~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2016年3月9日水曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その1/見て記行って記被差別歩記-4

坂・・・

坂は、まだ見ぬ新しい土地への玄関口であり、
文化の流入点でもある。

他の国から人が入り、そして出て行く。
他の国で作られた物が、坂を通ってこの国に入り、そして出て行く。
坂には、関所が設けられ国を守る要所にもなった。

だから、昔から坂には人が集まり、物が集まった。
人が集まるところに、更に人が集まるのが自然の摂理である。

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奈良に本格的な春の訪れを告げる東大寺の「お水取り」を前に、
冬籠りで閑散としていた奈良の街にも、
ようやく行き交う観光客の活気が戻ってきた。

2月中旬。
私は、久しぶりに『坂』へ向かった。

『坂』には、過去3~4回訪れている。
前回の訪問から、おそらく3年は経っているだろうが、
数百年間も風雪に耐え忍んできたその建物は、
3年ほどの月日では、前回訪問時と、
何も変わらない佇まいを見せていた。

ここは、奈良坂。
奈良阪という名が示す通り、
この坂は奈良県を代表する坂である。

かつて、大阪へ続く西之阪に対し、
奈良阪は東之阪とも呼ばれ、
その先は、京の都に続いた。

坂には、そのものズバリ『坂』、或いは『坂の者』、
又ある時には、『宿・夙(どちらも読みはシュク)』
と呼ばれる集団の本拠地があった。

やがて彼らは、近世の身分制度下では、
広義に「非人」と呼ばれひとくくりにされるが、
宿の成立自体は意外と古く、
既に、中世頃には、宿が形成されていたと言う説が有力である。

ただ、宿の形成には、まだまだわからないことが多く、
いずれも、有力な“説”の一つであるのだが、
少なくとも、その構成に大きく携わったのが、
癩者(ハンセン病患者)であったことは間違いない。

今でも続く元ハンセン病患者への差別・・・
いや、
この話を語る前に、もう一度ハンセン病のおさらいをしておこう。

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ハンセン病は、かつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、
その病状から、有史以来、我が国のみならず、
世界各国で差別の対象とされてきた歴史がある。

ハンセン病は、らい菌による細菌性の病で、
感染力は極めて弱いが、人から人へとうつる伝染病である。

ただ、感染力は極めて弱く、幼少期に頻繁にらい菌保有者と
接触しない限り、発病まで至るケースは少ないが、
ひと度発症してしまえば、その病状は劇的で、
手や足の発疹から始まり、神経麻痺、
皮膚のただれや壊死などで手足を失い、
顔面の変形や失明などで姿形が著しく変わることから、
古の頃より、ハンセン病は「業病」と言われ、
『前世の行いが悪かった』・『信心不足』・『呪い』など、
その人の悪行によりかかる病として、
人々の畏怖の対象であり、差別の対象であった。

ハンセン病患者自身も、輪廻転生・因果応報と、
その境遇を恨み諦めた。

又、遺伝性の病気であると長く信じられ、
明治期に施行された「らい予防に関する件」と言う法律により、
らい療養施設への強制隔離政策が取られ、
家族とも引き離され、文字通り強制収容された。

しかし、療養施設とは名ばかりで、
そこは、シベリア抑留所さながらの強制労働施設であり、
多くの患者は、病気を悪化させ、
療養所内で命を落とすものも少なくなかった上、
遺伝性の病気であるという理由から、
子供の強制堕胎や断種(所謂パイプカット)が、
患者の意思なしに、強制的に行われた。

ハンセン病は、栄養状態が悪いと感染しやすく、
アフリカなどの発展途上国では、
現在もこの病の発生が深刻な状況であるが、
戦後、急速に生活環境が向上した我が国では、
新規患者はほぼ出ておらず、もはや過去の病気になりつつある。

又、1943年にハンセン病の特効薬「プロミン」が生まれると、
ハンセン病の治癒が容易に行われ、
“不治の病から、治る病気”へと変化を遂げた。

しかし、差別は残った・・・。

それは、今も尚、綿々と続く差別と後遺症で、
治癒に成功し、菌陰性者となった方々も、
社会復帰どころか、家族にさえ未だに会うことが出来ないという。

十数年前に熊本のホテルで起きた、
元ハンセン病者への宿泊拒否事件は、
メディアによって大々的に報道され記憶に残っているが、
報道に乗らない小さな差別は、現在も日常的に起こっている。

最も、先程も書いたように、
新規の患者が殆ど出なくなって久しい我が国では、
元ハンセン病患者の方々もかなりの高齢になっており、
親族と縁を切り、断種や堕胎によって子を持たぬ身の上では、
到底生活もままならないため、
療養所から出たくても出れないのが現状なのだ。

これも、長く続いた国の差別政策の結果といえるだろう。
ハンセン病が根絶し、療養所の必要性が無くなりつつある今、
今も療養所で暮らす元ハンセン病患者さんは言う。
「近い将来、我々が死んでしまったらこの施設はどうなるのだろうか?、
仲間や、妻が眠る納骨堂の面倒を誰が見てくれるのだろうか?・・・」

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さて、話を続けよう。
冒頭、坂には人が集まり、
それが更に人を呼ぶと書いたが、
ここ、奈良阪の場合は、京の都へ続く坂。

人や物の流通も半端なく、
決して広く大きいとは言えない“大道”を
日々行き交っていたことだろう。

そして、その行き交う人々に「更に呼ばれる人」、
それが坂の者だった。

つまりはこうだ。
当時、自活することが出来ない癩者や障がい者、
又、浮浪者などの社会的弱者は、
施しを求め、より多くの人々が往来する「坂」周辺に集まりだした。
やがて、時代と共に、それが組織化され、集団化していった。

坂の者の成立は、このように自然発生的なものであったと考えるのは、
当然の成り行きではないだろうか。

【その2へ続く】
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