~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2017年12月9日土曜日

★お詫び★

★お詫び★
12月9日。
父親が倒れ救急搬送されました。
現在、非常に重篤な状態なので、
落ち着くまでブログを休止させて頂きます。

その為、それまでに公開を予定し書いていた記事を次の投稿で、
取り敢えずUPさせていただきます。

記事の途中で非常に申し訳ございませんが、
書ける状態になれば、続きから再開いたします。
よろしくお願いいたします。

2017年12月6日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その7/見て記行って記被差別歩記-5

前回、隣保館の話題で少し話が脱線してしまったが本題に戻そう。
教育集会所に車を停め、あたりをウロウロしてみる。
高台にある教育集会所から望む部落と川の向こう側の旧本村
前は川、後ろは山の狭小地に存在する川向地区。
(繰り返すが、地区特定に繋がる為仮名とさせていただく)
部落の全体を急な坂が覆うのは、農山村型部落に多い立地ではあるが、
道路が整備された現在でも登り降りに一苦労する。
昔の方の聞き伝えによれば、「道は常に湿り」という記述があるように
相当な悪路だった訳で、そこを農作業の道具や荷を持って或いは、
大八車を引いて歩くのは相当過酷な環境であったと言わざる負えない。
(水がでない部落では、毎日の水汲みだけでも重労働であった)

又、前を流れる桂川は、度々氾濫を起こし、橋も幾度と無く流された。
いにしえの地区写真を見ると、川の傍の家などは橋と屋根の高さがほぼ同じ。
大雨が降るとよく水に浸かったそうで、生きた心地がしなかったに違いない。
一方、急勾配の山側は、土砂崩れや土石流の危険もあった。
川や山の危険性は、なにも川向部落に限ったことではなく、
全国の部落に共通した立地であった。

此処で、もう一冊本を紹介しよう。
『川向区の歴史』と言う書物で、1990年代に川向区歴史調査委員会と言う
地区住民がまとめたものだ。
その書物を元に、川向の歴史を簡単に記してみる。

川向の歴史は古く、江戸時代以前には既に村として存在していたようだ。
“川向は山林を所持している”と言うのがその根拠で、
江戸時代以降に成立した村は山林を持たないという。

余談ではあるが、部落に関する歴史書を読まれた方は、
多くの部落で「山林を持たず、入会(いりあい)権も認められなかった云々」
という記述を目にされた方々もおられることだろうが、この根拠からすれば、
そのような地域は、江戸時代以降に成立した部落であるといえるのかもしれない。
持ち山や入会権を持たない部落が山林の入会権を持つには、
余りにも長い時を経なければならなかった。
川向とは別の地域の解放林。山林の解放には、
長い年月と幾多の「山林解放闘争」があった。
ひと口に、「持ち山・入会権」と言うが、ナゼ入会権が必要だったのか?
このテーマの冒頭、この地域は高級建材である「北山杉」の産地として
名を馳せた旨、書き記したが、それも一つの重要な財産であることには間違いない。
しかし、杉や檜は「爺さんの代に植林して孫の代にようやく切れる」と言われるように、
現金化するまでに莫大な時間がかかる。
それよりも、もっともっと重要な・・・日々の生活に直結する役割があったのだ。

それが、山に於ける燃料の調達である。

今でこそ、ガスをひねれば火がつき、煮炊き物や風呂の湯を沸かすのに
何の労も厭わない。
ボタン一つ押せば、電子ジャーで米が炊け、エアコンで暖を取ることが出来る。

しかし、ガスや電気がなかった時代、又あっても機器が十分に
発達していなかった昭和の中頃までは、部落にかぎらず、
何処の家庭でも、かまど・いろり・風呂などで薪や枯れ草、
山で焼いた炭を用い、燃料としてきた。

昔話「桃太郎」でも“おじいさんが柴刈り”に行く場面が一番はじめに語られるが、
それ程までに、燃料の調達は、日々の暮らしを営む為の重要な仕事の一つなのであり、
『生きていく為』のライフラインであったのだ。

農業をやっている部落では、ワラも一つの『燃料』という選択肢もあったろうが、
部落産業であった草鞋や注連縄を作るための材料であったため、
恐らく無下に使用することは出来なかったに違いない。

持ち山や入会権を持たない多くの部落では、
燃料の調達もままならず、川で僅かな流木を拾ったり、
河原のススキを刈って凌いでいたそうだ。
勿論、それで賄えない場合は購入するか、或いは金を払い山へ
入らしてもらうことになるが、いずれにせよ、
部落住民にとっては相当な出費であったことには間違いない。
この様に、その地域に住みながらも山を使う権利が認められなかったのは、
部落・部落民に対する差別の結果なのだ。

余談が少々長くなってしまったが、本題に戻そう。
江戸時代以前に村が成立したのは先に述べた通りだが、
江戸時代には、今回のテーマになった「牢屋が築かれる役人村」として、
幕府よりその任を受けていた。
この村に、牢屋が築かれた理由は後述するとして、
江戸時代の生業としては、ご多分に漏れず皮革業と、
僅かな土地を利用しての農林業であった。

特に、何度か紹介しているように、この地域の特産である北山杉の切り出し
運搬などの作業に多くの牛馬が使われていた所以で、他地域よりもより多くの
斃牛馬が出た故、この部落での皮革作りも隆盛を極めたことだろう。

やがて明治4年の解放令を迎える。
が、しかし、解放令とは名ばかりで、何処の部落も差別の現状は残ったまま
仕事や特権だけが取り上げられ、おまけにそれまで課せられていなかった税の
負担が重くのしかかり、部落は熾烈な差別と極度の貧困へと突入していく。

役人村として警察業務を担ったこの村も、その役を終える事になった。

激しい差別に劣悪な住環境そして極貧の時代は、明治時代の融和事業・社会事業などで
一部改善が試みられたものの、本格的・抜本的な生活環境の改善は昭和44年の
法律施行迄待たねばならなかった。
以降、暮らしぶりは一定の改善が見られた(未指定地区など一部地域は除く)が、
差別だけは、現在に至っても尚解消されていないのは周知のとおりである。

川に隔たれた川向は、川向地区から見て“川の向う側”である本村へ向かったり、
近隣地域へ向かうためには、地区内前に掛かる橋を渡らなければならなかった。
部落への入り口に架かる八千代橋
現在は八千代橋と呼ばれるこの橋は、度重なる橋の流出被害が出る間、
ビアン橋~睦橋~八千代橋と名を変えている。
雨がふる度に大きな被害が出る橋の修復に辟易した村の住民は、
大正11年にビアン橋を村道として編入するように村へ申請をしている。

しかし、ここでも差別を受ける事になった。
村議会での「なんであいつらの為に村の金を使う必要があるんや!」
という声もあり、村道編入と新橋の建設には8年の歳月を要した。

昭和5年、幾多の差別と困難を乗り越え、遂に睦橋として村道への
昇格を果たしたこの橋は、「被差別部落と他の地域が仲良く睦み合う
ようにとの願いで名がつけられたのでしょう」と川向識字学級発行の
記録集“わかば”に記載されている。

そんな願いが込められた睦橋も昭和24年の台風で流出。
翌年、八千代橋として架橋されるも昭和34年に再度流出。
この様に、長きに渡り流出・架橋を繰り返すことだけを見ても、
この地区の暮らしが、如何に危険と隣り合わせかということがよく分かる。

居住区を固定されていた江戸時代は勿論、
明治に入り自由に居住地を変えれる世になっても、
差別と貧困でこの地に住まねばならなかった。

【その8へつづく】

2017年11月30日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その6/見て記行って記被差別歩記-5

大阪では、もうすぐ造幣局の桜の通り抜け(大阪市・天満の造幣局には、
135種350本の桜が植えられており、期間中は一般開放されている。)
も終ろうかという4月の中頃。
都市部より気温が低いこの地では、季節が半月程遅いようで、
やっと桜が8分咲きというところだった。

4月も半ばというのに朝の空気は冷たく、
街なか仕様の薄着に容赦なく突き刺さる。
深山より流るる雪解け水があたりを冷やし、
より一層「川向(かわむこう)」の桜の開花を遅らせているように感じた。

京都市京北川向(地区特定につながる為、仮名とさせていただく)
ここが、全国的にも珍しい江戸時代の牢屋が
現存するという役人村(=被差別部落)である。

地区は、小さく狭い。
前は川、後ろは山という部落に在りがちな立地の中に、
改良住宅を含む20戸ほどの家が立ち並ぶ。
国道沿いに架かる川向への橋と地区全景
まずは、地区内を2周ほど回ってそれらしき建造物(牢屋)を探したが、
全くもってわからず。
丁度、橋のたもとの工務店前で、せわしなくトラックに
荷の積み込み準備をしていた作業服姿の方がおられたので問うてみたのだが、
「地区内の人間ではないから分からない」というご返事。

小さな地区であるから、すぐに見つかるとタカをくくっていたのもつかの間。
意外とてこずることとなってしまった。
だが、「江戸時代の牢屋がある」ということは、まぎれもない事実であるので、
車を降りて、歩いて調査することにした。

丁度、地区の教育集会所の前にガレージがあったので、そこに車を止めた。
川向地区教育集会所
教育集会所は、かつて隣保館の役割を担った施設で、
地域によっては、解放センター・文化会館・人権センターなどとも呼ばれたが、
おしなべて、隣保館機能をもった公共施設である。

隣保館は、会社組織でいえば総務部のような存在で、
地区住民の総合的な行政サービスを担った他、地区の集会や勉強会などに利用された。
また、解放運動が盛んだった時期は、その拠点として使用された。

しかし、平成14年に地対財特法の期限切れに伴い、
国や地方自治団体の同和施策が完全終了してからは、
隣保館はこれらのサービスを段階的に廃止。
現在では、各自治体とも、会議室や併設する体育館などを一般開放し、
地区住民以外にも広く利用される運びとなっている。

包み隠さす話をしよう。
今から15年ほど前までは、例えば「家の電球が切れたから交換してくれ」
と言う雑務依頼がたしかにあった。そのような雑務依頼にも答えていたり、
運動団体が施設内に本部を置くなど、公私混同があったのは事実である。
また、国・行政も「法律」を前に、それを見過ごしてきた・・・と言うか、
地区住民も行政職員もそれが当たり前だと思っていた時期があった。

しかし、地対財特法が終了して久しい今日では、
特定の運動団体や同和地区住民だけというスタンスからは一線を画し、
広く市民・町民に利用してもらえる施設へと生まれ変わったのと同じく、
地区住民の「隣保館を当てにしない」精神的自立が進んだことが挙げられる。

