~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2015年12月30日水曜日

被差別部落にて~今年1年を振り返る

今年も残りあと僅か。
私は今、未だに差別が残る「被差別部落」にて、
この文章を書いています。

今年一年、私は、“差別をなくす”ための活動の一つとして、
このブログを通じ、広く皆様に被差別部落の現状や歴史、
文化など、『被差別部落の暮らし』をお届けしてきました。

思い起こせば、私が、このブログを始めたのが2年前の12月。
今月で、丁度2周年を迎えました。

この2年間で、一日約1000~2000PV、
今日現在、累計で68万PVを頂きました。

多くの方にご覧頂いて、非常にありがたい限りであると同時に、
「部落問題」に高い関心を持っていただいている事に、
敬意を表する次第であります。

さて、このブログを御覧の皆様は、ご存知かと思いますが、
平成14年に、最後の同和関連法「地対財特法」が終了したと同時に、
国や地方自治体は、「同和問題は解消された」との見解を示しています。

果たしてそうなのでしょうか?
同和問題=部落差別は本当に無くなったのでしょうか?

先にも書きましましたが、「部落問題」に
多くの方々が、非常に高い関心を持っていただいていることからも見て取れるように、
残念ながら、「部落問題」は過去のものではありません。

今も尚、『差別』で悩み苦しむ人々がおられるのです。
又、将来その『痛み』を背負うことになる人々がいるかも知れないのです。

私に出来ること・・・
それは、これまで以上に、
多くの方々に「本当の部落」を知ってもらうこと。
部落の良さを知ってもらうこと。
部落の人々が、何ら我々と変わりの無いことを知ってもらうことなのです。

そのためには、私自身が“もっと部落について学ぶ”を心がけた一年でした。
今年も、現地フィールドワークに何度も足を運び、
書籍に目を通しました。

時に、部落の方々や各資料館の方々とも話をして、
被差別部落について、正しい知識を得るための活動をしてきました。

拙い文章で恐縮ですが、
このような活動で得た知識を、
皆様に伝えることができれば・・・。
微力ながら、このブログが、差別解消の為になれば、
この上ない幸せです。

近い将来、それが現実になることを祈り、
今年一年の挨拶とさせていただきます。

本年も、お読みいただきありがとうございました。

平成27年12月
スギムラ シンジ


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2015年12月25日金曜日

朝日新聞「隠れた部落差別、今もふるさとの料理出したら離れた客」という題名で

こんばんは。「被差別部落の暮らし」のスギムラです。
今日は、クリスマスですね。
皆さんそれぞれ、楽しんでいらっしゃることと思いますが、
どうも私は、人より変わっているせいか、
子供の頃よりクリスマスなどのイベントが苦手で。

妻や子供は、ケーキとかプレゼントとか、
何やかんだで盛り上がっているのですが、
私一人は冷め冷めムードなのです。

でも、子供が、「クリスマスプレゼントが枕元に置いてあった」と
嬉しそうに話しているのを聞くと、ホノボノとしますね~。
もちろん、プレゼントは、妻が用意しますので、
私はノータッチですが(*_*)

子供たちも、特に、小学5年の上の子は、
「サンタさんは不法侵入やんなぁ~」などと言っているくらいですから、
サンタの存在を信じてはいないと思うのですが、
下手なことを言うと、「来年からプレゼントがもらえない」などと考えるのでしょうか?
笑いながら「サンタさん来たで~」と言っています。
全く、したたかなものですね。

さて、昨日、いつもは1000件前後のアクセス数が、
40,000件と驚くほどに伸びました。

はじめは訳がわからず、「サイバー攻撃」でも受けたかと思いました。
このような状況の時は、テレビやメディアで取り上げられた時の反応ではないか?と、
被差別部落関連で、いろいろ手がかりを頼りに検索をかけてみましたが、
その日は、遂にわからずじまい。

統計情報を見てみると、24日の午後1時~2時から伸びていたので、
その時間帯のテレビ番組表などを探していたのですが、
今日、「これじゃないかなぁ」と言うのを見つけました。

それが、“朝日新聞デジタル版”に
「隠れた部落差別、今もふるさとの料理出したら離れた客」
という題で24日付で掲載された新聞記事です。
記事がUPされた時間帯も合致しますから。

なぜ、今回このような記事が書かれたのかはわかりませんが、
文面から判断するに、『解放同盟愛知連合会が40週年』とあるので、
それに関連してでしょうか?

以下は、記事の抜粋です。

部落差別の解消に向けて運動してきた部落解放同盟愛知県連合会(吉田勝夫委員長)が今年、結成40年を迎えた。生まれた場所などで忌避される部落差別。国や自治体に働きかけて、住環境などの改善や啓発を進めてきた。差別の実態は見えにくくなったが「様々な日常の場面で差別は残っている」と解放同盟県連幹部は話す。
 名古屋市居酒屋を経営する山本義治さん(38)は今年6月、生まれ育った地域で親しんできた料理をメニューとして紹介した。とたんに離れた客がいた。ふるさとは被差別部落とされた地域だ。
 「またか。まだ差別は残っているんだな」と感じた。「出身地を恥じることはない」という信念に基づく行動だったから、メニューはそのままで「スタイルは変えない」と言う。「生身の人間を見て、つきあってほしい」
 県西部の男性(40)は、小・中学生の娘2人には自分が結婚した時の体験を、まだ伝えられていない。
 20代の頃、妻にプロポーズした際「できないかもしれないよ」と出身地を告白された。自分の両親には「親族の結婚の妨げになる」と認められず、家を出た。披露宴に男性の両親や親族の姿はなかった。
 「結婚したい人と一緒になれたことが一番幸せ」と結婚は後悔していないが、娘たちには「いつか言わなきゃとは思う。だけど、娘の友だちやその親の反応が怖い」。
 同和対策事業特別措置法に基づき、1969年に環境改善が必要な地区に指定された県内のある地域では80~90年代、約4割が共同住宅に建て替えられた。1棟で2世帯用の共同住宅が軒を連ねる。消防車も入れない狭い道は一部残るが、主な道は広げられた。
 こうした状況を受け、全国地域人権運動総連合議長の丹波正史(せいし)さん(68)は「差別は全くなくなったわけではないが、部落差別の問題は大きく克服した」と話す。同団体は、解放同盟から運動方針を巡り分立した全国部落解放運動連合会(全解連)を受け継ぐ。全解連は2004年、「社会問題としての部落差別は解消した」として解散した。
 だが、この地区より、隣接する他の地区の路線価は2・5倍も上回る。付近の不動産会社は「まず購入する人がいない。価格の差より価値は低い」と明かす。
 07年には、被差別部落として地名などを掲載したホームページ「B地区にようこそ!in愛知県」の作成者が名誉毀損(きそん)の疑いで逮捕される事件が起きた。インターネット上には今も、差別的な書き込みが絶えない。解放同盟では、書き込みを見つけるたびに削除依頼などの対応を続ける。
 解放同盟県連の支部長加藤吉雄(きちお)さん(70)は、最近知り合った人に出身地を明かすと「あそこの人には見えんね」と言われた。「胸を張ってふるさとを語れないことがどれほど悲しいか。自分に置き換えて考えてほしい」(小若理恵)
機会はどうであれ、こうして、被差別部落について、
多くの方々に知っていただけるのは嬉しい限りです。

それと、被差別部落の食べ物。
ホント美味しいものがたくさんありますよ。

なんてったって、食肉に関しては、
私達よりも長い歴史を持ってますから!

先日も、本場の羽曳野で『かすうどん』を食べましたが、
ほんとうに美味い!!

刻んだ“油かす”をうどんダシで煮込んだだけのシンプルな料理なのですが、
シンプルなだけに、美味いのです。

油かすと言っても脂分は結構残っており、
油かすの油(ややこしいですね(-.-;))が溶けただし汁は、
思わず全て飲み干してしまいます。

『かすうどん』は阪南が発祥の地ですが、
この一帯は精肉業が盛んで、
特に羽曳野は、現在も沢山の業者さんが活躍しておられます。

その他に、馬肉を燻製にした「さいぼし」や「煮こごり」、
現在はかなりメジャーになりましたが、「モツ(ホルモン)」も
部落が長い食文化の中で培ってきた素晴らしい食べ物です。

上記、朝日新聞の記事中に
生まれ育った地域で親しんできた料理をメニューとして紹介した。
とたんに離れた客がいた。
とありますが、全く馬鹿げた話です。

私は、被差別部落出身ではありませんが、
こんな珍しい料理を出してくれる居酒屋なり料理屋さんがあれば、
ぜひとも進んで行ってみたいですね(*^^*)

部落だ!差別だ!何だで美味い料理にありつけない方は、
全く損な人生だと思います。


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2015年12月17日木曜日

未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈

いつも「被差別部落の暮らし」を応援いただきありがとうございます。さて、“被差別部落”と言う言葉は、
現在、『部落』の一般名称として、書籍などでもよく目にするのですが、
タマに見かける古い書籍では、
“未解放部落”と言う言葉が使われている物もあります。

被差別部落が一般化している現在では、
あまり馴染みがない“未解放部落”とは、
一体どういう言葉なのでしょうか?

