~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2017年6月30日金曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その3/見て記行って記被差別歩記-5


“大音量サイレン”の一件から程なくして、
サイレンの主が、「丹波マンガン記念館」を運営する李龍植氏であることを知った。
その事情を知った以上、私の感情は「ひどい!!」から「憤り」へと変化するに至ったのだった。

いや、李氏が在日韓国・朝鮮人だからと言う、在日外国人への差別では決して無い。

李氏が、「人権」と銘打って資料館を作り、本を書いていることへの憤りなのである。

「丹波マンガン記念館」の存在自体は、早くから知っていた。
機会があれば、一度訪れてみたいとも思ったことがある。
このような事情を知る、ずっと前の話であるから、在日・部落・人権と言う枠組みではなく、
これまでに訪れた「富士の氷穴」や「沖縄の玉泉洞」よろしく、
単に、“マンガン坑”の見学という、冒険的・好奇心的な範疇である。

しかし、先に述べたように、テレビ報道から程なくして、『その事実』を知ってから、
ある一冊の本の存在に気がついた。
「丹波マンガン記念館の7300日-李龍植」が、その本である。
この本は、驚く無かれ、差別に徹底抗戦する“解放出版社”から出ているのである。
解放出版社は、部落解放同盟の出版部門であるが、現在は部落問題のみならず、
障がい者・在日・いじめ等、人権問題全般の本を出版している。
件の出来事は、おおよそ「人権」を謳う出版社から本を出していた人物とは思えない
「暴挙」といえるのではないだろうか?


肝心の本の内容であるが、読んだのがもう随分前のことなので詳細は忘れてしまい、
此処では紹介することは出来ないが、断片的に覚えているのは、
強制的(本の記述による)に半島から徴用された韓国・朝鮮人が坑内夫として働いていたこと。又、“周辺”の被差別部落民が、マンガンの選別作業にあたっていたこと。
そして、氏の父親が私財を投じて記念館を興し、その後、
運営を氏が引き継いだと言うことなどだ。

興味がある方は一読してみては如何であろう。

さて、マンガンと聞いて、ずぐに思い浮かぶのは「マンガン乾電池」であるが、
乾電池に使われるのはごく一部で、産出されたマンガンの殆どは、
鉄を強くする添加物として使用されている。
その為、戦時中は翼賛体制のもと、戦艦や兵器を作る大切な軍需産業として大いに奨励された。

しかし、炭鉱労働と同じく、その作業は熾烈を極め、
過酷な労働環境の元、タコ部屋状態で労働に駆りだされていたという。

筑豊・田川の炭鉱を舞台にした、五木寛之の「青春の門」。

映画冒頭に描かれている、炭鉱崩落事故さながらの、マンガン鉱崩落事故もあったに違いない。
もしかしたら、明るみに出ていないが、今で言う「じん肺」の問題もあったであろう。

「青春の門」では、ヤクザ・在日・日本人鉱夫(部落民が多かった)が描かれているが、
遠く離れた京都・京北のこのマンガン鉱でも、労働者は同じ構成であった。

それは、“命と引換えの過酷な労働環境”であった事を繰り返し書き留めておこう。

そんな、過酷な労働環境で働いてきた龍植氏の父親が、
「人権」の大切さを訴えるために、私財を投じて作ったのが「丹波マンガン記念館」だったのだ。
(更に、丹波マンガン記念館は、全国の人権団体が加盟する「人権ネット」と言う団体にも加盟している。)

しかし、龍植氏の父親から代替わりした今日、今でもマンガンを掘ってはいるが、
近代化や機械化の力も伴って、その労働環境は驚くほどに改善したはずだ。

もしかしたら龍植氏は、労働環境な改善とともに、
「人権」の心を忘れてしまったのかも知れない。
私利私欲のために、人の痛みや悲しみが見えなくなってしまったのだとしたら、
それは非常に憂う事態である。

何度も言うが、李氏が在日だからではない。
たとえ、このような事態を日本人が引き起こしていても、私は憤りを感ずる事は言うまでもない。
なぜなら、「人権」と銘打った活動をしてるからである。
人権を看板にあげている以上、非人権的な行動には到底賛同できないのは当然である。

せっかくなので、丹波マンガン記念館のゲート写真だけ紹介しておこう。

国道162号線から、更に10分ほど山道を走った先に、
入口ゲートが有る。
 これ以上先は、施設敷地内の為、見学者以外の進入不可。


「丹波マンガン記念館」に興味がありながら、断固として入場を行わないのは、
私のささやかな抵抗である。

そんな経緯もあり、私は「丹波マンガン記念館」周辺の被差別部落の調査を行っていた最中、
今回のテーマである「江戸時代の牢屋」が現存する役人村(=即ち被差別部)が存在する事を
知るに至ったのである。

【つづく】

{*本題から少し外れますが・・・
次頁には「丹波マンガン記念館」HPに記載されている李氏のコメントと、
その他の資料を添付する予定です}

2017年6月13日火曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その2/見て記行って記被差別歩記-5

ここで、先に述べた「ある別件の調査」について触れておこう。

それは、今から7年前のことだ。
風光明媚で長閑なこの山村(京都市京北)に、突如としてある騒動が持ち上がった。

その日は休みだったので、普段ならあまり見ることがない
夕方のニュース番組を見ていた時のことだ。

「ニュースゆう」
この番組は、恐らく関西ローカルであろう。
その中の“ウラドリ”と言うコーナーは、関西で事件にならずとも問題になっていることや、
若しくは、これから事件になりうる問題をクローズアップして追跡するコーナーで、
私も、過去に何度か目にしているが、中々興味深い良コーナーである。

この日のテーマは『長すぎる!大音量のサイレンに困惑する住民たち』。
以下、番組ホームページから引用する。

==================

2010/09/17 Friday 放送
長すぎる!大音量のサイレンに困惑する住民たち
京都市内のある街で今、大音量のサイレンが問題になっている。
その正体は何なのか、ウラドリ取材班が調べてみると、そこには複雑な事情が絡み合っていた。

■1日に何回も響き渡る、サイレンのごう音

京都市右京区京北。緑が多い、のどかな場所に到着した取材班の耳に入ってきたのは、
地区内一帯に響き渡る大音量のサイレンだった。
住民によると、近くの鉱山で発破作業があるため、予告の警報としてサイレンが鳴るという。
しかし、取材班が耳にしたサイレンの音は10分間、一向に鳴り止まなかった。

その時、「ボーン!」という発破の爆発音が・・・。取材班は音がする場所へと向かったが、
その途中で再び大きなサイレンが鳴り始めた。
音の大きさを機械で計測してみると、105デシベルを記録。
これは電車が高架を通過した時の高架下の音と同等の音量だ。
サイレンを鳴らす警報機のすぐそばには、府立北桑田高校があり、
一番近い校舎までの距離は、わずか100メートルしかない。
同校の生徒たちは「夏休み入る前からずっと鳴っている。授業中も関係なく鳴る」と話す。

地元関係者によると、サイレンが鳴り出したのは、7月13日。
それから16日までの4日間、断続的に鳴ったという。
高校が夏休みに入ると、発破とサイレンはいったん止むが、
夏休みが明けた始業式の日から再び鳴り始める。しかも回数はぐっと増え、
長い時で15分間、1日11回も鳴る日があったという。
高校側も突然、鳴り出した音に困り果てていた。
同校の眞里谷隆司校長は「窓を閉めないと、音がうるさすぎて授業にならない」と話す。
3年生はこれから受験シーズンに向かうので、
およそ200万円かけて防音ガラスを設置することを決めた。

地域を不安にさせている音の正体には「マンガン鉱山」が深く関係していた。
実は、丹波地方は戦前から戦後にかけて、鉄の耐久性を高める鉱物「マンガン」
の採掘が盛んな地域だった。戦後、その需要は激減し、ほとんどの鉱山が閉山したが、
この一帯は今もマンガンの採掘場として残っていたのだ。
取材班が調べてみると、周辺には鉱物を掘る権利「鉱業権」が設定されていた。
鉱業法では、採掘現場は公共施設など建物から50メートル離れなければならない。
今回は一番近い高校の校舎で100メートルの距離なので違法ではない。

では、あの長いサイレンの音には問題がないのだろうか。
騒音問題を管轄する京都市環境指導課の臼井保課長は
「サイレンによる音の規制は騒音規制法、および府の条例の対象外。
法的な根拠が無いので、やめていただくような指導まではしにくい」と話す。
サイレンはそもそも、危険を周知、警告するためのものなので、
音の長さや大きさは独自の判断にゆだねられているのだ。

鉱山を指導、監督する経済産業省の鉱山保安課・小西行雄課長は
「地元の方から、『突然の発破でびっくりする』という苦情があったので、
発破の事前予告のためのサイレンを鳴らすようにと指導した」という。
つまり、サイレンが鳴る前は発破だけが何度も繰り返されていたので、国が指導したところ、
業者はサイレンを鳴らすようになったというのだ。しかし、問題はその長さ。
小西課長は「まさか、こんな長い時間鳴らすとは予想していなかった」と話す。
国は時間を短くするよう電話で指導したが、業者は応じなかったという。
いずれも法的には何ら問題はないが、せめてサイレンの音を短くすることはできないのだろうか。取材班は、採掘業者に直接話を聞きに行った!

記者「10分〜15分、果たしてこれぐらいの時間を鳴らす必要があるのか?」
業者「よく聞こえるように鳴らしている。規定はないし、うちにも鉱業権がある」
記者「例えば、警報の鳴る時間をもう少し短くするとか、配慮しようという気持ちは?」
業者「夜に鉱業をやらないで、昼間にやって配慮しているつもりやけど」
記者「我慢しろと?」
業者「我慢してもらうか、学校を潰してもらってほかに移転してもらうよりない」

あくまで「権利だ」と主張する業者。話を進めると、過去に警察の不当な捜査にあったことや、
今回の行政の対応に不満があることがわかった。

業者の鉱業権は府立高校の敷地にもあるが、法律で50メートル以内に建物がある場合は、
所有者らの許可が必要になり、事業ができない。
このため、京都府に賠償を求めていたが、府は「鉱業権の設定と土地所有の関係は無関係」ということで、話し合いは物別れに終わったという。
業者は「周辺地域と話し合う余地はあるが、地下資源のためにやっているので、
今後もサイレンを鳴らす」と話す。

===============
ざっと。このような内容だが、番組では、その時のサイレンや困惑する住民、何より、
何の罪もない北桑田高校の生徒達の「気の毒な」様子がつぶさに写しだされていた。

さて、私がこの番組を見た時の感想であるが、一言「ひどい!!」であった。
私欲のためとしか言いようのないこのような報復は、非常に醜くく愚かである。

しかし、私の中の問題はその先にあった。
この放送後しばらくして、件の採掘場は、「丹波マンガン記念館」の館長を務める
李氏が経営する採掘場だということを知ったからだった。


【その3へつづく】
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2017年6月4日日曜日

グーグルマップ:大阪の私鉄駅名に「部落」付け加え(毎日新聞)

