。


ちなみに「公園で野球」と書きましたが、野球部ではありません。
部活の時間に遊びで野球をするのです。
もちろん、顧問も練習には参加しませんので、
なんだか、今思い出してみたら、
大学のサークルのようなノリだったのでしょうね。

そんななかでも、K川の河川敷でよく走りました。
学校から川まで走って行って河川敷で柔軟体操や
腕立てをして更に又、河川敷を走ります。

何だか走ってばかりですが、
練習メニュー自体がないので、
走ることぐらいしかすることがないのでした。

ある日のことでした。
いつものように、河川敷を走り疲れて休憩していると、
同級生のCが・・・

C「シンちゃん(私の名)。あそこ知ってるか?」と
川の向こう側の団地を指さしました。

私「ん?どないしたんや?」
(私は、その団地のことを知っていましたが、
何だか意味深だったので、あえて知らん振りしてみました)


C「俺なぁ、子供の時、あそこの近くに住んでたんや。
  ほんでなぁ、友達やらと公園で遊んでたらな、
  俺と同じ年の女の子達と知り合いになったんや」

私「・・・」

C「ほんでなぁ、何回も公園で遊んでるうちなぁ、
その中の一人の娘を好きになったんや。Mちゃんって言うのやけどな」

私「ほんまかいなぁ、そりゃええがなー」

C「それが、ええことあらへんかったんや。俺なぁ、Mちゃんを好きになったし、
友達と2人で、あの団地の中のMちゃんの家を探しに行ったんや。
それでなぁ、団地の中に入ったところでな、俺らより小さい子供らが
10人位で固まってたんや。」

私(相づち)

C「ほんならな、俺ら見た途端、バッーと走ってきてなぁ・・・
「お前ら!どこのもんじゃ!」
「勝手に入って来るな!」
「お前ら!やったろか!」 ・・・なんて、
すごい剣幕で俺らを囲んで言うてきよったんや」

私「ほんまかいな!」

C「ほんでな、俺ら2人やろ。怖くなってなぁ。
取り敢えず謝ったんやけど、中々許してくれんのや。
それからも、いろいろ言われてなぁ。
謝りまくって、やっと帰してもらったんや」

私「それは、大変やったなぁ」

C「ほんまや。ほんでな、家帰ってから、オカンにその事言うたんや。
  ほな、オカンがな・・・」

オカン「あんた!アホちゃうか!あそこは・・・川の向こう側は
     近寄ったらあかん言うてるやないの!
     おそこはなぁ、“部落”言うて怖いとこなんやで!
     そやからな、絶対に近寄ったらあかんし、一緒に遊んでもあかん!」

C「シンちゃん・・・。俺のオカンなぁ、そう言うたんや。
 そやし、それからな、Mちゃんに公園で会った時に、
 “俺のオカンが、Mちゃんと遊んだらアカン言うてるし。
  そやし、もうMちゃんと遊ばれへんねん”って半べそかいて言うたんや。
  その時はホンマに好きやったし、
  なんでオカンが、そんなに怒るのかわからんかったけど・・・」

私「そうか。そんなことがあったんか」

C「それがなぁ、Mちゃんな、目に涙ためながら、こう言うたんや」

M「なんで、C君もそんなん言うの?
  なんで・・・。なんで、みんな私にそんなこと言うの?」

C「え!?みんなって?・・・。
みんなMちゃんと遊んだらアカン言ってるの?・・・。
でも、ごめん。オカンが絶対あかん言うてるし」

_____________________


私「・・・」

C「それで、次の日になぁ、Mちゃんのお父さんがウチに怒鳴りこんできたんやがな。
  なんや、公園で他の子に俺ん家聞いたらしくて。
  エライ剣幕やって、物凄く怖かってなぁ、
  オレ、部屋からよう出んかったんけど、
  オトンとオカンが必死で謝っとってなぁ・・・」

私「え!?ホンマに?」


C「その後、俺なぁ、引っ越して今の家に住んでるやろ、
  そやし、それ以来、Mちゃんに会ってへんねんけど、
  今でも、あの団地見たらその時のこと思い出してなぁ。
  ホンマに見たく無いんや・・・。

今なら、私もはっきりと、
「C。それはちがうで。それはな、Cとオカンが部落の事、
何にも知らんと “部落”や言うて差別したからや!
Mちゃんもそうやけど、部落の人はたまたま部落に生まれただけや。
そもそも、“部落”やからって差別される理由は何一つないんやで!」

と、はっきり言えるのですが、その頃の私は、多くの差別者の方々と同じく、
部落に対してしっかりとした知識も無いまま、
周りからの影響だけで部落を忌み嫌う、
紛れも無い部落差別者でありましたので、
次の様に答えまてしまいました。


私「そやで、C。・・・あそこはなぁ、近寄ったら怖い目に会うで!!
  実は、俺も中学の時、校区に部落があってな、
  部落の子も何人か通っとったんや。
  ほんでな、あるとき、俺も部落の同級生とトラブルを起こしたんや。
  それからは、部落の子とは表面的に付き合うてたけど、
  心の中では、今でも部落とは関わりたくないんや」

C「ホンマかいな!シンちゃんも部落とトラブったんか!?
  そうか、ほな、あの団地も部落って知ってたんや。
  ・・・ホンマ、部落のモンは怖いで。」

_________________________

2人して眺める「川の向こう側」。
沈む夕日に照らされて、中層の団地を・・・
いや、部落を一層際立たせます。
幾棟にも重なる定型で個性のない改良住宅にあって、 
屋上についたTVアンテナや給水塔だけが、妙に目立って見えました。