実は、未解放部落は、被差別部落という言葉が一般化する
1950年代以前に用いられた言葉で、
意味は、全く一緒です。

部落の呼称は、時代ごとに変遷をたどっていきます。
それは大いに差別性と関係が有ることなのですが、
エタ→新平民→特殊部落などと、新しい語が作られるたびに、
それが、部落を差別する言葉へと変わっていき、
そのたびに、部落に対する“更に”新しい呼称が生まれて来ました。
(部落の呼称については、後日まとめて発表しようと思います)

その一つとして、未解放部落があるわけですが、
この言葉は、『被差別部落』と言う語が一般化した後は、
ある出版物で、特に見ることができます。

それが、『部落問題研究所』の出版物です。
部落問題研究所とは、読んで字の如く、
部落問題を研究する団体で、公益社団法人に認定されています。

所在地は、京都市左京区。
京都の中心街を流れる鴨川の上流、高野川岸にあり、
近くには、部落解放運動史上欠くことのできない超大物人物、
朝田善之助氏の生まれ育ったT部落があります。
(朝田氏は、松本治一郎氏の後を継ぎ、部落解放同盟中央執行委員長
として数々の現代部落史に残る活動を行った)

朝田氏の詳しい経歴等は、又機会を設けるとして、
今回は、部落問題研究所の話に戻しす。

研究所は、先ほど、朝田氏の生まれ育ったT部落の近くにあると書きましたが、
それは、研究所の設立に朝田氏が大きく関わり、
当初は、朝田氏の自宅が研究所として使われていたからでしょう。

実は、研究所はその後、内紛・闘争などの右葉曲折を経て、
現在は、共産党系の運動団体「全国地域運動総合連(=以前の全解連)」の
指揮下に置かれています。

この団体には、朝田氏を始め原田伴彦氏・奈良本辰也氏など、
部落研究の第一人者が所属していましたが、
1960年代後半から表面化した内紛により、
「部落解放同盟」と
「部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連=後の全解連)」に
袂を分かちます。

つまり、部落解放同盟を後押しする社会党と、
正常化連を後押しする共産党との政治闘争に他ならないわけですが、
この頃から、両運動団体の活動にも大きな違いが現れます。

60代以降、行政闘争を本格化させる解放同盟に対し、
同和施策の放棄を全面に押し出した全解連は、
度々対峙。
学生運動の内ゲバさながらの、
暴力を伴う勢力争いが活発化していきました。

前回「見て記・行って記・被差別歩記(みてき・いってき・ひさべつあるき)
でも書いたように、八鹿高校事件もそのような闘争の一つです。

============

さて、研究所では、研究成果が本として出版されていますが、
この状況、何かによく似ていますね。

そうです。
解放同盟が母体である「解放出版社」です。

つまり、運動での対峙関係が“部落解放同盟VS全解連”であるならば、
言論での対峙が“解放出版社VS部落問題研究所”と言うことになるのではないでしょうか。
私は、解放同盟系の解放出版社の本も多く読みますが、
対局する部落問題研究所の本も別け隔てなく読んでいます。

ここに、部落問題研究所が1984年に出版した写真集「写真記録 部落」があります。
写真家・藤川清氏が長年撮りためた各地の部落の写真に、
研究所の主要研究者であり、理事を務めた東上高志氏が解説を加えて、
一冊の本に仕上がっています。

今は多分絶版でしょうね。
古本屋を丹念に探せばあるかもしれません。

この本は、不良住宅時代~改良住宅が建ち、
生活の向上が見られ始めた頃迄の、部落の人々や町並、
生業、生活を写し出したとても貴重な写真集です。

写真は、白黒とカラーがありますが、
見どころは、なんといっても白黒写真。
改良住宅が建設される以前、1950年代の写真達です。

・今にも崩れそうな家
・つっかえ棒がしてある家
・屋根に大きな穴がいくつも開いている家
・傾き、戸が閉まらない家
・漆喰が剥がれ雨に洗われ削れた外壁
・屋外に設けられた朽ち果てそうな共同便所
・道端で水を汲み、家事をする人々
・雨がふらずともぬかるんだ道を鍋を持って歩くお母さん
・小さな部屋で雑魚寝する家族
・うず高く積まれた下駄の山
・皮なめし
・熱心に寺社で説法を聞く老人たち
・雨に煙るボタ山
・炭鉱事故で並ぶ棺の数々
・そんな暮らしでも、明るくはしゃぐ子供たち・・・

どれも貴重な写真であり、
実際にあった部落の暮らしなのです。

この本の中、東上高志氏の解説には部落が
「未解放部落」と表記されています。

いや、部落問題研究所の書籍には、
未解放部落が好んで使われています。

=========

そんな、未解放部落ですが、
私独自の新解釈として、(あくまで、私独自の使い方なので一般的には全く使えません)
次のような解釈をしております。

皆さんは、同和地区という言葉はよくご存知かと思います。
所謂、行政に同和地区指定された部落のことですが、
部落には、もう「一つの部落」があります。

それが、『未指定地区』です。
これは、行政上の言葉ですから、“部落”になんらかわりがありません。
しかし、未指定地区は何らかの事情で、
同和地区指定を受けなかった、
若しくは受けられなかった部落のことです。

だから、同和地区指定が始まる以前は、
どちらも部落で統一されていたわけですが、
指定以降は、地区指定部落(同和地区)と、
未指定地区にわけられるのです。

更に、未指定地区は現在、二極性を持って存在しております。
一つは、地区指定がなされなかったために、部落が解消された地区です。

「えっ!?同和地区指定がなされなかったのに部落解消?」
と思われる方がいるかもしれませんが、
これは実際の話しです。

特に、都市部の部落に多く見られるのですが、
地区指定されず、改良住宅や隣保館などの所謂「同和モニュメント」が
建てられなかったことにより、一般地区化してしまい、
現在では、部落問題の専門家であっても案外「知られていない」事が多いのです。
専門家でも知らないのですから、
一般地区住民には到底わからない。

そんな訳で、現在は、一般地区からの転入者が、
元の部落民を大きく上回っている所が多いですね。

知っているのは、地区または、部落近隣地区の古老だけ。
その古老達も結構な年の方が多いので、
ゆくゆくは、ここが部落であったことが葬り去られるでしょう。

同和地区指定された部落が、
部落問題解消の為にと造られた「同和モニュメント」のせいで、
未だに部落差別や地区差別があるのは皮肉なものですが、
兎にも角にも、未指定地区の一端はこのような状況です。

ここで、
「ん?やけにスギムラは、未指定地区の現況に詳しいなぁ!?」
と思われる方々もおられるでしょう。

そうなんです。
私、スギムラは・・・・

いや、いや、この話の続きはいずれ生立ち編で書くことにして、
未指定地区の続きです。

未指定地区のもう一端。
こちらは、先の未指定地区と両極端をなすのですが、
今尚、差別に苦しみ、且つ同和施策が受けられなかった未指定地区です。
これは、地方や農漁村部落に多いのですが、

◎地区が同和指定を受け入れなかった
◎地区戸数があまりにも少なく、解放同盟が組織できなかった
◎部落の顔役(ドン・ボス)の意向で地区指定を受けられなかった
など・・・

各部落によって種々の事情がありますが、
いずれも、現在も尚、多くの差別事象が見られます。

それはナゼか?

実は、これら地方の農漁村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。

当然、小さくて閉鎖的な農漁村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人々が存在しない閉鎖的な農漁村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありません。

今でも、このような地方の農漁村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。

==============

さて、ここからが私の独自の解釈ですが、
この『未解放部落』という言葉、
実は、「このような劣悪な未指定地区を表す語として使ってもいいのでは」
と考えております。

つまり、同和施策を受け、法律面では同和問題は解消され
(事実は別として)“部落解放”されたとする旧同和地区、又、
大都市に於いて完全解放された未指定地区を解放部落とするならば、
今でも、上記のような劣悪な環境下の未指定地区を
未解放部落と呼んでもいいんじゃないか」ということです。

言葉というものは生き物です。
時代により変化をしていきます。

昨今、度々国語の乱れが指摘されています。
“役不足”や“流れに棹さす”などの言葉が、
実際とは逆に使われているケースが半数を超えたとか・・・

でも、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
国民の半数以上が逆の意味で使っているのなら多勢に無勢。
違った使い方が、今度は本流を占めるのです。

国語の将来を憂う学会関係者達は、
多分に危機感を覚えており警鐘を鳴らすのでしょうが、
私などは、このような考えです。

かつて、新たな言葉を作ってきたのは女性達だといいます。
例えば、紫式部の源氏物語などでは、
数々の新語が使われ、
当時の常識から逸脱した言葉とされてきたそうです。
しかし、時代を経るに従って、
それらの言葉が一般語として定着したのです。
なので、『未解放部落」にも新たな解釈ができてもいいのではないでしょうか?