いたずらのつもりでしょうか?
全く笑えない事象が又おきました。
以下は、毎日新聞(6月3日付)の転載です。

グーグルマップ:大阪の私鉄駅名に「部落」付け加え

何者かが書き換え 要請後の3日午後3時ごろに削除

 地図検索サイト「グーグルマップ」上で、大阪市内の私鉄の駅名が何者かに書き換えられ、本来の駅名に「部落」という言葉を付け加えた状態で、表示されるようになっていたことが3日分かった。2日午前、私鉄側は「部落差別を助長する不適切な書き込み」として、グーグル日本法人(東京都)に削除を要請。3日午後3時ごろ、削除された。

 2日午前、ネット上の書き換えに気づいた複数の人から私鉄側に連絡があった。また、部落解放同盟大阪府連も私鉄と大阪市に知らせた。この私鉄の広報部によると、グーグルに削除を要請し、正しい駅名に修正するよう求めたが、グーグルは「削除には時間が掛かる」と回答したという。

 グーグルマップを巡っては2015年、特定のキーワードで検索すると原爆ドーム(広島市)が「核実験場」、警視庁本部(東京都千代田区)が「警視庁サティアン」などと表示されるようになっていたことが発覚。マップを改ざんしたとして、男3人が警視庁に軽犯罪法違反(いたずらによる業務妨害)容疑で書類送検された。【林由紀子】

 赤井隆史・部落解放同盟大阪府連委員長の話 やり方が悪質で度を超えている。ネット上の差別書き込みは一度流れると拡散し規制が難しい。部落差別解消推進法ができたが理念法にすぎず、罰則規定など法的規制の必要性が浮き彫りになった。

メデイアによっては、駅実名を書いている記事もあります。
此処は、確かに近くに部落があるのは事実です。
一昔、大きな事件があった事で、知名度が高い地区です。

私が、夕方この記事を見つけて、マップを開いてみましたが、
この頃には、駅名自体が削除されていましたが、
削除すれば、「この件は終わり」ではありません。
そもそも、このような事象が起こることこそが問題なのですからね。

解放同盟の方もコメントに、罰則規定云々とありますが、
「法律や罰則があるから差別しない」と言う事でもないような気がします。
罰則があれば、一定の抑止力にはなるとは思いますが、
真の差別撤廃ではありませんからね。

いや、否定しているのではありません。
罰則規定・法改正も、必要ならば行う事に何ら異は唱えません。

それ以上に、『人々の差別の心を改心させるにはどうしたらよいか?』
を考え、啓発していくべきでしょう。

勿論、各運動団体を含む人権団体、時には個人の方もそのような啓発は、
十二分にされています。
それでもなくならないのが差別なのですが・・・

私も、そんな一人で、全く微力なのですが、
このブログを通して部落のいい所を発信できたらと思う所存です。
(時には恥部も晒さなければならない時もありますが・・・)

今日は、朝起きたてで、仕事へ行く時間もあるので急ぎの記事書きです。
あまり頭が回っておらず意味が通じない・誤字脱字etcあるかもしれませんが、
そこはお許しを!
どうしても書いておきたかったものですから。。。

2017年4月28日金曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その1/見て記行って記被差別歩記-5

行政の効率化を目的に、全国で進められた平成の大合併から、早十余年。
今、合併を行った市町村の多くは、その誤算から大きな苦境に立たされている。
残ったのは、効率化とは程遠い「借金の山」と「広大な市町村域」。

『9つの自治体が合併した大分県の佐伯市では、
市の端から端まで3時間掛かるという広大な面積の為、
通常は統廃合する、合併前にあった8つの役場を全て残している』と言う。
【NHKクローズアップ現代より要約】

今回紹介する京都市京北(前京北町)も、平成17年に京都市と合併、
新たに右京区に編入された。合併により、京都市の面積も、
610,22k㎡から827,90k㎡と大幅に増加したのであるが、
金閣寺や清水寺などの市街地の有名観光地を訪れる観光客には、
ここが同じ京都市であるとは、にわかに信じられない光景であろう。

京都市街地から、車で更に一時間以上掛かるこの山間の地は、
北山杉の産地として有名である。

北山杉は、家屋が伝統的な日本建築であった時代には、
高級建材としてもてはやされた。
特に、床の間や茶室などに用いられる「磨き丸太」は全国的にも人気が高いが、
現在は、建築様式の変遷に伴い、需要が激減。
かつて隆盛を極めた林業も、今や、斜陽産業になってしまった。

話は変わって・・・
江戸時代、「穢多村」と呼ばれていた被差別部落は、
製革業が主な生業(なりわい)の一つであったことはよく知られているが、
それ以外にも、幕府や藩から、もう一つ重要な任務を与えられていた。
それが、刑警吏役(けいけいりやく)である。

刑警吏役とは、今の警察業務であるが、
現在のように各セクションに業務が分かれていたわけでなく、
捕物から、収監、死刑執行(場合によっては死体処理)を一手に引き受けた。
穢多・役人村に伝わる捕り物道具(映画:人間みな兄弟より)
いや、引き受けざるおえなかったのが、幕藩から強制的に命ぜられた穢多の仕事であった。
これは、穢多(藩によっては非人もこの役を務めた)に、百姓一揆の首謀者などを
処罰させることにより、農民の怒りが穢多・非人に向くように仕向け、
幕藩へのガス抜きになるよう利用されたためである。

それ故、江戸時代には、刑警吏役を務める穢多村は「役人村」とも呼ばれるようになった。
また、それらに携わる穢多達を「長吏(ちょうり)」とも言ったが、
特に弾左衛門は、皮革業に携わる穢多達を取り仕切る穢多頭でありながら、
穢多という言葉を極端に嫌い、刑警吏役を務めるものの意である「長吏」を好んで用いた。
しかし、時を経て、いつしかそれは「チョーリンボー」という差別語へと変化していった。

さて、話を戻そう。
私は、ある別件の調査で、過去5年間に2度ほど、
京北・丹波周辺の部落にフィールドワークへ訪れていたのだが、
その調査の過程で、私の興味を引く、ある事実を知ることとなった。

その事実とは、なんと、かつて役人村であった京北の被差別部落に、
江戸時代の牢屋が現存しているというのだ。

しかも、現存する江戸時代の牢屋は限られている上に、
刑警吏役を担った穢多村=役人村に現存する例は、全国的に見ても他にないという。
この貴重な歴史的建造物を見るために、私は再度、京北の地を訪れた。

【江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その2へ続く】

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2017年4月13日木曜日

刑務所 【生立ち編-42】

「シンジ。刑務所に行きてこい!!」

ドジョウをすくい、セミを追っても楽しいのは最初のうち。
何もない田舎の退屈さに次第に飽き、
天気もいいのにゴロゴロとしていた私のグウタラな姿を見て、
ばあちゃんが痺れを切らしたように私に言ったのです・・・。

=================

あれは、小学校3年か4年の夏休み。
年の頃では、10歳前後でしょうか。
今から、40年近く前の話になります。

毎年、学校が長期の休みに入ると、
母・妹と共に母の実家へ帰省するのが恒例となっていました。

そこはかなりの田舎で、周りは田畑。
小川にはメダカやナマズが泳ぎ、近くの山にはカブトやクワガタがいました。

今は、近くに大型商業施設やスーパーも出来ているのですが、今は昔。
その頃は、何処にでもある昔の田園風景。
自然には恵まれているのですが、退屈で仕方ない。

じいちゃん・ばあちゃんの真似事をして、私も鎌を片手に草刈りをするのですが、
刈っても刈っても有り余る雑草を前に、暑さでやられてしましそう。
タマにばあちゃんが、畑からサッとスイカをもいで、鎌で割ってくれるのですが、
スイカを食べるや「ばあちゃん。アツいし先帰ってるわ」なんて、
ロクに手伝いにもなりません。

オマケにテレビは、電波状況が悪くて4チャンネル位しか映らない。
いくら私の生まれ故郷と言っても、
母が「里帰り出産」しただけで、育ちはずっーっと都会育ちでしたから、
田舎の暮らしは、都会とはまるで違った退屈な場所でしかなかったのです。
(今は、田舎暮らしに憧れていますが・・・)

じいちゃんは元警察官で、後に叙勲を受けたほどだったので厳格この上なく、
宿題もせず、ゴロゴロとしながら漫画を読んでいる私の姿を見ては
火のついたように怒り出し、延々と説教が始まるのでした。

そんなじいちゃんが私は大嫌いだったのですが、
やがて、脳梗塞で体が不自由になり言葉もロクに発せなくなると、
それまでの私に対する暴挙がウソのように静まり返ったのです。

もっとも、説教をしたくとも体の自由が利かなかったせいかもしれないし、
若しくは私が成長したせいもあったのでしょう。

私が24歳の時、最初の子供が生まれてまもなく祖父が他界したのですが、
あんなに嫌いだった祖父の死に顔を見た途端、
何故か涙が溢れてきた。

その時、そう言えば子供の頃、
「警察官になって白バイに乗りたい!!」と言っていたことを思い出したのです。

今は、そんなじいちゃんを誇りに思っています。
心の何処かでは、ずっと、じいちゃんの事を尊敬していたのかもしれません。
(あ、そうそう。警察官には、なりたいどころか、逆に苦手になりましたが)

じいちゃんとは反対に、ばあちゃんは、
打って変わって優しくて大好きだった・・・。
いや、「大好きだった」となれば故人のようですが、
“ピンピン”とまではいきませんが、90歳を超えた今でも田舎で、
そこそこ元気にしています。

そんな大好きなばあちゃんが、痺れを切らすグウタラぶりでしたが、
「刑務所に行きてこい!!」と言う言葉に、私は即座に反応しました。

いや、断っておきますが、ばあちゃんは、
私が犯罪を犯して「刑務所に入れ!!」と言っているのではありません。
○○と言う集落に刑務所があるから、「見学に行ってこい!!」と言う意味です。
読んで頂いている皆様は理解していただいているでしょうが、念のためあしからず。

私は、「刑務所」と言う、非日常的な場所への期待感を胸に膨らませ、
今までのグウタラぶりがウソのように、早速行動に移しました。

「“納屋に自転車があるけぇなぁ”って、ばあちゃん言ってたけど、
これ、大丈夫かなぁ?」

納屋にあった自転車は、既に長く乗られていないようでタイヤは凹み、
ホコリをかぶっていました。
なんせ40年前ですから、何気に馬鹿デカイ。
酒屋の配達に使うような自転車が姿を現しました。

早速行きたいのですが、先ずは空気入れからです。
幸い、空気意外は悪いところもなく、心ウキウキ出発しました。

田舎の農道ですから、暫くは砂利道。
不慣れな自転車に不慣れな道。
でも、持ち前の順応性で舗装道に出る頃には、
大きくて重たいオバケ自転車を、ある程度あやつれるようになっていました。