でも、その給水塔の下には沢山の“暮らし”があります。
時に笑い、時に喜び、時に怒る。
そして、なによりも、我々部落外の者には決して分からない、
悲しみや悔しさが、幾度となくあったことでしょう。
  
Mちゃんのその後は、今となっては誰もわかりません 。
まだ、川の向こう側の部落に居るのだろうか?
それとも、どこか外で暮らしているのだろうか?
結婚は?子供は?・・・。


勿論、楽しく暮らしていると信じていますが、
私よりも多く、Mちゃんが悲しみ、傷つき、
悔しくて眠れない夜を過ごしたことは間違いありません。
理不尽な差別のせいで・・・。


=追伸=
Mちゃん。
今は私も、君が感じたその“痛み”が、ほんの少しだけどわかります。
部落の女性と結婚し、部落民の血を引く我が子たちと暮らしていく中で、
今でも部落差別があるこの世の中を嘆き、憂います。

でも、嘆いてばかりはいられません。
差別する側・される側、互いの理解と努力
によって差別が無くなることが、私にはわかったからです。

将来、きっと部落差別は解消されることでしょう。
でも、その「将来」が少しでも早く来るために、
私は、今日もこうしてブログを書き続けます。                        

出会った事がない「川の向こう側」のMちゃんへ。
                             シンジより



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2014年11月2日日曜日

原発と共に・・・:その4(完)/見て記・行って記・被差別歩記-2

___________________________

見て記・行って記・被差別歩記-2
「原発と共に・・・:その3」からの続きです(その3はコチラから)                       
  【   ←その1  ←その2  ←その3  】
___________________________


N地区体育館&I公園前の県道はこの半島の先まで続いているが、
いくつかのトンネルを抜け暫く走ると、
海岸沿いから少しずつ登りに入リ、NM部落の隣村の漁村を
過ぎた辺りから、道は断崖絶壁の上を走る。

その漁村集落では、原発を抱えた福井県では
普通に見掛ける事ができる“ある設備”を目にすることができる。

「モニタリングポスト」がそれだ。

福井県内に106箇所設置されているモニタリングポストは、
大気中の放射線量を観測する設備で、
県と原子力事業者(関電)が設置管理しているという。

このモニタリングポストには、
単に放射線量を測定するだけの施設と、
測定した放射線量を地域住民や通行者(車)に表示・告知する、
“掲示板機能”を持ったものが存在する。

漁村集落に有るのは後者の“掲示板機能付き”の方であるが、
私も目を通してみたが、よく意味がわからなかった。
地区住民のほとんどが高齢者の方のこの集落で、
この様な表示が理解できている方が、はたして何人おられるであろう。

それにしても、このポストが「異常」を表示すると言うこと自体、
すでに手遅れなわけで、そういう意味では、この手の設備に関しては、
どうも「気休め程度の役割しか担っていないのではないか」と
考えてしまうのは私だけではないはずだ。
 (*遅ればせながら・・・
 当ブログは原発の是非を問うものではない旨、お断りさせて頂く)

___________________________


車を走らせること10分ほどで断崖絶壁の県道は、
その着地点を目指すかのように徐々に緩やかに下がっていく。
その間にも、2つのモニタリングポストを通過して進むが、
当然のことながら、車を停めてポストの掲示板を見ている方は
誰一人として居なかった。

下り坂を降りきり、再び海が窓外に並ぶ頃、
目の前に大きな建造物が林立しているのが目に入る。

T原子力発電所。

大きな建造物の正体は原子炉だ。
それは、巨大なドラム缶の様な円柱型であり、或いはまた、
アラブのモスクを彷彿させる丸屋根の原子炉であった。

福井県・若狭の自然豊かな海辺に、突如として現れる原発。
その周りを厳重にとり囲む鉄格子に剣先フェンス、そして
警備員が常駐し、猫の子1匹たりとも中に入れないぞ!という意思表示は、
見るものを威圧するのに十分すぎる効果があった。
(かく言う私も、車を停めるのが憚られ、目の前を素通りするだけであるのだが・・・)

原発を目横にしながら暫く走るとO集落へ出るが、県道はここで終わり。
来た道を引き返すことになる。

原発停止後の若狭の海では、周辺海域の海水温が2℃ほど下がり、
海の生態系も著しく変わっているという。
いや、原発が出来る前の、本来の姿に戻ったと言ったほうがいいだろうか。
以前は、青や黄色の原色鮮やかな熱帯魚が泳いでいたものだが、

温暖化が叫ばれる現代において、
少々時代に逆行するのもいいことなのかもしれない。

O集落で折り返した私は、再びNM部落へ向けて車を進める。
時折、T原発の作業員を乗せたバスが1台、また1台と
すれ違いに原発へ向かう。

原発というのは、実に多くの労力を要するものであるが、
その中でも、このバスに乗った作業員達は、
下請け・孫請けの労働者達で、原発内でも非常に危険な
作業に従事しているケースが多い。

