~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから読んでいただく事を強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2018年2月8日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その8/見て記行って記被差別歩記-5

八千代橋が流失した翌年の昭和35年。
この部落では、一つの大きな事業の誘致活動をきっかけに、
またもや差別と言う辛酸を嘗めることになってしまう。
それが「京都府職員住宅誘致運動」である。
概要は以下の通りだ。

京都府は、府職員住宅建設を計画。
京北町から要請を受けた周山大区は、
川向部落を含む近隣区での建設地の選定に入った。
その要請にいち早く答えたのが、川向部落の地主H氏だった。
H氏は「川向の発展の為になるのであれば」と、所有地を無償提供
することを決意、村をあげて職員住宅の誘致に乗り出した。

府の担当者は「住宅地が無償で手に入るなら」と言うことで、
川向への建設を進めようとするが、当の府職員連がこれに反対することになる。
「実際に入居するのは自分達なのに・・・」と不満を口にする職員連は、
「夜道に街灯がない」「タバコを買うにも一苦労」「近くの駅に急行が停まらない」
などと難クセをつけて建設を阻もうとする。

一見もっともらしいとも思えるが、この難クセは全て差別からくるもので、
職員連は、別地に職員住宅を建設するよう要望を出している。
府の担当者・入居予定の職員、そして川向の役員の三つ巴で協議は難航、
地域発展のためにと、無償で土地を提供しようとしたH氏の気持ちを、
公務員でさえ“差別”で踏み躙る。これが、当時の部落差別の実情であった。
川向地区の端に位置する府職員住宅と旧京北町庁舎
(鉄筋造りの大きな建物)
前出の資料「川向区の歴史」では、当時のやり取りを記録した議事録の掲載はあるが、
残念ながら、住宅が誘致出来たか否かは記載されていなかった。
しかし、現地のフィールドワークから、職員住宅と共に旧京北町庁舎を確認。
何れも現在はその役目を終えており、取り壊しを待つかの如く辺りには
フェンスが張り巡らされてはいたが、この様子から察すると誘致には
成功したようである。

~~~~~~~~~

多くの部落では、住民たちが金を出し合って寺を作るのが慣例であった。
その理由はこの場では書かないが、以前にこのテーマについて書いているので、
詳しくは、そちらを参照願いたい
burakunokurasi.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
寺は、部落民にとっても心の拠り所であったと同時に、
寄り合いを行う為の重要な場所であったし、時には、
抗議や闘争の決起集会の現場でもあった。

川向部落には寺がなかった関係で、住民たちが集まる場所がなかった。
(その後の調査で、川向の村年寄り宅の仏間が広く、
寺の役割を担っていたのでは?と言う報告がなされている)

寺がなく、住民が集う場が十分に確保されていなかったこの部落にも、
ようやく公的な公民館が設置されたのが、京都府職員住宅誘致運動から
2年後の昭和37年のことだ。

昭和40年同和対策審議会答申の政府提出、
昭和44年同和対策事業特別措置法施行・・・
国が、ようやく重い腰を上げ、本格的に部落改善の狼煙を上げる様子を、
この公民館は見守ってきたのだ。
住民たちが集い、議論し、ときに戦いの場として使われてきたであろうこの場も、
昭和53年に同和対策事業にて、教育集会所が設置されるまで使用された。
隣保館の役割を果たす川向地区教育集会所
~~~~~~~~~~~~

川向部落の解放運動は、かなりのスローペースであった。
地区世帯が少なかったせいか、はたまた、同和事業を受け入れない
方向に向かおうとしていたのか?
同対法施行から16年も経った昭和60年、
ようやく川向にも部落解放同盟の支部が結成された。

結成の経緯について詳しい内容は分からないが、支部結成の一年前、
昭和59年に「京北町差別言動事件起こる」の記述が見られる。

資料から読み取ることが出来る範囲での推測に過ぎぬが、
恐らく、川向としての意向は、同和対策事業尾を受け入れない・・・
つまり、未指定地区として存続していく道を歩もうとしていたのではあるまいか?

