~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年10月9日木曜日

原発と共に・・・:その1/見て記・行って記・被差別歩記-2

先日、見て記・行って記・被差別歩記-1で、
福井県・若狭の水上勉氏の生家を訪ねましたが、
今回も、若狭を舞台にお届けします。
位置関係的には、水上氏の生家・O町の隣に位置する風光明媚な小さな部落です。
規模的には「小さな部落」でありますが、
部落史的に見れば、各方面から見ても非常に重要な部落でもあります。
では、今日のテーマ「原発と共に・・・」始まります。
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◎見て記・行って記・被差別歩記-2
 (みてき・いってき・ひさべつあるき-2)

「原発と共に・・・」その1
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空が高いとは、今日のような日を言うのだろう。
すっかり稲刈りが終った田んぼは、
辺り一面、緑から茶色に変わり、
空の青さと絶妙なコントラストを見せている。

ただ、小雨ながらも、昨夜から降リ続いた雨が完全に上がり、
この様に高い空を見せるようになったのは、
本当についさっきのことだ。

その高い空から少し視線を落とすと、

まだ紅葉の始まらぬ緑一面が連なる山々の中でも、
一際目立った山が見えている。
全国各地に「○○富士」と呼ばれる山はたくさんあるが、
このA山も、そんな「富士」の一つだ。

福井県T町NM地区。
海と山に挟まれた狭小の被差別部落が、私の今回の訪問地である。

私がここを訪れるのは今回が初めてではない。
実は随分と前から、取材のために足繁く通っているのだ。

このNM地区から駆け上がりの高台には、
昔、城が建っていたそうで、現在、その城址は綺麗に整備された公園になっている。

私は、ここから見る若狭湾が大好きで、
フィールドワークでこの地へ入ると真っ先にこの場へ立ち寄り、
そして広大な海を眺めるのだ。

先ほど“若狭湾”と書いたが、この城址から見える若狭湾は
荒々しく波がたち、侵食された岸壁に打ち付けては白い泡となり消えていく。  

それもそのはず。
福井県T町は若狭湾の西端に位置し、
“湾”というよりも多分に外海の要素を含んでいるので、
秋の訪れと共に幾分肌寒くなったにもかかわらず、
多くのサーファー達がこぞってやってくる。
そして、何よりも水の綺麗さには、何度通っていても感心させられるのだった。

城址にて暫く佇んだ後、浜辺へ出るために車に乗り込む。
-乗り込むと言っても、たかだか300mほどではあるが-
NM地区には、水のきれいな浜辺があり、
「だいこく浜(仮名)」という名が付けられ、夏には多くの海水浴客で賑わう。

(部落所在地の公表につながるため、以下文章も含め、
印の箇所は仮名・仮定とさせて頂きます。あしからずご了承ください。)

だいこく浜前の駐車場に車を停め、
浜辺へのアプローチをゆっくりと進むと、
管理棟の横手にある、大きなモニュメントが目に入った。
「大黒様」をかたどった像には銘板が付けられ、
この浜の由来が記されていた。

以下は、銘板の由来書きである
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この公園は、地域住民の長年の願いにより、
ふれあい浜辺整備事業として平成十年七月に竣工した。
当集落がここに形成されたのは、天和三年(一六八三年)頃とされている。
中ほどに小さな山があり、「大黒山」と呼称され、
守り神として人々に慕われ てきた。
以来三百年余に渡り、この地の繁栄を見守ってきた。
事業施工の際、大黒山が取り除かれたため、
人々のこの山への郷愁はことに強く、この思いを形にしたいと願ってきた。
この事業の随行に関わった多くの関係者 に対する感謝と、
この公園が地域と高浜町の発展に大きく寄与することを願 い、
ここに大黒像を建立する。
______________________________

銘板に「当集落の形成」とあるように、
このNM地区は、元々現在地より丹後街道沿いにあったそうである。
“小浜藩が刑場を作る際に移転させられた”とあるので、
それが、天和三年なのであろう。

私の不勉強で申し訳ないが、資料からでは
小浜藩の刑場が丹後街道沿いに出来たのか、はたまた、
移転先のNM地区に出来たのかは、現時点では特定することが出来なかったが、
刑場の特性から言うと、この時代の処刑は、
ある種の“見せしめ”的な効果を狙っていた事もあり、
人々が集う、目立つ場所に刑場を作るのが通例である。

と、なると、「丹後街道沿いに刑場が作られたので、
NM地区民達は現在地へ移された」と考えるのが妥当であろう。

ただ、これだけは言える。
いずれにせよ、部落は長きに渡り“役人村”でもあった。
役人村というのは現在の警察のようなもので、
刑の執行には、穢多・非人(地域により異なる)達がこれに当たった。

犯罪者とはいえ、賤民が平民を殺めるのであるから、
平民が賤民に持つ恨み辛みは相当なものであろう。
平民たちの怒りの矛先が、幕府ではなく賤民に向くのである。

つまり、このことも、江戸時代の身分制度システムの一つであり、
また、幕府を維持するためのシステムでもあった。
将に、巧妙に作り上げられた「差別」のカタチなのである。

NM地区もそんな役人村の一つであったので、
死刑が執行される際には槍を持って断罪し、
その遺体の処理に当たったのである。

《その2へ続く》
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見て記・行って記・被差別歩記-2

  「原発と共に・・・」その1 了   
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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

しばらく前から読ませていただいています。九州で生まれ、関西の部落が多い地域で暮らし、再び九州へ戻っていますが、40年の人生、最近までは差別に対して深く考えることはありませんでした。仕事柄アメリカへ行くことも多く、日本の社会とのあまりの人間関係の構築の仕方の違いにショックを受け、日本人の閉鎖性が、部落差別とつながっているのではないかと思い、強く関心を持ったところです。振り返ってみて、自分の暮らしてきた地域、また、付き合ってきた人々の中にも部落出身者がたくさんいたのだろうと思うようになりました。社会的には、差別は無いものとなっていますが、それが正しいのか分かりません。私は、非差別主義なのですが、それを実践するにはまず知ることが重要だと思っています。知れば差別をする人がたくさんいるために、情報はどんどん消されているのも確かだと思うのですが、それ以上に、不都合に感じる人が消している面が多々あると思います。著者様の丁寧な取材と文章、また、ご自身が、若いころには相当なやんちゃだったということとのギャップが本当に心を揺さぶります。これからも更新を楽しみにしていますので、頑張ってください。

s sugi さんのコメント...

匿名さん。
はじめまして。

九州・関西、両方共非常に部落が多いですね。
これだけ多いと、確かに部落出身の方々や、その親族の方々は非常に多いでしょう。
きっと、知らず知らずのうちにお付き合いされていることだと思います。

差別って不思議ですね。
人と人との付合をしている内は
平常心でいられるのに、
その人の出自を知ってしまうと、
途端に拒絶される方もおられるのが事実です。

でも、出自を知っていようが知らまいが、平常に付き合っていけることが、
差別のない世界なのですが・・・。

アメリカも黒人を始めとしたマイノリティに対する差別がありますが、
日本とは差別の性質が違うのでしょうね。

差別に大小は決してないのですが、
昔々に解放されたはずの部落が、
未だに差別されるというのは、
我々にとっても、大きな問題です。

匿名さんコメント&激励ありがとうございました!