話はそれてしましましたが、
今日は、未解放部落と部落問題研究所について
書いてまいりました。

最後に・・・
私の提唱する新たな『未解放部落』の使い方、
皆様はいかがお考えでしょうか?
よろしかったら、コメント欄にてご意見を聞かせていただければ幸いです。

これからも、部落の暮らしを通じ、
完全なる部落差別解消を唱えるスギムラシンジがお送りしました。


I believe to Buraku disappearance,
and all of racism too

Thank you so much.

My blog 「hisabetuburaku no kurashi」 presidency
Sinji Sugimura


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2015年12月14日月曜日

散髪屋【生立ち編-37】

散髪屋は男の社交場とはよく言ったものです。
ご近所さんが集まり、、客同士で話が盛り上がります。

私が小学校の頃,行きつけの近所の散髪屋でこんなことがありました。


そこは、店主1人でやっている小さな散髪屋で、私が待合で待っているとき、
散髪台にいた初齢のおじいさんと店主が話をしていました。


客「あそこの〇〇さん。“出”はいいんやで」
店主は、ハサミを動かしながら、すかさず客に応対します。


店主「そうみたいですね、〇〇さんはそうみたいですねぇ。
   でも☓☓さんは、あまりでは良くないはずですよ」


待合で待っている私は、その言葉を聞いた時、
散髪屋の待合に必ず置いてある“漫画本”をフッと伏せ、
店主たちの会話に耳を傾けました。


それ以前の会話はもちろんですが、それ以降の会話も、
今となってはあまり覚えていません。
それ程までに、その「部分」が鮮明に脳裏に焼き付いているのです。


部落に関しての知識が、他の誰よりもあっただろう小学校の頃の私は、
そのことが何を意味しているかすぐにわかりました。


店主たちが「出」と言っているのは出自の事ですが、
在日韓国朝鮮人とか、被差別部落民とは言わずに「出」という単語で表現することに、
かなりの差別性と悪意を感じます。


当時、私が住んでいた近所には在日韓国・朝鮮人の集落があり、
在日のクラスメイトもたくさんいました。
中の良い友達も数人おり、よく一緒に遊んだものです。
彼らは、通名を名乗っていましたので、
在日系の通名はある程度把握していました。


そう言う訳で、店主達が話す名前から、その対象者が
在日韓国・朝鮮人では無いことがすぐにわかりました。


そうです、店主と客は明らかに部落のことを言っているのでした。


話は変わりますが、私はこれまでに、学校や職場などで、
時折、在日韓国・朝鮮人や被差別部落民の
差別的な話をしているのを耳にしてきました。


はっきり言って、その手の話をしている彼らは、全く周りのことを考えていない。
周りに在日韓国・朝鮮人や被差別部落民がいることもあるだろうに、
そんなことお構いなし。
その空間に存在する周りの人すべてが、
「差別を受けていない人々」であると勘違いするのでしょうか?


散髪屋の店主たちもそのような状況であったと思います。
そこに、誰よりも“被差別部落”に敏感な『私』と言うものがいるにもかかわらず…


もしかしたら、店主と客は、私が子供だと思い油断していたのかもしれません。


ただ彼らの中に、差別の心があった事は事実だと思います。
話の対象となった〇〇さんや、× ×達は、被差別部落出身でありながら、
おそらくこの近所に居を構えていたのでしょう。


先にも書きましたように、この会話は、
その部分だけがすごく印象に残っており、
今から40年近く前の経験ですが、今でも私の心の中に残っています。
ただその部分のインパクトが凄く凄く強く、
それ以外の会話の内容はほとんど覚えていません。


でも、このことからわかるように、周りからの受け売りで、
その言葉・・・ここでは『出』と言う言葉だけが、
私の心に深く刻まれ、新たな差別の火種へと繋がっていきます。


差別とは、そういうことです。


・・・つまり、周りからの受け売り・先入観・偏見・噂などが、
差別の元凶なのです。


「部落は汚い」
「あそこの子とは遊んだらアカン」
「川の向こう側は怖いところやで」
「部落は穢れてる」
etc・・・

時に親から、時に近所さんから、
時に学校の友人から吹きこまれた噂や風評は、
全くのデマであるにもかかわらず、
子供の心には、それがあたかも真実のように、
簡単にインプットされます。

しかも、社会経験の少ない子供にとっては、
どんどんと、その小さな頭の中で“デマ”は増長し、
やがてそれは、畏怖という形で、
彼ら、彼女らの中で大きく大きく膨らみ、インプットされます。


これで、簡単に新たな『差別者』の出来上がりです。


部落について、正しい知識を持ってもらいうことが、
部落差別をなくす近道なのです。
そのことを皆様が正しく理解していただける迄、
私は、このブログを続けいていきます。

                 スギムラ シンジ

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2015年11月18日水曜日

私が部落差別者だった理由【生立ち編-36】

部落出身の妻を持ち、被差別部落をこよなく愛す
スギムラ シンジです。

さて、先日は、私が幼き頃から少年期に渡って、
部落を差別していた“差別者”であったことを書きましたが、
今回は、その理由について語りたいとおもいます。

私が部落を差別していた理由・・・
それは、ズバリ『被差別部落に対する恐怖』からだったのです。

いえ、決して部落自体が怖かったわけではありません。
それは、私自身に感じていた恐怖であり、怯えであり、
又、否定であったわけです。

このブログの「生立ち編」でもこれまでに何度か書いているのですが、
私の母親の家は、代々、ある村の庄屋であり地主。
曾祖父の代には村長を務める名家でした。
それだけに、母方の出自はハッキリとわかっているのです。

しかし、一方で父親の方は、父自身も「よくわからない」と言うので、
『生立ちと部落の縁【生立ち編-1】参照
当然私がわかるわけがなく、しかも、父親の兄(つまり私にとっては叔父)の
奥さん(血のつながりはないが、私にとっては叔母)が被差別部落の出身なので、
その子供達(いとこ、もちろん血のつながりはある)も、
部落民であります。
また、父方の親族行事、例えば法事などがあった時は、
被差別部落に住んでいる叔母の親族も沢山やってきましたので、
他家の親戚付き合いと何ら変わらぬ光景が見られました。

このような事情から、私にとっては、
幼き頃から「被差別部落」は、大いに近い関係でありました・・・
というよりも、生まれた時から、部落とは切っても切れない縁が
あったのだと思います。

だから、一般地区で育った私は、ある意味、
近隣の子供たちが感ずるよりもずっと早く、
部落の存在を意識していたといえるかもしれません。

育った所が一般地区であるので、
否が応でも、部落に対する差別や噂を耳にすることもあります。
『続・部落を知らない差別主義者【生立ち編-5】参照

そして、中学校は、校区に同和地区を含んでおり、
部落からも生徒が通っておりました。
そこでは、もっと沢山の差別事例を耳にします。

流石に、部落生徒本人に面と向かっての“直接的差別”はありませんが、
やはり、影で差別的な噂話の類いはありました。

そんな、こんなで、幼少の頃から日に日に、
私の中の恐怖や怯えは増大していったのです。

恐怖。。。
怯え。。。
否定。。。

それは、「私は部落民ではないのか!?」という思いからくるものでした。
幼少の頃は、出自云々などということはわからないので、
余計に、その思い(部落の親戚を持って)は大きいものでした。

そして、それと同時に、私の中である一つの“心”が芽生えます。
それが、部落に対する否定でした。

「オレは部落民じゃないんや!,!絶対部落民じゃないんや!!!」・・・
この“心”が、私を差別者に仕立てあげました。

前回書いた、『私は部落差別者【生立ち編-35】』の中で書いた
私の差別意識(もちろん全て周りからの噂の受け売りで誤りですが)は、
こうして私の中で又、日々の暮らしの上で、大きなエフェクトとなっていき、
部落を差別しながらも、いつも“部落”の存在を忘れることはできなくなったのです。

この読者の方は、よくご存知の一冊かも知れませんが、
以前読んだ本の中で、自分で自分への差別手紙を
送り続けていた・・・所謂「部落差別自作自演事件」を主題にした、
高山文彦氏著作の「どん底」という作品があります。

この中で高山氏は、主人公(?)の山岡一郎が、
部落民である自身への否定が、この事件を引き起こしたのでは?
と言っていますが、ちょうど、私も、山岡一郎のような感情であったかもしれません。

被差別部落民の否定。
それが、私の差別者たる大きな要因でした。
父親の出自は未だわかりませんが、成長する中で“ある出会い”があり、
それ以来、部落以外のあらゆる差別意識はすっかり消え、
私の中では、部落民であってもなかってもそれを「自然」のこととして受け止められるだけの
大きな心境の変化が起こりました。