それに、不慣れな道でしたが、小さい頃から慣れ親しんだ土地でしたので、
土地勘はわりとあったことも幸いし、
ズンズンと対象物に向かって進むことが出来ました。

川を超え、田園風景を走ること30分ほどでしょうか。
いつくかの集落を超えたあたりで、
山の上に、見覚えのある給水塔?を発見しました。

あの給水塔が見えれば、刑務所はもうすぐです。

そして、最後の集落へ差し掛かりました。
この集落を抜けると、いよいよ刑務所です。

途中、朽ち果てた牛小屋があったので、
自転車を止め中へ入ってみました。

今では、各地で牧場や牛小屋を見ることも何気にありますが、
この頃は、行動範囲も狭く、都会暮らしだった私は、
朽ちて主がいない牛小屋でも、十分に非日常的でした。

この集落のことは、これ意外何も覚えていませんが、
特に覚えていないということは、そこらにある集落と
何ら変わりがなかったと思われます。

でも、そんな何ら“変わりがない”集落の端に、
“変わりがある”非日常的な刑務所がデンとそびえていました。

時は夕方だったと記憶しています。
夏の夕方。
ヒグラシでも鳴いていたことでしょう。

その“変わりがある”施設は、誰も居ないかのようにシーンとしていました。
前が田畑、後ろが山という立地もあったのでしょうが、
本当にココに囚人達、いや人がいるのかさえ疑われるほど静まり返っていました。

私は、自転車を壁に寄せ、荷台に立って中を覗こうとしましたが、
壁が高く覗くことが出来ませんでした。
しかし、その壁は以外にも、覗こうとしたら可能なほど低かった記憶があります。
今、そんなことをしていれば、明らかに不審者ですねww

去年久しぶりに、車で刑務所の近くまで寄ってみましたが、
改修でもされたのか、何だか子供の頃見た記憶とはかなり違うように見えました。
面影が残っていないというか・・・
それとも、私の思い違いが?
なんせ40年ほど前のことですから、私の記憶が歪曲されているのかもしれませんが。

==================

それから何年位経ったころでしょうか?
刑務所がある集落が「被差別部落を含む集落」であるということを知ったのは。

多分高校生くらいの頃だったでしょう。
ばあちゃんから話を聞いたと思います。

ばあちゃんは、このブログでも何度か紹介しましたが、
田畑を貸している部落の方々が、
正月前にしめ縄を持ってやってきた時もキチッと対応していたように、
部落民だからと言って、差別はしていませんでした。
だからこそ、ばあちゃんは、部落を含む集落の「刑務所に行ってこい」と言ったわけですが、
昭和50年代といえば同和施策が始まって間がない頃。
各地で改良住宅が建ち、道が整備されはじめて、
部落にもようやく町づくりがなされてきた時代ですが、
今思えば、この集落に、特に違和感を感じなかったことを思うと、
既に改良事業が行われていたか、
若しくは比較的裕福な被差別部落ではなかったかと察します。

===============

江戸時代、部落(=穢多村)は、
幕府から警刑吏役(けいけいりやく)を担わされていました。
警刑吏役とは、今で言う警察業務と刑務所の仕事なのですが、
特に、この時代の死刑執行にも携わりました。

白土三平氏の劇画「カムイ伝」には、
その模様が克明に描かれていますが、
これは、当時“国の宝”と持ち上げられていた農民を、
穢多(カムイ伝中では非人と表記)が死刑執行することによって、
農民達の怒りの矛先をエタに向け、
農民一揆を未然防ぐガス抜き政策の役目をも担ったわけですが、
当時の農民には、そのような政策をも理解し難く、
まんまと幕府の思惑通りになってその矛先は穢多非人に向い、
より差別は強化されていく構造が作られたのです。

そして、穢多村には牢屋が設けられ、その番をしたことから、
賤称の意味を込め、番太などと呼ばれることもありました。

牛馬の革を鞣し、牢屋番や水番をする。
時に、城や寺社の清掃を行い社会に奉仕をするその様は、
現代の公務員のハシリと言えます。
(今は、公務員といえど、社会奉仕しているのか不安方もおられますが・・・)

その名残で、刑務所を持つ部落もいくつか存在するようです。
少し古い本になりますが、原田伴彦著「部落と差別」の中にこのような記述が見れます。

最近私は,
広島県、岡山県及び佐賀県の部落の調査の仕事をしましたが、
その1つに呉市のY地区があります。
約250世帯700人近い地区です。
呉市の中心街から西北の狭い谷間の傾斜地です。
この狭い部落の中に入り口から畜産場(家畜市場)、屠場、拘置所(刑務所)
 市営の火葬場、同じく後産処理場、野犬処理場、墓地がひしめいていました。
その中に小さな不良住宅が密集していました。

~中略~

ここが部落であるために市行政がすべてここに設置したのです。
火葬場とお産の汚物等を焼く煙、畜産場や野犬処理場の臭気は部落を四六時中を覆っていました。

ココの集落にある刑務所の成り立ちは、
集落の被差別部落とは関係ないようですが、
少なくとも、この部落でも江戸時代以前には、
警刑吏役を担っていたことでしょう。

この様に、社会奉仕する部落民達ではありましたが、
皮肉にもその仕事が、これ以降、綿々と続く差別へのらせん階段であったことは、
今の世になって、やっとわかった事実です。

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2017年4月9日日曜日

部落の食文化-4 部落の天ぷら売り


「もうボチボチ来てはる頃やろ。チョット行ってきてぇなぁ」

義母が、娘である私の嫁に声をかけます。

「ほな、オレも一緒に行くわぁ」・・・


部落では、いくつになっても「天ぷらを買いに行く」のは子供の仕事。
嫁も、小さい時からずっ~と、天ぷらを買いに行ってきました。

嫁が生まれ育った部落には、決まった曜日に「天ぷら」を売りに、
軽バンを改造した移動販売車でオバちゃんがやってきます。

「オバちゃん。赤と白が5個ずつと、フクゼン10個ちょうだい」

「ハイよ!!今フクゼンが5個しかないし、チョット待ってくれるか?」

子供の頃から買いに行っている嫁は、手慣れた感じでオバさんに注文します。
オバさんは、衣をつけたフクゼンを油に入れながら・・・
「お母さん元気にしてはるか?」
「うん。元気やで」

なんて、世間話をしているうちに、熱々の天ぷらが揚がってきました。

実は、部落に売りに来る天ぷらは、エビやサツマイモではありません。

赤はレバー
白はミノ
そして、フクゼンは前回このブログで紹介した牛の肺。

部落の天ぷらは、『ホルモンの天ぷら』なのです。

「ハイ、おまっとうさん。おおきになぁ」

数が少なければ、少し待てばオバさんが揚げてくれますが、
数が多い時は、「オバちゃん、5時に取りに来るさかい、20個づつ揚げといて」
と、先に注文を出しておくと、時間通りに揚げてくれます。

それにしても、次から次へとお客さんが来て、
オバちゃんもてんてこ舞です。

部落の人は、この天ぷらが本当に好きですが、
皆さんが食べても、きっと好きになってしまうでしょう。

甘くてトロみのある付属のソースを付けて食べるのですが、
時にはオヤツに又、ご飯と一緒に食べてもいいし、
酒の肴にと、TPOを選ばない万能食品です。

勿論、エビやサツマイモの天ぷらも普通に食べますが、
部落で“天ぷら”と言うと『ホルモンの天ぷら』を指すことが多いですね。

「オバちゃん。どこから来てんの?」
ある時、私は聞いたことがあります。

だいぶ前の事だったので、不覚にも何処の地区だか忘れてしましましたが、
市内の部落から来ているということでした。

天ぷら売りのオバちゃんは、軽バンで市内の部落を回っています。
○曜日は☓☓部落
□曜日は△△部落という風に。

1個60円ですが、皆10個単位で買っていきますので、
結構な儲けになるかもしれません。

なぜなら、この部落には、
大抵の部落にもあるような肉屋・ホルモン屋がありません。

昔はあったようで店舗だけは残っているのですが、
私がこの部落に出入りするようになった頃には、
既に閉店していました。

大抵の部落にも・・・と書きましたが、
都市部の改良住宅が建っている部落では、
通りに面した棟の1階部分が店舗として供給されている場合も珍しくありません。

そのような、改良住宅内店舗に肉屋が入っていたり、
部落内で独立店舗を持っていたりと様々ですが、
とにかく、そのような店では肉やホルモンと併せて
『ホルモンの天ぷら』や『スジの焚いたん』(関西弁で焚いたものの意)など
部落の伝統的な惣菜も販売していることが多いのです。

例え、部落内に肉屋があってホルモンが手に入っても、
案外天ぷらって面倒くさくて難しい。
だからこそ週一回、天ぷら売りのオバちゃんが来るのを
皆心待ちにしているのです。

今は、そんな光景を見ることはありませんが、
昔は子供達もおやつ代わりに買って食べていたそうです。

丁度、100円玉握りしめて、駄菓子屋に行くような感覚だったのでしょうね。

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2017年4月4日火曜日

部落の食文化-3 フク・フクゼン・フクカス

これまで、サイボシや油かすなど、
部落で長きに渡って食されてきた食材・料理を
紹介するコーナー「部落の食文化」。

やはり、部落の食文化ってことで“肉”を使った
食材・料理がメインになるのですが、
“肉”については、部落は非常に長い歴史と文化を持っております。
その長い歴史が、上手に工夫して美味しく食べる術を生み出しました。

しかしその反面、それらの食材・料理も、その歴史と反比例するように、
長い間世に出ることはなく、部落の中だけで食され受け継がれてきました。

それは穢れ意識であり、差別につながっていたのですが、
近年は、その垣根もずいぶん低くなったと同時に、
B級グルメ・ソウルフードブームの影響もあって、
部落の料理や食材が少しずつではありますが
一般に浸透していることは非常に感慨深いことですね。

今日は、その中でも一般での流通量が非常に少ない
「フク」を紹介いたします。

皆さんは「フク」をご存知でしょうか?
地方によっては、フク・フクゼン・フクカス・フグ・フワ・バサetc・・・と、
かなり多くの方言が存在しますが、
全国共通語に直しますと『牛の肺』なのです!!

牛の内蔵・ホルモン類の中でも、
一般地区的にはマイナーな部位なのですが、
被差別部落では超メジャーで、
人気が高くて誰もが知っている食材の一つです。
まさに、全盛期のイチローを思わせるメジャーぶりです。

さて、コチラがフクです。

嫁の部落では『フクゼン』と言っています。

タマに奈良県へ行くと、Tと言う部落に寄ってフクを買って帰ります。
T部落は、奈良県随一の食肉産業が盛んな部落で、
羽曳野ほどではないですが、結構な数の食肉工場や食肉卸があり、
中に数軒、小売をやっているお店があります。

ずい分前に、私が初めて「フク」を買って帰った時、
嫁は「こんなん知らん~、食べたことない」と言っていましたが、
それは、大きな勘違いで、その方言の多さが原因でした。


このような表示で販売されているのですが、
まず、“油カス”と言う表記に騙されたようです。

つまり、いつもの油カスとフクゼンが一致しなかったようですが、
天ぷらにして食べたら「アッ!!フクゼンやんか~」と。

どうやら実際に食べた時に「油カス(フク)」と、
慣れ親しんだ『フクゼン』が繋がったようです。

さて、このフクですが、食肉産業が盛んな羽曳野のM部落で生まれ育ち、
精肉業をされているNさん(被差別部落の暮らし:食肉顧問)によると、
M部落では『フグ』と言うそうです。

さ~て、又新たな名前が出て、いよいよ混乱してきましたが、
私はこの名前を聞いて「ハッ」としました!!