_________________________

以下、ある「原子力発電所関係業務会社」、
(つまり、関西電力の下請け・孫請け会社)の業務内容である。

・管理区域内の放射線測定管理業務
・使用済み燃料の輸送業務
・原子炉・タービン建屋・廃棄物処理屋内の清掃除染業務
・循環水管の点検工事業務
・各種サンプピットの点検清掃業務
(定検時、原子炉・タービン建屋・廃棄物処理建屋での廃液集中ピットの異常有無の点検)
・管理区域内作業服のランドリー業務

いずれも、非常に放射線量が高く危険な「原発最前線」での
作業であるが、これらの作業にNM部落民も従事しており、
原発で働く人の割合は、NM部落住民の60%に当たるという。

以前にも、「行って記・見て記・被差別歩記-1」で述べたのだが、
福井県内の原発は、いずれも被差別部落を有する地域に建てられており、
部落からの労働者も多いが、“被差別部落だから原発が建った”と言う、
差別行政が有った訳ではない。

この理由を詳しく述べるのはもう少し検証が必要であるが、
少なくとも現時点でわかっていることは、
原発を誘致した行政と、それを受け入れた住民の
「相互利益」の為といえるのだろう。

先にも書いたように、原発は多くの雇用を生み出し、
また、多額の補助金を生み出した。
道路は綺麗になり、運動公園や箱モノが造られた。
しかし、地域住民は生活の豊かさと引き換えに、
常に不安を持つ日常を送ることになってしまった。

それでも、彼らにとっての原発は、
今となっては無くてはならない存在だ。
原発がなければ生活が成り立たない。
原発は地域にとっては、将に命綱なのだ。

無論、今や原発の是非は、
地域のみならず、国を2分する状況であることは、
彼らも百も承知のうえである。

__________________________

再びNM部落へ帰ってきた。
車を停めて、大黒像のある海岸から海を眺めながら、
私は、あることを思い出しいていた。
 (印:地区保護の為、仮名・仮定しております)

実は以前、この部落の沢山の旅館について
一つの疑問を抱いていたのだ。

その疑問というのは・・・
「この旅館は夏以外はどうしているのであろう? 」ということである。
“どうしている?”というのは、所謂稼働率のことであるが、
夏は海水浴客が訪れる事で稼働率が上がるのは頷ける。

しかし、それ以外の時期は、さして観光地もないこの地で、
どうして経営が成り立つのか不思議で仕方なかったが、
何度かこの部落へ訪れるうち、「あぁ、なるほど!」と言う光景に出くわした。

ある日の夕方、旅館の前に止まったワゴン車から、
作業服に身を包んだ数名の男性が降り、旅館へ入っていった。
現場へ通っている経験値から、その男性たちが原発
で働く作業員であることは一目見て分かった。

そうなのだ。
NM部落の旅館群は「原発ジプシー」と言われる全国の原発を
渡り歩く作業員の定宿でもあったのだ。

________________________


NM部落住民の60%が原発で働き、
なおかつ、地区内に存在する旅館群も
原発ジプシー達を受け入れる。
もはや、NM部落と原発は切っても切れない関係であるといえるし、
その周辺の一般地区に於いても又、同じ事が言えるであろう。
 
最後になったが、この浜は若狭湾からの日の出が見れる
数少ないビーチだという。
逆に若狭富士に沈む夕日もこれ又、見事なものである。

時計は午後6時。
今日も一日のフィールドワークを終え、
ゆっくりと沈む夕日に癒やされながら、
何気に振り返り海辺の大黒像を見上げた。

山に沈む前の、力強く最後の輝きを放つ夕日。
その燃ゆる夕日に照らされる大黒様
私を見てニッコリと微笑んでいた。


【完】

 
____________________________


見て記・行って記・被差別歩記-2
 「原発と共に・・・その4【完】」 
_____________________________________________ 

 
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2014年10月24日金曜日

原発と共に・・・:その3/見て記・行って記・被差別歩記-2

見て記・行って記・被差別歩記-2
「原発と共に・・・:その2」からの続きです(その2はコチラから)

_______________________________

寺から海へと向かう道は、多くの被差別部落にありがちな、
暗くて細く、曲りくねった路地とは随分様相を異にし、
海水浴場を併せ持つ「観光地部落」独特の“明るさ”があった。

青い空と広い海の開放感はさることながら、
初秋とはいえ、夏と変わらぬ強い日差しが、
あたかも太陽が2つあるように、空と海から
降注いでいるせいかもしれない。
 
それに、何しろ山と海に挟まれた狭小の地。
寺から海までは3分と掛からないので、
この辺りも「海岸」と言ってしまっても差支えがないように思えた。

海岸へ出ると、そこには立派なM漁港が広がっている。
位置関係的に見ると、丁度、冒頭で書いた“高台”へのとば口辺りだ。

_______________________________

若狭周辺には豊かな漁場が広がっており漁業は盛んだ。
車での輸送が当たり前になる以前は、
ここでとれるグジ(甘鯛)やサバは塩をして、
福井県小浜と京都市を結ぶ「鯖街道」を運び人が魚を背にして京へ運んだ。

人から車へと運搬手段は変わっても、
今も昔も若狭の魚は、京料理を、そして京の台所を支えてきたのである。

漁業が盛んということで、周辺には漁港が多く存在するのであるが、
この部落の漁港では、他の漁港では感じなかった
何かしらの違和感を覚えた。

その違和感とは・・・

「あまりにも綺麗すぎる」のだ。

港湾施設的に、新しくてきれいな漁港というのは他にも勿論あるが、
どこの漁港も、少しのウネリでも互いにきしみ合うほどに漁船が繋いであったり、
うず高く積み上げられた網や錨、発泡スチロールでできた大きなウキなどが、
たいていは港湾敷地内に“足の踏み場がない”ほどに置かれているものである。