誤解がないように記しておくが、雑務依頼などは一つの細かい悪例であり全てではない。
大きな流れに沿って言えば、かつて不良住宅が立ち並ぶ貧困生活をしていた被差別部落にとって、部落民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法第25条)」に
隣保館が大いに貢献したことはまぎれもない事実であり、
決して公私混同の施設ではなく、必要不可欠な存在であったことを述べておこう。

*ここでの隣保館の記述は、昭和44年の同対法施行以降、
同和地区指定された被差別部落に対してのものであり、
同じ被差別部落でも、一切の同和施策を放棄した未指定地区に関しては
その限りではない。

【その7に続く】

2017年9月4日月曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その5/見て記行って記被差別歩記-5

前回、「丹波マンガン記念館」の話で少し寄り道をしたが、
今回から、本題である「江戸時代の牢屋を訪ねて」に話を戻そう。

江戸時代の牢屋が残るのは、京都市・京北の“*川向(かわむこう)”と言う地区。
【*地区特定に繋がるおそれがあるので、仮名とさせていただく。】

“川向”と言う名が示す通り、川を挟んだ向こう岸、山の斜面に沿った20世帯弱ほどの
小さな集落が、かつて役人村であったこの部落なのだが、この地名の由来こそが、
この部落から見ても『向こう岸』である、本村の枝村(枝郷)だったからである。

即ち、江戸時代以前のムラの相関関係としては、本村が第一で、
枝村は本村に隷属する存在であった。
その為、本村から見た「川の向こう側」と言う地名となっているのだ。

部落(かつての穢多村)は、概ねどこかのムラの枝村となっていることが多く、
独立村はかなり少なかった。

例えば、“安倍晴明の母”とされる『葛の葉(白ぎつね)伝承』が残る、
大阪府和泉市のM部落は独立村であったが、それは村制度上だけの話で、
「独立した穢多村だから差別を受けない」ということは全く無く、
他の枝村の部落と同じく、非常に厳しい差別を受けていたことは、
改めて此処に書くまでもないだろう。

私の手元に2冊の冊子がある。

一つは、『わかば』と題された冊子。
川向地区の識字学級の活動をまとめたもので、
識字で学ばれた方々の作文や、川向の歴史、識字学級で演じられた団体劇のシナリオなどが、
カラー写真付きでまとめられた、非常に貴重な一冊である。
1995年に発行されたもので、些か古い書物ではあるが、
当時の、この地区の詳細を知るには、十分過ぎる資料だ。

ちなみに、識字学級とは、子供の頃、差別や貧困で学校に通えず、
“学ぶ機会”を失った方々が、「無くした時間」を取り戻どす、人生二度目の学校のことである。

「識字」と言う言葉に我々はピンと来ない。
なぜなら、それが当たり前になっているからだ。
読み書きすることが、当然のことであり、常識として意識しないからであるが、
その常識でさえ、部落差別というものは、奪ってしまった。
地域の改善運動が実り、部落の子弟が“当たり前”に学校に通える様になるまでは、
部落では、読み書きができない方々がほとんどであった。

余談であるが、私は部落関係の書物をよく読む。
そのような書物には、決まって古文の資料が出てくるのだが、
学のない私にはチンプンカンプン。
何が書いてあるのか、「なんとなく」さえわからないことが多い。
親切な著者の方であれば、おおよその説明を入れていただいていることもあるが、
その多くは、原文のまま掲載されており、泣く泣く飛ばし読みをしている始末である。

識字学級と比べるには、かなりの飛躍であるが、
学級で学ばれている方々の気持ちが、少しではあるが、わかるような気がする瞬間だ。

そして、もう一冊が、『川向の歴史(建造物の調査)』で、
こちらも1992~3年頃の出版で、発行元が、今はなき京北町になっている。
(現在は、京都市右京区京北)

この冊子こそが、川向に現存する江戸時代の牢屋について、
詳細に調査された報告書なのだ。

今回のテーマである「江戸時代の牢屋を訪ねて」は、
この冊子と、現地でのフィールドワークを元に記述していく所存である。

【その6へ続く】

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年8月16日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その4・丹波マンガン記念館関連資料/見て記行って記被差別歩記-5

★はじめに★
【前回の投稿から、かなりの時間が経ったことをお詫びします】

さて、前回「江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その3/見て記行って記被差別歩記-5」
の中で、少々本題から外れるが、付記事項として、
『丹波マンガン記念館関連会社によるサイレン問題』について掘り下げて書いてみました。
今日は、その関連資料を添付致します。

=======

◎報道番組「ゆう+」“ウラドリコーナー”アーカイブ
http://archive.fo/Pjjx3

当日の報道内容が、まとめて掲載されている。

=====

◎丹波マンガン記念館HP中に、「発破報道について」というページが設けられれている。
http://tanbamangan.sakura.ne.jp/happahoudou.html

丹波マンガン記念館とは別法人で、発破騒動とは全く関係無としているが、
その割には、かなり詳しく釈明文章が書かれている。
それが証拠に、文章途中から、“当社は・・・”と言う言葉が使われており、
完全に当事者の表現になっている。

=====

◎丹波マンガン記念館の概要が分かる動画がUPされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=Levs-Xn3FD8

個人の方が撮影・投稿されているようだが、
私は現地へ行ったことがない(これからも行く予定はありません)ので、
このような動画はありがたい。
サイレン問題や政治問題を抜きに、遺構として見る分には非常に興味をそそられる施設である。

=====


◎この件に関して、在特会がいち早く抗議行動を行っている動画が、
Youtube・ニコ動などに複数UPされている。
https://www.youtube.com/watch?v=4py0CbDXZWg

在特会については、賛否両論・肯定否定あると思うが、
時系列的な資料として掲載する為、此処では是非を問わない。

尚、昨年施行された『ヘイトスピーチ解消法』制定のキッカケは、
在特会であることに間違いはないのであるが、
今回、抗議活動を行っている西村・荒巻両氏を中心とした、
“チーム関西”の影響が、特に大きいと思われる。

=====

◎2017年2月14日付・ソウル聯合ニュースより
従軍慰安婦像・竹島問題などで冷え込む日韓関係だが、
更なる関係悪化の火種になりうる可能性が高い「強制徴用労働者像」が、
丹波マンガン記念館に設置されているという。
また、先日、新たに韓国国内に同じく「強制徴用労働者像」が設置された。
最後に資料として、この2つの記事を掲載しておこう。


韓国二大労組 強制徴用労働者像をソウルと平壌に設置へ

2017/02/14
【ソウル聯合ニュース】日本による植民地時代に強制動員された、
少なくとも70万人に達する朝鮮人を記憶するため、韓国労働組合の二大全国組織、
韓国労働組合総連盟(韓国労総)と全国民主労働組合総連盟(民主労総)がソウルと
北朝鮮・平壌への「強制徴用労働者像」設置を推進する。両組織は14日、
像の建立推進委員会を発足させた。

強制徴用朝鮮人労働者像(資料写真)=(聯合ニュース)
強制徴用朝鮮人労働者像(資料写真)=(聯合ニュース)
 韓国労総と民主労総の委員長が常任代表を務め、
旧日本軍の慰安婦被害者支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」や
「靖国反対共同行動」の代表、革新系の最大野党「共に民主党」所属国会議員らが
共同代表として加わる。1000人以上の推進委員を募集する。

 推進委は、日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた独立運動を記念する
「3・1節」に合わせ、ソウルの竜山駅前広場で労働者像の除幕式を開催する。また、
来年には平壌に像を設置することで南北の労働者が合意したと推進委は伝えた。

 推進委は「社会の各界・各層との連帯を深め、強制徴用問題を広く伝えるとともに、
日本による植民地(支配)の謝罪と賠償問題、朝鮮半島の平和実現に一層努力していく」
としている。

 韓国労総と民主労総は昨年8月、京都市の「丹波マンガン記念館」に
強制徴用朝鮮人労働者像を設置した。

=====

◎先日、同じ像が韓国に設置
(ヨミウリ・オンライン8月12日付)

ソウルの駅前に徴用工の像…仁川の公園にも
2017年08月12日 20時42分
12日、ソウルの龍山駅前に設置された「徴用工像」(中島健太郎撮影)
12日、ソウルの龍山駅前に設置された「徴用工像」(中島健太郎撮影)

 【ソウル=中島健太郎】日本の植民地時代に朝鮮半島から動員された徴用工の像が12日、
ソウル市中心部の龍山ヨンサン駅前に設置され、除幕式が行われた。

 労働組合などでつくる韓国の市民団体が設置を進めていたもので、
式には労組や市民団体関係者のほか、文在寅ムンジェイン政権の
与党「共に民主党」の議員らが参加した。

 一方、聯合ニュースによると、ソウル近郊の仁川インチョン市内の公園にも12日、
徴用工の像が市民団体によって設置された。

 韓国国内では、ソウルの日本大使館や釜山プサン、済州チェジュの日本総領事館前に徴用工像を設置する動きがあり、日本政府が韓国政府に対応を求めている。

=====

本日、この記事を書いている間にも、『従軍慰安婦像が路線バスに設置された』と言う
ニュースが飛び込んできた。
このブログでは、異なるテーマであるため、個人的見解および、
これ以上の言及は行わないが、これらの問題が解決しないかぎり、
真の日韓友好は訪れない。

また、丹波マンガン記念館に於いても、「人権」を掲げている以上、
手段を選ばない営利行動や、政治色が強い行動は控えていただくことを望む。
何度も言うが、遺構としての価値は非常に高いだけに、誠に残念である。


◎  ◎  ◎  ◎  ◎

少々寄り道をしましたが、次回は、「江戸時代の牢屋を訪ねて」本編に戻ります。
また、当方の都合で、更新頻度が低いことを改めてお詫び申し上げます。

更新頻度は低いですが、このブログは、私のライフワークとして必ず書き続けますので、
これからも、よろしくお願い致します。

スギムラシンジ

2017年6月30日金曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その3/見て記行って記被差別歩記-5


“大音量サイレン”の一件から程なくして、
サイレンの主が、「丹波マンガン記念館」を運営する李龍植氏であることを知った。
その事情を知った以上、私の感情は「ひどい!!」から「憤り」へと変化するに至ったのだった。

いや、李氏が在日韓国・朝鮮人だからと言う、在日外国人への差別では決して無い。

李氏が、「人権」と銘打って資料館を作り、本を書いていることへの憤りなのである。

「丹波マンガン記念館」の存在自体は、早くから知っていた。
機会があれば、一度訪れてみたいとも思ったことがある。
このような事情を知る、ずっと前の話であるから、在日・部落・人権と言う枠組みではなく、
これまでに訪れた「富士の氷穴」や「沖縄の玉泉洞」よろしく、
単に、“マンガン坑”の見学という、冒険的・好奇心的な範疇である。

しかし、先に述べたように、テレビ報道から程なくして、『その事実』を知ってから、
ある一冊の本の存在に気がついた。
「丹波マンガン記念館の7300日-李龍植」が、その本である。
この本は、驚く無かれ、差別に徹底抗戦する“解放出版社”から出ているのである。
解放出版社は、部落解放同盟の出版部門であるが、現在は部落問題のみならず、
障がい者・在日・いじめ等、人権問題全般の本を出版している。
件の出来事は、おおよそ「人権」を謳う出版社から本を出していた人物とは思えない
「暴挙」といえるのではないだろうか?