今まで、「フク」だから気が付かなかったけれど、
「フグ」と聞いて、フクの語源が分かった気がしたからです。
(あ~ややこし~)

魚の「フグ」で有名なのが下関のトラフグですが、
本場下関では「フク」と言いますね。
(魚まで出てきて、もっとややこしいやんか~)

将に、今回のテーマである“牛の肺”と同じ方言、
フクとフグになっています。
そして、フグ(魚)の語源の一つに「ふくれるからフク」
と言うことが言われていますが、
牛に限らず、肺というのはふくれますから、
牛のフクも「ふくれる」状態を形容したものかも知れません。
フグは、フクが変化したものでしょうね。

他にフワと言う語もあるそうですが、
これも、フワフワと言う地域もあるようで、
風船のようにふくらんでフワフワしているという形容語だと思われます。

・・・あくまで推測ですが。
でも、イイ線いってると思います。

ただ、嫁の部落の方言である『フクゼン』の“ゼン”や、
バサと言う方言はよく分かりません。
意味を知っている方がおられたら教えて下さいませ。

あぁ、そう言いえば、フクの方言を探している時に、
面白い事を発見しました。
『ハイサイ沖縄方言』と言うサイトによりますと、
【沖縄方言フクの意味は肺です】とあります。

じゃぁ、ホルモンのフクも沖縄が語源か?と言うことになりますが、
それは、ないと思います。
恐らく同時発生的な形容表現かと。

話は、戻りまして「油カス(フク)」の表記についてですが、
奈良県のT部落の方は『フクカス』と言う表現をされていました。

フクの油カスだからフクカスなのでしょうが、
私達が油カスと聞くと、腸を揚げて油を抜いた
例のカリカリの油カスを思い浮かべるのですが、
これも、油カスとなっています。

しかし、売られている「フク」は、火が通してあるものの、
柔かくって、とても油が採れるようなシロモノではないような気がします。

そこで前出の食肉顧問のNさんに聞いてみました。

「奈良のT部落では、油カス・フクカスと言う表現をしていましたが、
フクから油は採れるものなのでしょうか?」

すると、Nさんは
「う~ん?無理やと思うけどな~」と言っておられました。

私は生の状態を写真でしか見たことが無いのですが、
どうも、油が採れるような部位ではなさそうです。

ただ、先程も書いた通り、販売されている状態は恐らく湯引きされ、
火が通っている状態ですから、その際に少量の油が採れるのかもしれません。


さて、肝心の食べ方と味の方ですが、
私には、クックパッドに投稿するような調理・工夫も、
彦麻呂(古~)のような豊富なボキャブラリーもありませんので、
つまらないレポートになるかと思いますが、
なんとか書いてみましょう。

まず、調理法は・・・天ぷらです。

オーソドックスすぎて何の工夫もないですが、
シンプルイズベスト!!
これが、本当に本当に本当に美味しい。

肉質はフワっという表現が適当なくらい柔らかで、
ホルモン独特のクセや匂いも気になりません。

味は、レバーを少し薄味にしたような感じで、
「肉の宝石箱や~」とまでは行かなくても、
「肉の弁当箱」(意味わからんねぇ。ボキャが少なくてすんません)ッて感じです。

他にはそうですねぇ・・・
湯引きしてあるのですが、
今一度火を通して生姜醤油、そこに七味でも効かせれば、
最高の酒の肴になりますし、
まだ、食したことはないのですが、
レバーの代わりに、ニラレバならぬニラフクなんてものも
ありかもしれませんね~。

そして、何より懐に優しい!
これ又最高!!!

なんせg=129円ですから!!

最近はホルモンや油カス、サイボシなど、
部落の食材もずいぶん高くなっていますが、
フクはまさに庶民の味方です。

ただ難点は、そうやすやすと手に入らないことでしょうね。
スーパーなんかでは先ず見かけませんし、
一般の精肉店でも置いてないでしょう。

やはり、部落内の精肉店か、部落の方が経営されている
精肉店を探さねばなりませんね。
でも、そのような店でしたら、
店先で天ぷらにしてあるフクを売っていることもあります。

誠、手に入りにくかったらインターネットで検索すれば、
通販をやっている精肉店もありますね。

そんなわけで、今日は、
皆さんにも、ぜひとも味わって頂きたいフクの話でした。

次回は、フクにまつわる被差別部落のエピソードを書いてみたいと思います。


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2017年3月31日金曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ本編

さて、先日まで「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」と題したテーマで、
順を追って記事にしてまいりました。

特に、ここ4回については、
私の現在の暮らし=被差別部落の暮らしについて、
未指定地区と同和地区の違いも絡めてお話しいたしました。

改めて、なぜ、このタイミングで私が
未指定地区に住んでいいることを書く必要があったのか?

それは、今回のテーマ「鳥取ループ(=宮部氏)部落差別推進者か?」
の結論を導くために必要になるからです。

本日のまとめ本編では「全國部落調査問題」を中心に、
宮部氏が部落差別者であるか否かの検証を行います。

■改めて考える・全國部落調査は差別図書?

ここで再度「全国部落調査」について整理をしておきましょう。
「全國部落調査」は、昭和11年に“中央融和事業協会”の
内部資料として㊙扱いで出版されたようですが、
それが外部に流れ、やがて時を経て、
部落差別史上、最も劣悪な差別事件の一つとして語られる
『部落地名総鑑』の原本になったと言われる出版物です。

“では、この書物は差別図書なのでしょうか?”

    -------------------------
【以下は、あくまで「宮部氏の証言」をもとにして書きます。
この場にて宮部氏の証言の真否はわかりかねる旨、
ご承知のうえでお読みください】
       
宮部氏の証言によりますと、
全國部落調査は、東京都清瀬市の日本社会事業大学で見つけ、
コピーをとったものだそうです。

恥ずかしながら「日本社会事業大学」と言う大学が有ることは
今回はじめて知りましたが、Wikによると・・・

厚生省(当時)が設立した学校法人のため(公設民営)、
土地・建物は国有であり、財源の多くは国費であり、
同省の天下り先となっている。
学費も国立大学法人大学の標準額並みの設定となっている。
所在地ははじめ、東京・原宿の旧海軍将校会館跡地であったが、
1989年(平成元年)、東京都清瀬市に移転した。
原宿の旧所在地は現在、警視庁原宿警察署となっている。
旧厚生省により設立された経緯から、
研究や教育には日本の福祉政策がいち早く反映されるともいわれ、
福祉専門大学の最高峰として「福祉の東大」と呼ばれる。
となっています。

この大学の設立目的が、社会事業や福祉に関することである以上、
我が国に於ける社会事業の主たるものの一つである
「部落問題」に関する史料が所蔵されていてもおかしくはない訳ですし、
そもそも、この書物は国の外郭団体である
“中央融和事業会”の内部資料であります。

そういう意味では、図書館内でどのような扱いであったかは分かりませんが、
大学の図書館で閲覧できる資料である点も加味すると、
この書籍自体は「差別図書ではない」という事が言えると思います。
仮に、「全國部落調査」が差別図書であれば、
大学図書館の管理責任も問われるのではないでしょうか?

又、宮部氏は「全國部落調査」は
『部落研究の為に入手した』という旨を証言されています。

たしかに「全國部落調査」は、研究資料としては一級品ですし、
私自身も閲覧いたしました。

非常に精度が高く、私の住んでいる未指定地区も詳細に書かれていますし、
これまで私自身が集めた伝承や史料から見ても、
記載内容的にほぼ間違いは無いと思われます。

それだけ精度が高い「全國部落調査」ですが、
裏を返せば、“非常に精度高く被差別部落が特定できる”訳です。

しかも、インターネット上で簡単に入手・閲覧出来る。

これは、取りも直さず諸刃の剣で有るといえます、。
使用方法によっては、良質で一級品な研究資料となりうる反面、
(あってはいけないことですが・・・)
差別ソースとして使用する場合にも、
非常に精度の高い『差別図書』になる可能性も十分に持っています。

私は、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」で、
“全國部落調査と言う名の核弾頭”と言う括りで、
「全國部落調査」が持つエネルギーについて書きました。

この話は、その時には忘れていて書かなかったのですが、
思い出しましたので、補足として書かせていただきます。

以前聞いた話によると『部落地名総鑑事件』
発覚後の糾弾闘争では、
多くの購入企業が糾弾されました。

中でも大阪のとある部落では、
部落を囲っていた名だたる企業群が
立ち退きをしたそうです。

そして、その立ち退いた跡地に
改良住宅を建てたということです。
糾弾により、企業群を立ち退きさせた経緯や、
どのような話し合いでそのようになったかは調査中で分かりませんが、
とにかく此処で言いたいのは、
『部落地名総鑑』の元ネタである「全國部落調査」には、
企業群をも動かすエネルギーが有るということも言えると考えます。

■宮部氏の理論をも揺るがす全國部落調査

再度リンク致しますが「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」の中で、
宮部氏が部落地区名や所在地を公表するのは、
「同和地区は、既に官公庁によって公表されている」と言う、
“根拠”に基づいての公表であると、
以前、氏自身が、何れかの投稿に書かれていた事と記憶しております。
と書きました。

又、氏自身のサイト「鳥取ループ」には、
副題に“同和行政の奥深くを追求します”と書かれています。

そのサイトの中に『鳥取ループとは?』と言う項目があります。
以下、その部分を抜粋してみましょう。

Q. なぜ同和地区の場所を晒すのですか?

A. 理由は様々ですが、
第一に「同和はタブー」だと思い込んでいる人をおちょくるためです。
きっかけは、2007年から2009年にかけて、
滋賀県愛荘町というところの役場に
同和地区の場所を電話で問い合わせた人が糾弾されたことです。

私は同時期に愛荘町に同和地区の場所を
情報公開請求(つまりは書面で問い合わせ)したのですが、
糾弾されませんでした。
なぜなら情報公開請求は条例で認められた行為だからです。

だからと言って電話で問い合わせることが禁じられているわけでもないのに、
一方だけ糾弾されるのは不公平だし、差別ですね。
もちろん、役場も解放同盟もこのことについて説明していません。

2011年に大阪府では不動産屋が同和地区一覧を示す行為が条例で禁止されました。
一方で私は大阪府の同和地区一覧を晒していますが、
解放同盟の大会では「法律上はあなたに理がある」と言われています。
私は不動産屋ではないので当然です。

ただ、もっと重要なのは私が掲載した同和地区一覧の元になったのは
部落解放同盟の関連団体が作成し、解放出版社が出版した書籍だということです。
この書籍は大阪府知事も読むことを推奨していたものです。
もちろん、この事実について大阪府も解放同盟もまともに反論できません。
とすると、行政や解放同盟は「部落問題解決のため」と言いつつ、
「知識のない人」や、「立場上反論できない人」をターゲットにして、
「弱い者いじめ」をしているとしか思えないわけです。