そこには、漁港ならではの「匂い」があり、「生活感」があるものであるが、
M漁港からは、それらを全く感じることはなかった。
具体的に言うと、漁業を営んでいる証が殆ど無いのである。

皆さんもご存知のように、海で漁を営むには、
地域の漁業組合に属すなどして「漁業権」を得ることが必要で、
漁業権無しに漁具を用いて漁を営んだり、
海底の定着生物(アワビやワカメ等)を採ることは、密漁として厳しく罰せられる。

しかし、長きに渡り差別を受けてきた海辺の部落では、
この漁業権さえも満足に得ることが出来なかった。

ある資料に目を通してみると、高知県の被差別部落(O部落)に於ける
漁業の実態がレポートされている。

以下要約してみよう。
江戸時代、土佐藩により「穢多漁業雇人不相成事」(注:部落民は漁業に参加させない)
という、差別的なお触れが出された。
やむなく、部落民達は漁具を用いない“素潜り漁”で糊口を凌いだ。
明治に入り身分制度が廃止されたが、
漁協に加わることも出来ず、所謂無許可操業状態であったため、
新聞には「海賊船」などど書かれることもしばしばで、
それが新たな差別の原因となることも多々あった。
また、漁業組合法の施行により、それまで行なわれていた伝統的漁法である
「素潜り漁」も行うことができなくなり、それに伴い動力船による操業を
開始することになるが、港を持たない部落民の船の係留場所をめぐり、
地区外漁師たちとの衝突や差別事象が後を絶たなかった。
その様な、漁業差別の歴史を踏まえ、昭和44年の「同和対策特別基本法」施行
により、“自分たちの漁港を持とう!” というスローガンのもと、
昭和52年に、ついに部落にも漁港が作られた。

いま、M漁港を前にして、この港の成り立ちを知ることは出来ないが、
恐らく高知県のO部落と同じように、
NM部落も漁業差別を受けていた事は容易に想像できるのである。

____________________________

再び車に乗り込み、今度は海の反対側、つまり山方面へ向かう。
県道沿いのMセンター(かつての隣保館)から南へ約300m。
ここにも、大きな同和モニュメントがあった。
大抵の同和地区に存在する運動施設「N地区体育館」である。

かつては、地区住民の健康維持管理・娯楽目的で使用されてきた体育館も、
他の同和モニュメント同様に、現在は地区住民以外にも一般開放されている。
実際の施設利用の有無に関わらず、一般地区住民にも広く開放することは、
部落を知ってもらい、互いの理解を促す上で非常に有効な手段である。
そう言う意味では、部落関連法の終了に伴い、
閉鎖的であった部落も「開かれた部落」になりつつあり、
差別解消に向けた良い効果をもたらしていると考える。

この体育館の隣に大きな駐車場があり、
さらにその奥に、遊具を兼ね備えた立派な児童公園がある。
名前をI公園と言い、何でも、現在はアメリカ在住でこの部落出身のI氏が、
地区児童の為に私財を投じて建設した公園であるという旨が書かれている。
そういう事なので公園名に氏の名を冠しているわけであるが、
どうやら現在は、町が運営管理しているようである。

また、この公園の更に山側には団地型の町営住宅が数棟建っているが、
NM部落からは少し離れているので、関連性は今のところ不明である。
(過密で、この場所に改良住宅として建てられた可能性はあるが・・・)

以上が、おおまかなNM部落の概要である。
今回のその3は、ここで終にさせて頂くが、
次回:その4では、いよいよタイトルにある「原発」とNM部落との
関連性をレポート致します。


 「原発と共に・・・その3」 了

《その4へ続く 》

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見て記・行って記・被差別歩記-2
 ←その1  ←その2  「原発と共に・・・その3」    
________________________________  
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2014年10月15日水曜日

原発と共に・・・:その2/見て記・行って記・被差別歩記-2

見て記・行って記・被差別歩記-2
「原発と共に・・・:その1」からの続きです。《その1へはコチラからどうぞ》
_________________________


だが、今・・・
あたりを見渡してみても、そんな“役人村”の面影は、
何一つ残っていない。

代わりに目立って多く見られるのは「旅館群」である。
 
駅前のシティホテルのような高い建物はないが、
いずれも大きくて立派。

しかも、比較的新しいものが多く、
外見上は創業○○年のような、所謂、老舗旅館の風体ではない。
いや、歴史的には、老舗的な年月を重ねた旅館もあるのかもしれないが、
現在の建物の綺麗さからは、その過去を窺い知ることは出来ない。


その旅館が、海と山に挟まれた狭小の地に林立してるのであるから、
まさに「旅館群」と呼ぶに相応しいのである。
(調べたところ、地区内には20軒もの旅館が存在する)

_________________________

話は変わるが、
ここで、ざっと地区の様子を記しておこう。
福井県T町NM地区は、隣接したHM地区と合わせて
M地区と呼ばれ、地区内にあるJR線の駅名もM駅になっている。