肝心の本の内容であるが、読んだのがもう随分前のことなので詳細は忘れてしまい、
此処では紹介することは出来ないが、断片的に覚えているのは、
強制的(本の記述による)に半島から徴用された韓国・朝鮮人が坑内夫として働いていたこと。又、“周辺”の被差別部落民が、マンガンの選別作業にあたっていたこと。
そして、氏の父親が私財を投じて記念館を興し、その後、
運営を氏が引き継いだと言うことなどだ。

興味がある方は一読してみては如何であろう。

さて、マンガンと聞いて、ずぐに思い浮かぶのは「マンガン乾電池」であるが、
乾電池に使われるのはごく一部で、産出されたマンガンの殆どは、
鉄を強くする添加物として使用されている。
その為、戦時中は翼賛体制のもと、戦艦や兵器を作る大切な軍需産業として大いに奨励された。

しかし、炭鉱労働と同じく、その作業は熾烈を極め、
過酷な労働環境の元、タコ部屋状態で労働に駆りだされていたという。

筑豊・田川の炭鉱を舞台にした、五木寛之の「青春の門」。

映画冒頭に描かれている、炭鉱崩落事故さながらの、マンガン鉱崩落事故もあったに違いない。
もしかしたら、明るみに出ていないが、今で言う「じん肺」の問題もあったであろう。

「青春の門」では、ヤクザ・在日・日本人鉱夫(部落民が多かった)が描かれているが、
遠く離れた京都・京北のこのマンガン鉱でも、労働者は同じ構成であった。

それは、“命と引換えの過酷な労働環境”であった事を繰り返し書き留めておこう。

そんな、過酷な労働環境で働いてきた龍植氏の父親が、
「人権」の大切さを訴えるために、私財を投じて作ったのが「丹波マンガン記念館」だったのだ。
(更に、丹波マンガン記念館は、全国の人権団体が加盟する「人権ネット」と言う団体にも加盟している。)

しかし、龍植氏の父親から代替わりした今日、今でもマンガンを掘ってはいるが、
近代化や機械化の力も伴って、その労働環境は驚くほどに改善したはずだ。

もしかしたら龍植氏は、労働環境な改善とともに、
「人権」の心を忘れてしまったのかも知れない。
私利私欲のために、人の痛みや悲しみが見えなくなってしまったのだとしたら、
それは非常に憂う事態である。

何度も言うが、李氏が在日だからではない。
たとえ、このような事態を日本人が引き起こしていても、私は憤りを感ずる事は言うまでもない。
なぜなら、「人権」と銘打った活動をしてるからである。
人権を看板にあげている以上、非人権的な行動には到底賛同できないのは当然である。

せっかくなので、丹波マンガン記念館のゲート写真だけ紹介しておこう。

国道162号線から、更に10分ほど山道を走った先に、
入口ゲートが有る。
 これ以上先は、施設敷地内の為、見学者以外の進入不可。


「丹波マンガン記念館」に興味がありながら、断固として入場を行わないのは、
私のささやかな抵抗である。

そんな経緯もあり、私は「丹波マンガン記念館」周辺の被差別部落の
調査を行っていた最中、今回のテーマである「江戸時代の牢屋」が現存する
役人村(=即ち被差別部落)が存在する事を知るに至ったのである。

【つづく】

{*本題から少し外れますが・・・
次頁には「丹波マンガン記念館」HPに記載されている李氏のコメントと、
その他の資料を添付する予定です}

2017年6月13日火曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その2/見て記行って記被差別歩記-5

ここで、先に述べた「ある別件の調査」について触れておこう。

それは、今から7年前のことだ。
風光明媚で長閑なこの山村(京都市京北)に、突如としてある騒動が持ち上がった。

その日は休みだったので、普段ならあまり見ることがない
夕方のニュース番組を見ていた時のことだ。

「ニュースゆう」
この番組は、恐らく関西ローカルであろう。
その中の“ウラドリ”と言うコーナーは、関西で事件にならずとも問題になっていることや、
若しくは、これから事件になりうる問題をクローズアップして追跡するコーナーで、
私も、過去に何度か目にしているが、中々興味深い良コーナーである。

この日のテーマは『長すぎる!大音量のサイレンに困惑する住民たち』。
以下、番組ホームページから引用する。

==================

2010/09/17 Friday 放送
長すぎる!大音量のサイレンに困惑する住民たち
京都市内のある街で今、大音量のサイレンが問題になっている。
その正体は何なのか、ウラドリ取材班が調べてみると、そこには複雑な事情が絡み合っていた。

■1日に何回も響き渡る、サイレンのごう音

京都市右京区京北。緑が多い、のどかな場所に到着した取材班の耳に入ってきたのは、
地区内一帯に響き渡る大音量のサイレンだった。
住民によると、近くの鉱山で発破作業があるため、予告の警報としてサイレンが鳴るという。
しかし、取材班が耳にしたサイレンの音は10分間、一向に鳴り止まなかった。

その時、「ボーン!」という発破の爆発音が・・・。取材班は音がする場所へと向かったが、
その途中で再び大きなサイレンが鳴り始めた。
音の大きさを機械で計測してみると、105デシベルを記録。
これは電車が高架を通過した時の高架下の音と同等の音量だ。
サイレンを鳴らす警報機のすぐそばには、府立北桑田高校があり、
一番近い校舎までの距離は、わずか100メートルしかない。
同校の生徒たちは「夏休み入る前からずっと鳴っている。授業中も関係なく鳴る」と話す。

地元関係者によると、サイレンが鳴り出したのは、7月13日。
それから16日までの4日間、断続的に鳴ったという。
高校が夏休みに入ると、発破とサイレンはいったん止むが、
夏休みが明けた始業式の日から再び鳴り始める。しかも回数はぐっと増え、
長い時で15分間、1日11回も鳴る日があったという。
高校側も突然、鳴り出した音に困り果てていた。
同校の眞里谷隆司校長は「窓を閉めないと、音がうるさすぎて授業にならない」と話す。
3年生はこれから受験シーズンに向かうので、
およそ200万円かけて防音ガラスを設置することを決めた。

地域を不安にさせている音の正体には「マンガン鉱山」が深く関係していた。
実は、丹波地方は戦前から戦後にかけて、鉄の耐久性を高める鉱物「マンガン」
の採掘が盛んな地域だった。戦後、その需要は激減し、ほとんどの鉱山が閉山したが、
この一帯は今もマンガンの採掘場として残っていたのだ。
取材班が調べてみると、周辺には鉱物を掘る権利「鉱業権」が設定されていた。
鉱業法では、採掘現場は公共施設など建物から50メートル離れなければならない。
今回は一番近い高校の校舎で100メートルの距離なので違法ではない。

では、あの長いサイレンの音には問題がないのだろうか。
騒音問題を管轄する京都市環境指導課の臼井保課長は
「サイレンによる音の規制は騒音規制法、および府の条例の対象外。
法的な根拠が無いので、やめていただくような指導まではしにくい」と話す。
サイレンはそもそも、危険を周知、警告するためのものなので、
音の長さや大きさは独自の判断にゆだねられているのだ。

鉱山を指導、監督する経済産業省の鉱山保安課・小西行雄課長は
「地元の方から、『突然の発破でびっくりする』という苦情があったので、
発破の事前予告のためのサイレンを鳴らすようにと指導した」という。
つまり、サイレンが鳴る前は発破だけが何度も繰り返されていたので、国が指導したところ、
業者はサイレンを鳴らすようになったというのだ。しかし、問題はその長さ。
小西課長は「まさか、こんな長い時間鳴らすとは予想していなかった」と話す。
国は時間を短くするよう電話で指導したが、業者は応じなかったという。
いずれも法的には何ら問題はないが、せめてサイレンの音を短くすることはできないのだろうか。取材班は、採掘業者に直接話を聞きに行った!

記者「10分〜15分、果たしてこれぐらいの時間を鳴らす必要があるのか?」
業者「よく聞こえるように鳴らしている。規定はないし、うちにも鉱業権がある」
記者「例えば、警報の鳴る時間をもう少し短くするとか、配慮しようという気持ちは?」
業者「夜に鉱業をやらないで、昼間にやって配慮しているつもりやけど」
記者「我慢しろと?」
業者「我慢してもらうか、学校を潰してもらってほかに移転してもらうよりない」

あくまで「権利だ」と主張する業者。話を進めると、過去に警察の不当な捜査にあったことや、
今回の行政の対応に不満があることがわかった。

業者の鉱業権は府立高校の敷地にもあるが、法律で50メートル以内に建物がある場合は、
所有者らの許可が必要になり、事業ができない。
このため、京都府に賠償を求めていたが、府は「鉱業権の設定と土地所有の関係は無関係」ということで、話し合いは物別れに終わったという。
業者は「周辺地域と話し合う余地はあるが、地下資源のためにやっているので、
今後もサイレンを鳴らす」と話す。

===============
ざっと。このような内容だが、番組では、その時のサイレンや困惑する住民、何より、
何の罪もない北桑田高校の生徒達の「気の毒な」様子がつぶさに写しだされていた。

さて、私がこの番組を見た時の感想であるが、一言「ひどい!!」であった。
私欲のためとしか言いようのないこのような報復は、非常に醜くく愚かである。

しかし、私の中の問題はその先にあった。
この放送後しばらくして、件の採掘場は、「丹波マンガン記念館」の館長を務める
李氏が経営する採掘場だということを知ったからだった。


【その3へつづく】
★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年6月4日日曜日

グーグルマップ:大阪の私鉄駅名に「部落」付け加え(毎日新聞)