そして、「建前だけの秘密」を利用して、
啓発・教育いう名目で行政や企業から利益を引き出し、
金儲けしている人がいることは事実です。

NTTとかトヨタ系企業とか、名だたる企業で人権同和研修があったりしますが、
そういうことです。
何十年も部落問題を解決できずにいる人が、
偉そうな顔をしていつまでも問題を長引かせています。
無意味におちょくっているわけではなく、
おちょくられるような事をしている人がいるからおちょくっています。

つまり、宮部氏は“同和地区だから公表すべき”又、
同和地区だから公表してもよい”と言う主張をされています。

このことを便宜上「宮部理論」と名付けさせていただきますが、
宮部氏は「宮部理論」に基づき、
今まで一貫して「同和地区名と所在地の公表」及び、
司法への訴えを行ってきました。

しかし、宮部氏が公表した『全國部落調査』は、
実は「宮部理論」を揺るがす資料であったのです。

宮部氏自身が提唱してきた「宮部理論」。
その理論を宮部氏自身が揺るがすことになるのが、
前回まで、4回に渡って書いてきた未指定地区の存在なのです。

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章1~4」の中で、
未指定地区は被差別部落でありながら同和地区指定を受けなかった。

一切の行政からの支援を断り、
行政上は一般地区としての道を選んだ部落であることを書いてきました。

そして、未指定地区は一般地区化を選択する代わりに、
行政の統計や資料にも記載されず、地区調査も行われてこなかった。

また、運動団体が結成されていない未指定地区が多いので、
部落解放同盟他の運動団体でも、
未指定地区の現状等がよくわからない。
このように書いてきました。

結論から言えば、未指定地区は同和地区のように、
公官庁や行政から公表されていない被差別部落なので、
そもそも、“公表することが出来る根拠が無い”
と言うように考えています。

未指定地区についての私論としては以上になりますが、
そこで、『全國部落調査』に話を戻します。

実は、同和地区指定が本格的に行われる前の、
昭和11年作成『全國部落調査』には、
現在の未指定地区も掲載されています。

と、言うか、
この時代は基本的には、
まだ同和地区・未指定地区の概念が存在せず、
一般的に被差別部落として扱われていましたから
当然といえば当然です。

『全國部落調査』に、実際にいくつの未指定地区が
掲載されているのかを検証することは非常に困難を極めますが、
当方が馴染み深く、判断できる近隣県をみただけでも
多数の未指定地区が確認できますので、
全国的に見れば、相当数の未指定地区が記載されていると思われます。

一般社団法人部落解放・人権研究所のHPによりますと、
政府が把握した1993年には、
同和地区数が4533地区・未指定地区1000地区以上
(未指定地区は「早急に実態調査が必要」と書かれ、
同研究所でも把握しきれていないことがわかる)
と記されており、被差別部落地区数は5533地区以上と言う事になります。

翻って、『全國部落調査』には5367地区が記載されています。
これは、調査当時の記載漏れか、
はたまた被差別部落数(この場合は同和地区数か?)が増えたのか、
若しくはその両方ということが考えますが、
繰り返しになりますが、何れにしてもこの対比を見ただけでも、
『全國部落調査』には、相当数の未指定地区が記載されています。

よって『全國部落調査』の公表は、
宮部氏自身で「宮部理論」を揺るがす資料で有るといえます。

■まとめのまとめ

話が、「全國部落調査」一辺倒になってしましましたが、
以前、鳥取ループ=宮部氏と、
ツイッター上でこのようなやり取りをしたことがあります。

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:その2」の中で・・・

従って、部落の地区名を公表するということは、
すなわち、部落差別を助長することに、
直接繋がると言えるでしょう。

このことからも、法務省・法務局も、
ネット等で地区名を公表することは、
「差別を助長する」行為として、これを認めておりません。

と書いたことについて、以下のツイートを頂きました。


幾つもの裁判を経験されている宮部氏のコメントですので、
私は、以下のようにアンサーいたしました。

ことのことから考えますと、
私のブログは「差別を助長する」行為ではないので、
部落地名を書いても問題ないとおっしゃる一方、
これまでの宮部氏をめぐる動きを鑑みますと、
宮部氏運営の幾つかのサイトや「全國部落調査」は、
「差別を助長する」行為ということになります。

部落解放同盟をはじめとする、
各部落問題の関係者は「宮部氏は差別者」と言うことで断罪しています。
又、差別を売り物にして金儲けをしているとも書かれています。

翻って、私の認識です。
これまでの氏に関する経緯や、
先に成立した「部落差別解消推進法」成立の背景を照らし合わせると、
確かに「宮部氏は差別者」と言うことになるでしょう。

しかし私には、宮部氏は、
これまでに起こってきた数多の差別事件・差別者とは、
大きく異なって見えるのです。

そう感じるのは、氏のサイト等を通じての氏の行動や
文章によってそう感じるのですが、
例えば、足繁く部落へ通い同和地区の市営浴場の湯に浸かる。
部落内の飲食店で食事もされている模様。
真の差別者が行う行為には到底思えないのです。

そう言えば、何度かこのブログでも書いていますが、
豆腐屋の話を今一度紹介しましょう。

部落の近くに、ある豆腐屋がありました。
そこへは、近所の人々に混じって
部落の方も豆腐を買いに来ていました。

豆腐のお金を払うとき、
近所の一般地区の人々には、
店主は普通にお金を受け取っています。

ところが、部落の方が買いに行くと、
店主はお金を「水を張ったバケツの中にあるザルへ入れろ」と言う。

「部落は穢れているから、お金も穢れている。
綺麗に洗わないと受け取れない」と・・・

有名どころでは、小説「橋のない川」。
修学旅行に行った主人公・孝二は、
部落外の学友数名と部屋を共にする。
夜になり、イザ就寝と言う段になって、
部屋から一人減り二人減り・・・
とうとう、最後は孝二ひとりになり眠れない夜を明かす。
「エッタ(映画中での部落民の表現)とは一緒に寝れん」と言うことだ。

こんな差別話はゴロゴロあり、
書いていけばキリがないですが、
話を宮部氏に戻しましょう。

このブログの読者諸氏、
実際に結婚・就職差別を受けられた方、
又、部落所在地が知れ渡って不利益を被られた
(被られる恐れがある)方に取っては、
「スギムラはなに言うとるんじゃ!!」というお叱りがあるやもしれませんが、
これが、私の正直な現在の心境です。

以前読んだ上原善広氏の著書(題名は何だったか忘れましたが)の中で、
「宮部氏に差別性を感じなかった」と言う旨を、
実際に宮部氏と会った時の印象として書いておられます。
或いは、上原氏が書いたその事が、
私の心のどこかににあるのかもしれません。

しかし、再度言っておきますが、
現在の部落をとりまく現状や
差別事象が日々起こっている状況下では、
宮部氏の行っている行為は、差別を助長する行為
であることは間違いありません。

一方、「金儲け説」ですが、
これに関しては何とも分かりません。

確かに、宮部氏は「全國部落調査で金儲け」とツイートされていましたが、
後にこれを否定されています。

他に、何冊もの本を出版されています。
実際に経理的なところも当然分かりません。
しかし、話題になればそれだけ売上は伸びるでしょう。

又、よく芸能誌などで囁かれるのが、
芸能人ブログの「ワザと炎上」です。

これは、自身のブログを「ワザと炎上」させることによって、
アクセスを集中させ、結果的に広告収入を
稼いでしまうと言う手法なのだそうで、
元モー娘のT.Nさんなどは、
この手法で月に数百万円の広告収入を手にしているとか・・・。

もしかしたら・・・?と言うことは有るかもしれませんが、
それは、宮部氏自身しか分かり得ないことですので、
此処ではこれ以上は書けません。

■最後に・・・
これまで私の筆不精も加わり、非常に長期に渡り
「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」と題し、
部落差別解消推進法のキーパーソンの一人である
宮部氏について検証してきました。

この先、「部落差別は一体いつまで続くのか?」
誰もが思っているこの疑問を、
この記事を書いていて改めて感じました。

明治4年に「穢多非人の称を廃す」とされた太政官布告、
所謂、解放令が出されてから約150年もの月日が流れました。

“十年ひと昔”とはよく言いますが、
150年などは大昔となってしまいます。

そんな、大昔に解放された被差別部落が存在し・・・
いや、被差別部落が存在することは何ら問題ではなく、
むしろ、被差別部落は存在すべきであると私は思う。
また、部落民も存在すべきであると考えていますが
本当に解放されなければならないのは、
部落差別=私達の差別心なのです。

かつて、沖縄県民は、本土では非常に強い差別があったと聞きます。
しかし今は、沖縄の観光資源や芸能人の活躍等で
非常にアツい島になっており、羨望の眼差しさえあります。

わたしは、このブログでも何度か言っております。
部落民は、部落を隠すことでも卑下することでもなく、
堂々と、部落民としてのアイデンティティを
持ち続けること、その上での部落差別の解消が、
真の部落解放であると書いております。

それだけ誇れる部落の文化があり、
社会への貢献があるわけです。
部落を知れば知るほど、
部落のいい所が見えてくるのです。
いつか被差別部落が羨望の眼差しで見られることを願ってやみません。

だから、未だに部落差別が存在すること、
又『部落差別解消推進法』が成立すること、
いや、成立せなければならなかった社会情勢に憤りを感じます。

その中でも、私なども含め、
部落差別に異を唱える一般地区民が多くおられることは、
誠に心強い限りであります。

余談ですが、私は、
各所の部落展示室へ出向くことが多いのですが、
それらの展示室は市区町村の管轄の元、
NPO法人で運営されています。

最近ツイッターで書いた、
舳松人権歴史館やツラッティ千本でもそうですが、
そのような展示室のNPO職員さんは、
殆どの方が部落外の人々なのです。

部落外の人々が、地区の勉強をして、
来訪者に説明をしてくださいます。

これまでの部落解放運動や啓発、
国・行政の政策などの成果があったことに加え、
皆さんのモラルの向上が、
そのような理解有る方々を増やしてきました。

本当に150年は大昔だと思います。
だからこそ『全國部落調査』などが出てきても、
大昔の資料として・・・
歴史の一ページとして・・・
昔話として語られる社会でないといけません。

一日も早く部落差別がなくなり、
大昔の話として何気に語れるよう、
私はこのブログを書き続けます。

ありがとうございました。

スギムラ シンジ

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2017年3月7日火曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章4&生立ち編-41

さて、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章&生い立ち編」と題し
生い立ち編を絡め、未指定地区の現状等をお送りしてきましたが、
本日は「まとめ序章」の最後として、
なぜ、私が住んでいる場所が被差別部落と分かったのか?
その疑問にお答えしたいと思います。

■ここが被差別部落と知った出来事

それは、今から7年前。
私は歴史が好きで、自宅近くの廃寺跡を探しに行った時のことだ。

暫くあちらこちらとウロウロしたが、
結局廃寺跡はわからなかった。
残念に思い歩いて帰路についていたら、
近くで作業されていた初老の男性がおられ、
「何か手掛かりがないか」・・・と、
廃寺について聞いてみた。