その『出会い』とは・・・
これまでにも、折に触れ当ブログに書いていますが、
それは次回に詳しく述べることといたしましょう。

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2015年11月4日水曜日

私は部落差別者【生立ち編‐35】

このブログでも、何度か書いていますように、
私は、幼少の頃から、高校生の頃まで、
長きに渡って被差別部落を・・・そして、部落民を差別していました。

まだ、“部落”の真の姿を知らず、
周り近所の大人たちの風評や噂話を真に受けていた小学生の頃、
今となっては、全て誤った認識なのですが・・・

・部落は怖い所
・古い家が立ち並び衛生的にも悪く、汚い所
(この頃は、同和地区の本格整備も始まってから数年なので、未着工の地区もあった)
・部落民は穢れている
・部落民と関わってはいけない
・他の人からいじめられる存在
・嫌われ者
・ヨッツなどの差別語や仕草
 etc・・・

そして、同和地区を校区に含む中学校に入ると、
同和地区の同級生達と机を並べることになり、
実際に部落民との学校生活から、部落以外の同級生達から、
また、本来部落差別をなくすために
施される『同和教育』ですら、私の中の差別意識を
増長させるのに大きな影響を与えました。
(現在、どのような同和(人権)教育が行われているかはわかりませんが)
この頃になると、年齢的にも、
より多くの情報知識を理解できるようになり、
より複雑な差別意識を持つようになります。

ただ、同じ学校で、同級生や先輩後輩たちが実際に居るわけで、
あからさまにその態度を出すことは勿論しません。

表面上では、部落差別者であることを出さず、
それ相応に付き合い、部落に対する差別は、
あくまで、私の心の中での思いであって、
今考えれば、まさしく典型的な部落差別者というべき以外の
言葉がありません。

先程も言いましたように、部落外の同級生達も
同じような付き合い方だったと思います。
それが証拠に、やはり、いろいろな場面で、
“噂”をすることがあったからです。

・社会からの阻害者
・血が濃くて、部落独特の顔つきがある
・性への芽生えが早い
・穢れているので触れてはいけない、触れられたくない
・穢多(同和教育からの受け売り言葉)
・部落民は恋愛対象外
・部落民とモメてはいけない
・部落民は集団意識が強い
・教師達ですら気を使う特別な存在
・ヤクザが多い
・ヤクザの息子が多い
・部落民だけの特別教室や、無償の補習授業がある
etc・・・


全く勝手な話ですが、自分の叔母やいとこには、
なんの差別意識も感情もなく、その他一般の被差別部落に対しては、
このような差別意識を持っていたのです。

これが、高校生になると、被差別部落観も形を変え、
より複雑な意識へと変わっていきます。
また、行動範囲もかなり広くなり、
中学校区にあった部落以外の周辺部落を目にする機会が増えました。

・同和地区は、特別な場所
・前は通れるが、中に入ることが憚られる所
・同和地区・部落民は優遇されている
・家賃も安く、補助金も沢山もらっている
・公務員への就職も有利らしい
・部落民との結婚は反対が多い
・落書き等の差別事件が多い
・同和地区前にデカデカと掲げられた攻撃的なスローガン
etc・・・

この頃は、それまでの差別感に加え、
所謂、『逆差別』意識が芽生えてきます。

それと、平行して、興味本位としての、
部落に対する関心も日に日に増していきました。
成績は悪かったですが、その中でも“社会”が
好きだったせいもあるのでしょう。

色々な地区へ行ってみたり、
河川に立ち並ぶバラックを見に行ったりと、
ホント興味本位からでしたが、
徐々に、部落やその他の差別からの、
意識転換を予期する行動も多くなってきたように思います。

先程も書きましたが、私には血が繋がった部落民の従兄弟がいます。
父親のお兄さん、つまり叔父の奥さん(私にとっては叔母ですね)が、
被差別部落出身者でしたから。

でも、その従兄弟や叔母には、
なんの差別感情もいだかなかったことも
先に述べたとおりです。

それと、続・部落を知らない差別主義者【生立ち編-5】でも書いている、
隣家のお嫁さんも部落出身者でしたが、
そのような感情は持ち得ず、むしろ、「優しいお姉さん」と言う認識でした。

このようなことから見ても、私にとっての部落差別は、
被差別部落と、そこに住む部落民に対してのものだったのかもしれません。
今考えると、一旦、部落を出て、身近な存在になると、
案外許容していたようです。

それは、やはり、自分の叔母やいとこが部落民であるということもありますが、
それ以上に、私が、このような差別者であった『真の理由』にも
大きく関係しているのかもしれません。

それは、その頃には曖昧でわかりにくかった“理由”ですが、
今では、はっきりとその“理由”はわかっています。

その“理由”とは・・・

それは、次回に書くことといたしましょう。

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2015年10月23日金曜日

続・被差別部落と暴力団:山口分裂報道をきっかけに再考する③

「山口組分裂の原因は、“同和と在日”の争い」・・・
私がこのテーマで書き始めて、程なくして、
このような文言を、インターネットで目にすることが多々ありました。

「いや~、いろいろな説を考える人がいるものだなぁ」と、
第一印象としては感心(?)した次第でありますが、
これは、もっともらしい説ではあるが、あまり関係が無いでしょう。
(多少の同胞意識はあるでしょうが)

情報のソースを探ってみると、どうやら米ネットメディアの
『Daily Beast』と言うのが発信源らしいのです。
今回の、山口組の分裂に関しては、米国や英国でも報道されているようで、
この一件が世界的にも注目を集めているのは事実のようです。

ところで、「同和と在日の争い」に関しては、
第一印象としては、感心した次第であるが、
時間が経つに連れて、どうも腑に落ちない所があったのです。
よくよく考えてみると、その“腑の落ちなさ”というのが、
部落と在日に対する『偏見』であることがわかったのです。

今回は、「続・被差別部落と暴力団」というテーマで書いていていますが、
その前編、以前書いた「被差別部落と暴力団」の中にもあるように、
確かに数十年前までは、暴力団には部落民と、
在日韓国朝鮮人が多かったのは事実であるでしょう。

それは、現在よりも、より大きな差別が社会的に存在し、
安定した仕事に就くこともままならなかった部落民や在日韓国朝鮮人達が、
“食っていく上”での重要な受け皿であったことは、
それは私も認めるところであります。

だがしかし、今日、生活や仕事、就学率などをとっても
部落が、ようやく世間一般と格差が無くなってきた(差別は依然として存在するが)
ことから見ても、ヤクザが、部落民と在日中心で構成されているとは言い難いでしょう。

部落には、「暴力団事務所が多い」という声も散見するのですが、
事務所だけで言うのであれば、一般地区の方が圧倒的に多く、
中年~若手の構成員に関しては、一般地区出身者が多いだろうことは、
容易に想像がつきます。

実際、私が育った近所(部落ではない一般地区)でも、
ヤクザになった先輩が二人もいるのです。
勿論、現在は付き合いは無いですが、小・中学当時は、
仲良くしていたものです。

一人は、名前をNと言い、当時、自宅の一本裏の通りに住んでおり、
同じ町内ということで、兄のように、本当に親しい間柄だったが、
中・高校と疎遠になるに従い、「ヤクザになった」と聞いたときには、
私も母親も本当にビックリしたものです。
と、いうのも、Nは、不良集団にも属さず、「悪」と言う事からかけ離れた存在
(もしかしたら、私が知らなかっただけかもしれないが・・・)だったからであります。
ただ、無口で一匹狼。
芯の強いところはありました。

もう一人のAは、先にも述べたように、現在は付き合いは全く無いのですが、
同じ武道場に通い、尚且、部活(サッカー部)も同じだった関係で、
当時から無茶をしていたのはよく知っていたので、
ヤクザになったことも頷けます。

先の、同じ町内の先輩Nの所在は今はわからないのですが、
後者の先輩Aは、2度3度、新聞紙面を飾っていた(?)ので、
おおよその所在は想像できます。
紙面では「組長」となっていたので、それなりに出世したようです。

逆に、同和地区を校区に含む中学校に通った私ではありますが、
同級生、先輩を含め、同和地区の生徒が
ヤクザになったという話は終ぞ聞かなかった。
部落出身の妻の親族でも、私が知っている限り、
ヤクザは一人もいません。

このことから見ても、何度も言うように、高齢のヤクザを除いては、
今のヤクザが、「部落と在日の温床」と言う訳では無いでしょう。
それだけに、今回のこのソースについては、
未だに、「やくざ=部落と在日」という偏見に違和感を覚えてわけです。

==============

さて、話は変わりますが、次に、
ヤクザと縁の深い(時には同列に見られますが・・・)
右翼団体について書いてみましょう。

右翼とは、時に民族派とか、国粋主義などと形容されるように、
天皇を国父と仰ぎ、日本の国を愛する「尊王・愛国者」の団体及び、
個人ですが、街宣車の風貌や、大型スピーカーから流れる軍歌、
マイクから放たれる怒号など、その糾弾行動があまりにも過激なため、
きっと、多くの一般市民からは「恐怖」の対象でしかないかもしれません。

また、先にも書いたように、“ヤクザとの関係が深い”と
思いの方も多いかと推測します。

では、実際のところはどうなのでしょう?