しかし、NMとHMは、名前こそ同じであるが、
村のあり方は全く異なるのである。

それはつまり、HM地区は一般地区、
一方のNM地区は被差別部落であることを意味している。

昔の行政区分けであれば、本村のHM村に対して、
枝村のNM村ということになろうか。

実際、M地区は、左右を山と山に挟まれ、
前方を海に面する扇状地のような三角形の土地で、
地区の中を流れるS川でNMとHMが分かれている。

当然、HMの方が地区面積は大きく、田畑などの農作地も多い。
その上、家の区画もゆったりとしていて、田舎ならではの
農村風景が見て取れる。

しかし、NM地区は兎に角土地が狭い。
しかも、村の成り立ちを見てみると、
大黒山※(仮名)を削って土地を造成した事になっている。
そんな訳で、多くの「旅館群」や住宅が
所狭しと並ぶことになってしまったのであろう。

地区の中心から、山手へ向った道路沿いに「Mセンター」と言う
T町立の施設が建っている。
これが、所謂「隣保館」であるが、
鉄筋コンクリートの役所様の建物は、
静かな海辺の村には些か不釣り合いなほど、
その存在感を示しているのだった。

“存在感”の一つが、建物正面に掲げられた「人権スローガン」である。
各地の部落の人権センターや隣保館を回っているが、
未だにこのような大きなスローガンが掲げてあるのはとても珍しい。

それだけ、この町内が部落差別問題に真摯に
取り組んでいる証拠なのであるが、
それは、NM地区の部落解放運動史からも知ることが出来る。

福井県嶺南には7箇所の被差別部落があるが、
福井県内で唯一「部落解放同盟」が結成されたのが、
このNM地区なのである。

実は、解放同盟の前進の水平社は、嶺南の部落でも組織されたが、
その後の融和ムードにより「部落解放同盟」の組織化には至らなかったのだ。

被差別部落全てに、部落解放同盟が組織されたわけではない。
行政による“同和地区指定”の条件には、
部落解放同盟が組織されていることなのだが、
やはり、「そっとしておいてくれ!」と言う方々も多い。

同和地区に指定されると、地区改善事業など数々の施策が行われる。
住民の生活は劇的に向上する反面、
それと引き換えに「ここは部落です!」と言う事が一目でわかる各施設
=同和モニュメントが建てられる。

それを嫌う住民の方々、特に高齢の方に多かったと聞く。

水平社にせよ部落解放同盟にせよ、創世記の運動団体の中心を担ったのが
いずれも若い解放運動家達であったことを考えても、
このことは頷ける。

ある種“闘争”と言っていい、本格的な部落解放運動が起こる水平社結成以前、
部落の運動と言えば融和運動が中心であった。
つまり、差別される側の原因は、不良住宅に住み、
身なりも粗悪、ひと度伝染病が流行ると、
差別的にその“発生源”にされてしまう部落。

「原因は、我々とムラにあるのだ!」(*地域によっては、部落をムラと呼ぶ)
「私達は、このような生活環境であるから差別されるんだ!」
「私達が身なりを整え、住環境を整備することで差別はなくなるのだ!」・・・

このような考え方が部落内部で起こったのが融和運動である。
同じく、融和思想は、部落外でもそのように理解されており、
行政や一部の企業などが、慈善活動として部落改善に取り組むのであるが、
そこには、いつも部落に対する“憐れみ”がついて回った。
それに警鐘を鳴らし、部落の自主解放を目指して組織されたのが
水平社である。

水平社の運動方針は、これまでの“融和”を否定し、
部落差別は、差別する側に問題があるということで、
「差別者の徹底糾弾」をもって部落差別を解消する画期的な運動であり、
水平社の流れをくむ「部落解放同盟」も、
運動の基本方針として、現在も尚、この姿勢を継承しているのである。

このような運動団体の概要であるが、
前途した通り、地区によっては運動を嫌う共同体もあり、
その様な地区では、運動自体も盛り上がらなかった。
これには、種々の理由が考えられるであろうが、
その理由の一つが、部落の経済性にあったことが挙げられる。

つまり、行政介入による同和施策を行なわずとも、
住民の生活が成り立っていたということなのだ。

部落には、所謂「部落産業」と呼ばれる産業を持った地区がある。
例えば、「☓☓畜産」と言った畜産業者が多く盛んな部落、
「○○製革」などの製革業者が固まっている部落、「△△造園」と言った
作庭・造園業者が集まった地区。

他に、農地があり農業で生計が立てられる地域などは、
経済的にも自立しており、生活に窮する状況ではない部落もあった。

その様な地域では、「わざわざ寝た子を起こさなくとも・・・」
と言う考えを持つ方々も多かった。
実際のところ、このような方針を持ち、
地区指定を受けいていない部落は、
都市と周辺の郊外に限っては、
現在、一般住民との混住が進み、
「消滅」してしまった地区も少なくない。

福井県内で唯一の部落解放同盟が組織され、
部落解放運動が盛んであったNM地区には、
現在、部落解放同盟福井県連の本部が置かれている。
 ___________________________

センターの横手には、地区住民の拠り所となったR寺が建っている。
部落の場合、同和施策が施された地域では改良住宅や
同和関連施設、公園などが作られ、
昔の不良住宅時代の町並みとはスッカリ変わってしまう。
そのなかでも、唯一変わらないのが寺である。
他の部落同様に、このR寺も恐らく地区内最古の建造物であろう。

かつて、謂れのない差別をされ続けてきた被差別部落民の
信仰心は特に強く、地区の道場を「寺」へと昇格させるために、
貧乏ながらも住民が金を出しあい“寺をつくった”歴史がある。