無事、廃寺についての情報も得ることができ、
おおよその場所も教えていただいた。

いくつか地域の話や世間話なども交え、
15分ほど話しただろうか?
何かの拍子に私が自分の住まいが、
〇〇町であることを伝えた。

すると初老の今までの笑顔が陰りを見せ、
急に神妙な面持ちでゆっくりと語り始めた。

「あんたら引っ越してきた人は知らんやろうけど、あそこは部落なんや」

そう聞いた途端、私のこの地区に対する
長い間抱えていた違和感が
すっーと氷解していくのが分かった。

袋小路になった細い路地も、
同和地区に立っているような
隣保館によく似た立派な公民館も、
その時全てが瞬時に理解できた。
点と点が繋がり線になった感覚だった。

私は、これから語られるだろうことが
差別的な内容であることを十二分に予測したが、
同時に、真実の話として、
自分の住まいについての情報、
それがさらに、被差別部落に関することであるということが優先し、
そのまま静かに初老の話を聞くことにした。

「それは私が小さかった頃の事。小学生ぐらいだったと思う」

そう語り始めた初老は、
少しずつ記憶を手繰るように、
ひと粒ひと粒、
言葉を探りながら話しだそうとしている。

しかし、その表情は、
決して思い出したくないであろう昔の記憶。

そう。
まるで昔あった出来事が、
あたかも目の前で再現されているようで、
初老の顔のシワが、
より一層深くなったように見えた。


『ワシは、そこが部落であることを知っていたが、
ある時、好奇心から一人でそこの部落へ入ってみたんや。

親兄弟からも、あぁ、そう言えば友達同士でも
そこが部落であるから絶対に近寄ったらアカンって言うとったが、
好奇心には勝てなかったし、
並んどる家も普通の家で、
街並みも周りと変わらんように見えたしなぁ。

部落に入ってしばらくすると
自分よりもホントに小さい子供。

幼児に近い位の小さい子やった。

その子がワシの前に寄ってきて、
いきなり「ワレどこのもんや、勝手に入ってくるな」と
頭ごなしに怒鳴りつけたんや。

私はいきなりのことで気が動転したんやが、
自分よりもずっとずっと小さい子供に怒鳴りつけられたことが恐ろしくなり、
一目散に逃げ出したんや。

それから60年ほど経つが、
駅の向こう側は今まで一切足を踏み入れたことがない、
正直今でも怖いんや』


その話を聞いて私はこう言った。

『私は、そこに引っ越して10年になるんやけど、
危ない思いをしたことも全くないし、
普通の地区と全く変わりませんよ』と言ったが、
初老は「その時の人らもまだ住んでるやろ」とポツリと言って
口を閉ざしてしまった。

初老は、幼少期のこの出来事を
今でもトラウマとして深く心に残っている。

彼の場合は実体験として受けた出来事が、
60数年経った今でも、
差別と偏見の源になっているようだ。


■“部落”と聞いたその後の話

それから私の部落研究はより一層の熱を帯び、
部落研究とともに、自らの地域の研究に力を入れるようになった。

しかし、前回の頁で書いたように、
未指定地区であるが故、
史料がほとんどと無いのである。

いや、
「残っている・残っていない」の話ではなく、
そもそも、そのような史料が存在しないのである。

ただ、二・三の史料は見つけることができた。

例えば、
江戸時代、隣のエタ村と草場*の取り合いがあり、
奉行所に仲裁を求めた事、
同和関連法施行以前に
幾つかの改善事業が行われていた事等だが、
同和地区指定され、行政の統計報告書が毎年作られる上に、
多くの研究者の研究対象になっている同和地区に比べ、
未指定地区についての史料は見つけ出すことすら困難である。

*草場・・・エタ村の縄張り。
斃牛馬が出た場合、その草場のエタ村が処理権を得た。
旦那場とも言う。

そう言う意味では、
“聞き取り”が一番の史料である。

しかし、地域の古老の口は固い。
過去についてあまり話したがらない。

仲の良い三軒先の古老に昔話を聞くこともあるが、
こちらから何となく部落系に持っていこうとすると、
古老はそれをやんわりと否定するかの如く、
話題を違うほうへ持っていく。

きっと、過去の事、
部落の事について話したくないのが実情であろう。

住民総意で、同和地区指定を受けずに
一般地区として生きていく道を選んだのだから。

声に出さずとも「ここは、部落ではない!!」
と言っているのが気迫として伝わり、
私はそれ以上聞くのをためらって今に至っている。


■“部落”では無くなったのか?

では、私の住んでいるこの部落は、
はたして被差別部落ではなくなったのか?

歴史上の事実としては、
被差別部落であることは間違いないし、
これからも、被差別部落であることに何の異論を唱えることはできない。

つまり、同和地区指定を受けなかったにせよ、
それは行政上の事だけであって、いわば手続きだ。

だから、永久に被差別部落であることには変わりないし、
属地主義の考え方に立てば私も部落民である。

では、住民の意識はどうか?

先に書いたとおり、
もともとは50世帯ほどの部落であったが、
戦後、経済の急成長とともにこの地区は開発され、
田畑が軒並み住宅へ変わっていった。

そして、現在は、400世帯を数えるまでになった。
およそ8倍にまで増えたわけだが、
350世帯は部落外からの転居者、
要するに、部落外の人々である。

しかも、駅から近い立地を生かし、
結構若い方が多く住んでおられる。

また、転居組のご近所さんと話をしていても、
(おそらく・・・おそらくであるが)
ここが部落あるということを知っている方はおられない。

そして、部落の象徴である、隣保館や改良住宅といった
公共施設も建っていない。

住民の意識レベルでは、
「被差別部落では無くなりつつある」というのが現在の状況であろう。

ただ、先ほど登場の初老や、
三軒先の古老(この方は部落民)の中では、
被差別部落はまだまだ生き残っている。
残ってはいるが、記憶から消し、忘れ去ろうとしている。

したがって、未指定地区では
“被差別部落意識”の二極化が起こっているわけであるが、
これは、住民の殆どが部落民であることを意識する
同和地区在住の部落民とは、明らかに意識の相違が見られる。
(法律が終了した現在、法律上は一般地区化した同和地区は、
一般地区住民への旧隣保館の開放、改良住宅の一般公募、
地区外からの同和保育所への受け入れなど、
開かれた同和地区を目指している自治体もある)


■消えゆく記憶と目覚めた記録

さて、これまで述べてきた理由から、
未指定地区の現況をおおよそ掴んでいただけたと思うが、
これからの未指定地区は、
どのような方向に進んで行くのであろうか?

一つは、農漁山村の未指定地区の場合。

これは、まとめ3でも書いたとおり、
おそらくであろうが・・・残念ながら、
これからも劣悪な住環境や
周りからの差別状況に大きな変化は期待できないであろう。

しかし、都市型の未指定地区の場合、
意識レベルでは、ほぼ一般地区といっても間違いないと思われるし、
行政資料や例規、或いは書籍にも登場することがない。

ここが部落と、知っているのは、
年老いた生き証人達。

ただ、失礼ながらこの生き証人達も、
近い将来旅立たれることを考えれば、
記憶については風化していくことであろう。

つまり史実の中では被差別部落であるが、
人々の意識からは消え去るのである。

これは、真の意味での“解放”と言えるに違いない。

いや、違いないはずだった。


しかし事は、突然起こった。
被差別部落であることが風化し、
消えゆく寸前であった未指定地区が、
“記録”として突如目覚めることとなったのである!
しかも、永久に風化することがないその記録が・・・

=================

ここまで、4回に渡って書いてきた「まとめ序章」ですが、
いよいよ次回は、まとめ本編に移ります。

多くの皆様に読んでいただき誠にありがたい限りです。
とりわけ鳥取ループ=宮部氏自身にも読んでいただいている事は、
このテーマも、意義のあるものになっているのではないかと感じております。

更新頻度が遅く申し訳ない限りですが、
これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願い申し上げます。

スギムラシンジ


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2017年2月26日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40

はじめに・・・
■実はよく実態が分からない未指定地区の現状

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40」
と、題してお送りしてきました『被差別部落の暮らし』ですが、
ここで、もう一度、テーマの確認と、整理をしておきたいかと思います。

なぜ、今回、鳥取ループ=宮部氏の検証に、
あえて、生い立ち編を持ってきたのか?
それは、今後、まとめ本編において、
この事が重要になってくると、考えております。

それには、未指定地区について、
詳しく述べる必要があるのですが、
実は、現在では、未指定地区の実態が、
わからなくなりつつあるのが実情なのです。

例えば、同じ被差別部落である、
地区指定された「同和地区」に関する本や行政資料・論文は、
それこそ、山の数ほど存在しますが、
いかんせん、未指定地区のことに関してまとめられたものは、
現在のところ、皆無といっていいのではないでしょうか?

タマに、ひと昔、ふた昔前の本で、その存在を、
僅か小稿に見ることができる程度です。

もしかしたら、何処かの大学などで、
専門に研究されている方がおられるかもしれませんが、
それは、とりもなおさず、
「実態が分からなくなっている」と言うことの裏返しなのです。

先に申しました通り、
被差別部落の大部分を占める“同和地区”に関しては、
それらの記録は、こと細かに残っているのです。

それは、何故か?
以下、簡単ではありますが、説明させていただきます。

最後の同和関連の法律である、
地対財特法が終了して、早十余年の月日が流れました。

その法律が終了するまでは、
同和行政は、国・行政の事業であることから、
国や地方公共団体によって、
毎年、詳細な報告書を作成・公開する必要がありました。

その内容は・・・
地域住民の世帯・人口にはじまり、
主な職業や、進学率と言った国勢調査様の事から、
改良住宅の仕様や、同和事業、又その予算など、
多方面にわたる同和地区の実態が、
事細かに記載されていました。

ある地方公共団体では、これらの報告書は、
地対財特法が終了するまで、
約60年程、毎年作成されていました。
(この地域では、昭和44年の同和対事業策特別措置法制定・施行以前の
昭和20年代から、同和地区実態調査として、報告書が作成されていた)

このように、現在は、作成されていない同和地区の実態調査ですが、
これまでの、膨大かつ、長年の調査の積み重ねや、
推移傾向により、現在でも、
同和地区の生活実態を推測することは容易です。

また、同和地区に関しては、部落解放同盟をはじめとする、
各運動団体も、莫大な数の独自の資料を持っており、
そちらの方向からも、同和地区の実態については、
アプローチすることが可能です。
(ただ、運動団体の内部資料については、
関係者=運動員以外、入手・閲覧は難しいが、
知り合いに運動員が居れば、
閲覧ぐらいはさしてもらえるかもしれない)

■翻って、未指定地区の場合はどうだろう?