答えは・・・その通り。

ヤクザと右翼団体はとても近い関係・・・というか、
ヤクザ直属の右翼団体も多く存在しますし、
右翼団体の構成員はヤクザと右翼、
二足のわらじをはいている者も多いです。
(誤解のないように書いておきますが、数の上から見れば、
普段はきちんと仕事を持ち、運動のあるときだけ活動する方々がほとんどです)

勿論、ヤクザ直属以外の右翼団体も存在しますが、
その場合でも、後見人や相談役等どこかでヤクザの世話になっており、
ヤクザの関わり無くして、右翼団体が存在することはありえません。

以前、ある右翼団体の重鎮(Y氏)に、インタビューする機会がありました。
Y氏は、右翼団体約10団体を束ねる連合会の理事長で、
自身もD会と言う右翼団体の会長でもあります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Y氏:私は、若いころ“柳川”にいたことがあるんだ。
(スギムラ注:「殺しの柳川」と言われた三代目山口組きっての伝説の武闘派。
 尖兵部隊として、山口組の全国制覇に大きく貢献した)

スギムラ:えっ?柳川って、あの伝説の?

Y氏:「殺しの柳川」と言うことで殺伐としたイメージがあるが、
ある時、事務所で、顔に定規を当てた同僚組員に「お前何してんの?」と。
同僚組員は、定規を取って見せて「どや?傷跡に見えるやろ!」って。
そんな賑やかな一面もあった。

スギムラ:会長!?今は堅気ですよね?

Y氏:ヤクザ稼業は若い頃の話。今は正業を持ちながら民族活動をしている。

スギムラ:ヤクザの話が出ましたが、ヤクザと右翼はつながりが深いのでは?

Y氏:確かに、ヤクザと右翼の関係は深い。
   実際、この団体にも、ヤクザをしている人間が沢山いる。
   しかし、たとえヤクザをしていても、隊服を着て運動をしている間は、
   一切ヤクザとは別。
   運動は、運動。
   そこに、ヤクザや暴力を持ち込んではいけない。
   当団体の会員も、そのあたりの分別はしっかり持っているし、
   会則でしっかり決まっている。

スギムラ:右翼が“ヤクザの隠れ蓑”と言う見方もあると聞きますが?

Y氏:それも昔の話。
   確かに、ヤクザの締め付けが厳しくなり、
   右翼に形を変えてシノギの一つにしていた時代もあったが、
   今は、そんな団体は皆無。
   何より、企業・その他が、右翼に金を出す時代ではない。
   現在は、右翼が金儲けになる事はまったく無い。

スギムラ:でも、暴力団組織直属の右翼団体も存在しますよね?

Y氏:さっきも言ったとおり、民族運動にヤクザはまったく関係ない。
   愛国者は、金や利益で動くのではなく、
   主義主張・信条で動く。
   ヤクザ直属の団体もそうだが、
   多くの右翼団体が会費制で、手弁当で活動している。
   
スギムラ:手弁当ですか?ガソリン代も車の維持費も?
      活動費は組から出ないのですか?

Y氏:勿論。手弁当だし、設立母体はヤクザ組織であっても、
   現在は、独立した運動団体になった団体も多い。
   そこには、当然、カタギの会員も多数在籍している
   元々、ヤクザと右翼は思想的に共通する。
   神道を重んじ、日本古来の伝統を大切にする。
   特に、現人神である天皇に対する礼節は欠く事ができない。
   そこから、右翼団体が派生したのも自然なことだ。
   
スギムラ:ありがとうございました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

結論的には、ヤクザ=右翼と世間的に見られているのは、
あながち間違いではないが、運動中はヤクザと
民族派運動とは全く別けて活動しているとのことでした。

===============

さて、以上は、尊王・愛国をスローガン
に掲げる右翼団体と、ヤクザとの関係でしたが、
では、被差別部落民と天皇との関係はどうなのでしょうか?

部落解放同盟が綱領・スローガンとして、
反天皇制を掲げている関係で、部落民は、
皆天皇制反対の立場に立っていると思われるかもしれません。

かつて、部落解放同盟とたもとを分かった運動団体、
地域人権運動総連合(以前の全解連)は、共産党系の団体のため、
天皇制には断固反対の立場に変わりありません。

しかし、それらの運動団体に所属しない部落の方や、
団体として天皇制反対の立場をとっている部落解放同盟の
同盟員でさえ、(立場上、彼らは声を大にして言うことはできないが)
実際の声として、天皇を敬う方は非常に多いです。

かの初期段階の全国水平社でも、当時の資料に目を通すと、
天皇を敬う文言が随所に見て取れます。

しかし、水平社内の右派・左派の対立が激化し、
結果的には、創立メンバーの右派思想者が全水から追い出される形になり、
左派が実権を握ることになります。
昭和8年の第11回大会において「天皇制打倒」が掲げられるものの、
時代は戦争に突入。
次に、反天皇制が掲げられるのは戦後ということになります。

・・・

部落解放同盟が、反天皇制を明確に打ち出したのが1960年。
社会党との連携の元、そのような立場に至るのですが、
そこへ至るまでに、何よりも「カニの横ばい拒否」で有名な、
松本治一郎氏の影響が大きいと思われます。

実は、松本治一郎氏は、昭和11年大政翼賛会推薦の元、
衆議院議員に当選しており、当時は、
戦争にも積極的な立場をとっておりました。

しかし、松本氏は華族・氏族などの身分階級の解消を始め、
「貴族あれば賤族あり」と、次第に反天皇制へと
思想転向が行われたようです。

松本治一郎氏を「部落解放の父」とする解放同盟は、
その流れを引く次ぐことが当然のことであり、使命でもあるのです。

そのようないきさつから、部落解放同盟としては、
天皇制を大きく掲げるわけですが、
先も書きましたように、人権連・一部の部落解放同盟員・
運動団体に属さないが、心情的に反天皇制をとっている方々を覗いては、
概ね、被差別部落民も、天皇を敬う方が多いのが現状です。

=====================

さて、この度の山口組分裂報道を受けて、
今回のこの記事となったわけですが、
ここへ来て、幾つかの抗争へと発展しそうな事態が報道されております。

かつて、「ヤクザはかっこいい!」と憧れを持っていた私ですが、
現在のヤクザを取り巻く状況は、常に警察の監視下に置かれ、
少しでも法を犯せば即逮捕。
ゴルフ場をはじめ、公の場所への入場もままならない。
子どもたちは、肩身の狭い思いをし、
銀行口座も持てず、ローンを組むどころか、
暴力団追放の流れを受けて、家ですら借りることが困難。
おまけに、一般人との付き合いも禁止され、
シノギがままならず、暮らしていくにも苦労する。

このように、非常に厳しいのが、現状であります。
先にも書きましたが、現役の組員でさえ、
ヤクザからの離脱希望者が、かなり増えているといいます。

ヤクザは、かつては、警察と蜜月な関係があったこともあります。
京都で、一時途絶えていた江戸時代から続く博徒組織「会津小鉄」を復興させた
図越利一氏の半生を書いた山平重樹著
「残侠・会津小鉄 図越利一の半生」という本の中に、
このような下りがあります。

『終戦後、三国人(韓国朝鮮人や中国人)が京都駅前で暴動を起こし、
警察署を襲った。
その際、警察署長から図越氏の元へ応援依頼があり、
図越氏は組員とともに三国人と戦った』旨が書かれております。

このような事例は、当時は全国でもあったようで、
終戦後の弱体した警察に変わって治安維持に貢献したのが
ヤクザという事実があります。

また、右翼団体も、安保闘争などで、
度々警察から応援要請があったのです。

しかし、現在は社会的に見ても「反社会団体」ということで、
警察の厳重な取締りの対象となっていることは、
皆さんも御存知のとおりですし、多くの一般市民も
ヤクザの弱体化を願っているのは当然の流れです。

しかし、反対に、ヤクザが弱体化すると、
蛇頭や関東連合などの所謂「ギャング・半グレ」が勢力を増し、
より治安が悪くなる、又、ヤクザが地下に潜り見えない存在
=マフィア化するという見方も一部ではあります。

肯定・否定様々な意見がありますが、
今は、兎にも角にも、一般人への巻き添えで犠牲者が出ないよう、
一日も早く事態が収拾することを願って筆を置きます。

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2015年10月2日金曜日

続・被差別部落と暴力団:山口分裂報道をきっかけに再考する②

前回の振り返りとして、やくざ(暴力団)とは、
暴力や非合法活動を伴う「営利集団」であると言うことは
先に述べたとおりです。

ただ、暴力団を取り締まる法律が厳しくなるにしたがって、
裏のシノギから、表のシノギへと進出するヤクザも増えていきます。

フロント企業とか企業舎弟と呼ばれるのがそれで、
建設業や金融業、果ては飲食店経営まで、
それこそ、いろいろな業種にヤクザは進出してきています。
ただ、法律でがんじがらめになっている現在、
表立ってはヤクザは出てきません。
あくまでも、表向きは普通の企業であるのですが、
実は、ヤクザとつながっており、
それらの経済活動で生まれた金が、
暴力団の資金へと変わっていきます。

