記念すべき第一回はどこを書こうか悩みましたが、
いちばん最近に行った所を書こうと思います。
では、はじまりはじまり~。
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◎行って記・見て記・被差歩記-1
(いってき・みてき・ひさべつあるき-1)
「水上勉の生家を訪ねて 」
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被差別部落から見た現代文学史において
外す事ができない2人の作家がいる。
一人は、自らも被差別部落出身を半ば公言し、
部落をモチーフにした作品を執筆している芥川賞作家「中上健次」。
そして、もう一人は直木賞作家の「水上勉」である。
今となっては、何であったかすっかり忘れてしまったのだが、
以前、何かの折に水上の言葉を見聞したことがある。
「京都の大学に通っているとき、近くの部落からお母さんと娘とが手を繋いで出てきた。
その頃のことが今でも心に残っている・・・」
うろ覚えで申し訳ないが、たしかこの様な文面であったかと思う。
また、水上は、大阪・浪速部落にある「大阪人権博物館《リバティおおさか》」の
設立に関わり、その銘板を書いていることからも分かるように、
非常に被差別部落と関係が深い作家であるが、
それは、彼の生い立ちに由来するところが大であろう。
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NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台となった
福井県・小浜市から西へ車で30分。
目の前に広がる小浜湾を眺めながら一息つく。
福井県O町。
5月の太陽は、もはや夏が訪れたように大きく暑い。
海を眺めている空には大きなトンビが「ピーヒャラ」と鳴き、
時折、海面から魚が跳ねる。
それだけでも、この地が自然豊かな街であることを
窺い知ることが出来るのだ。
原発地帯である福井県は、
不思議と被差別部落のある地に原発が建てられている。
同和財源や雇用を確保するためか、
それとも単なる偶然か、理由はよくわからない。
ここO町も例外ではない。
地区内に原発を含むこの地域では、
東日本大震災による原発事故よりもずっと昔(誘致時)から
原発推進派と反対派が村を2分し、現在も尚、対立が続くと言う。
私は、以前から度々この地区を訪れることがあり、
地区内に暮らす人々の話を聞いたことがある。
初めの頃は、反対派の方に推進派寄りの話し方をして
気まずくなったり、又、その逆もしかり。
今は、この地では迂闊に派閥の話をしてはいけない事がわかり、
話し方にも大変気を使うのである。
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海側から国道27号線を越え、地区内陸部へと向かう。
JR線までの所狭しと家が並ぶ地域を超えると、
風光明媚な田園風景が広がる小さな平野に出る。
平野の真ん中に流れるS川は、
水上作品にも度々出てくる、
この地区を代表する川である。
かつて水上が見たであろうS川を眺めながら
しばし物思いにふける。
田舎の川と言うわりには、
お世辞にも綺麗とは言いがたい流れの中に、
大きなニゴイが2匹、3匹と泳いでいる。
やがて、水上がこの地にとどまっていれば
通うことになっていただろうO中学の昼休みを告げる鐘の音に、
私は再度 水上の生家を目指すことにした。
先ほど「小さな平野」と書いたように、
川を中心にした田園から、
左右から迫る山裾に沿う様に小集落が見える。
そんな集落の一つ「O集落」が水上の生まれた地である。
水上曰く、
そのO集落は、「近隣から長く乞食谷(コジキダン)」と
呼ばれていたそうである。
乞食谷とは些か穏やかではないが、
かつてO町内には被差別部落が一箇所あり、
1973年、部落解放同盟の設立が準備されたが、
集落内の融和ムードに押され消滅したそうである。
水上が生まれた「乞食谷」がそうであるかどうかは
分からないが、少なくとも周辺から
「乞食谷」と呼ばれるほど貧しく、差別されていた様子は、
その記述を見れば一目瞭然である。
(ある報告によると、「O町内の被差別部落の戸数は30戸」
と言う記述が有ることから、水上の生家の集落ではないかと思われるが・・)
水上は又、こうも綴っている。