いたずらのつもりでしょうか?
全く笑えない事象が又おきました。
以下は、毎日新聞(6月3日付)の転載です。

グーグルマップ:大阪の私鉄駅名に「部落」付け加え

何者かが書き換え 要請後の3日午後3時ごろに削除

 地図検索サイト「グーグルマップ」上で、大阪市内の私鉄の駅名が何者かに書き換えられ、本来の駅名に「部落」という言葉を付け加えた状態で、表示されるようになっていたことが3日分かった。2日午前、私鉄側は「部落差別を助長する不適切な書き込み」として、グーグル日本法人(東京都)に削除を要請。3日午後3時ごろ、削除された。

 2日午前、ネット上の書き換えに気づいた複数の人から私鉄側に連絡があった。また、部落解放同盟大阪府連も私鉄と大阪市に知らせた。この私鉄の広報部によると、グーグルに削除を要請し、正しい駅名に修正するよう求めたが、グーグルは「削除には時間が掛かる」と回答したという。

 グーグルマップを巡っては2015年、特定のキーワードで検索すると原爆ドーム(広島市)が「核実験場」、警視庁本部(東京都千代田区)が「警視庁サティアン」などと表示されるようになっていたことが発覚。マップを改ざんしたとして、男3人が警視庁に軽犯罪法違反(いたずらによる業務妨害)容疑で書類送検された。【林由紀子】

 赤井隆史・部落解放同盟大阪府連委員長の話 やり方が悪質で度を超えている。ネット上の差別書き込みは一度流れると拡散し規制が難しい。部落差別解消推進法ができたが理念法にすぎず、罰則規定など法的規制の必要性が浮き彫りになった。

メデイアによっては、駅実名を書いている記事もあります。
此処は、確かに近くに部落があるのは事実です。
一昔、大きな事件があった事で、知名度が高い地区です。

私が、夕方この記事を見つけて、マップを開いてみましたが、
この頃には、駅名自体が削除されていましたが、
削除すれば、「この件は終わり」ではありません。
そもそも、このような事象が起こることこそが問題なのですからね。

解放同盟の方もコメントに、罰則規定云々とありますが、
「法律や罰則があるから差別しない」と言う事でもないような気がします。
罰則があれば、一定の抑止力にはなるとは思いますが、
真の差別撤廃ではありませんからね。

いや、否定しているのではありません。
罰則規定・法改正も、必要ならば行う事に何ら異は唱えません。

それ以上に、『人々の差別の心を改心させるにはどうしたらよいか?』
を考え、啓発していくべきでしょう。

勿論、各運動団体を含む人権団体、時には個人の方もそのような啓発は、
十二分にされています。
それでもなくならないのが差別なのですが・・・

私も、そんな一人で、全く微力なのですが、
このブログを通して部落のいい所を発信できたらと思う所存です。
(時には恥部も晒さなければならない時もありますが・・・)

今日は、朝起きたてで、仕事へ行く時間もあるので急ぎの記事書きです。
あまり頭が回っておらず意味が通じない・誤字脱字etcあるかもしれませんが、
そこはお許しを!
どうしても書いておきたかったものですから。。。

2017年4月28日金曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その1/見て記行って記被差別歩記-5

行政の効率化を目的に、全国で進められた平成の大合併から、早十余年。
今、合併を行った市町村の多くは、その誤算から大きな苦境に立たされている。
残ったのは、効率化とは程遠い「借金の山」と「広大な市町村域」。

『9つの自治体が合併した大分県の佐伯市では、
市の端から端まで3時間掛かるという広大な面積の為、
通常は統廃合する、合併前にあった8つの役場を全て残している』と言う。
【NHKクローズアップ現代より要約】

今回紹介する京都市京北(前京北町)も、平成17年に京都市と合併、
新たに右京区に編入された。合併により、京都市の面積も、
610,22k㎡から827,90k㎡と大幅に増加したのであるが、
金閣寺や清水寺などの市街地の有名観光地を訪れる観光客には、
ここが同じ京都市であるとは、にわかに信じられない光景であろう。

京都市街地から、車で更に一時間以上掛かるこの山間の地は、
北山杉の産地として有名である。

北山杉は、家屋が伝統的な日本建築であった時代には、
高級建材としてもてはやされた。
特に、床の間や茶室などに用いられる「磨き丸太」は全国的にも人気が高いが、
現在は、建築様式の変遷に伴い、需要が激減。
かつて隆盛を極めた林業も、今や、斜陽産業になってしまった。

話は変わって・・・
江戸時代、「穢多村」と呼ばれていた被差別部落は、
製革業が主な生業(なりわい)の一つであったことはよく知られているが、
それ以外にも、幕府や藩から、もう一つ重要な任務を与えられていた。
それが、刑警吏役(けいけいりやく)である。

刑警吏役とは、今の警察業務であるが、
現在のように各セクションに業務が分かれていたわけでなく、
捕物から、収監、死刑執行(場合によっては死体処理)を一手に引き受けた。
穢多・役人村に伝わる捕り物道具(映画:人間みな兄弟より)
いや、引き受けざるおえなかったのが、幕藩から強制的に命ぜられた穢多の仕事であった。
これは、穢多(藩によっては非人もこの役を務めた)に、百姓一揆の首謀者などを
処罰させることにより、農民の怒りが穢多・非人に向くように仕向け、
幕藩へのガス抜きになるよう利用されたためである。

それ故、江戸時代には、刑警吏役を務める穢多村は「役人村」とも呼ばれるようになった。
また、それらに携わる穢多達を「長吏(ちょうり)」とも言ったが、
特に弾左衛門は、皮革業に携わる穢多達を取り仕切る穢多頭でありながら、
穢多という言葉を極端に嫌い、刑警吏役を務めるものの意である「長吏」を好んで用いた。
しかし、時を経て、いつしかそれは「チョーリンボー」という差別語へと変化していった。

さて、話を戻そう。
私は、ある別件の調査で、過去5年間に2度ほど、
京北・丹波周辺の部落にフィールドワークへ訪れていたのだが、
その調査の過程で、私の興味を引く、ある事実を知ることとなった。

その事実とは、なんと、かつて役人村であった京北の被差別部落に、
江戸時代の牢屋が現存しているというのだ。

しかも、現存する江戸時代の牢屋は限られている上に、
刑警吏役を担った穢多村=役人村に現存する例は、全国的に見ても他にないという。
この貴重な歴史的建造物を見るために、私は再度、京北の地を訪れた。

【江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その2へ続く】

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年4月13日木曜日

刑務所 【生立ち編-42】

「シンジ。刑務所に行きてこい!!」

ドジョウをすくい、セミを追っても楽しいのは最初のうち。
何もない田舎の退屈さに次第に飽き、
天気もいいのにゴロゴロとしていた私のグウタラな姿を見て、
ばあちゃんが痺れを切らしたように私に言ったのです・・・。

=================

あれは、小学校3年か4年の夏休み。
年の頃では、10歳前後でしょうか。
今から、40年近く前の話になります。

毎年、学校が長期の休みに入ると、
母・妹と共に母の実家へ帰省するのが恒例となっていました。

そこはかなりの田舎で、周りは田畑。
小川にはメダカやナマズが泳ぎ、近くの山にはカブトやクワガタがいました。

今は、近くに大型商業施設やスーパーも出来ているのですが、今は昔。
その頃は、何処にでもある昔の田園風景。
自然には恵まれているのですが、退屈で仕方ない。

じいちゃん・ばあちゃんの真似事をして、私も鎌を片手に草刈りをするのですが、
刈っても刈っても有り余る雑草を前に、暑さでやられてしましそう。
タマにばあちゃんが、畑からサッとスイカをもいで、鎌で割ってくれるのですが、
スイカを食べるや「ばあちゃん。アツいし先帰ってるわ」なんて、
ロクに手伝いにもなりません。

オマケにテレビは、電波状況が悪くて4チャンネル位しか映らない。
いくら私の生まれ故郷と言っても、
母が「里帰り出産」しただけで、育ちはずっーっと都会育ちでしたから、
田舎の暮らしは、都会とはまるで違った退屈な場所でしかなかったのです。
(今は、田舎暮らしに憧れていますが・・・)

じいちゃんは元警察官で、後に叙勲を受けたほどだったので厳格この上なく、
宿題もせず、ゴロゴロとしながら漫画を読んでいる私の姿を見ては
火のついたように怒り出し、延々と説教が始まるのでした。

そんなじいちゃんが私は大嫌いだったのですが、
やがて、脳梗塞で体が不自由になり言葉もロクに発せなくなると、
それまでの私に対する暴挙がウソのように静まり返ったのです。

もっとも、説教をしたくとも体の自由が利かなかったせいかもしれないし、
若しくは私が成長したせいもあったのでしょう。

私が24歳の時、最初の子供が生まれてまもなく祖父が他界したのですが、
あんなに嫌いだった祖父の死に顔を見た途端、
何故か涙が溢れてきた。

その時、そう言えば子供の頃、
「警察官になって白バイに乗りたい!!」と言っていたことを思い出したのです。

今は、そんなじいちゃんを誇りに思っています。
心の何処かでは、ずっと、じいちゃんの事を尊敬していたのかもしれません。
(あ、そうそう。警察官には、なりたいどころか、逆に苦手になりましたが)

じいちゃんとは反対に、ばあちゃんは、
打って変わって優しくて大好きだった・・・。
いや、「大好きだった」となれば故人のようですが、
“ピンピン”とまではいきませんが、90歳を超えた今でも田舎で、
そこそこ元気にしています。

そんな大好きなばあちゃんが、痺れを切らすグウタラぶりでしたが、
「刑務所に行きてこい!!」と言う言葉に、私は即座に反応しました。

いや、断っておきますが、ばあちゃんは、
私が犯罪を犯して「刑務所に入れ!!」と言っているのではありません。
○○と言う集落に刑務所があるから、「見学に行ってこい!!」と言う意味です。
読んで頂いている皆様は理解していただいているでしょうが、念のためあしからず。

私は、「刑務所」と言う、非日常的な場所への期待感を胸に膨らませ、
今までのグウタラぶりがウソのように、早速行動に移しました。

「“納屋に自転車があるけぇなぁ”って、ばあちゃん言ってたけど、
これ、大丈夫かなぁ?」

納屋にあった自転車は、既に長く乗られていないようでタイヤは凹み、
ホコリをかぶっていました。
なんせ40年前ですから、何気に馬鹿デカイ。
酒屋の配達に使うような自転車が姿を現しました。