引退した、元山口組若頭補佐(引退時の六代目の下では舎弟)
後藤忠政氏の著書「憚りながら」の中に、
「組長である後藤氏も把握しきれないほどの、フロント企業や
企業舎弟が組内には存在した」旨が書かれています。
自らの組織内の企業でさえ把握できないのですから、
一般から見れば、全く普通の企業と見分けがつかないわけです。

また、株やFXと言った利殖に力を入れる組織もあり、
それらのヤクザは、一般に経済ヤクザと呼ばれています。

戦後、日本経済の成長と共に育ってきた
新しいヤクザの形なのですが、
「切った張った」の時代ではなくなった現代においては、
この経済ヤクザこそ、組織内でも大きな力を有します。

多くの組織では、収める義理(上納金)の額で、
組織内序列に大きな影響があるのです。

さて、このヤクザがヤクザである大きな要因の一つに、
「盃」があります。

盃は、ヤクザ社会にとって、
最も大きなファクターであるといえます。

盃には、
・親子盃(親子関係になる)
・襲名盃(代替わりなど跡目相続)
・兄弟盃(兄弟関係になる)
・和合盃(けんか・抗争の手打ち)
などの種類があり、どれも大切な儀式なのですが、
中でも特に重視されるのが、親子盃です。

親分から盃をもらい、親子関係にかったからには、
親分には絶対服従、つまり「親が白言うたら、黒いもんでも白や!」
と言うのはこのことです。
一旦親子盃を交わしたら、
親からは、絶縁・破門等で組織を追い出されても、
自ら盃を返すことはできません。
この盃があるからこそ、ヤクザはヤクザであることができるのです。

盃ごとは、神事をもとに独特の作法で行われます。
大きな盃事になれば、全国からも名だたる親分衆が駆けつけ、
後見や立会いを行い、盃事を祝います。

最近は、抗争防止やもめ事が起こっても速やかに事態が収拾できるように、
大組織同士が親戚関係を結ぶことがほとんどです。

例えば、山口組は全国三位の構成員を持つ東京の稲川会をはじめ、
日本全国の大きな組織と親戚関係を結んでします。

ヤクザ社会は、ピラミッドになっており、
親分の上に更に親分、そしてその上にも親分がいるというように、
一家の親分であっても、その上部団体では直参であったり、
若頭であったりと、立場が変わります。

よって、山口組のような大きな組織では、
末端に行くと、四次・五次と言うような
小さな組織も存在するのです。

今回の、山口組分裂騒動は、この様な中で起こりました。
簡単にいえば、山口組六代目司忍組長に対する、
四代目山健組をはじめとした、山口組直参団体の
「盃返し」なのです。

実は、神戸山口組・四代目山健組は構成員2000人
(準構成員を含めいると倍以上)といわれ、
山口組内で最も構成員の多い組織でした。
しばしば、暴力団の勢力に構成員数が挙げられるように、
暴力団にとっての“力”のバロメーターは、
金と共に構成員数が挙げられます。
同じく離脱した宅見組他の構成員を入れると、
その規模は3000人(同じく準構成員を含めると倍以上)
規模と言われています。

これは、数字だけ見ると、
全国第3位の構成員を持つ稲川会と
肩を並べる数字と言えますので、
今回の離脱が、ヤクザ社会のみならず、
抗争の危険性など、世間一般に与える影響と言うのは、
とても大きいものになります。

神戸山口組の井上邦雄組長も、
構成員2000人を持つ大親分であることには間違いありませんが、
六代目司忍組長と親子盃を交わしており、
井上組長も司組長の子分と言うことになります。

話を戻しますと、ヤクザがヤクザたる理由の一つである盃事。
理由はどうであれ、親に盃を返すという行為は、
造反・謀反であり、山口組のみならず、ヤクザ社会全体にとって、
決して許し難い行為なのであります。

これを許せば、他の組織も追随することになり、
ヤクザ社会・・・と言うかヤクザそのものの否定につながります。

だからこそ、山口組側も決してこれを許さないでしょう。
これまでの例を見ると、この様な造反劇は、
抗争と言う形で粛清されることがほとんどですから、
それだけに、一般市民に与える影響を考えると、
マスコミや警察が連日大きく報道するのも頷けます。

本来、親から絶縁・破門を言い渡された者は、
すぐさま全国の組織に廻状が回り、
処分を受けた者との縁組や交遊など、
一切の付き合いを禁じられます。

それは、ヤクザ社会からの追放を意味しますが、
刺青があり、指もない者が、ヤクザ社会以外で生きていくことが
どれだけ難しいかは、想像に難くありません。
しかし、それでもなお、ヤクザ社会に嫌気がさし、
ヤクザ社会を去る者が増えていると聞きます。

余談ですが、先にも書いたように、
本来、組織を抜けることは許されないですが、
“それでも”と言う場合は、ほとんどの場合で金で解決する。
昔のように、指を持っていっても
「そんな金にならんようなものいらん!金持ってこい!」と。
結局金がない者は、それまで通り組に残るか、
どこか遠くへ飛んで(逃げて)名や素性を隠し、
息をひそめて暮らすことになります。

先に、絶縁と破門と書きましたが、
絶縁は、組織からの永久追放のみならず、
他の組織へも移ることができません。
つまり極道社会からの永久追放ですが、
ほとんどの場合は、トラブルによる追放ですので、
生臭い話になりますが、組織に追われ、
「絶縁=本当の死」となるケースも多いようです。

次に破門ですが、これは会社でいえば停職処分のようなもの。
一定の期間を経て、改心できたようなら、
親分から破門をとかれ組織に復帰することができます。

今回の神戸山口組に対する処分は、絶縁と破門に分かれました。
絶縁は、山健組・宅見組など五団体。
残りの八団体には、破門が言い渡されました。

ここから、六代目山口組の意図が見てとてます。
山健・宅見組等は首謀団体として、決して許すことはできない。
しかし、残りの団体は、山口組へ復帰できる処分。
ここが、神戸山口組に対する揺さぶりであり、
カードとなっているようです。

③へつづく
===================

暴力団の歴史を振り返ってみますと、
これまでも、幾度となく一般人が犠牲になったり、
多くの方が、犯罪の巻き添え・被害者になられています。

昔の東映映画出てくるような、
「弱きを助け強気を憎む」
任侠の心はどこへ行ったのでしょうか?
一刻も早く、事態が収拾し、
更なる犠牲者が出ないことを祈ります。

さて、今回も、
「続・被差別部落と暴力団:山口分裂報道をきっかけに再考する②」
と題し、最近の情勢を交えて、暴力団の実態に迫ってきました。
次回も引き続き、この問題について取り上げます。

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2015年9月17日木曜日

続・被差別部落と暴力団:山口分裂報道をきっかけに再考する①

以前、当ブログで、「被差別部落と暴力団」と言うタイトルで、
2回にわたり、記事を書きました。

◎被差別部落と暴力団:その1

◎被差別部落と暴力団:その2


さて、8月下旬、『日本最大の暴力団組織“山口組”が分裂した』と、
連日、新聞・テレビなどのメディアを賑わせています。
おそらく、皆様もご存じのことかと思います。

私の、以前の記事「被差別部落と暴力団」では、
『被差別部落民や在日韓国・朝鮮人に暴力団が多い』と言う“噂”は本当か?
と言うことについて、検証しております。
詳しくは本文をお読み頂けたらよく分かると思いますが、
以前は、確かに事実であったと言わざる負えません。

【以下は、その記事の抜粋です】
「部落民は、ヤクザが多い」というのは本当でした
部落民に加え、在日朝鮮・韓国人も同じく、
ヤクザが多いのは事実でしょう。

ただし、「本当でした」と言う様に、過去の話だと思います。
根拠もなく勝手な推測ですが、
終戦から昭和50年代位までではないでしょうか。
それ以降については、部落・在日だけが突出して
多いわけではないと思われます。

(中略)
これ以降は、私の持論ではありますが、
部落民がヤクザ社会に入るのは、
「ごく自然のこと」ではなかったかと考えます。
生まれた時から近くにヤクザの組があって、
周りの大人達もヤクザが多い。
ヤクザではない人たちも、土木業や運輸業なんかで
ヤクザとの関わりが大きいわけです。

