~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年12月18日木曜日

被差別部落の正月風景(大晦日編)

先日の被差別部落の正月風景(準備編)に続き、
今日は、大晦日編をお届けします。

このブログでも何度か紹介している通り、
正月は、盆と並び親戚縁者が一堂に会する期間であり、
部落内も大いに賑わいます。

そんな中でも、迎春準備を終えて、
来るべき新年を迎える「前夜祭」とも言える大晦日は、
師走の慌ただしさから解放され、
久しぶりにゆっくりとした時間を過ごせる日でもあります。


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部落内は、正月休みに入る頃には徐々に人が集まり始めます。
妻子は、一足先に数日前から実家の部落へ帰っていますが、
私は、仕事の都合で大晦日が仕事納めになりますので、
仕事終了後に、妻の実家の部落へ向かいます。

毎年「紅白歌合戦もあと数組で終り」と言うような時間になりますが、
その頃には、妻の姉妹や甥姪が集まり、
とても賑やかになっています。

さて、大晦日のイベントとしては、やはり除夜の鐘です。
私も毎年、鐘を撞くのを楽しみにしていますが、
紅白歌合戦が終わると、「さあ、行こうか!」となるわけです。

行き先は、部落内の寺です。
中規模の都市型部落である当部落では、
部落内に寺が2箇所があります。
故意か偶然か、東側に存在するのが真宗大谷派、
西側に存在するのが浄土真宗本願寺派なので、
部落の方々は、「西さん・東さん」と呼んでいます。

妻の実家は、「西さん」の檀家なのですが、
西さんの住職が具合が悪く、ここ数年は
除夜の鐘撞きが行なわれておらず、
自然と皆さん、「東さん」へ集まります。

当部落内では、殆どの家庭が、
どちらかの寺の檀家であるわけですが、
皆さん、そんなにこだわりがないようです。

こだわりがない理由としては、その歴史的背景と、
寺の役割が挙げられるかと思います。

部落民にとって寺は、ある時は心の拠り所であり、
ある時はリーダーであり、ある時は集会の場であったのです。

部落の方々は非常に信仰心が強いのです。
現世の境遇を嘆き悲しみ、また、
来世には差別のない世の中に生まれてこれるよう、
部落の方々は、一心に信仰しました。

多くの部落では、最初は道場という形で存在していた信仰の場も、
「何とか寺として昇格させたい!」
「寺だけは立派なものを建てたい!」ということで、
雨漏りのする今にも倒れそうな家に住んでいる方々も、
苦しい暮らしの中から資金を出し合い、
寺を建立してきました。

地区改良がなされ、不良住宅が立派な団地に代わっても、
寺だけは昔と変わらず、いにしえの姿を保っているのです。

また、寺は、時には住民の代表=「指導者」の役割も持っていました。
実際、部落の決め事や運動などは、
寺が主になり実践されてきた地域が多いのです。

また、かつての部落は、狭い敷地に押し込められ、
人一人通るのがやっとの路地が張り巡らされており、
家も四畳半一間に大人数が暮らすという有り様でしたので、
とても集りなどひらける状況ではありませんでした。
そのかわり、集会所の役割を寺が担っておりました。

このように、被差別部落と寺は非常に密接な関係を持っているのですが、
昨今は、宗教の多様化・宗教離れなどにより、
寺の存在も以前より重要視されなくなってきました。

それでも、盆や命日など、最小限の宗教行事に
僧侶を呼ぶことは、今でも続いています。

そんな、寺の現状ですが、
大晦日に行われる「除夜の鐘撞き」だけは、
地域の人々も沢山集まり、篝火も焚かれた寺の庭は、
冬の寒さを吹き飛ばすかなりの熱気に包まれます。  

私などは、その様子を見る度に、
「熱気あふれる、水平社創設期の頃の寺院は、きっとこんな感じだったのだろうなぁ」と
一人、物思いにふけってしまうのです。

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さて、寺の庭は、先ほど書いた通り、
沢山の方々が来られています。

年老いた方ばかりでなく、子どもや若者の姿も見れます。
篝火が焚かれた周りに手をかざし暖を取る方、
久しぶりに会った知人同士の和、
私達のように、嫁の姉妹や甥姪達の大人数で行っている方などが、
世話役さんの声で列に付きます。

「ぼちぼち始めます~」

一列になり、お賽銭を握って順番を待ちます。
鐘撞き台にあがり、鐘の下に掘ってある穴に賽銭を入れ、
静かに手を合わせ・・・

「ゴ~~~~~~ン!」

大きな音とともに、静かな部落内に鐘の音が響きます。

改良住宅のせいでしょうか?
四方に建っている団地型の改良住宅の壁が、
思わぬ反響効果を生むのかも知れません。
その鐘の音は、他で聞く以上に大きなうねりを伴っています。

撞いたら一礼をして次の方にバトンタッチです。
時を同じくして、本堂では住職の読経が始まりますが、
座って手を合わせている方はまばら。

ほとんどの方が、鐘をついたら暫しの雑談の後、
帰路につきます。
私は、とても興味があったので、十数年来で初めて、
昨年、本堂に上がり込み少し手を合わせていましたが、
雑談の終わった妻が、私を放ったらかして寺を出て行く
姿が見えましたので、諦めて私も寺を後にしました Orz