しかし、件の差別事件を契機に、解放同盟の支部が結成され、
部落として、差別と戦う道を選んだのではないだろうか。
(今回の取材では、江戸時代の牢屋がテーマであるから、
このあたりの事には触れていなかった次第。
何れ折を見て、解放同盟結成の経緯も取材したい)

同盟が結成された後は、地区内の整備が順次進められていき、
現在に至る。
その後、大きく変わったことと言えば、
このテーマの冒頭に書いた通り、
平成の大合併で、この部落が京都市に組み込まれたことだろう。
川向が属する右京区は、新たに同和地区を持つことになったのだ。

簡単ではあるが、以上が川向の歴史である。
次回は、いよいよ本題の『江戸時代の牢屋』の全貌に迫る。

【続く】    

★お知らせ★

★お知らせ★

初めに、長らく更新をしなかったこと、お詫び申し上げます。
以前もお知らせしましたが、此処で改めて経緯を報告いたします。

12月9日、午前3時。
救急病院からの電話で、私は目を覚ましました。
「お父さんが救急車で運ばれ重篤な状態です。すぐに来ていただけますか」
私は、電話口の医師に「それは、危ないと言うことですか?」と聞き返しましたが、
「意識レベルが低い状態ですので・・・取り敢えず、来ていただいたら説明します」
と言う返事。お酒を飲んでいたので妻を起こし、
寝起きの悪い子には、「じいちゃんのお別れに行こ」と、
着替えさせて病院に向かいました。

途中、病院にいる母に電話するも、
「待っているだけで、病状の説明は受けてないのでわからん」との返事。
20分ほどで病院に着き、待合で一時間ほど待ったでしょうか。
夜の救急病院には、我々以外に人はなく静かでしたが、
母親が一人、しきりに今日の出来事を説明していました。

ようやく医師に入室を認められ、救急処置室へ入ったのですが、
多くの管に繋がれた父親は、ストレッチャーの上で目を見開き、
瞬き一つもせずに、ずっと暴れていました。
所謂、意識障害、せん妄と言うやつでしょう。

担当した救急医から大まかな状況が説明され始めました。
PCの画面には、頭部の画像が映し出されていました。

医師からは、大きな脳腫瘍が見つかったこと、
そして、重度の感染症にかかっているので非常に危険なことが告げられました。

腫瘍については、検査をしなければわからないのですが、
縦5cm横6cmと言う巨大なもので、脳幹や血管をガッツリ覆っているため、
手術は不可能。悪性(ガン)であれば尚の事、良性であってもこの場合は、
悪性として診断が下ると言う旨の説明でした。

そして、「今は感染症のほうが重症で、正直いつ亡くなってもおかしくない。
むしろ、なくなる確率のほうが大きいので、
会わせたい方がいる場合は、今のうちに会わせてあげてください」と。

取り敢えず、病室に搬送され、改めて説明室で担当医になる脳外科医より説明。
腫瘍が大きくなり、頭蓋底骨を破壊しているために、
頭蓋内戸の隙間が何処かに出来て、菌が侵入して髄膜炎を起こした
可能性を説明されました。

一通りの説明を終え、最後に医師から「延命」について選択を迫られましたが、
救命はするが延命はしない事を決め、説明室を後にしました。
病院の夜は、暖房が非常に効き、12月と言うのにかなり暑く感じ、
説明室を出る頃には喉がカラカラ。
ミーティングルームの自販機で一息つき、取り敢えず一旦帰ることにしました。
自宅に着いたら午前6時半。
3時間でしたが、色々なことが怒涛のように起こり、
あっという間でした。

寝ている暇はなく、そのまま仕事に出ることになるのですが、
その間、ネットで葬儀の情報を仕入れていました。
正直、この時は父親は長くないという思いでしたし、
それなりの気持ちの整理もできていました。

その日の夕方、抗生物質の効果が現れたのか、
父親の意識が戻り、少しの会話が出来ました。
私は仕事終了後の午後9時半頃に病院に向かったのですが、
個室でしたので、気兼ねなく見舞うことが出来ました。
この日は、福井から出てきた妹が病室に泊まり込んでいましたが、
「老人(76歳)の様態は急変しやすいから、ある程度の覚悟はしといてくれ、
万が一、感染症が治っても腫瘍の治療は難しいから」
と言い、病院を後にしました。