それに加えて、劣悪な生活環境と
十分な教育が受けられていない現実がありましたが、
これらは、どちらも“ヤクザになること”に対しては
プラス要因でありました。 

(中略)
ただ、同和対策が施されて生活環境も向上し、
働き口も確保されてくる昭和50年代位からは、
ヤクザへの加入も少なくなってきたのではと考えます。

先にも記した様に、
ヤクザが反社会的勢力であり、一般住民の脅威に
なっているのは事実でありますが、
それと同時に、長きに渡り部落民の重要な
受け皿の一つであったことも、紛れも無い事実なのです。
又、現在は「ヤクザには部落民が多い」と言うことは、
一概には言えない事も、再度付け加えておきます。


私は、暴力団員ではありませんし、
決して暴力団を擁護するわけではありませんが、
過去には、暴力団は「社会から疎外された被差別民の重要な受け皿」でした。

==================
さて、話の続きです。
これらの事件が報道され始めた頃から、
当ブログにも、ある変化が起こりました。

それは、以前に、被差別部落と暴力団の関係に
ついて書いた上記の記事の閲覧数が飛躍的に伸びたことです。

それだけ、社会の皆様が、
暴力団に対しての関心が非常に高いこと、
また、今回の分裂騒動が、暴力団社会に於ける、
非常に大きな出来事であることが見て取れます。

分裂が、暴力団社会にとって大きな出来事と言うのは、
裏を返せば、それだけ、抗争の危険が強くなったという事が言えます。

古くから、暴力団に「抗争」は付き物なのですが、
それが、暴力団社会だけに留まらず、多くの一般市民を巻き込み、
多大な被害者を出してきたことに、
一般市民も危険を感じているのではないでしょうか。

昨今、小さな小競り合いはあっても、
大きな暴力団抗争は無く、(抗争に関しては)比較的平静を保っていました。
それは、度重なる法律や条例の改訂・制定や、
警察による、暴力団取締りの効果であるといえます。

高倉健や鶴田浩二と言った、
昔の任侠映画・・・昭和残侠伝や唐獅子牡丹などを見ると、
途中の話は作品によって違うのですが、
最後は、健さんが単身または、池辺良を伴って、
「じゃ、参りましょうか・・・」などと、刀片手に
相手の組に殴りこむというパターンが多いですね。
(タマに拳銃も出てきますが)

昭和初期以前はそのような「殴りこみ(出入り)」が一般的だったようです。
だが、そのような出入りも過去の話。
今は、飲み屋・ホテルロビー・病院など、
一般市民が巻き込まれ、犠牲になっているような形に変化しています。

また、一度抗争が起これば、それらの事務所への発砲や、
ダンプ等の突っ込みなど、事務所近くの住民に度々
不安と恐怖を与えており、まれに誤射などで、
「隣の家に銃弾が撃ち込まれた」なんて事も起こっています。

それに伴い、一般社会からの呼び方も、
古くは任侠・極道・やくざと言われていたのが、
「暴力団」へと変化していきます。

だが、ここ数年の間に、そのような大きな抗争事件も
そう簡単には起こせなくなったのです。
それが、前出の法律や条例、警察官の取り締まりの
強化と言うことになります。

抗争事件以外にも、暴力団員が起こした事件の判決自体が、
非常に重くなっていますし、
例え、末端の組員が起こした事件でも、
使用者責任としてその組織のトップが逮捕され、
犠牲者がいる場合には、民事訴訟で、賠償金の支払義務が生じます。

また、抗争事件以外でも、銀行取引やゴルフ場への出入りの禁止、
守り代(みかじめ料)の徴収禁止、公共住宅への入居禁止など、
多くの制限が課せられてきました。

さらに、今までは、暴力団員だけへ制裁であったのが、
全国各地で制定された「暴廃条例」により、
暴力団と付き合いのある一般人も処罰の対象となります。
このようなことから、暴力団の弱体化につなげようというのが、
今の社会の流れなのです。

================

そもそも、暴力団とはどのような存在なのでしょうか?
現在の暴力団・ヤクザのルーツは、大きく分けて2つに分かれます。

一つが「博徒」と言われる、博打を主な生業とするグループ。
そして、もう一つは、「神農」つまり、テキヤのグループです。

昔は、“家業違い”と言って、決して交わることがなかった両者ですが、
時代の流れとともに、次第に一体化し、
(多くは、博徒系団体に神農団体が吸収された)現在は、
両者とも暴力団・ヤクザに一くくりにされています。

ヤクザと言うのは、神道を重んじており、
組事務所には神棚が掲げられ、
そして、ヤクザの重要な儀式である「盃事」には、
祭壇とともに、三神の軸が掛けられます。

祭る神は、博徒と神農では異なっています。
博徒の場合は、向って左から
春日大明神・天照皇大神・八幡大菩薩の三神。
そして、神農の場合は、同じく左から、
今上天皇・天照皇大神・神農皇帝となり、
暴力団として一体化した現在でも、これらは頑なに守られています。
現在の暴力団の主流としては、博徒の流れを汲む集団になります。

博徒は、その名の通り、博打を生業としていた集団であると
いうことは先ほど書きましたが、博打を打つことだけではなく、
博打を開催することが、その大きな収入源でした。

しかし、時代とともに、博打以外にも、
土木業・金融業・芸能業などに進出していきます。
また、クスリや飲食店の守りなど、
非合法なシノギを行い、それらの上がりが、
上納金(義理)として上部団体に納入されます。

つまり、ヤクザとは、暴力や非合法活動を伴う
営利集団と言うことになります。

ただ、それを「必要」とする人がいるのも事実です。
例えば・・・なんでもいいのですが、
A工場があるとします。
A工場は、支払の期限が迫っているのですが、
預金も現金も無し。
手元にあるのは自分では回収不能な債権のみ。

どうしても、早急に現金が必要なA社長は、
知り合いのヤクザに債権の回収を依頼します。

ヤクザの債権回収の相場は折半~10分の1。
1000万円の債権でしたが、紙切れになるよりましと、
A社長は、ヤクザに債権を50万円で譲渡しました。

しかし、その取り立て先も、同じくヤクザでした。
ヤクザから、ヤクザが取り立てるのですから、
当然回収は困難です。
そんなときに、モノを言うのが「代紋」です。

代紋の強い組織に属している方が当然有利になります。
そこで、こぞって強い組織に加盟するのです。
今回、分裂騒動の山口組と言うのは、
ヤクザ社会では、超一流ブランド。
「菱の代紋」には、それほどの効力があるのです。

菱の代紋を得るために加盟した組織は、
その利用料として、義理(上納金)を納入します。
企業でいえば、フランチャイズのロイヤルティーのようなものです。

皆さんは、水國闘争と言う言葉をご存知でしょうか?
かつて、奈良県で起きた部落差別事件をきっかけに、
全国水平社と国粋主義・民族派団体(今で言う右翼団体)である
“大日本國粋会”の衝突事件です。
この流れを汲む、現在の暴力団組織=老舗の「國粋会」でさえ、
2005年に山口組へ加入しています。
それほどまでに、山口組の「菱の代紋」は魅力があるのです。

また、実は政治家も、表では暴力団追放を掲げながら、
古よりトラブル処理などで深いつながりがあり、
政治とヤクザは切っても切れない仲であるといえます。

このように、利用する一般人がいるからこそ、
ヤクザは存在しているのです。
彼らに言わせると、度々「ヤクザは必要悪」言う言葉を口にします。
非合法活動の集団で“悪”でありながら、
居なければ困る存在、それがヤクザであるという理論です。

また、中には、ヤクザの取り締まりがキツクなれば、
『蛇頭やチャイニーズ怒羅権、関東連合などのマフィアや半グレを
のさばらす原因になる。ヤクザはそれらをけん制する役割も担っている』
と言う向きもあります。

そのように、擁護する意見が少なからずあることは事実ですが、
現行法上は、暴力団を非合法・不法集団と位置付けており、
それに関しては、何の異論もありません。

再度付け加えておきますが、私は、暴力団員ではありません。
しかし、実は、私は若年時代に、
ヤクザへあこがれを抱いていた一人でした。

ヤクザがカッコイイ。
肩で風を切って歩き、町衆からは義理固い親分として慕われ
沢山の金を持っていい車に乗り、リッチな生活をする・・・
そんなヤクザ社会へ、(若気の至りでありながら)
身を投じるのもいいかなぁと考えた時期もありました。
ただ、私には、そんな器量やキッカケがなかったのです。

以前、何かのテレビ?又は本?で目にしたのですが、
『ヤクザ映画全盛のころ、映画館から出てきた男連中は、
皆、ポケットに手をっ込み肩で風を切って出てきた。
ヤクザ映画を見ての感情移入ではあるが、男はだれしも
ヤクザ=強い者へのあこがれがあるのではないか?』
と言う言葉に深い感銘を受けたことがあります。

だが、それも昔の話。
いまや、ヤクザ社会も「♪義理と人情をはかりにかけりゃ~」とはいかないようです。

金・金・金。
新聞記事等によると、今回の山口組分裂騒動は、
拝金主義に走った六代目への批判が、引き金の一つとなったようです。

かつて、ヤクザ社会にカッコ良さを感じた私も、
現在のヤクザ社会には幾多の疑問を持ち得ません。

ヤクザの本業のシノギがきつくなったから、
『現在はタクシーの運転手をして凌いでいる。』
これが、現在の末端ヤクザの真の姿です。

それなら、何故カタギ(一般人)にならないのか?
堅気で生業につくほうが、よほど得るものは大きいの
ではないかと思われてならないのです。

でも、彼らは、そのような考えを持ち得ません。
なぜなら、いったんヤクザ社会にゲソ(所属)をつけ、
親分から盃を得ているからです。

盃とは、ヤクザ社会にとって最も重要なこの一つですが、
今回は、話が長くなってしましました。
以降、続きは改めて書きたいかと思いますが、
今日はこの辺で、ペンを・・・いや、キーボードを置かせていただきます!