早速行きたいのですが、先ずは空気入れからです。
幸い、空気意外は悪いところもなく、心ウキウキ出発しました。

田舎の農道ですから、暫くは砂利道。
不慣れな自転車に不慣れな道。
でも、持ち前の順応性で舗装道に出る頃には、
大きくて重たいオバケ自転車を、ある程度あやつれるようになっていました。

それに、不慣れな道でしたが、小さい頃から慣れ親しんだ土地でしたので、
土地勘はわりとあったことも幸いし、
ズンズンと対象物に向かって進むことが出来ました。

川を超え、田園風景を走ること30分ほどでしょうか。
いつくかの集落を超えたあたりで、
山の上に、見覚えのある給水塔?を発見しました。

あの給水塔が見えれば、刑務所はもうすぐです。

そして、最後の集落へ差し掛かりました。
この集落を抜けると、いよいよ刑務所です。

途中、朽ち果てた牛小屋があったので、
自転車を止め中へ入ってみました。

今では、各地で牧場や牛小屋を見ることも何気にありますが、
この頃は、行動範囲も狭く、都会暮らしだった私は、
朽ちて主がいない牛小屋でも、十分に非日常的でした。

この集落のことは、これ意外何も覚えていませんが、
特に覚えていないということは、そこらにある集落と
何ら変わりがなかったと思われます。

でも、そんな何ら“変わりがない”集落の端に、
“変わりがある”非日常的な刑務所がデンとそびえていました。

時は夕方だったと記憶しています。
夏の夕方。
ヒグラシでも鳴いていたことでしょう。

その“変わりがある”施設は、誰も居ないかのようにシーンとしていました。
前が田畑、後ろが山という立地もあったのでしょうが、
本当にココに囚人達、いや人がいるのかさえ疑われるほど静まり返っていました。

私は、自転車を壁に寄せ、荷台に立って中を覗こうとしましたが、
壁が高く覗くことが出来ませんでした。
しかし、その壁は以外にも、覗こうとしたら可能なほど低かった記憶があります。
今、そんなことをしていれば、明らかに不審者ですねww

去年久しぶりに、車で刑務所の近くまで寄ってみましたが、
改修でもされたのか、何だか子供の頃見た記憶とはかなり違うように見えました。
面影が残っていないというか・・・
それとも、私の思い違いが?
なんせ40年ほど前のことですから、私の記憶が歪曲されているのかもしれませんが。

==================

それから何年位経ったころでしょうか?
刑務所がある集落が「被差別部落を含む集落」であるということを知ったのは。

多分高校生くらいの頃だったでしょう。
ばあちゃんから話を聞いたと思います。

ばあちゃんは、このブログでも何度か紹介しましたが、
田畑を貸している部落の方々が、
正月前にしめ縄を持ってやってきた時もキチッと対応していたように、
部落民だからと言って、差別はしていませんでした。
だからこそ、ばあちゃんは、部落を含む集落の「刑務所に行ってこい」と言ったわけですが、
昭和50年代といえば同和施策が始まって間がない頃。
各地で改良住宅が建ち、道が整備されはじめて、
部落にもようやく町づくりがなされてきた時代ですが、
今思えば、この集落に、特に違和感を感じなかったことを思うと、
既に改良事業が行われていたか、
若しくは比較的裕福な被差別部落ではなかったかと察します。

===============

江戸時代、部落(=穢多村)は、
幕府から警刑吏役(けいけいりやく)を担わされていました。
警刑吏役とは、今で言う警察業務と刑務所の仕事なのですが、
特に、この時代の死刑執行にも携わりました。

白土三平氏の劇画「カムイ伝」には、
その模様が克明に描かれていますが、
これは、当時“国の宝”と持ち上げられていた農民を、
穢多(カムイ伝中では非人と表記)が死刑執行することによって、
農民達の怒りの矛先をエタに向け、
農民一揆を未然防ぐガス抜き政策の役目をも担ったわけですが、
当時の農民には、そのような政策をも理解し難く、
まんまと幕府の思惑通りになってその矛先は穢多非人に向い、
より差別は強化されていく構造が作られたのです。

そして、穢多村には牢屋が設けられ、その番をしたことから、
賤称の意味を込め、番太などと呼ばれることもありました。

牛馬の革を鞣し、牢屋番や水番をする。
時に、城や寺社の清掃を行い社会に奉仕をするその様は、
現代の公務員のハシリと言えます。
(今は、公務員といえど、社会奉仕しているのか不安方もおられますが・・・)

その名残で、刑務所を持つ部落もいくつか存在するようです。
少し古い本になりますが、原田伴彦著「部落と差別」の中にこのような記述が見れます。

最近私は,
広島県、岡山県及び佐賀県の部落の調査の仕事をしましたが、
その1つに呉市のY地区があります。
約250世帯700人近い地区です。
呉市の中心街から西北の狭い谷間の傾斜地です。
この狭い部落の中に入り口から畜産場(家畜市場)、屠場、拘置所(刑務所)
 市営の火葬場、同じく後産処理場、野犬処理場、墓地がひしめいていました。
その中に小さな不良住宅が密集していました。

~中略~

ここが部落であるために市行政がすべてここに設置したのです。
火葬場とお産の汚物等を焼く煙、畜産場や野犬処理場の臭気は部落を四六時中を覆っていました。

ココの集落にある刑務所の成り立ちは、
集落の被差別部落とは関係ないようですが、
少なくとも、この部落でも江戸時代以前には、
警刑吏役を担っていたことでしょう。

この様に、社会奉仕する部落民達ではありましたが、
皮肉にもその仕事が、これ以降、綿々と続く差別へのらせん階段であったことは、
今の世になって、やっとわかった事実です。

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年4月9日日曜日

部落の食文化-4 部落の天ぷら売り


「もうボチボチ来てはる頃やろ。チョット行ってきてぇなぁ」

義母が、娘である私の嫁に声をかけます。

「ほな、オレも一緒に行くわぁ」・・・


部落では、いくつになっても「天ぷらを買いに行く」のは子供の仕事。
嫁も、小さい時からずっ~と、天ぷらを買いに行ってきました。

嫁が生まれ育った部落には、決まった曜日に「天ぷら」を売りに、
軽バンを改造した移動販売車でオバちゃんがやってきます。

「オバちゃん。赤と白が5個ずつと、フクゼン10個ちょうだい」

「ハイよ!!今フクゼンが5個しかないし、チョット待ってくれるか?」

子供の頃から買いに行っている嫁は、手慣れた感じでオバさんに注文します。
オバさんは、衣をつけたフクゼンを油に入れながら・・・
「お母さん元気にしてはるか?」
「うん。元気やで」

なんて、世間話をしているうちに、熱々の天ぷらが揚がってきました。

実は、部落に売りに来る天ぷらは、エビやサツマイモではありません。

赤はレバー
白はミノ
そして、フクゼンは前回このブログで紹介した牛の肺。

部落の天ぷらは、『ホルモンの天ぷら』なのです。

「ハイ、おまっとうさん。おおきになぁ」

数が少なければ、少し待てばオバさんが揚げてくれますが、
数が多い時は、「オバちゃん、5時に取りに来るさかい、20個づつ揚げといて」
と、先に注文を出しておくと、時間通りに揚げてくれます。

それにしても、次から次へとお客さんが来て、
オバちゃんもてんてこ舞です。

部落の人は、この天ぷらが本当に好きですが、
皆さんが食べても、きっと好きになってしまうでしょう。

甘くてトロみのある付属のソースを付けて食べるのですが、
時にはオヤツに又、ご飯と一緒に食べてもいいし、
酒の肴にと、TPOを選ばない万能食品です。

勿論、エビやサツマイモの天ぷらも普通に食べますが、
部落で“天ぷら”と言うと『ホルモンの天ぷら』を指すことが多いですね。

「オバちゃん。どこから来てんの?」
ある時、私は聞いたことがあります。

だいぶ前の事だったので、不覚にも何処の地区だか忘れてしましましたが、
市内の部落から来ているということでした。

天ぷら売りのオバちゃんは、軽バンで市内の部落を回っています。
○曜日は☓☓部落
□曜日は△△部落という風に。

1個60円ですが、皆10個単位で買っていきますので、
結構な儲けになるかもしれません。

なぜなら、この部落には、
大抵の部落にもあるような肉屋・ホルモン屋がありません。

昔はあったようで店舗だけは残っているのですが、
私がこの部落に出入りするようになった頃には、
既に閉店していました。

大抵の部落にも・・・と書きましたが、
都市部の改良住宅が建っている部落では、
通りに面した棟の1階部分が店舗として供給されている場合も珍しくありません。

そのような、改良住宅内店舗に肉屋が入っていたり、
部落内で独立店舗を持っていたりと様々ですが、
とにかく、そのような店では肉やホルモンと併せて
『ホルモンの天ぷら』や『スジの焚いたん』(関西弁で焚いたものの意)など
部落の伝統的な惣菜も販売していることが多いのです。

例え、部落内に肉屋があってホルモンが手に入っても、
案外天ぷらって面倒くさくて難しい。
だからこそ週一回、天ぷら売りのオバちゃんが来るのを
皆心待ちにしているのです。

今は、そんな光景を見ることはありませんが、
昔は子供達もおやつ代わりに買って食べていたそうです。

丁度、100円玉握りしめて、駄菓子屋に行くような感覚だったのでしょうね。

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年4月4日火曜日

部落の食文化-3 フク・フクゼン・フクカス

これまで、サイボシや油かすなど、
部落で長きに渡って食されてきた食材・料理を
紹介するコーナー「部落の食文化」。

やはり、部落の食文化ってことで“肉”を使った
食材・料理がメインになるのですが、
“肉”については、部落は非常に長い歴史と文化を持っております。
その長い歴史が、上手に工夫して美味しく食べる術を生み出しました。

しかしその反面、それらの食材・料理も、その歴史と反比例するように、
長い間世に出ることはなく、部落の中だけで食され受け継がれてきました。

それは穢れ意識であり、差別につながっていたのですが、
近年は、その垣根もずいぶん低くなったと同時に、
B級グルメ・ソウルフードブームの影響もあって、
部落の料理や食材が少しずつではありますが
一般に浸透していることは非常に感慨深いことですね。

今日は、その中でも一般での流通量が非常に少ない
「フク」を紹介いたします。

皆さんは「フク」をご存知でしょうか?
地方によっては、フク・フクゼン・フクカス・フグ・フワ・バサetc・・・と、
かなり多くの方言が存在しますが、
全国共通語に直しますと『牛の肺』なのです!!

