~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年7月31日木曜日

被差別部落のお盆:その1

我が国には、時期に応じて古来から今日まで
大切に守リ伝えてきた日本文化や伝統が数多くありますが、
特に、季節の行事の中でも、
盆と正月は年間行事の2大柱であります。

これは、部落とて同じこと。
部落でも盆は、非常に大切な行事として
長きに渡り受け継がれております。
8月になったばかりで少し早いですが、
今日は「部落のお盆」についてお話をさせていただきます。

元々お盆は、仏教の盂蘭盆のことで、
先祖を敬い供養する行事でありまして、
お盆の期間には、先祖が家へ帰ってくると言われてます。

部落の方々は、現世の差別の苦しみや辛さからの
解放を仏教にすがってきました。
だから部落民は非常に信心深いのですが、
その話も今は昔。

現在の部落民、特に若い方々は、
信仰についても一般地区と全く遜色がなく、
若年になるほど信仰心も薄く、
仏教及びその他の宗教にも殆ど無関心です。

部落の場合、その歴史的背景から
主に仏教は「浄土真宗」が信仰されてきました。
現在でも部落に存在する寺院のほとんどが
浄土真宗であるのですが、 歴史を振り返ると
部落の寺院は「穢多寺」ないしは「穢寺」と呼ばれ
仏教界でも多いに差別されてきました。

この件につきましては、書くことがあまりにも
多くなりますので、又いずれこのブログで
詳しく取り上げていくつもりです。

前置きが多く、中々本題に移れませんが・・・
今日のテーマ「被差別部落のお盆」です。

先にも書きましたように、被差別部落のお盆は、
宗教的意味合いはやや薄れ、
盆休みを利用した「帰省」や「集まり」が
主な意味合いを持ちます。

部落の場合、親兄弟親戚縁者は、
近くに居住しているケースが多いですが、
中には、嫁がれたり仕事の都合で
生まれ故郷の部落から遠く離れた土地で
暮らされている方もおられます。
この辺りのことは、 一般地域とは
全く遜色が無いと思います。

しかし、一般地区と少し異なった点があるとすれば、
「近くに居住している」親戚が圧倒的に多いということですね。

このあたりのことは、以前にこのブログで
「被差別部落と親戚」という項で書かせていただきましたので、
宜しければ読み返していただければありがたいです。
◎被差別部落と親戚
◎続・被差別部落と親戚
◎続続・被差別部落と親戚

さて、この様に部落には親戚がとても多いのですが、
その親戚縁者の結びつきがコレ又、とても強固でして、
皆、本当に仲がいいのです。

だから、お盆には近所の親戚も、遠くに離れた親戚も
大挙してやってきますので、それはそれは・・・
各家庭はもとより、部落全体がもの凄く賑やかになります。

今は、核家族化が進んで、親戚付合いも
希薄になってきていますが、こと部落に関しては
その心配はなさそうです。


かつて、長きに渡る社会からの孤立が、
部落内の連帯をより強固にし、
その伝統が今も残っているのです。
これは、部落のいいところだと思いますね。
 
では、ボチボチこの辺で今日のテーマ
「被差別部落のお盆:その1」を
終わりにしたいと思います。
その2では、部落の具体的なお盆の姿を
皆様に紹介させていただきます。
お楽しみに!!


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2014年7月30日水曜日

Soul!Soul!Soul!-私の中の部落解放前夜【生立ち編-29】

前回までにお話しした通り、
私が通うH高校は、
当時としては珍しい、制服がない「私服高校」
と言うことからもわかるように、 非常に自由な校風が特徴でした。

授業の出欠もしかりで、良く言えば「生徒の自主性を重んずる」
言い換えれば「 放任主義」ということでしょうか。
丁度、大学の様な高校でしたので、
先生はいちいちアレコレ言ってきません。
 
それがいいのか悪いのか?
私は出来が悪かったので何とも言えませんが、
当時の全国高校学力ランキングでも、
当地区はかなり下の方でしたので、
やはり、学力的にはあまり良くない
教育方針であったのかもしれません。

しかし、それに反して、カルチャー的には
多いに刺激を受けることが出来た高校生活でした。

その一つが音楽です。

以前、このブログでも書きましたが、
私はビートルズが好きです。
ビートルズ好きが高じてその源流を探り当てたり、
ソロになったメンバー達が他のミュージシャンと共演する事により、
私の音楽のレパートリーも増えていきました。

例えば、グループ同士として友好関係にあったローリング・ストーンズや、
ジョージ・ハリスンと親友だったエリック・クラプトンやボブ・ディラン。
ジョン・レノン はチャック・ベリーと共演し、ポールは当時売り出し中の
マイケル・ジャクソンやソウル界の大御所スティービー・ワンダーと
共同で曲を出す。

彼らの音楽を繋いでいけば、
ナント!全てブラックミュージックに辿り着くのです !