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2015年9月9日水曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その3/見て記・行って記・被差別歩記-3

←その1 【八鹿闘争勝利記念碑】 その2→


見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その3―


さて、前回の終わりに「・・・ただ、2か所を除いては」
(八鹿闘争勝利記念碑:その2)と書いたが、
この2か所というのが、何処にでもありそうな、
のどかな山農村のこのムラを“被差別部落”であることを決定づけているのだ。

その一つが隣保館である。
隣保館は、かつて、「差別をなくす為」の拠点として、
同和地区を中心に建設された。

当時は、隣保館・解放センター・解放会館・教育集会所などと呼ばれたこの施設も、
同和対策終了後の現在は、市民会館・文化センター・ふれあいセンターなどと名を変え、
同和地区住民のみならず、広く市民にも一般開放されている。

だが、それはかつて差別解放の拠点として存在した隣保館が、
逆に、同和地区のランドマークとして存在するが故に、
そこが、同和地区であるという「特定」につながっているということだ。 

もちろん、隣保館がこれまで担ってきた役割は、
言葉で言い表せない程多大のものがあるし、
差別解消に大きな推進力となってきたことも事実である。

しかし、差別が完全解消されぬまま、
同和対策が終了し、行政により大きくその位置等を告知されることで、
善意の利用者のみならず、差別者にも同和地区(部落)の場所を
認知させるに至っている。

この、S部落の隣保館(現在はA福祉会館)も、ご多分にもれず。

小さな山農村部落にあって、明らかに目立つ
“白い外壁に覆われた鉄筋コンクリート造り”の建物は、
語らずとも、此処が部落であることを感じさせるに充分である。

ただ、このS部落の場合は、他の大多数の部落とは幾分違う点がある。
それが、集落から少し離れていると言うことだ。

例外もあるが、たいていの部落は、
その集落内に隣保館が存在するのだが、
まれに、何らかの理由で、集落(部落)から離れた場所に造られた場合がある。
大多数と言うのはそう言う意味で、
このS部落の場合は、前回、“集落内住宅の立地事情”の辺りにも書いたが、
どうやら状況から、「集落(部落)内に、建設スペースが無かったからではないか?」
と、推測される。
*さらに、余談であるが、隣保館と言えば、同和地区(部落)特有の施設のように
一般的に認知されているようであるが、
キリスト教関連の施設には、隣保館・隣保園・隣保事業などと言うように、
『隣保』をと言う言葉を好んで使う傾向にあり、
これは隣人への“博愛”という教義にのっとったもので、
隣保が、同和地区限定のものではないことを断わっておく。

地図上から見ると、S部落と隣の集落の丁度中間あたり、
田畑のど真ん中にA福祉会館は存在する。

私の不勉強で、申し訳ないが、
私は、当初、隣の集落も合わせてS部落であると認識していた。
訪問当時も、その認識でどちらの集落も回ってみたが、
なぜ、左右に分かれているのだろう?という程度で、特に違和感がなかった。
それに、今までの先入観で、この程度の離れた所なら、
部落が手狭である場合、「過密」として本所から離れた場所に、
新たに住宅を建設するケースが多いからだ。

その為、その中間にA福祉会館が存在すると思っていたが、
その後の調査で、どうやら、隣の地区は一般地区のようなのだ。
なにより、隣の集落名が「S」では無いところからも、そう思い直したのだ。

これも、左右の集落の中間にA福祉会館があるために勘違いをしてしまったのだが、
これとて、過密の為に、部落内に建設用地が確保できなかったのであろう。

このような、私の推測であるが、
このあたりの事情に詳しい方がおられたら、
ぜひともご教示願いたい。


======================

さて、一通り地区内を見て回り、車へ乗り込む。
車を走らせる(と言っても、狭い地区内なのですぐ近くなのだが)頃には、
雲は未だ厚く掛かっているものの、雨はすっかり上がっていた。
S地区の北のはずれに、地区の氏神だろうか?
山裾に沿って小さな神社がある。
その前に車を停め、“もう一つのランドマーク”へ向かう。

氏神の隣を綺麗に造成し、国道から一段高い位置に、
そのランドマークは、高々と誇らしげに建っている。
造成された広場には、植林が施され、丁寧に敷石が敷詰められており、
その姿に更なる(ある人が見れば、畏怖かもしれない)『威圧感』を与えている。

八鹿闘争勝利記念碑

高さが、ゆうに5mを超えるだろうこの建造物は、
何度も書くように、小さな田舎の山農村集落にはあまりにも不釣り合いで、
このS地区が被差別部落であるということを、如実に物語っているのであった。

周りは静かだ。
誰もいない。
空は、相変わらず曇ってはいるが、とにかく明るい。
山裾を造成した高台にあるため、木々で“鬱蒼”というわけでもない。
それは、裏を返せば、意図的にこの碑を『誇示』する事を意味する。

「八鹿闘争勝利記念碑」と大きく彫りこまれた表面から裏へまわってみる。
そこには、この碑を建立した理由が彫りこまれていた。

1974年11月
八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑を建立する。

よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会

誰もいない静かなこの碑の前で、私は声をあげてこの碑文を読み上げてみた。
この碑の存在は知っていたが、碑文の内容までは知らなかった。
私の読解力の至らなさもあるだろうが、
碑文を読んでも、その場では、正直、
にわかにどう言う意味か理解ができなかった。

いや、書いてある内容自体は、文章を読めば理解できる。
この碑を建立した側からすれば、(それが正しいかどうかは別にして)
この出来事の「正当性」を訴えたいという気持ちは伝わってくる。

意味がわからないと言ったのは、「建立」の意味だ。
事件からかなりの年月が経った今、
なぜこの碑が建立されなければならなかったのか?

もちろん、事件はとっくに風化してしまっている。
事件自体を知らない、もしくは、忘れてしまっている部落民も、
私の周りでは大多数を占める有様であるから、
一般地区住民にとっては尚更であろう。

たまに、部落関係の雑誌やインターネットで、
過去の振り返りとして目にする程度だ。

しかし、この事件のもう一つの組織、すなわち共産党では、
今もこの事件を「部落解放同盟が行った忌まわしい暴力事件」として、
度々俎上に挙げ、部落解放同盟を批判するプロダカンダとして用いている。
共産党員であり、「同和利権の真相」「誰も書かなかった部落」などの
著者である寺園氏のブログには、「誰のための何に対する勝利か」と題し、
この建造物に対する批判記事を載せている。

確かに、この事件を起こしたS部落のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』のメンバーは、
傷害で逮捕されており、怪我をした教師から起こされた民事裁判でも、
賠償金の支払いが命じられている。
更に、事件を重くみた部落解放同盟の執行部から「除名」の処分を受けている。
これだけ見れば、八鹿高校事件は、一方的にM氏側の“敗北”であろう。

しかし、M氏をはじめとする当時の同盟員達は、
民事判決で出た賠償金については一切支払っていないという。

設置場所の造成や、この碑の荘厳さは先にも書いたとおりである。
つまり、かなりの『カネ』がつぎ込まれているということだ。
おそらく、100・200万ではないはずだ。

八鹿闘争勝利記念碑建立委員会が、どのようなメンバーで
構成されているのか私には分からない。
(もしかしたら、M氏個人が名乗っているのかもしれないが・・・)

ただ、彼らの思惑としては、
「賠償金を払わずにこの立派な石碑を建立した!」
それが、『我々の勝利である!!』と言うことでは無いだろうか?

碑の建立の意図は、関係者以外、今のところ誰もわからないようである。
しかし、人により取り方は様々であるのは当然のこと。
この碑を否定する人、又肯定する人あって良しだが、
これが、あの碑を見てから5年間考え続けた、私なりの解釈である。

碑を見学していた時間は10分少々だろうか。
それ以外には、見学する場所もないので、
早々車へ向かった。

その10分の間に、速い流れの雲の隙間から、
幾分薄明かりが顔をのぞかせた。
振り返れば、その弱々しい陽の光が、
“八鹿闘争勝利記念碑”を、やはり弱々しく照らしていた。


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見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑・終―