牛の内蔵・ホルモン類の中でも、
一般地区的にはマイナーな部位なのですが、
被差別部落では超メジャーで、
人気が高くて誰もが知っている食材の一つです。
まさに、全盛期のイチローを思わせるメジャーぶりです。

さて、コチラがフクです。

嫁の部落では『フクゼン』と言っています。

タマに奈良県へ行くと、Tと言う部落に寄ってフクを買って帰ります。
T部落は、奈良県随一の食肉産業が盛んな部落で、
羽曳野ほどではないですが、結構な数の食肉工場や食肉卸があり、
中に数軒、小売をやっているお店があります。

ずい分前に、私が初めて「フク」を買って帰った時、
嫁は「こんなん知らん~、食べたことない」と言っていましたが、
それは、大きな勘違いで、その方言の多さが原因でした。


このような表示で販売されているのですが、
まず、“油カス”と言う表記に騙されたようです。

つまり、いつもの油カスとフクゼンが一致しなかったようですが、
天ぷらにして食べたら「アッ!!フクゼンやんか~」と。

どうやら実際に食べた時に「油カス(フク)」と、
慣れ親しんだ『フクゼン』が繋がったようです。

さて、このフクですが、食肉産業が盛んな羽曳野のM部落で生まれ育ち、
精肉業をされているNさん(被差別部落の暮らし:食肉顧問)によると、
M部落では『フグ』と言うそうです。

さ~て、又新たな名前が出て、いよいよ混乱してきましたが、
私はこの名前を聞いて「ハッ」としました!!

今まで、「フク」だから気が付かなかったけれど、
「フグ」と聞いて、フクの語源が分かった気がしたからです。
(あ~ややこし~)

魚の「フグ」で有名なのが下関のトラフグですが、
本場下関では「フク」と言いますね。
(魚まで出てきて、もっとややこしいやんか~)

将に、今回のテーマである“牛の肺”と同じ方言、
フクとフグになっています。
そして、フグ(魚)の語源の一つに「ふくれるからフク」
と言うことが言われていますが、
牛に限らず、肺というのはふくれますから、
牛のフクも「ふくれる」状態を形容したものかも知れません。
フグは、フクが変化したものでしょうね。

他にフワと言う語もあるそうですが、
これも、フワフワと言う地域もあるようで、
風船のようにふくらんでフワフワしているという形容語だと思われます。

・・・あくまで推測ですが。
でも、イイ線いってると思います。

ただ、嫁の部落の方言である『フクゼン』の“ゼン”や、
バサと言う方言はよく分かりません。
意味を知っている方がおられたら教えて下さいませ。

あぁ、そう言いえば、フクの方言を探している時に、
面白い事を発見しました。
『ハイサイ沖縄方言』と言うサイトによりますと、
【沖縄方言フクの意味は肺です】とあります。

じゃぁ、ホルモンのフクも沖縄が語源か?と言うことになりますが、
それは、ないと思います。
恐らく同時発生的な形容表現かと。

話は、戻りまして「油カス(フク)」の表記についてですが、
奈良県のT部落の方は『フクカス』と言う表現をされていました。

フクの油カスだからフクカスなのでしょうが、
私達が油カスと聞くと、腸を揚げて油を抜いた
例のカリカリの油カスを思い浮かべるのですが、
これも、油カスとなっています。

しかし、売られている「フク」は、火が通してあるものの、
柔かくって、とても油が採れるようなシロモノではないような気がします。

そこで前出の食肉顧問のNさんに聞いてみました。

「奈良のT部落では、油カス・フクカスと言う表現をしていましたが、
フクから油は採れるものなのでしょうか?」

すると、Nさんは
「う~ん?無理やと思うけどな~」と言っておられました。

私は生の状態を写真でしか見たことが無いのですが、
どうも、油が採れるような部位ではなさそうです。

ただ、先程も書いた通り、販売されている状態は恐らく湯引きされ、
火が通っている状態ですから、その際に少量の油が採れるのかもしれません。


さて、肝心の食べ方と味の方ですが、
私には、クックパッドに投稿するような調理・工夫も、
彦麻呂(古~)のような豊富なボキャブラリーもありませんので、
つまらないレポートになるかと思いますが、
なんとか書いてみましょう。

まず、調理法は・・・天ぷらです。

オーソドックスすぎて何の工夫もないですが、
シンプルイズベスト!!
これが、本当に本当に本当に美味しい。

肉質はフワっという表現が適当なくらい柔らかで、
ホルモン独特のクセや匂いも気になりません。

味は、レバーを少し薄味にしたような感じで、
「肉の宝石箱や~」とまでは行かなくても、
「肉の弁当箱」(意味わからんねぇ。ボキャが少なくてすんません)ッて感じです。

他にはそうですねぇ・・・
湯引きしてあるのですが、
今一度火を通して生姜醤油、そこに七味でも効かせれば、
最高の酒の肴になりますし、
まだ、食したことはないのですが、
レバーの代わりに、ニラレバならぬニラフクなんてものも
ありかもしれませんね~。

そして、何より懐に優しい!
これ又最高!!!

なんせg=129円ですから!!

最近はホルモンや油カス、サイボシなど、
部落の食材もずいぶん高くなっていますが、
フクはまさに庶民の味方です。

ただ難点は、そうやすやすと手に入らないことでしょうね。
スーパーなんかでは先ず見かけませんし、
一般の精肉店でも置いてないでしょう。

やはり、部落内の精肉店か、部落の方が経営されている
精肉店を探さねばなりませんね。
でも、そのような店でしたら、
店先で天ぷらにしてあるフクを売っていることもあります。

誠、手に入りにくかったらインターネットで検索すれば、
通販をやっている精肉店もありますね。

そんなわけで、今日は、
皆さんにも、ぜひとも味わって頂きたいフクの話でした。

次回は、フクにまつわる被差別部落のエピソードを書いてみたいと思います。


★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ

どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2017年3月31日金曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ本編

さて、先日まで「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」と題したテーマで、
順を追って記事にしてまいりました。

特に、ここ4回については、
私の現在の暮らし=被差別部落の暮らしについて、
未指定地区と同和地区の違いも絡めてお話しいたしました。

改めて、なぜ、このタイミングで私が
未指定地区に住んでいいることを書く必要があったのか?

それは、今回のテーマ「鳥取ループ(=宮部氏)部落差別推進者か?」
の結論を導くために必要になるからです。

本日のまとめ本編では「全國部落調査問題」を中心に、
宮部氏が部落差別者であるか否かの検証を行います。

■改めて考える・全國部落調査は差別図書?

ここで再度「全国部落調査」について整理をしておきましょう。
「全國部落調査」は、昭和11年に“中央融和事業協会”の
内部資料として㊙扱いで出版されたようですが、
それが外部に流れ、やがて時を経て、
部落差別史上、最も劣悪な差別事件の一つとして語られる
『部落地名総鑑』の原本になったと言われる出版物です。

“では、この書物は差別図書なのでしょうか?”

    -------------------------
【以下は、あくまで「宮部氏の証言」をもとにして書きます。
この場にて宮部氏の証言の真否はわかりかねる旨、
ご承知のうえでお読みください】
       
宮部氏の証言によりますと、
全國部落調査は、東京都清瀬市の日本社会事業大学で見つけ、
コピーをとったものだそうです。

恥ずかしながら「日本社会事業大学」と言う大学が有ることは
今回はじめて知りましたが、Wikによると・・・

厚生省(当時)が設立した学校法人のため(公設民営)、
土地・建物は国有であり、財源の多くは国費であり、
同省の天下り先となっている。
学費も国立大学法人大学の標準額並みの設定となっている。
所在地ははじめ、東京・原宿の旧海軍将校会館跡地であったが、
1989年(平成元年)、東京都清瀬市に移転した。
原宿の旧所在地は現在、警視庁原宿警察署となっている。
旧厚生省により設立された経緯から、
研究や教育には日本の福祉政策がいち早く反映されるともいわれ、
福祉専門大学の最高峰として「福祉の東大」と呼ばれる。
となっています。

この大学の設立目的が、社会事業や福祉に関することである以上、
我が国に於ける社会事業の主たるものの一つである
「部落問題」に関する史料が所蔵されていてもおかしくはない訳ですし、
そもそも、この書物は国の外郭団体である
“中央融和事業会”の内部資料であります。

そういう意味では、図書館内でどのような扱いであったかは分かりませんが、
大学の図書館で閲覧できる資料である点も加味すると、
この書籍自体は「差別図書ではない」という事が言えると思います。
仮に、「全國部落調査」が差別図書であれば、
大学図書館の管理責任も問われるのではないでしょうか?

又、宮部氏は「全國部落調査」は
『部落研究の為に入手した』という旨を証言されています。

たしかに「全國部落調査」は、研究資料としては一級品ですし、
私自身も閲覧いたしました。

非常に精度が高く、私の住んでいる未指定地区も詳細に書かれていますし、
これまで私自身が集めた伝承や史料から見ても、
記載内容的にほぼ間違いは無いと思われます。

それだけ精度が高い「全國部落調査」ですが、
裏を返せば、“非常に精度高く被差別部落が特定できる”訳です。

しかも、インターネット上で簡単に入手・閲覧出来る。

これは、取りも直さず諸刃の剣で有るといえます、。
使用方法によっては、良質で一級品な研究資料となりうる反面、
(あってはいけないことですが・・・)
差別ソースとして使用する場合にも、
非常に精度の高い『差別図書』になる可能性も十分に持っています。

私は、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」で、
“全國部落調査と言う名の核弾頭”と言う括りで、
「全國部落調査」が持つエネルギーについて書きました。

この話は、その時には忘れていて書かなかったのですが、
思い出しましたので、補足として書かせていただきます。

以前聞いた話によると『部落地名総鑑事件』
発覚後の糾弾闘争では、
多くの購入企業が糾弾されました。

中でも大阪のとある部落では、
部落を囲っていた名だたる企業群が
立ち退きをしたそうです。

そして、その立ち退いた跡地に
改良住宅を建てたということです。
糾弾により、企業群を立ち退きさせた経緯や、
どのような話し合いでそのようになったかは調査中で分かりませんが、
とにかく此処で言いたいのは、
『部落地名総鑑』の元ネタである「全國部落調査」には、
企業群をも動かすエネルギーが有るということも言えると考えます。