月曜日、昼過ぎでしたが、病院から電話が。
案の定、様態が急変したとのこと。
これから、二週間ほど父親は意識が殆どない状態で過ごすことになるのですが、
途中、水曜日の夕方見舞った時には、意識がない上に口での呼吸でかなり早く、
看護師さんに聞いても、「いよいよかもしれません、でも最後まで頑張ります」と。

その日の夜中2時に、又病院から電話が。
実は、これまでに、「死の直前行動」とか、「余命一週間前の状態」などの、
色々なサイトを見ており、合致する点が多かったので正直、
「遂に来たな」問感じでした。

この日も、妻子を起こし、実家の母親を拾って病院へ向かいました。
病院に着き、ナースステーションへ行くと、
ICUに入っているので、待合で待つようにとの事でした。
しばらく待っていると、看護師さんが呼びに来ましたが、
子供達の入室は出来ないということなので、
仕方なく、待合で待たしておくことにして、
我々は、ICUへと入りました。

呼吸器が挿管された父親を前に、医師から説明があった説明の内容は、
次のとおりでした。

「腫瘍の生検をする為に、前日に鼻から採った部分の血が止まらず喉に溜まり、
窒息を起こした。非常に危険な状態であったが、すぐに処置をし一命はとりとめた」

ICUへ入るのは初めてだったが、そこは一般病棟とは大きく異なり、
非常に沢山の医療機器とパソコン。
そして、夜中だと言うのに、スタッフが絶え間なく動き回る。
部屋の電気は消えているが、PCのモニターの明かりに照らし出されながら、
説明をしてくれる医師は、緑色の処置着を着たままでした。

言わば、腫瘍から出た「鼻血」なのであるが、意識がない父親の場合は、
喉に溜まった血液を飲み込むことも、吐き出すことも出来ないがため、
やがてそれが固まりだし、窒息に至ったわけです。

ICUに居たのはそんなに長くない。
時間にして10分ほどだったでしょうか。
夜中の2時過ぎだと言うのに、担当の医師が隣県から駆けつけ、
処置医といくらか言葉をかわし、我々はICUを後にしました。

説明室では、件の担当医が今回の状況を説明いただきました。
説明内容は処置医とほぼ同内容であったが、
今後は、生検の為の組織採取が困難になり、
最終的な診断が遅れる可能性を指摘、
人工呼吸器の経口挿管は長く続けられない為、
病状の改善を見て、気管を切開して管を通す手術をすること。
それと、糖尿病により、感染症の菌が減らず、
依然、重篤な状態であると付け加えられたのです。

夜中でも、私達が病院へ向かうと同時に、医師も病院へ向かう事を知り、
大変ありがたい気持ちで一杯になった。
この夜の出来事は、これまで私が持っていた「病院の医師とは、
どこか冷酷で機械的に患者を診ているものだ」という、
先入観(多くは、これまでの経験から来ているものなのだが)を覆す出来事で、
これ以降、担当医を始めとする医師達の見方が変わったのでした。

次の日、前日に連絡を取っていた従兄弟が見舞いに来てくれた。
このブログにも度々登場する従兄弟は、父親の兄(私にとっては叔父)の子で、
勿論、私と血の繋がりがあるわけですが、同時に、被差別部落の血も継いでいる。
つまり、叔父の妻(叔母)が被差別部落の出身でした。

この様な環境下でしたから、幼い頃の友人達の中でも、
いち早く部落問題に敏感でしたし、それが後に部落への関心、勉強へとつながり、
今日、被差別部落のブログを書くに至った一つの要因でもあります。

ICUへ入り一週間ほどして、ようやく抗生物質が効き、
感染症の症状が落ち着きはじめた頃、気管挿管の為の切開手術を受け、
(その後、意識が戻り、結局気管挿管での酸素吸入は一度も行わなかったが、
保険的な意味合いで、穴は暫く残しておくことになったのです)
一般病棟へ移ることになりました。
この時は、入院から2週間以上経った12月の下旬頃でした。

一般病棟へ移り、ようやく診断が下りました。
形質細胞腫という血液の癌で、白血球の内の一つ形質細胞が癌化したもので、
血流に乗り骨に付いて腫瘍化するということでした。