時を同じくして、パンクロックにもハマりました。
これは、友人からの影響です。
パンクロックは、レゲエの影響を非常に色濃く受けてました。

その頃より私は、それらの音楽の源流=ブラックミュージック
に興味を持ち始めたのです。
特に、当時流行りつつあったラップ・ミュージック(Hiphop)と
レゲエにハマりました。
そして、以降から現在まで、それらの更に源流である
SoulやBlues、Jazzに魅了されていくのです。

スケボーを小脇に抱え、エレキギターを担いで、
更にファッションも当時のHiphoperのスタイルを真似て
学校に行くのが、その頃の私のスタイルでした。

自由奔放な高校生活から学んだことは、
勉強よりもカルチャーです。
勉強は全く出来ませんでしたが、
この時代に学んだことは、
今思い返しても、精神的に凄く大切なことを学んでいたのです。

一見、全く関係のないことのように思われますが
コレが私の部落解放へと繋がる
大きな影響力の一つであることは
紛れも無い事実なのです。

この時以降、私は、黒人差別問題を含めた
黒人の歴史や文化についての研究を始めることになります。

それは、部落を差別していた私にとっての、
部落差別からの解放前夜と言えるのでした。


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2014年7月20日日曜日

続続・被差別部落と親戚(親戚付き合い)

さて、前回に引きつづき部落の親戚についてですが、
今日は、具体的な親戚付き合いについてレポートします。

部落の親戚の形成方法や現在の状況は、
前回までに書いたとおりです。
このケースは私の嫁の部落を元に記していますが、
概ね、他の部落でも同様のケースであろうと思います。

部落には、非常に親戚が多いのですが、
普段から親しくするのは、部落外と同じく「直系」の親戚です。
この点は何ら部落外と変わりはないのですが、
殆どの場合、同じ部落内か又は、その近辺に住んでいるので、
普段から顔を合わせる親戚が非常に多いということです。

「普段から顔を合わせる親戚」と言うのは、
休日や行事に会う親戚のことなのですが、
例えば、私の嫁の部落を例にあげますと・・・

嫁の姉妹=2家族系7人
私の家族=4人
義母=1人
____________
合計 12人
と、ここまでは休日などに顔を合わせる
家族的親戚関係。

これが、行事になりますと・・・

◎義母の姉A(私にとっては叔母になりますが)の家族
叔母・叔父=2名
息子家族=4名
娘=1名
____________
合計7名

◎義母の姉Bの家族
叔母・叔父=2名
息子家族=5名
娘家族=5名  
____________
合計12名

と、いうことは・・・
何か行事があると31人(+α子供たちの彼氏・彼女もやってくる)の
親戚たちが集結するのです!!

地区外でも、それくらいの親戚は普通でしょうが、
会うのは精々、誰かの葬式や盆正月位のもの。
しかし、部落の場合は、近くにいるので本当に顔を
合わせるケースが多く、そして本当に仲がいいのです。
それと、嫁の実家の改良住宅の同じ棟には・・・
嫁の叔父の兄弟家族=集結時・約30人
嫁のおじいちゃんの兄弟家族=集結時約15人
その他、嫁が「あの人親戚!」と称する家族合計=約30人位か?
私の叔母の兄弟関係の親戚=約20人
_____________
合計 約100名!?
《この辺りの方々は、私は到底把握出来ませんので
あくまでも実数に近い概算ということで・・・》

まぁ、お盆や正月なんてのは、
本当に賑やかなものです。
棟の階を超えて、それぞれの親戚の家を
行き来するのですから!