■宮部氏の理論をも揺るがす全國部落調査

再度リンク致しますが「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」の中で、
宮部氏が部落地区名や所在地を公表するのは、
「同和地区は、既に官公庁によって公表されている」と言う、
“根拠”に基づいての公表であると、
以前、氏自身が、何れかの投稿に書かれていた事と記憶しております。
と書きました。

又、氏自身のサイト「鳥取ループ」には、
副題に“同和行政の奥深くを追求します”と書かれています。

そのサイトの中に『鳥取ループとは?』と言う項目があります。
以下、その部分を抜粋してみましょう。

Q. なぜ同和地区の場所を晒すのですか?

A. 理由は様々ですが、
第一に「同和はタブー」だと思い込んでいる人をおちょくるためです。
きっかけは、2007年から2009年にかけて、
滋賀県愛荘町というところの役場に
同和地区の場所を電話で問い合わせた人が糾弾されたことです。

私は同時期に愛荘町に同和地区の場所を
情報公開請求(つまりは書面で問い合わせ)したのですが、
糾弾されませんでした。
なぜなら情報公開請求は条例で認められた行為だからです。

だからと言って電話で問い合わせることが禁じられているわけでもないのに、
一方だけ糾弾されるのは不公平だし、差別ですね。
もちろん、役場も解放同盟もこのことについて説明していません。

2011年に大阪府では不動産屋が同和地区一覧を示す行為が条例で禁止されました。
一方で私は大阪府の同和地区一覧を晒していますが、
解放同盟の大会では「法律上はあなたに理がある」と言われています。
私は不動産屋ではないので当然です。

ただ、もっと重要なのは私が掲載した同和地区一覧の元になったのは
部落解放同盟の関連団体が作成し、解放出版社が出版した書籍だということです。
この書籍は大阪府知事も読むことを推奨していたものです。
もちろん、この事実について大阪府も解放同盟もまともに反論できません。
とすると、行政や解放同盟は「部落問題解決のため」と言いつつ、
「知識のない人」や、「立場上反論できない人」をターゲットにして、
「弱い者いじめ」をしているとしか思えないわけです。

そして、「建前だけの秘密」を利用して、
啓発・教育いう名目で行政や企業から利益を引き出し、
金儲けしている人がいることは事実です。

NTTとかトヨタ系企業とか、名だたる企業で人権同和研修があったりしますが、
そういうことです。
何十年も部落問題を解決できずにいる人が、
偉そうな顔をしていつまでも問題を長引かせています。
無意味におちょくっているわけではなく、
おちょくられるような事をしている人がいるからおちょくっています。

つまり、宮部氏は“同和地区だから公表すべき”又、
同和地区だから公表してもよい”と言う主張をされています。

このことを便宜上「宮部理論」と名付けさせていただきますが、
宮部氏は「宮部理論」に基づき、
今まで一貫して「同和地区名と所在地の公表」及び、
司法への訴えを行ってきました。

しかし、宮部氏が公表した『全國部落調査』は、
実は「宮部理論」を揺るがす資料であったのです。

宮部氏自身が提唱してきた「宮部理論」。
その理論を宮部氏自身が揺るがすことになるのが、
前回まで、4回に渡って書いてきた未指定地区の存在なのです。

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章1~4」の中で、
未指定地区は被差別部落でありながら同和地区指定を受けなかった。

一切の行政からの支援を断り、
行政上は一般地区としての道を選んだ部落であることを書いてきました。

そして、未指定地区は一般地区化を選択する代わりに、
行政の統計や資料にも記載されず、地区調査も行われてこなかった。

また、運動団体が結成されていない未指定地区が多いので、
部落解放同盟他の運動団体でも、
未指定地区の現状等がよくわからない。
このように書いてきました。

結論から言えば、未指定地区は同和地区のように、
公官庁や行政から公表されていない被差別部落なので、
そもそも、“公表することが出来る根拠が無い”
と言うように考えています。

未指定地区についての私論としては以上になりますが、
そこで、『全國部落調査』に話を戻します。

実は、同和地区指定が本格的に行われる前の、
昭和11年作成『全國部落調査』には、
現在の未指定地区も掲載されています。

と、言うか、
この時代は基本的には、
まだ同和地区・未指定地区の概念が存在せず、
一般的に被差別部落として扱われていましたから
当然といえば当然です。

『全國部落調査』に、実際にいくつの未指定地区が
掲載されているのかを検証することは非常に困難を極めますが、
当方が馴染み深く、判断できる近隣県をみただけでも
多数の未指定地区が確認できますので、
全国的に見れば、相当数の未指定地区が記載されていると思われます。

一般社団法人部落解放・人権研究所のHPによりますと、
政府が把握した1993年には、
同和地区数が4533地区・未指定地区1000地区以上
(未指定地区は「早急に実態調査が必要」と書かれ、
同研究所でも把握しきれていないことがわかる)
と記されており、被差別部落地区数は5533地区以上と言う事になります。

翻って、『全國部落調査』には5367地区が記載されています。
これは、調査当時の記載漏れか、
はたまた被差別部落数(この場合は同和地区数か?)が増えたのか、
若しくはその両方ということが考えますが、
繰り返しになりますが、何れにしてもこの対比を見ただけでも、
『全國部落調査』には、相当数の未指定地区が記載されています。

よって『全國部落調査』の公表は、
宮部氏自身で「宮部理論」を揺るがす資料で有るといえます。

■まとめのまとめ

話が、「全國部落調査」一辺倒になってしましましたが、
以前、鳥取ループ=宮部氏と、
ツイッター上でこのようなやり取りをしたことがあります。

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」の中で・・・

従って、部落の地区名を公表するということは、
すなわち、部落差別を助長することに、
直接繋がると言えるでしょう。

このことからも、法務省・法務局も、
ネット等で地区名を公表することは、
「差別を助長する」行為として、これを認めておりません。

と書いたことについて、以下のツイートを頂きました。


幾つもの裁判を経験されている宮部氏のコメントですので、
私は、以下のようにアンサーいたしました。

ことのことから考えますと、
私のブログは「差別を助長する」行為ではないので、
部落地名を書いても問題ないとおっしゃる一方、
これまでの宮部氏をめぐる動きを鑑みますと、
宮部氏運営の幾つかのサイトや「全國部落調査」は、
「差別を助長する」行為ということになります。

部落解放同盟をはじめとする、
各部落問題の関係者は「宮部氏は差別者」と言うことで断罪しています。
又、差別を売り物にして金儲けをしているとも書かれています。

翻って、私の認識です。
これまでの氏に関する経緯や、
先に成立した「部落差別解消推進法」成立の背景を照らし合わせると、
確かに「宮部氏は差別者」と言うことになるでしょう。

しかし私には、宮部氏は、
これまでに起こってきた数多の差別事件・差別者とは、
大きく異なって見えるのです。

そう感じるのは、氏のサイト等を通じての氏の行動や
文章によってそう感じるのですが、
例えば、足繁く部落へ通い同和地区の市営浴場の湯に浸かる。
部落内の飲食店で食事もされている模様。
真の差別者が行う行為には到底思えないのです。

そう言えば、何度かこのブログでも書いていますが、
豆腐屋の話を今一度紹介しましょう。

部落の近くに、ある豆腐屋がありました。
そこへは、近所の人々に混じって
部落の方も豆腐を買いに来ていました。

豆腐のお金を払うとき、
近所の一般地区の人々には、
店主は普通にお金を受け取っています。

ところが、部落の方が買いに行くと、
店主はお金を「水を張ったバケツの中にあるザルへ入れろ」と言う。

「部落は穢れているから、お金も穢れている。
綺麗に洗わないと受け取れない」と・・・

有名どころでは、小説「橋のない川」。
修学旅行に行った主人公・孝二は、
部落外の学友数名と部屋を共にする。
夜になり、イザ就寝と言う段になって、
部屋から一人減り二人減り・・・
とうとう、最後は孝二ひとりになり眠れない夜を明かす。
「エッタ(映画中での部落民の表現)とは一緒に寝れん」と言うことだ。

こんな差別話はゴロゴロあり、
書いていけばキリがないですが、
話を宮部氏に戻しましょう。

このブログの読者諸氏、
実際に結婚・就職差別を受けられた方、
又、部落所在地が知れ渡って不利益を被られた
(被られる恐れがある)方に取っては、
「スギムラはなに言うとるんじゃ!!」というお叱りがあるやもしれませんが、
これが、私の正直な現在の心境です。

以前読んだ上原善広氏の著書(題名は何だったか忘れましたが)の中で、
「宮部氏に差別性を感じなかった」と言う旨を、
実際に宮部氏と会った時の印象として書いておられます。
或いは、上原氏が書いたその事が、
私の心のどこかににあるのかもしれません。

しかし、再度言っておきますが、
現在の部落をとりまく現状や
差別事象が日々起こっている状況下では、
宮部氏の行っている行為は、差別を助長する行為
であることは間違いありません。

一方、「金儲け説」ですが、
これに関しては何とも分かりません。

確かに、宮部氏は「全國部落調査で金儲け」とツイートされていましたが、
後にこれを否定されています。

他に、何冊もの本を出版されています。
実際に経理的なところも当然分かりません。
しかし、話題になればそれだけ売上は伸びるでしょう。

又、よく芸能誌などで囁かれるのが、
芸能人ブログの「ワザと炎上」です。

これは、自身のブログを「ワザと炎上」させることによって、
アクセスを集中させ、結果的に広告収入を
稼いでしまうと言う手法なのだそうで、
元モー娘のT.Nさんなどは、
この手法で月に数百万円の広告収入を手にしているとか・・・。

もしかしたら・・・?と言うことは有るかもしれませんが、
それは、宮部氏自身しか分かり得ないことですので、
此処ではこれ以上は書けません。

■最後に・・・
これまで私の筆不精も加わり、非常に長期に渡り
「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」と題し、
部落差別解消推進法のキーパーソンの一人である
宮部氏について検証してきました。

この先、「部落差別は一体いつまで続くのか?」
誰もが思っているこの疑問を、
この記事を書いていて改めて感じました。

明治4年に「穢多非人の称を廃す」とされた太政官布告、
所謂、解放令が出されてから約150年もの月日が流れました。

“十年ひと昔”とはよく言いますが、
150年などは大昔となってしまいます。

そんな、大昔に解放された被差別部落が存在し・・・
いや、被差別部落が存在することは何ら問題ではなく、
むしろ、被差別部落は存在すべきであると私は思う。
また、部落民も存在すべきであると考えていますが
本当に解放されなければならないのは、
部落差別=私達の差別心なのです。