各種の同和事業や、国行政の補助を、
一切排除し、一般地区化の道を選んだ未指定地区においては、
とにかく、資料の作成という点では、
全くと言って言い程なされていないと思われます。

まず、行政資料ですが、
同和法の施行期間中も、それ以降も、
行政の対応とすれば、「一般地区」という扱いになるので、
前途したような、詳細な資料・報告書の作成がなされていない。

それに加え、運動団体の組織化も行われていない為、
運動団体の報告書・資料にも全く、
存在が挙がってこないのです。

また、現在は、同和地区に対する補助は一切無くなったが、
法律が生きていたころの同和事業は、
税金を投入して行われたため、各市町村の例規集で、
その存在意義の説明をはじめとして、旧隣保館や、
或いは改良住宅の場所や戸数までも、詳細に謳っています。

このような例規は、インターネットでも、
非常に詳細な内容を確認することができるが、
一切の同和事業や、補助を排除した未指定地区については、
それらの記述は、まったく見ることがありません。

以前、部落解放同盟の地方本部施設で、
未指定地区の実態について、お話を伺った事があるが、
対応いただいたプロ?の方も、やはり、
未指定地区の実態は、よくわからないということでした。

部落のプロ?でも、わからないので、
我々自称・素人研究者が、わかるわけがない。

ただ、全国の大学などの研究機関を探せば、
未指定地区に詳しい方がおられるかもしれないが、
もし、そのような方をご存じの、読者様がおられたら、
教えていただければありがたいです。

今日は、まとめの序章も3回目になりました。
未指定地区の研究は、まだまだ未知数なことが多く、
これらの事項は、全くの一部も一部。
かなり、ショボイ研究結果になっておりますが、
少しでも、未指定地区の現状を、
理解していただけるお手伝いができれば光栄です。

スギムラシンジ

■解放には程遠い
~農漁山村の未指定地区~

私は、未指定地区は、2つに別けられるのではないかと、
常々考えている。

一つは先述したように、私が住むような都市型の未指定地区である。
これについては、混住化が進み、もはや、
解放され、一般地区化したと言っても過言ではない。

しかし、未指定地区にはもう一つの型がある。
それが、農漁山村型の未指定地区である。

元々、人口が少なく、人の出入りもない農漁山村は、
被差別部落も零細な部落が多く、
戸数僅か2~3戸と言うような部落が多く存在する。

そのような部落では、今でも劣悪な住環境、
そして、重大な差別に悩まされているケースが多いと思われる。

想像をしていただきたいが、
元々人口が少ない農漁山村では、
その近隣の人々の顔や、名前、或いは居住地までも、
容易に認識することが出来るであろう。
それを承知の上で、以下の記事をお読みいただきたい。

実は、これら地方の農漁山村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。


当然、小さくて閉鎖的な農漁山村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人が存在しない、

閉鎖的な農漁山村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありませんし、

所謂、村八分のような状況に置かれることも珍しくありません。


今でも、このような地方の農漁山村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けられなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。


これは、以前「未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈」
と言う記事の中で書いた、農漁山村の未指定地区の現状に、
一部加筆したものである。

■地区指定をなぜ受けなかったのか?

「それぞれの部落によりそれぞれの理由がある」
一言で言えばこのような表現になってしまうが、
1000箇所の未指定地区が有るということは、
1000個の理由があると言える。

これが本当の答えなのであろうが、
それでは、説明にならない。

ここでは、幾つかの例を交えて解説していきたいが、
一つ言えることは、地区指定を“受けなかった”、
或いは“受けられなかった”のは、
地区住民の意向が優先されたと言うことだ。

つまり、同和地区指定は、行政からの働きかけ以上に、
地区住民(運動団体)からの働きかけで行われたことで、
行政は、それらを認定するだけの役割となってしまったのだ。

◎農漁山村型部落の場合
同和地区指定を受けるには、部落解放同盟をはじめとする、
行政との窓口になる運動団体を設置せねばならなかったが、
農漁山村型の部落の場合、戸数2~3戸の部落が多く、
実質的に、運動団体を組織することが出来なかった。

◎同じく農漁山村型の部落
都市との隔たりがあり、温度差があった。
情報の伝播が遅れていた。

◎都市近隣部落・都市型部落の場合
産業や農業基盤がしっかりと確立しており、
部落といえど、経済的には恵まれており、
一般的水準の生活が営まれていた。
そのため、同和地区指定を受け、
同和施策を享受する必要がなかった。

◎思想的な背景
所謂。「寝た子を起こすな」的な考え方をする住民が多い場合、
同和地区指定を受けることは、事を荒立てるとして、
これを拒否した。

◎政治的な背景
政治的に、地区指定を拒んだケースも有る。
特に、共産思想の住民が多い場合には、
地区指定を受けなかった。

◎地域の有力者
地域の有力者が、地区指定を拒むケースが有る。
特に、指導的な役割をしていた「寺社」の意向が
反映される事が多かったという。

◎利権(地域の有力者Ⅱ)
利権というと、同和利権が頭に浮かぶだろうが、
例えば、このようなケースも有る。

ある部落で、その部落の住民を多数雇う
土建業の親方(ボス)がいたとしよう。

土建業の親方は、
相場より安い賃金で部落の人を雇い、
膨大な利益を得ていた。

そんな中、下手に同和施策を受け入れ、
住民の生活が向上し、オマケに仕事まであてがわれたら、
商売上がったりである。
そのため、ボスの意向で、
同和施策を受け入れる事を拒んだ。

幾つか、例を上げたが、
このような理由で、同和地区指定を受けなかった
(受けられなかった)わけであるが、
中には、部落を二分する、
激しい抗争が起こった地区があったことを
付け加えておかなければならない。

■【参考】法律施行以前にもあった同和事業

ここでは、同和地区指定の話に関連して、
参考として、以下のコラムを設けることとしよう。

実は、同和事業は、1969年の同和対策事業特別措置法の
施行により開始されたという見解が一般的だが、
実は、それ以前にも、同和事業が行われていた例がある。

京都市では、行政闘争の先鋒となった昭和26年の
『オールロマンス事件』を契機に、
早くも、2年後の昭和28年、K部落に於いて、
団地型改良住宅の建設を行っている。
その後、順次、市内の被差別部落でも、
改良住宅が建設されている。

又、それに伴い、昭和35年には、市内5箇所の
同和地区指定を行っている。
同法施行の9年も前の話だ。

また、それ以前の記録では、
京都市に於いては、社会事業の名の下、
既に大正8年には、H部落で、託児所が建設されているし、
大阪府に於いても、大正7年には、
部落改善事業の兆しが見え始めている。

特に、三重県では、明治38年に、
全国に先駆けて行政主導の
部落改善事業が行われたと言う記録がある。

何らかの資料からの覚え書きによると、
明治・大正期に主流を占めた、
民間主導の融和事業とは異なり、
言わば、後の同和事業のハシリであると言えよう。

この様に、国による本格的な同和対策事業以前に、
国及び、地方自治体に於いては、
独自に社会事業或いは、同和事業の名目で、
部落の生活改善に取り組んだケースもあったが、
それは、まだまだ、断片的なもので、
本格的な部落改善事業によって、
部落民全体の生活向上が見られるようになるには、
やはり、同和対策事業特別措置法の施行を待たねばならなかった。

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2017年2月17日金曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2&生立ち編-39


前回は、私の住まいが、
被差別部落であることを書いてみました。

それと同時に、私に関する「被差別部落との縁」に
ついても書いてみました。

ホント、つくづく思います。
私って、「部落に縁があるのだな~」って。

なぜなら、ここが、部落って知らずに、
家を買ったからなんです。

何かに引き寄せられて、
被差別部落に住むようになったんだと思います。
繰り返しになりますが、それが縁なのですね。

今日は、そのあたりを中心に書いてみたいと思います。


■わからなかった被差別部落

私が、家を購入した理由は前回書いたが、
この物件にしたのは、
一言で言えば「惚れた」からであった。

一軒目の融資が、担保価値が無いと言う理由のもとに、
融資が通らず契約破棄になったのに対し、
現在の住まいの物件に関しては、
文句なしの一発融資だったことも、
大きな要因であった。
買う気はあっても、融資が通らにゃ話しにならない。

しかし、分からなかった。
ずっ~っとわからなかった。
住んでからも10年間もわからなかった。
まったく、そんな素振りも、この地区は見せなかった。
分かったのは、今から7年程前。
本当につい最近だ。
部落研究を語っていても、まったく恥ずかしい限りであるが、
でも、それ程までにわからなかったのだ。

ここが、被差別部落であることを・・・

購入当時、今から17年前のことであるが、
その頃は、もう既に私は、部落差別者から足を洗い、
逆に、部落差別反対者になっており、
スタンス的には、今と全く変わらない立ち位置であった。

だから、部落に住むことを何とも思っていない。
と、いうか、素晴らしいことだとさえ感じている。

なぜなら、毎日が「被差別部落の暮らし」なのであるから。

もちろん、そのころから、部落研究も行っていたし、
市内の同和地区は、全て頭に入っていた。

でも、わからなかったのだ。
市内全ての同和地区は頭に入っていたはずなのに・・・

全ての同和地区は。。。


全ての同和地区。。。


同和地区。。。


ん!?同和地区!?

被差別部落だけど、同和地区じゃない?


そう、ここは、未指定地区なのだった。


■同和地区と未指定地区

このブログをご覧の方なら、既に承知の事柄かもしれないが、
被差別部落は、行政によって2つの形に別けられている。
別けられていると言っても、国や地方公共団体が、
同和関連の法律を施行するのに、
「便宜上別けただけ」の話であって、
現実には、何れも被差別部落であることには変わりない。

これらの用語は、行政用語であることを
ご承知のうえでお読みいただきたい。

同和地区というのは、国或いは、地方公共団体に
同和地区指定された被差別部落であって、
地区指定部落ともいう。

多くは、住環境をはじめとする生活改善、
所謂、同和施策を受けるために、
住民(運動団体)の意志により同和地区化の方向へ進んでいったが、
中には、何らかの理由により、
地区指定を受けなかった被差別部落がある。

それらの地区は、行政用語では、
未指定地区・未指定部落と言い、
国や地方公共団体の一切の補助を放棄、
若しくは、放棄しなければならなかった被差別部落で、
現在は、全国で1000箇所ほどあると言われている。

私の住んでいるような、都市圏の未指定地区の場合、
旧隣保館や浴場などの、
所謂「同和モニュメント」が一切なく、
部落外の人々も多数流入して混住化が進んでおり、
もはや、被差別部落の面影は殆ど無く、
一般地区化していると言っても過言ではない。

翻って、住環境の改善を目指して数々の
同和モニュメントを擁した同和地区では、
皮肉にも、それらの公共施設が仇となり、
現在でも、差別解消どころか、
逆に差別を受けるランドマークとなっているのは、
いくらなんでも、皮肉な話である。

つまり、パッと見てわかる部落と、
パット見、わからない部落が存在するわけだ。

ついでに言うと、同和問題=部落問題と思われているフシがあるが、
同和問題は、同和地区にのみ限定される問題であって、
差別云々を問題視するというのであれば、
未指定地区を含む表現である『部落問題』を使うのが正しい。

■見えなくなった部落
~都市型未指定地区~

繰り返すが、私は、この地へ引越してから、
約10年の間、ここが被差別部落であることが、
全くわからなかった。

繰り返しになるが、すでに、その頃にも、
被差別部落の研究も細々とではあるがおこなっていたし、
近隣地域の同和地区へは、
実際にフィールドワークへ出かけ、
目で見て、足で歩いて学んでいた。

恥ずかしながら、それでもわからなかったのだ。
駅から4分で、人通りも多く、
全く一般地区と変わらない。
私が越してきた時は、わずかに田畑が見られたが、
年々、それを埋め立て、新しい暮らしが始まる。