もう、どこがどこやらわからなくなってきて、
嫁と私が別々の親戚の家で呑んだり話したり、
娘の姿が見えないと、「なぁ、あの子らどこ行った?」と
聞く私に、嫁は「ん?○○の所と違うかなぁ?」。

なんて、ことが実際にあるのです。

こんな時、私は部落外の人間ですが、
部落って本当にいい所だな~(^O^)と、
しみじみと思います。
典型的な核家族の私には、
その様な経験が少ないので
余計そう思うのかもしれませんが・・・。

暖かくって面倒見がいい。
優しくって楽しい!
部落は、部落が家族です!!

核家族化と言われて久しく、
親戚関係も希薄化している現代社会ですが、
本来の・・・日本古来の家族の姿が部落にはあります。
いや、日本の原風景を綿々と続けているのは、
部落だけかもしれません。
 *ちなみに、私方の親戚、
例えば私の叔父なんかには、
10年以上会っていません(>_<)。

話は変わりますが、こんなに親戚が多いわけですから、
その付き合い方にもルールが存在します。

例えば、誰かの入学祝い。
お祝いを送るのは従兄弟まで。
(任意にそれ以外の親戚にも贈ったり貰ったりしますが)
そして、そのお返しはしない。
このようなルールがあるので、
親戚が多くてもハッキリしてますしトラブルもありません。

喜びや悲しみも、楽しみや痛みも
共に分かち合い共有する。
そして、一つの出来事も自分の事のように感じ悩み考える。

そんな部落の親戚付き合い。
皆様には、どの様に感じられましたでしょうか?


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2014年7月10日木曜日

続・被差別部落と親戚

先日書きましたように、
過去の歴史を振り返ってみると・・・

身分制度があった時代には、被差別部落民(穢多)は、
自由な通婚が出来ませんでした。
又、住居も穢多村から、一歩たりとも出ることが許されませんでした。

明治4年。
時の明治政府より「身分解放令」が出されると、
制度上では、部落民は解放されることになり、
転居や結婚も自由にできるようになりました。

しかし、どうでしょう?

部落民は、解放令で本当に自由になったのでしょうか?

・・・それは、
それは、みなさんもよくご存知でしょう。
未だに綿々と部落差別は続いています。

もちろん、今は昔のように、
部落民に面と向かって差別をする「直接的」な
差別は少なくなりました。
いや、ほとんど無いと言ったほうがいいかもしれません。
しかし、現実には差別はあります。

インターネット・落書き・はがきやメール・・・

差別は、現実にあるのですが、アンダーグラウンドなんですよね。
差別者の顔が見えないわけです。

それと、最も大きな問題のひとつが、やはり結婚差別ではないでしょうか?
これは、ハッキリと相手の顔が見えますし、
当事者を取り巻く親戚縁者関係も見えてきます。

普段、全く顔を合わせない・・・
会っても数年に一回位の誰かの葬式程度でしか顔を合わせない
親戚縁者のしゃしゃり出た差別意識により、
これから毎日顔を合わせる事になる、
生涯のパートナーを失うわけです。

「結婚差別になんか負けない!」
と息巻いていた当事者も、
親兄弟・親戚縁者の“説得”により意気消沈。
そして、破談・別れへと向かいます。

これで、いとも簡単に、結婚差別の出来上がりです!

そして、その理由が・・・なんですって?
穢れているから?

ふ~ん、そうですか~。 
じゃぁ、お医者さんはどうなんでしょうねぇ?
お医者さんも、人の死に携わる職業ですよね。

かつて、牛の解剖(解体)を生業としていた部落民が穢れていて 、
人の解剖をするお医者さんは羨望の目とは、如何なることでしょう?

今も昔も、お医者さんは「結婚したいランキング」でも
常に上位であることは間違いありません。

私は、お医者さんにはお世話になってますし、
もちろん尊敬いたします。
それと同時に、“穢多”と呼ばれた時代の
部落民にも敬意を払います。

今の西洋医学の発展に、
実は、部落民が大きく関わってきたことは、
余り知られておりません。
《江戸時代、日本で初めて人体解剖の書「蔵志」を
記した山脇東洋。しかし、この時、罪人の解剖を実際に施したのは、
六角獄舎近くの部落民達》 