かつて、沖縄県民は、本土では非常に強い差別があったと聞きます。
しかし今は、沖縄の観光資源や芸能人の活躍等で
非常にアツい島になっており、羨望の眼差しさえあります。

わたしは、このブログでも何度か言っております。
部落民は、部落を隠すことでも卑下することでもなく、
堂々と、部落民としてのアイデンティティを
持ち続けること、その上での部落差別の解消が、
真の部落解放であると書いております。

それだけ誇れる部落の文化があり、
社会への貢献があるわけです。
部落を知れば知るほど、
部落のいい所が見えてくるのです。
いつか被差別部落が羨望の眼差しで見られることを願ってやみません。

だから、未だに部落差別が存在すること、
又『部落差別解消推進法』が成立すること、
いや、成立せなければならなかった社会情勢に憤りを感じます。

その中でも、私なども含め、
部落差別に異を唱える一般地区民が多くおられることは、
誠に心強い限りであります。

余談ですが、私は、
各所の部落展示室へ出向くことが多いのですが、
それらの展示室は市区町村の管轄の元、
NPO法人で運営されています。

最近ツイッターで書いた、
舳松人権歴史館やツラッティ千本でもそうですが、
そのような展示室のNPO職員さんは、
殆どの方が部落外の人々なのです。

部落外の人々が、地区の勉強をして、
来訪者に説明をしてくださいます。

これまでの部落解放運動や啓発、
国・行政の政策などの成果があったことに加え、
皆さんのモラルの向上が、
そのような理解有る方々を増やしてきました。

本当に150年は大昔だと思います。
だからこそ『全國部落調査』などが出てきても、
大昔の資料として・・・
歴史の一ページとして・・・
昔話として語られる社会でないといけません。

一日も早く部落差別がなくなり、
大昔の話として何気に語れるよう、
私はこのブログを書き続けます。

ありがとうございました。

スギムラ シンジ

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・
そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ

どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m


2017年3月7日火曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章4&生立ち編-41

さて、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章&生い立ち編」と題し
生い立ち編を絡め、未指定地区の現状等をお送りしてきましたが、
本日は「まとめ序章」の最後として、
なぜ、私が住んでいる場所が被差別部落と分かったのか?
その疑問にお答えしたいと思います。

■ここが被差別部落と知った出来事

それは、今から7年前。
私は歴史が好きで、自宅近くの廃寺跡を探しに行った時のことだ。

暫くあちらこちらとウロウロしたが、
結局廃寺跡はわからなかった。
残念に思い歩いて帰路についていたら、
近くで作業されていた初老の男性がおられ、
「何か手掛かりがないか」・・・と、
廃寺について聞いてみた。

無事、廃寺についての情報も得ることができ、
おおよその場所も教えていただいた。

いくつか地域の話や世間話なども交え、
15分ほど話しただろうか?
何かの拍子に私が自分の住まいが、
〇〇町であることを伝えた。

すると初老の今までの笑顔が陰りを見せ、
急に神妙な面持ちでゆっくりと語り始めた。

「あんたら引っ越してきた人は知らんやろうけど、あそこは部落なんや」

そう聞いた途端、私のこの地区に対する
長い間抱えていた違和感が
すっーと氷解していくのが分かった。

袋小路になった細い路地も、
同和地区に立っているような
隣保館によく似た立派な公民館も、
その時全てが瞬時に理解できた。
点と点が繋がり線になった感覚だった。

私は、これから語られるだろうことが
差別的な内容であることを十二分に予測したが、
同時に、真実の話として、
自分の住まいについての情報、
それがさらに、被差別部落に関することであるということが優先し、
そのまま静かに初老の話を聞くことにした。

「それは私が小さかった頃の事。小学生ぐらいだったと思う」

そう語り始めた初老は、
少しずつ記憶を手繰るように、
ひと粒ひと粒、
言葉を探りながら話しだそうとしている。

しかし、その表情は、
決して思い出したくないであろう昔の記憶。

そう。
まるで昔あった出来事が、
あたかも目の前で再現されているようで、
初老の顔のシワが、
より一層深くなったように見えた。


『ワシは、そこが部落であることを知っていたが、
ある時、好奇心から一人でそこの部落へ入ってみたんや。

親兄弟からも、あぁ、そう言えば友達同士でも
そこが部落であるから絶対に近寄ったらアカンって言うとったが、
好奇心には勝てなかったし、
並んどる家も普通の家で、
街並みも周りと変わらんように見えたしなぁ。

部落に入ってしばらくすると
自分よりもホントに小さい子供。

幼児に近い位の小さい子やった。

その子がワシの前に寄ってきて、
いきなり「ワレどこのもんや、勝手に入ってくるな」と
頭ごなしに怒鳴りつけたんや。

私はいきなりのことで気が動転したんやが、
自分よりもずっとずっと小さい子供に怒鳴りつけられたことが恐ろしくなり、
一目散に逃げ出したんや。

それから60年ほど経つが、
駅の向こう側は今まで一切足を踏み入れたことがない、
正直今でも怖いんや』


その話を聞いて私はこう言った。

『私は、そこに引っ越して10年になるんやけど、
危ない思いをしたことも全くないし、
普通の地区と全く変わりませんよ』と言ったが、
初老は「その時の人らもまだ住んでるやろ」とポツリと言って
口を閉ざしてしまった。

初老は、幼少期のこの出来事を
今でもトラウマとして深く心に残っている。

彼の場合は実体験として受けた出来事が、
60数年経った今でも、
差別と偏見の源になっているようだ。


■“部落”と聞いたその後の話

それから私の部落研究はより一層の熱を帯び、
部落研究とともに、自らの地域の研究に力を入れるようになった。

しかし、前回の頁で書いたように、
未指定地区であるが故、
史料がほとんどと無いのである。

いや、
「残っている・残っていない」の話ではなく、
そもそも、そのような史料が存在しないのである。

ただ、二・三の史料は見つけることができた。

例えば、
江戸時代、隣のエタ村と草場*の取り合いがあり、
奉行所に仲裁を求めた事、
同和関連法施行以前に
幾つかの改善事業が行われていた事等だが、
同和地区指定され、行政の統計報告書が毎年作られる上に、
多くの研究者の研究対象になっている同和地区に比べ、
未指定地区についての史料は見つけ出すことすら困難である。

*草場・・・エタ村の縄張り。
斃牛馬が出た場合、その草場のエタ村が処理権を得た。
旦那場とも言う。

そう言う意味では、
“聞き取り”が一番の史料である。

しかし、地域の古老の口は固い。
過去についてあまり話したがらない。

仲の良い三軒先の古老に昔話を聞くこともあるが、
こちらから何となく部落系に持っていこうとすると、
古老はそれをやんわりと否定するかの如く、
話題を違うほうへ持っていく。

きっと、過去の事、
部落の事について話したくないのが実情であろう。

住民総意で、同和地区指定を受けずに
一般地区として生きていく道を選んだのだから。

声に出さずとも「ここは、部落ではない!!」
と言っているのが気迫として伝わり、
私はそれ以上聞くのをためらって今に至っている。


■“部落”では無くなったのか?

では、私の住んでいるこの部落は、
はたして被差別部落ではなくなったのか?

歴史上の事実としては、
被差別部落であることは間違いないし、
これからも、被差別部落であることに何の異論を唱えることはできない。

つまり、同和地区指定を受けなかったにせよ、
それは行政上の事だけであって、いわば手続きだ。

だから、永久に被差別部落であることには変わりないし、
属地主義の考え方に立てば私も部落民である。

では、住民の意識はどうか?

先に書いたとおり、
もともとは50世帯ほどの部落であったが、
戦後、経済の急成長とともにこの地区は開発され、
田畑が軒並み住宅へ変わっていった。

そして、現在は、400世帯を数えるまでになった。
およそ8倍にまで増えたわけだが、
350世帯は部落外からの転居者、
要するに、部落外の人々である。

しかも、駅から近い立地を生かし、
結構若い方が多く住んでおられる。

また、転居組のご近所さんと話をしていても、
(おそらく・・・おそらくであるが)
ここが部落あるということを知っている方はおられない。

そして、部落の象徴である、隣保館や改良住宅といった
公共施設も建っていない。

住民の意識レベルでは、
「被差別部落では無くなりつつある」というのが現在の状況であろう。

ただ、先ほど登場の初老や、
三軒先の古老(この方は部落民)の中では、
被差別部落はまだまだ生き残っている。
残ってはいるが、記憶から消し、忘れ去ろうとしている。

したがって、未指定地区では
“被差別部落意識”の二極化が起こっているわけであるが、
これは、住民の殆どが部落民であることを意識する
同和地区在住の部落民とは、明らかに意識の相違が見られる。
(法律が終了した現在、法律上は一般地区化した同和地区は、
一般地区住民への旧隣保館の開放、改良住宅の一般公募、
地区外からの同和保育所への受け入れなど、
開かれた同和地区を目指している自治体もある)


■消えゆく記憶と目覚めた記録

さて、これまで述べてきた理由から、
未指定地区の現況をおおよそ掴んでいただけたと思うが、
これからの未指定地区は、
どのような方向に進んで行くのであろうか?

一つは、農漁山村の未指定地区の場合。

これは、まとめ3でも書いたとおり、
おそらくであろうが・・・残念ながら、
これからも劣悪な住環境や
周りからの差別状況に大きな変化は期待できないであろう。

しかし、都市型の未指定地区の場合、
意識レベルでは、ほぼ一般地区といっても間違いないと思われるし、
行政資料や例規、或いは書籍にも登場することがない。

ここが部落と、知っているのは、
年老いた生き証人達。

ただ、失礼ながらこの生き証人達も、
近い将来旅立たれることを考えれば、
記憶については風化していくことであろう。

つまり史実の中では被差別部落であるが、
人々の意識からは消え去るのである。

これは、真の意味での“解放”と言えるに違いない。

いや、違いないはずだった。


しかし事は、突然起こった。
被差別部落であることが風化し、
消えゆく寸前であった未指定地区が、
“記録”として突如目覚めることとなったのである!
しかも、永久に風化することがないその記録が・・・

=================

ここまで、4回に渡って書いてきた「まとめ序章」ですが、
いよいよ次回は、まとめ本編に移ります。

多くの皆様に読んでいただき誠にありがたい限りです。
とりわけ鳥取ループ=宮部氏自身にも読んでいただいている事は、
このテーマも、意義のあるものになっているのではないかと感じております。

更新頻度が遅く申し訳ない限りですが、
これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願い申し上げます。

スギムラシンジ


★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・

そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ

どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m