興味本位の部落ウオッチャーが喜びそうな廃墟や、
バラックなども一件もない。
至って普通の地区である。

ただ、今となっては、
一部、道がやけに細く、袋小路になっている所や、
隣近所の地域には無い、とても立派な公民館が有ること、
(現在は公民館と記載があるこの建物も、
昔の住宅地図を見ると、○○市福祉会館と記載されている。
この市で福祉会館といえば、同和地区にしか無い。)
又、根拠が無いが、私には、感じるものがあった・・・
地区の寺が、なんとなく他の部落にありがちな雰囲気を醸し出していたこと。

これら、幾つかの、「部落であろう」ヒントがあったことは事実である。

地域の古老の話によると、5~60年前までは、
50世帯ほどの部落であったということだ。
都市といえども、周りは田んぼだった時代である。

それが、現在では400世帯にまで膨らんでいる。
半世紀の間に、8倍に膨れ上がったわけであるが、
その殆どが、田畑を埋め立て、
宅地化されたこの部落へやってきた、
部落外の人々である。

概ね、都市部の未指定地区はこのような状況になっている。

少なくとも、私が把握している限り、
当市には5~6箇所の未指定地区があるが、
何れも、現在は、同じように「一般地区化」していると言っても過言ではない。

結論から言うと、都市型の未指定地区の場合は、
概ね、“解放された”と言っていいと思われる。

それは、元の地区住民(部落民)の数よりも、
流入民がはるかに上回り、かなりの混住化が進んでいる事。

また、同和地区に見られるような、
改良住宅、隣保館や人権センター、浴場、福祉施設など、
所謂、同和モニュメントが見られない事。

もちろん、同和施策を受けていないので、
行政の例規集などにもその存在は上がってこない事。

そして、何よりも、被差別部落としての存在を知るもの(高齢者)が、
時代と共に少なくなり、又、何れ居なくなってしまう、
つまり、被差別部落であった事実が葬り去られるであろう事。

このような理由が挙げられるのではないだろうか。

=================

今回、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2&生立ち編-39」
と題して、未指定地区について解説してきましたが、
実は、これまでに書き続けていた文章が、
何故か忽然と消えてしまったのです。

最後に記事を書いた後も、キチッと保存して作業を終了しましたが、
サーバーの関係なのか、或いは回線事情か、
全くわからないのですが、とにかく文章が消えてしましました。

そこで、記憶を頼りに復旧作業を試みて書いておりますが、
最初の文章の出来が良かった為か、
納得のいく文章が書けていないような気がしてやみません。

記憶というものは曖昧で、中々、
当初通りの復元というわけには行かないのが実情です。

又、以下にも、このテーマで続く文章がありまして、
農漁山村の未指定地区の実情や、
地区指定を受けなかった理由、
そして、どのようにして、
此処が被差別部落と分かったのか・・・
それらを、執筆しておりましたが、
前途の通り、消滅し、
もう、悔しいやら泣きたいやら。

また、もう一度、書かねばならないと言う疲労感に潰されそうですが、
しっかりと、書いて、皆様に読んでいただきたい所存です。

と、言うわけで、本日はここまでで、
一度公開させていただきます。

これからも、被差別部落の暮らしをよろしくお願いします。

スギムラシンジ

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2017年2月5日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章1&生立ち編-38

『部落差別解消推進法の成立』に於ける、
キーパーソンの一人である宮部龍彦氏について、
「鳥取ループ(=宮部氏)は部落差別推進者か?」
との題目で、2回にわたって検証してきましたが、
いよいよ、まとめに入っていきます。

しかし、まとめに入る前に、
一度読んでいただきたい章があります。

本来なら、連載中の『生立ち編』で、
順を追って書くべきなのでしょうが、
今回、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」の
まとめをする上で、非常に大切な事柄となっていくと思われますので、
今回、あえて、“まとめ”に『生立ち編-38』を絡め、
書いてみようと言う趣旨であります。

只今連載中である『生立ち編』の、
時系列からかなりずれ、
現在の話をしなければならないので、
読者諸氏には、誠に読みにくく、
内容が通じづらいこともあるかと思われますが、
それを承諾の上で、お読みいただければ幸いです。

                           スギムラシンジ


■被差別部落に住んで

私は、今現在、被差別部落に居を構えている。

もちろん、妻の実家がある被差別部落ではない。

いま、この記事を執筆している住まいは、
妻の実家から、車で30分ほど走った、
妻の出身部落とは、全く別の被差別部落である。

このブログでも、折にふれて“それらしいこと”を匂わしてきた。

例えば、一昨年12月30日に記した『被差別部落にて~今年一年を振り返る』
は、現在の住まいである「この家=被差別部落」で書いたものだし、
今、読み返してみれば、一昨年12月17日に記した文章
『未解放部落と部落問題研修所。そして独自解釈』では、

ここで、
「ん?やけにスギムラは、未指定地区の現況に詳しいなぁ!?」
と思われる方々もおられるでしょう。
そうなんです。
私、スギムラは・・・・
いや、いや、この話の続きはいずれ生立ち編で書くことにして、
未指定地区の続きです。


・・・等と、
何やら意味深な書き方をしている箇所も見受けられる。

そう、それらの全てが、今回、明らかになるのであるが、
私の妻に至っては、何年か前に「部落を出て、又部落に嫁いたなぁ」等と、
笑い話のつもりで声を掛けると、
どうやら、彼女には、冗談には聞こえないらしく、
結婚して暫くはあった“愛想笑い”も、今となっては全く無く、
いかにも邪魔くさそうに「何がおもろいねん!」と、
渾身のオヤジギャグは、木っ端微塵に粉砕されてしまうのであった。

■おいたちと部落の縁
そんな、被差別部落の暮らしであるが、
もちろん、私とは、全く縁もゆかりもない・・・
いや、間違えた。
「縁があっての部落暮らし」なのである。

そう。
このブログの“こけら落し”には、あえて、
「おいたちと部落の縁」と題した記事を書いたが、
その時には(物語がより、ドラマチックになるように)
あえて語っていなかった大きな縁の一つが、
このブログタイトル通り「被差別部落の暮らし」なのである。

では、なぜ、この部落へ住むことになったのか?

これに関しては、本当に、
不思議な『何か』で結ばれていたとしか考えられない。

それが、“縁”だと言うのはわかるが、
やはり、住むべくして住むことになったのであろう。


■家を買う

この部落へ住んでから、早くも17年の月日が過ぎた。

私が、育った長屋での暮らしが、20余年であったから、
そう少しでそれに迫るし、今の状況では、引っ越しの予定もないから、
このまま行くと、この部落での暮らしが、
あと数年後には、「人生で最も長い住まい」ということになりそうだ。

17年前、私は、前妻と二人の子供とともに、
この部落から、車で5分ほどの場所で、
アパートを借りて暮らしていたが、
幼稚園児の子供は、男兄弟ということもあり、
昼夜問わず大暴れするものだから、
次第に、近所から、苦情が来るようになった。
30歳の頃だ。

部屋も手狭になってきたので、
意を決して家探しをすることになったのだが、
沢山の新聞広告やら、不動産屋があるなか、
予算に合わせて、数件をノミネートし、見て回った。

全く初めての事だったので、
何軒見て回っても、しっくり来るものがなく、
家を買うのは大変なことだと、つくづく思ったものである。

案外時間がかかったと思う。

ある一件に的を絞り、遂に契約へ至ったのであるが、
実は、「100%惚れ込んで」と言う訳ではなかった。

ある意味根負けだ。

広告を吟味し、家を見て回ることに辟易気味であった。

尾崎豊じゃないが、「早く自由になりたかった」のだ。


そんな訳で、やっと契約に至り、
あとは、引っ越しだけと、安堵したのもつかの間。
数日して、何故か支払ったはずの手付を持って、
不動産屋がやってきたのである。

「実は、銀行ローンが通りませんでした。
だから、今回の契約は破棄致します」と。

銀行から借金出来なければ、
買うことは出来ないので、
契約破棄は当然なのであるが、
当方に問題があるのではなかった。

彼の言い分としてはこうだ。
「今回は、物件に問題がありました。
前面道路が狭く、担保価値が無いということでした」

なるほど。
銀行も、先のバブルで痛い目を見ているので、
「闇雲には貸さないゾ」と言う姿勢は、致し方ないところであるが、
しっかりと、物件を見に来ての判断らしいので、
その対応も、半端ないものである。

また、当方が、幸運だったのは、
担保価値のない家を掴まされずに済んだことだが、
今となっては、きっと、誰かの手に渡っていることだろう。

ただ、付け加えておくが、終の棲家とするのであれば、
環境もよく、暮らしやすい良物件である。

しかし、困った事に、住宅購入は振り出しに戻ってしまった。

だが、それから程なくして、
とても惚れ惚れするような物件が出てきたのだ。
早速、不動産屋と共に、家を見に行ったが、
今度は、人がまだ住んでいるという。

これまで、空き家ばかり見て回っていたので、
今までにない展開に少々戸惑うが、
無事家を見終えて、更に気に入ってしまったのだ。

どこが、そんなに気に入ったのかというと、
今まで、比較していた数々の物件のどれよりも、
土地が広く、家も大きかったのだ。

それでいて築年数も浅くて、駅から徒歩4分の好立地。
オマケにガレージまであるので、駐車場代も掛からない。

なぜ、こんな物件が!?
何か、いわくつきの家か?

と、思ったのも案の定、
いわくつきの物件であることが判明した。
・・・とは言っても、大げさなものではないが、
初めて、家を買うものとしては、
売買を大いに迷うようなことだった。

実は、家主は賃貸として、かの物件を貸し出しており、
家を借りている方(私が、見に行った時は、
この方々が住んでいた)が、
賃貸契約中であることを理由に、
家を明け渡さないと言ってたらしい。

売り主は、賃貸契約中であるにもかかわらず、
なぜ、売り急がなければならなかったのかは、
今となっては知る由もないが、
とにかく、期日までに明け渡すことを拒んでいるという。

その辺りのことについては、
「売り主が責任をもって、期日までに明け渡すから」と言う、
不動産屋の言葉を信じ、
売買契約を結ぶ事になったのである。

*家は、無事期日までに明け渡された。
不動産屋に後日聞いた話では、
売り主が、賃貸契約者に立ち退き料100万円を支払ったという。

かくして、無事、家を手に入れることが出来た。

今回分かった事は、
家を買うとことは、何だか「恋愛」に
似ているのではないかと思ったことだ。

一方から「欲しい欲しいと」
いくら時間を掛けて、口説き落とそうとしても、
ダメなものはダメだし、
今回のように、「相思相愛」でスッ・パッと決まることもある。

これが縁だというものなのだろう。
お金を出せば買えるというものではないことが、
不動産には言えるのではないだろうか。

さて、世間的には、いわくとは言わないかもしれないが、
そんな出来事を経ての家購入であったが、
そんなことは些細な事で、
この物件が、お買い得なこととは、微塵も関係ない。

では、なぜこの物件が、
他の地域の物件より広く大きな、
お買得物件だったのか?

それは、この地が、
被差別部落であることに他ならないからであった。


【鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2へ続く】

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