止めどない文章になってしまいましたが、
今回は、差別する側の親戚を描きたかったわけで・・・。

最後に、これだけ言わせて下さい。
職業に貴卑はありません。
それと同時に人にも貴卑はありません。

かつて、部落を、そして、部落民を蔑み差別していた。
そんな、部落差別者の私が言うのですから・・・。



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2014年7月7日月曜日

被差別部落と親戚

皆様もご存知のように、
被差別部落は長きに渡り「社会から隔離」され
差別を受けてきました。
それは、部落の閉鎖性を生みだし、
独特な家族形態を生み出してきました。
その一つが親戚縁者です。

被差別部落民は、幕府によって身分制度が確立されると、
自由な通婚ができなくなってしまいました。
つまり、部落民は部落民同士での結婚を、
農民は農民同士の結婚を余儀なくされてしまいます。
(注:社会的に差別された穢多・非人層以外の層では、
実際には、制度上の抜け道があり、身分違いの
通婚もあったようですが、原則として。)
 
これについては・・・
部落民が、好きになった人が
部落民であれば問題ないのですが、
仮に、「好きになった人が農民」であったら結婚を
諦めることになるどころか、 
「好きになることさえ許されない」そんな状況でありました。

その様な悪政が近代まで続いていたわけですから、
自ずと部落内での結婚が多くなります。
また、同じ部落内に見合う方がおられない場合は、
近隣の部落へ嫁ぐ場合も多かったと聞いております。
ただ、結婚については、遠い昔の話ではなく、
身分制度が無くなって久しい極々最近まで、
部落民同士の結婚が殆どで、
部落民と部落外民との結婚が増えてくるのは、
我々の親の世代辺りからではいかと感じます。

しかし、結婚差別は、未だ根強く残っている
部落差別の中の大きな差別の一つであることは、
私が改めてこの場で語らずとも
皆様、周知の事実であろうと存じます。 

さて、そんな状況でしたので、自ずと部落内に
親戚が増えていくのは、ある意味、
自然な状況であろうかと思います。

私の嫁方では、その部落内の殆どの人が
どこかで「繋がっている」。
そのような事を言っても過言ではないと思います。

親兄弟や従兄弟など身近な親戚に加え、
婚姻で出来た新しい親戚関係、
付き合いが多い親戚もあるし、
家系図的には枠外へ出てしまうような
親戚関係もあるのですが、
本当に、とにかく親戚が多いのです。

嫁の実家では、よく親戚の名前が出てくるのですが、
当然、私は知らない。
だから、私はその手の話には加わらないし、
いちいち「それ誰?」何てことも言いません。

どうせ聞いてもわからないし、
聞いた所で関係が複雑すぎて
理解できないに決まってますから(笑)

よく部落は、何か事が起こったら・・・
「トラブルがあれば、集団でやってくる」と
いうようなことを耳にしますが、
コレを読んでいただければわかるように、
実は皆ファミリーなんですね。

ファミリーであるから、何かことが起これば
皆で解決しようとするのは当たりまえのことで、
それが、周りから(部落外民)からすれば、
「部落の野郎は集団で襲って来やがる!」となるわけです。

それに、団結心といいますか、仲間意識が非常に強い。
やはり、社会的に差別されてきた結果、
自分たちを守るものは自分たちであると同時に、
喜びも悲しみも皆で分かち合うのが
部落民のアイデンティティなのであります。

話は変わりますが、
例えば、こんな話もあるのです・・・
私の嫁の実家の部落は、自宅から車で20分ほどなので
嫁は子供を連れて、土日なんかに頻繁に実家に帰るのですが、
私は仕事があるので、中々嫁の実家には行けない訳です。


前途の通り、部落内には親戚が多いわけですから、
嫁と子供は、部落で色々な親戚の方々と出会うわけです。
すると、何としたことでしょう!
私より、子供のほうが親戚をよく知っているわけです。
これには、ホント参ります。

部落近くを子供を連れて歩いていると、
見知らぬ方から「こんにちは」なんて、
声を掛けられるのです。
当然、私は知らないので、軽く会釈をしますが、
実は子供達はよく知っている・・・なんてことも日常茶飯事です。

それと、最後になりましたが、
(もう少し早い時期に書けばよかったのですが)
以前「生い立ち編」の最初のほうで
私の叔母が部落の出身である、と言うことを紹介しました。
叔母は部落民:参照)