ただ、「寺」とは残酷なもので、
それだけの信仰心を持ってしても「部落寺院・穢多寺」と呼ばれ、
僧侶は“穢僧”として扱われ、 部落民は死して尚、差別戒名を付けられるなど、
兎に角、差別的な扱いを受け続けてきたのである。
(勿論、今となってはその様な扱いは行なわれていないのであるが)

それでも、部落民は熱心に信仰を行ってきた。
今世での現状が、少しでも良くなるように、
そして来世には、差別のない世に生まれてこれる様にとの願いを込めて。
それが、差別という理不尽な世の中に対して、
彼らが出来うる精一杯の術だったのである。

「原発と共に・・・その2」 了

《その3へ続く 》

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見て記・行って記・被差別歩記-2
←その1  「原発と共に・・・その2」 その3→   
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2014年10月9日木曜日

原発と共に・・・:その1/見て記・行って記・被差別歩記-2

先日、見て記・行って記・被差別歩記-1で、
福井県・若狭の水上勉氏の生家を訪ねましたが、
今回も、若狭を舞台にお届けします。
位置関係的には、水上氏の生家・O町の隣に位置する風光明媚な小さな部落です。
規模的には「小さな部落」でありますが、
部落史的に見れば、各方面から見ても非常に重要な部落でもあります。
では、今日のテーマ「原発と共に・・・」始まります。
_______________________

◎見て記・行って記・被差別歩記-2
 (みてき・いってき・ひさべつあるき-2)

「原発と共に・・・」その1
______________________

空が高いとは、今日のような日を言うのだろう。
すっかり稲刈りが終った田んぼは、
辺り一面、緑から茶色に変わり、
空の青さと絶妙なコントラストを見せている。

ただ、小雨ながらも、昨夜から降リ続いた雨が完全に上がり、
この様に高い空を見せるようになったのは、
本当についさっきのことだ。

その高い空から少し視線を落とすと、

まだ紅葉の始まらぬ緑一面が連なる山々の中でも、
一際目立った山が見えている。
全国各地に「○○富士」と呼ばれる山はたくさんあるが、
このA山も、そんな「富士」の一つだ。

福井県T町NM地区。
海と山に挟まれた狭小の被差別部落が、私の今回の訪問地である。

私がここを訪れるのは今回が初めてではない。
実は随分と前から、取材のために足繁く通っているのだ。

このNM地区から駆け上がりの高台には、
昔、城が建っていたそうで、現在、その城址は綺麗に整備された公園になっている。

私は、ここから見る若狭湾が大好きで、
フィールドワークでこの地へ入ると真っ先にこの場へ立ち寄り、
そして広大な海を眺めるのだ。

先ほど“若狭湾”と書いたが、この城址から見える若狭湾は
荒々しく波がたち、侵食された岸壁に打ち付けては白い泡となり消えていく。  

それもそのはず。
福井県T町は若狭湾の西端に位置し、
“湾”というよりも多分に外海の要素を含んでいるので、
秋の訪れと共に幾分肌寒くなったにもかかわらず、
多くのサーファー達がこぞってやってくる。
そして、何よりも水の綺麗さには、何度通っていても感心させられるのだった。

城址にて暫く佇んだ後、浜辺へ出るために車に乗り込む。
-乗り込むと言っても、たかだか300mほどではあるが-
NM地区には、水のきれいな浜辺があり、
「だいこく浜(仮名)」という名が付けられ、夏には多くの海水浴客で賑わう。

(部落所在地の公表につながるため、以下文章も含め、
印の箇所は仮名・仮定とさせて頂きます。あしからずご了承ください。)

だいこく浜前の駐車場に車を停め、
浜辺へのアプローチをゆっくりと進むと、
管理棟の横手にある、大きなモニュメントが目に入った。
「大黒様」をかたどった像には銘板が付けられ、
この浜の由来が記されていた。

以下は、銘板の由来書きである
______________________________

この公園は、地域住民の長年の願いにより、
ふれあい浜辺整備事業として平成十年七月に竣工した。
当集落がここに形成されたのは、天和三年(一六八三年)頃とされている。
中ほどに小さな山があり、「大黒山」と呼称され、
守り神として人々に慕われ てきた。
以来三百年余に渡り、この地の繁栄を見守ってきた。
事業施工の際、大黒山が取り除かれたため、
人々のこの山への郷愁はことに強く、この思いを形にしたいと願ってきた。
この事業の随行に関わった多くの関係者 に対する感謝と、
この公園が地域と高浜町の発展に大きく寄与することを願 い、
ここに大黒像を建立する。
______________________________

銘板に「当集落の形成」とあるように、
このNM地区は、元々現在地より丹後街道沿いにあったそうである。
“小浜藩が刑場を作る際に移転させられた”とあるので、
それが、天和三年なのであろう。

私の不勉強で申し訳ないが、資料からでは
小浜藩の刑場が丹後街道沿いに出来たのか、はたまた、
移転先のNM地区に出来たのかは、現時点では特定することが出来なかったが、
刑場の特性から言うと、この時代の処刑は、
ある種の“見せしめ”的な効果を狙っていた事もあり、
人々が集う、目立つ場所に刑場を作るのが通例である。