「何故、乞食谷と呼ばれているのか今もわからない」・・・と。
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丁度、O集落の入口に住宅の案内図が掲げられていた。
以前は割りにどこでも見られた光景であるが、
近年、個人情報保護の観点から都会では、
住宅案内板はほとんど見なくなった。
まだそれだけ、この地が長閑だということであろう。
案内図には周辺地区や中学などの公共施設にも、
通し番号が振ってあるのだが、ざっと見る限り、
この地区の戸数は70戸ほどである。
車で集落に乗り入れた限りではわからなかったが、
こうして見取り図を見てみると、
この集落が山と山に挟まれた“谷”であることがよく分かる。
見取り図の14番に「水上」の苗字が見て取れるが、
フィールドワークの前に学んだ知識では、
水上の生家は現在は取り壊され、建物が無い事と、
水上の親類が、今も尚この地区に住んでいるということから、
どうやら、この家は水上の親類宅であるようだ。
案内図にはそれ以上の情報がなく、
途方に暮れていると、道路の反対側でトラクターの
整備をしている方がおられた。
私は車を降り、そこへ駆け寄った。
年の頃なら70歳半ば位のおじいさんであったが、
トラクターの整備をされているところから見て、
まだまだ現役バリバリの農夫なのであろう。
「スイマセン。この辺りに“ミズカミツトム”先生の
生家があると聞いてきたのですが。」
普段は、水上=“ミナカミ”と読む私も、
現地では本名の方が通じるだろうと、
あえてミズカミの読み方で言ってみたのである。
おじいさんは「ミズカミ・・・?」
と、やや怪訝そうな顔をして、こう続けられた。
「ミズカミさんとこは、もう何にもないよ。
随分昔に家も壊してなぁ・・・。
今は空き地にざくろの木があるだけじゃ・・・。」
案の定、おじいさんはミズカミを使っている。
だが、私が気がかりになったのはおじいさんの
怪訝ぶりである。
なにやら、人に知られたはいけない・・・、
なにか重大な隠し事をしている事を知られたような
そんな雰囲気が漂っていたのである。
私は、そのおじいさんの怪訝さに違和感を覚えた。
想像していた応対とは明らかに違った応対だったからであるが、
それは、取りも直さず、水上の生家を尋ねる人がほとんどいないことを
物語っているようだった。
実はこの集落の近くに、
生前、水上が私財を投じて作った「若州一滴文庫」がある。
これは貧しくて本も買えなかった幼少期の水上の思い
-地域の子供達に心ゆくまで本を読んでもらいたい-
という、「長年の思い」が形になったもので、
言わば、私設図書館である。
10年ほど前までは、水上の弟さんが管理をされていたらしいのだが、
弟さんの死後は、町が買い取り運営管理を行っている。
どうやら、殆どの方々は若州一滴文庫止まりで、
生家まで足を運ぶ方は少ないことが
おじいさんの応対から見て取れた。
おじいさんの「お前なぁ・・・一体どこからそんな事聞いてきたんじゃ!」
と、言わんばかりの空気を察した私は、
すかさず「行かんほうがいいですかねぇ?」と聞き返した。
「いや・・・。行ってみてもええけど・・・」と、
おじいさんはゆっくりとした口調で道を教えてくれ始めた。
どうも、私の杞憂だったようだ。
「田舎の方は、案外話下手が多いんだよなぁ」なんて事を、
随分前に死んだ、生涯田舎者だった祖父と姿を重ね思い出した。
おじいさんは続ける。
「ここをまっすぐ行った先の公民館の前に車を停めて・・・云々」
だが、不案内な場所である為、
おじいさんの言っていることの半分しかわからなかったが、
聞き返した所でわからないのは失礼に当たると思い、
おじいさんに礼を言って車に戻った。
その2へ続く。
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行って記・見て記・被差歩記
「水上勉の生家を訪ねて:その1」 その2→
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2 件のコメント:
その集落は、被差別部落ではありませんよ。
その通りでした。
後日、若州一滴文庫等訪ねまして、
被差別部落じゃないことがわかりました。
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