本当に、世間っていうのは狭いものです。

実は、この場にて発表いたしますが、
私の叔母は、嫁と同じ部落の出身で、
叔母の親兄弟(私の親戚)を嫁も義母もよく知っており、
特に、叔母のお兄さん家族は、
嫁と同じ棟に(嫁は私の所に嫁いだので、今は義母)
に住んでいるという何とも不思議な縁なのです。

嫁との結婚前にそのことがわかったのですが、
嫁も私も大変ビックリでした。
まさに人生とは数奇なるものですね。

そんなわけで・・・
嫁方の親戚に、新たに私の親戚が加わり、
部落内でより一層、親戚縁者が増えたわけでありますが、
このような形の親戚の増え方も、稀ではありますが、
実際にあるのですね(笑)


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2014年7月4日金曜日

同級生との出会い【生立ち編-28】

さて、私の高校生活ですが・・・
元来、基礎学力が無いのに、
「付け焼刃的な受験勉強」をした結果の合格でしたので
高校に入ってからは、またもや勉強が分からない
チンプンカンプン状態でした。

先にも申しました通り、このH高校へは通学圏で
自動的に振り分けられたのですが、
私が卒業してから数年後、
学校改革だか何だかでH高校も様変わりをし、
今は高偏差値大学への合格者を
多数輩出する進学校になってしましましたが、
私達が通っていた頃は、極々ありふれた普通科高校でした。

しかし、そんなありふれた高校でも、授業に全くついていけず、
授業が面白くなく、学力も落ちてきて、そのうち
あまり授業にも出なくなりました。

だから、朝は授業開始から遅刻登校。
そして、後の授業も適当に抜けだして喫茶店や学食で
時間を潰すことが多くなってきました。

H高校は高校ながら、案外自由な校風で、
正門には扉があったのかなかったのか?
常時あけっ放しで授業中でも自由に出入り出来ましたし、
授業をサボったからといって、
先生が追っかけてくると言うのもありませんでした。

そうですねぇ・・・
どことなく、大学のような自由な感じでした。
そんなある日、学校をサボって喫茶店へ行こうと
自転車で向かっていた時のことです。
少し先で信号待をしている彼女に気が付きました。

グレーのオフィスユニフォームに身を包んだ彼女は、
私と同じ17歳とは思えない落ち着きを放ち、
若さに似つかわない、立派なOLさんの容姿でありました。

彼女は小・中学校の同級生。
顔がかわいらしい上にユーモアがあり、
男性諸氏に、とっても人気がありました。
私は、クラスも一緒のことが多かったので結構仲が良かったのですが、
中学校卒業とともに疎遠になっておりました。

それが、2年ぶりに高校の近くで会いました。

「クミちゃん!(彼女の名前)クミちゃんやんか!久しぶりやなぁ」

「あ、シンちゃん。久しぶりやなぁ」 

「え!?この近くで働いてんの?OLさんかぁ。カッコええなぁ~」

「うん。私な高校入ってスグに学校辞めてなぁ、
今はそこにいてるねん」

と言って、指差したオフィスビルの先には・・・
なんと、前回お話しした、同和系企業の看板が上がっていました。

「私のなぁ、お父さんの紹介やねん」

「お父さん?・・・そうかぁ~。」 

彼女の言葉でピンときた私は、
それ以上詮索することもなく、
いつもと同じ笑顔で微笑む彼女との
短い時間を終えました。

通っていた小学校区には、部落(同和地区)は含まなかったのですが、
きっと彼女は、部落民の血を引いていたことでしょう。

それ以来約30年。
彼女とはそれっきりですが、
途中、随所随所で、件の同和系企業の
ダークな噂が聞こえてきて、ついに逮捕者が出たことを、
彼女に会ってから数年後に、
報道等で聞き及ぶことになりました。

彼女がそのオフィスで、どんな仕事を担い、
どこまで事情を知っていたかは、
後にも先にも、私には全く分かりません。

ただ、部落の事を考えたり、こうして文章にしていると、
今でも・・・

今でも私の心の中では、
あどけなさの中にも、立派なOLとしてオフィスユニフォームに身を包み、
爽やかな秋風の中で、にっこりと微笑む
かわいらしい彼女の姿が浮かびあがります。

それは、部落のジメジメした
イメージや差別とは程遠い
一つの現代部落の形であることを紹介し、
今日のお話を終わらせて頂きたいと存じます。

部落を皆さんに知ってもらいたい!

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