と、なると、「丹後街道沿いに刑場が作られたので、
NM地区民達は現在地へ移された」と考えるのが妥当であろう。

ただ、これだけは言える。
いずれにせよ、部落は長きに渡り“役人村”でもあった。
役人村というのは現在の警察のようなもので、
刑の執行には、穢多・非人(地域により異なる)達がこれに当たった。

犯罪者とはいえ、賤民が平民を殺めるのであるから、
平民が賤民に持つ恨み辛みは相当なものであろう。
平民たちの怒りの矛先が、幕府ではなく賤民に向くのである。

つまり、このことも、江戸時代の身分制度システムの一つであり、
また、幕府を維持するためのシステムでもあった。
将に、巧妙に作り上げられた「差別」のカタチなのである。

NM地区もそんな役人村の一つであったので、
死刑が執行される際には槍を持って断罪し、
その遺体の処理に当たったのである。

《その2へ続く》
________________________________

見て記・行って記・被差別歩記-2

  「原発と共に・・・」その1 了   
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2014年9月25日木曜日

あいつ、部落のくせに・・・【生立ち編-31】

高校生になってからは、中学時代よりも頻繁に夜中に
友人たちと遊ぶようになっていました。

遊び相手は、やはり近所の幼馴染み。
つまり、中学時代の友人が多かったのですが、
その日初めて会ったような、俗にいう「友人の友人」と言うのも、
よく一緒になって集まっていました。

ある時、前出「部落民とのトラブル」で紹介した、
在日韓国人で地元暴走族の友人K君達と
たむろって(集まって)いた時のことです。

その日、K君は隣の地域の暴走族仲間のP君(彼も在日)を連れてきていました。
私は、暴走族の友人は多かったですが、
私自身は暴走族ではなかったので、Pとは初めて会った上に、
その一度しか会ったことがないので彼の顔や素性も全く思い出せないのですが、
この日の出来事は、今でも鮮明に覚えているのです。
__________________________

その日、私達がたむろっていると。
道路の向こうから、金色のファイヤーバード・トランザムがやってきて、
私達の前で停まりました。

スッーと窓が開いて、年の頃なら20歳前後でしょうか。
パンチパーマに剃り込みの「いかにも」って感じの男性が・・・。

「おいぃっ、Kぇ~っ!探したぞぉ~。
お前なぁ、ウチの前通るときは、もっと静かに走らんかぁぃ!
オヤジがうるさいしぃ寝れへんって言うてるんじゃぁい」
と、明らかにシンナーをやっているだろうなと言う口調でまくし立てました。

話がわかりにくいので訳しますと・・・

男性は、KとPと知り合いで、
パンチパーマの男性はヤクザの若衆で、
自分が部屋住みしている親分の家の前を走るときは、
音を最低限にして静かに通り抜けろ!と言うことです。

それまで座っていたKとPは、直ぐにスッと立ち上がり、
手を後ろに組んで「ハイッ!、ハイッ!」と聞いています。
その男性は、周りに座っている私達には目もくれず、
ひとしきりまくしたてて、KとPの「スイマセンでした!」と言う声とともに
ファイヤーバードのアクセルを目ィッパイ開き、
大音響で去って行きました。

2人は顔を見合わせた後、
Pがポツリ「チッ。あいつ!部落のくせに偉そうにすんな!」

聞こえるか聞こえないかのポツリ声でしたが、
私にはハッキリと聞こえたのです。

Kは黙っていましたが、Kにもきっと聞こえていたはずです。

___________________________

KとPは在日朝鮮・韓国人で、我が国に於いてはマイノリティーです。
現在は日韓関係の悪化とともに、日本・韓国双方の国民感情も同じく悪化しておりますが、
それ以前は、「韓流ブーム」やワールドカップ・サッカーの「日韓共同開催」など、
日本人が韓国人に対する見方も概ね好意的でした。

しかし、私達が子供の頃(昭和50年代)は、まだまだ在日韓国・朝鮮人に対する
差別は、少なからずあった時代と言えます。
(今日の両国民の感情は「その頃」に逆戻りした感もありますが・・・)
 
同じく、同じ日本国民でありながらマイノリティーとされ、
長きに渡り差別されてきた部落民も、
かつては強固な身分制度によって、
下層に行くほどいがみ合う構造を作り上げられていました。

士・農・工・商・穢多・非人

「上見て暮らすな下見て暮らせ」と、穢多は非人を、
非人は穢多を互いに蔑み、いがみ合う。

弱者やマイノリティーを対象とした差別の連鎖とでも言いましょうか。

__________________________

「○○のくせに・・・」というのは、日常会話でもよく聞きますし、
在日外国人差別・部落差別だけじゃなく、
障がい者やホームレスへの差別なども多く見られます。

今回は、一例としてP君の話をお話しましたが、
このようなケースは、カタチを変えて日々数多く見られる事象です。

また、この頃の私は、依然部落を差別していましたので、
Pと同じ立場でしたら、もしかしたら、同じような事を言っていたかもしれません。 
繰り返しになりますが、互いの理解と努力によってのみ差別は解消されると
私は信じております。
(私自身、まだまだ理解の至らない所も多々ありますが・・・)

部落差別のみならず、あらゆる差別を撤廃することが、
真の平等社会といえるのです。


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2014年9月17日水曜日

部落って怖い!【生立ち編-30】

この所、「行って記・見て記・非差別歩記」の執筆に追われ、
“生い立ち編”が随分お休みになってしまいましたが、
今日は久しぶりに“生い立ち編”です。

こちらのコーナーも、ドンドン進んでいかなければ、
いつまで経っても高校生のままですもんねぇ(>_<)

さて、私が通っていた公立高校は、
今のように、行きたい学校を自由に選択できるのではなく、
当時は居住区で通学圏が決まっていました。

ですから、何校くらいあったのでしょう?
よく覚えていませんが、10校程度の中学校から、
我がH高校へ通学していたのではないでしょうか?