しかし、今年は、一人で住職の読経を聞いてみようと思います。


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鐘撞きが終われば、帰りに世話役の方から
どん兵衛の天ぷらそばとミカンを袋に入れて渡されます。

最初の頃「えっ!こんなん貰えるの?」って
世話役さんに言ったら、

「おじゅっさん(住職の方言)のお心使いやし、どうぞ」
と言っておられました。

私もいくつかの寺で鐘を撞きましたが、
土産をいただける所なんてありませんでした。
それだけ、部落は一つの共同体であると同時に、
寺が地域住民に果たしてきた役割の大きさが、
住職共々、認知されているということなのでしょう。

以前なら、東さんが終われば西さんへ鐘撞きのハシゴ!?でしたが、
前途した理由により、止む無くここ数年は鐘撞きが行なわれておらず、
そのまま、帰路につきます。

また、仏様(ご先祖様)がおられる家庭では、
納骨堂が解放されますので、合わせて拝礼をされることもありますが、
最近は、どうもお年を召した方ばかりのようです。

ちなみに、部落の墓地については地域差が有り、
郊外型・農漁村型では墓地がある地区が多いですが、
団地・マンション型の高層改良住宅が立ち並ぶ
都市型部落では、墓地の確保が難しく、
寺院内に納骨堂が作られている場合が多い様です。

妻のご先祖は納骨堂におられますが、
義母の姉、つまり、私の嫁方の叔母家は、
地区外に墓地を建立しておられます。

地域差があるでしょうが、この様な大晦日風景が、
嫁の出身部落では繰り広げられます。

さて、今回もお読み頂きありがとうございました。
次回は、最終回「被差別部落の正月風景(元旦編)」を
お届けいたします。

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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いろいろと勉強になる、外からではなかなかわからない情報、感謝致します。
その歴史的な経緯から大谷派が部落と密接な関係があり、地区に存在する寺の殆どがそれに属しているというのは周知の事実であるが、本願寺派の檀家も同等数いるような地区が存在するとは意外であった。都市型の地区にはそういったところも多いのであろうか?

 さて、是非教えていただきたいのですが、いわゆる同和事業が行われた地区について。私は申し訳ないが、年齢や生まれ育った地域の関係もあり、簡単に言えば「昔のこと」は殆ど自分の目で実際に見てはいない。関西の三大都市の地区などはおそらく陰湿極まる差別があったのであろうことは文献等から明らかなのであるが、例えば四国の山奥の地区や、水平社発祥の地である御所のような、都市から離れたところでも激烈な差別が実際にあったのだろうか?特に御所は市域全体における地区の割合も相当のものだが、そのすべてが過去には不良住宅で、「御所」というだけで敬遠されたりしたのだろうか?なかなか文献などからは見えてこない部分であるし、今とは比較にならないほど情報が伝わらなかった時代でもある。個人的には、すべての地区が差別されていたなどとは思えないのだが、貴方は如何お考えだろうか?

s sugi さんのコメント...

匿名さん。
こんばんは。
コメント有難うございます。

さて、匿名さんの質問に関する、
私の見解を述べさせていただきます。

まず、近代(江戸時代)の政治的状況から見て、
部落(穢多村)は、国策として差別されていたわけですから、
場所によっての差異は殆どなかったと思われます。

次に、現代に関しては、
私は、以下の点から、都市部より農山村部のほうが、
より深刻な差別があったのではないかと考えます。
(差別に大・小は無いですが)

        ===========

===規模===
都市部の部落では、比較的大きな集落が形成されているが、
農山村部落は、小さな部落が多い。
中には、戸数5戸以下の零細部落も多数存在している。

===地理的状況===
農山村部落は、本村の枝村として存在するケースが多く、
生産活動の範囲も狭くなりがち。

===人口の流出入===
都市部落が、人口の流出入が激しいのに対し、
農山村部落は、人口の流出入は殆ど無い。

       =========

以上のような点に加え、国策としての身分差別が、
「悪しき伝統」として受け継がれているのが
農山村部落ではないかと思います。

匿名さんがおっしゃるように、
情報が伝わりにくいからこそ、
悪しき伝統も、長きにわたり受け継がれているのだと思います。

(滋賀県のある農山村部落では、
「解放令の発表が一年遅れた」という
記述も見られます)

この問題に関しては、
スペースの関係上、簡単にしか書けませんでしたので、
いずれ又、本文で取り上げてみたいかと思います。

匿名 さんのコメント...

岡山は部落差別の厳しい土地として知られています。
天明2年の真言宗妙見山常福寺の改宗拒否闘争、幕末の渋染一揆、
明治6年の美作血税一揆での被差別部落襲撃などの差別事件がありました。

s sugi さんのコメント...

匿名さん。
コメント有難うございます。

そうですね。
政策上の制度でありましたので、
差別は全国的なものですが、
こと、地方・・・特に農山村や漁村には
未だ根強い差別が残っていることが多いです。

そういった意味では、直接的差別に関しては、
都市型部落の方が少ない傾向にあるかと。

ただし、インターネット上などでは、
未だに差別が残っておりますし、
都市・地方問わず、結婚差別は多いかと思います。

都市型の場合、日常の付合は、
ほぼ問題はなくなりましたが、
そのような形での差別は残っております。