しかも、運悪く、父親の場合は頭蓋底に付いて腫瘍化、
上は脳内、下は鼻の方向へ向かって成長している。
抗がん剤をやらなければ、早ければ今月中、
遅くとも1月中には亡くなると言うことでした。

当初は、治療を行わないことも選択肢のうちの一つとして考えていましたが、
新港のスピードが早く、当方の予想を上回る余命一ヶ月ということで、
抗癌剤治療を行うことにしましたが、
リスクのほうがかなり多い旨の説明が有りました。

つまり、抗がん剤をやり、効いた場合、
頭蓋底骨の代わりにフタをしている腫瘍が縮み、
髄液漏・脳ヘルニア・脳内出血の恐れのほうが強いのです。
おまけに、開いた隙間から細菌が侵入し、
髄膜炎等の感染症を再発する可能性も高いという。
そうなれば、外科医と結託して穴を埋める手術もしなければならないし、
そうでなくとも、死の危険性のほうが高い。
治療を始めるにあたって、その点を覚悟しておくようにと。

まさに、四面楚歌の状態での治療となるわけですが、
以外にも私としては、初日に死の宣告をされていて、
ある程度覚悟はできていましたので、「ダメ元で」と言う気持ちで
治療をはじめました。

このときには、脳外科から血液内科に担当が変わっていましたが、
新たな主治医から、「世界で30例」しかない症例と言われ驚くと同時に、
治療がいかに難しいかということに改めて気が付かされました。

2週間、計三回の注射と点滴に寄る抗がん剤投与でしたが、
「途中経過を見る為に撮ったCT。腫瘍に変わりがない。
再度、検査をし直した所、どうも別の腫瘍であるような可能性がある」と
医師から電話がありました。

これまでに、何度か医師とのミーティングを重ねてきましたが、
今度は、内分泌科に担当が変わるという。
つまり、最終的に付いた診断は、
下垂体腫瘍で、プロラクチンというホルモンの向上を促す、
プロラクチノーマ・下垂体PRL分泌亢進症というものでした。

全く聞いたことのない名前でしたが、
結局は良性腫瘍。
しかし、縦5cm横6cmとかなり大きいく、
脳幹や血管を取り巻いている上に、手術不可能のこの手の腫瘍は、
良性でも悪性と診断がつくのだそうです。
年が明け、1月が始まって一週間ほど経ったときのことでした。

その間、父親の病状(感染症の方)は快方に向かい、
何とか、倒れる以前の生活水準に戻りつつ有りました。
腫瘍を除いては。

この間、先生方も、外部の権威の先生などに意見を伺っていただいたりして、
治療方針の検討をしていただきました。

私も毎週のように先生とミーティングを行い、
父親の年齢(76)や平均寿命の事を鑑み、又、父親の意向で
治療をしない選択をしましたが、
やはり、ホルモンの値が以前高いままなので、
その値を下げるために最低限の薬を投与するカタチで
最終的に治療方針が決まりました。

これが、2月6日。
つまり、つい先日のことなんです。

なぜ。此処までに治療方針が定まらなかったのかというと、
やはり、全ては腫瘍の大きさ。
つまりそれは、「手遅れ」を意味していたのです。

本来は、何らかの前兆や異変があり、
此処まで大きくならずとも受診をされ見つかるケースが多いこの腫瘍。

ある程度の大きさなら薬も効きやすく、
以外に完治が早いそうですが、
父親は年がいつていたことも有り、老化が重なり異変に気がつかずに
ここまで大きくなったのでしょう。

一応、退院のメドが付き、喉の装置も外して切開部を閉じました。
2月13日に退院し、自宅にて療養を行います。
この先、腫瘍の成長に合わせ、視神経が圧迫され失明の恐れがあります。
又、脳出血や感染症は、健常者よりかなり高いリスクがあります。
また、血糖値や血圧の管理も行わばならず、
自宅に帰ったら帰ったで、大変なことも多くなりますが、
基本的には、治療はしません。
寿命が尽きるのが先か、腫瘍が大きくなるのが先かって感じです。

スギムラシンジ

P.S
これからは、ブログも再開していきます。
以前にも増して、応援お願い申し上げます。