H高校の校区には同和地区はありませんでした。
これまで書いてきました通り、私の出身中学の校区内には
同和地区がありましたが、地区居住の生徒は、
通学圏の定義からH高校へは通えず、隣の高校に通学しておりました。

よって、高校当時は同和教育は無かったように記憶しております。
いや、「人権教育」としてあったかもしれませんが、
あまり覚えていない所を見ると、やはり、
無かったか、あっても大した内容ではなかったのでしょう。

しかし、校区内に部落を含んでいないH高校でも、
近辺に部落があるので、やはり部落の話題はありました。

例えば・・・
「市内の中学でドコが強かった?」なんて話になりますと、
初めは強豪校の話になるのですが、
最後は、「あぁ、あそこは部落があるからなぁ」とか、
「同和の奴はツルんで来るからなぁ」とか、
「あ、そこは朝鮮人が多い地域や!」とか、
大体そういった話につながっていきます。

そして、最後は決まって「部落って怖いねぇー!」
と言う話になるのです。

同和指定校出身じゃなくても、
ある程度の人権教育を受けているのでしょうが、
全く役に立っていないことがよくわかりますね。

さて、今日のテーマ「部落って怖い!」ですが、
はたして、部落って本当に怖いのでしょうか?

それは・・
このブログをお読みいただいている方なら
よくご存知ですよね!!


部落を皆さんに知ってもらいたい!

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水上勉の生家を訪ねて:その3/行って記・見て記・被差別歩記-1

行って記・見て記・被差歩記
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《その2から続く》

サンマイ谷という記述からして、私がまっさきに思い浮かぶのは
-現在の部落民につながる-江戸時代、「穢多・かわた」同様に
被差別民であった「隠坊(おんぼう=隠亡)」の存在である。

隠坊は、各村に少人数存在する「葬送儀礼」に携わる職掌で、
墓場に居住して墓守をし、死者が出れば埋葬を行った。 
村にとっては必要不可欠な存在でありながら、
「身分制度と穢れ意識」により“差別”される人々であった。

隠坊も、詳しく書けば一つの文章になるので、
今回は簡単な記述にとどめておくが、
いずれ、改めて紹介したいかと思う。

水上の生家跡に立ち、先ず目に入ったのは、
青々と茂ったザクロの木と、その背後に迫る鬱蒼と茂った竹やぶだった。

竹やぶは、どうやら先程間違えた場所に続くようだ。

その竹やぶから幾分下方に視線を移すと、
初夏の太陽が照りつけ、明るく開けた現在の生家跡には相応しくない
5.6基程の古めかしい墓石があった。

墓地の区画はもう少し多く、10箇所ほどの区画が切ってあったが、
水差に枯れた花が手向けられている所を見ると、
墓石はなくとも、仏様が眠っておられる事は想像に難くない。

敷地内に墓場があるので、一瞬、
水上家は隠坊か?と思ってみたが、
よくよく考えれば「薪小屋を借りていた」と言うのだから
その線は否定される。

墓石に刻まれた戒名に目を通す。
部落問題を学んでいくにつれ、古い墓石を見ると
「差別戒名では?」と自然に目が行くようになるのだ。

長きに渡り、穢多・かわた(現在の部落民)は、死しても尚、
○○畜男・☓☓革女と言った「差別戒名」を付けられ、
墓に刻まれ差別されてきた。

部落解放運動の高まりとともに、
流石に今では差別戒名が残っている墓が無いことはわかっているが、
人権博物館で墓のレプリカを見て以来、
どうも確認することが癖ずいてしまったようだ。

現在私は、信仰する神仏を持たない無宗教者であるので、
戒名に関する知識は、あまり持ち合わせていない。
少ない知識ながらザッと見たところ、
どうやら、これまで学んだ差別戒名とは異にするようだ。
しかし、定かではないので、念のためメモに書き取っておく。
(後日、確認した所、通常の戒名であることを確認する)

確かに、敷地内に墓があるところから、
一見「サンマイ谷」の名称に相応しいかと思われるが、
村の墓にしては、墓の規模がかなり小さすぎる。

竹やぶの奥まで確認する事を怠ってしまい何とも言えないが、
どうも、この墓は先述の「M林左衛門さん」個人の
墓所であるのではないかと思われる。

ただ、墓の規模の大小はあろうが、水上は幼少時代を、
相当劣悪な住環境で育ったことには間違いない。

この事全てが、水上の残した作品に影響を与えたわけではないだろうが、
少なくとも、水上が生涯持ち続けた差別解消への思いは、
サンマイ谷での暮らしが大きなファクターであることは
想像に難くない。

《人は、人が住まない場所に住み、「乞食」と周りから言われ
差別されたからこそ人の痛みがわかるのだ。》
一瞬・・・。
ほんの一瞬だが、私にはそう聞こえた。

夕焼けに照らしだされる若狭湾に向って微笑む、
貧しいながらもたくましく生きる在りし日の水上少年の姿は、
今も私の心から離れない。

【終】
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