~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2016年9月30日金曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その3/見て記行って記被差別歩記-4

~~~はじめに~~~
長らく、当ブログを休んでしまった事、お許し下さい。
理由は、一にも二にも、「ズルズル病」です。
忙しさにかまけ、「明日書こう、明後日書こう」と言っている間に、
ズルズル・ズルズル・・・こんなに期間が過ぎてしましました。
又、「見て記・行って記・被差別歩記:北山十八間戸」の
話の途中で休眠してしまったことも、併せてお詫び申し上げます。

これからも少しずつではありますが、
前進していく所存でありますので、
皆様、これからも引き続き、よろしくお願いいたします。
スギムラ シンジ

===============

さて、奈良県同和問題研究所へ向かう間に、
もう一度、北山十八間戸について整理しておこう。

先ずは、下の文章を読んでいただきたい。

「鎌倉時代の中頃、僧「忍性(にんしょう)」が不治患者救済のため、
北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、
はじめ、般若寺の東北に建立されたが、
永禄十年に焼けたため、寛文年間に、
東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、
不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、
鎌倉時代の遺風を承け継いで建てられたものである。
建物は、十八の間数のほかに仏間をつけ、
裏戸に『北山十八間戸』と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された」

これは、北山十八間戸に掲げられた、
案内看板の文言である。

先にも書いた通り、鉄門扉の中に設置されている上に、
案内板の字が、今にも消えかかっており、
些か読みにくかったが、それは、取りも直さず、
ハンセン病が過去の病として、社会からの忘却がなされるが如く、
北山十八間戸も、世間の関心を失いつつ有るようにも感じ取れるのであった。
グーグルマップより

この案内板からもわかるように、
北山十八間戸は、最古級の癩者救済の為の福祉施設なのであるが、
この施設を語る上で、忘れてはいけないのが、
鎌倉期に、生涯をかけて福祉事業に尽力した孤高の僧、忍性の存在である。

良観房忍性坐像
忍性像:ウィキペディアより
折しも、先日まで、奈良国立博物館において「忍性生誕800年記念展」
が行われていた。
次の文章は、そのHPより忍性の略歴を抜き出したものである。

良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)は、
建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。
早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、
西大寺の叡尊(えいそん)を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、
貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。
特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話
(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。 
 後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、
より大規模に戒律復興と社会事業を展開しました。
人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。
(奈良国立博物館 忍性展HPより引用)

◎9月19日に終了した忍性展であるが、
HPは現在も残っている。
アドレスを記しておくので、興味が有る方はご覧頂きたい。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2016toku/ninshou/ninshou_index.html

文中にも有るように、西大寺・叡尊を師と仰ぎ、
福祉活動に尽力したのであるが、
一説に、その根底には、奈良時代・聖武天皇の后、
光明皇后の存在があったと言われている。

光明皇后(光明子)は、あらゆる策を用いて、
出身母体である藤原家(これまでは、内親王から皇后が選ばれていた。
皇族意外からの皇后は光明子が初めてである)の
威信を守るべく奔走した「政争人生」を送ったが、
その反面、仏教信仰にも熱心で、
法華寺の建立や東大寺の大仏建立を成し遂げた他、
福祉活動にも精力的で、同じく仏教による国造りを行った聖徳太子に習い、
皇后宮職として、施薬院や悲田院を官職として制定した慈悲深い人物でもある。

特に、光明皇后が、ハンセン病患者(癩者)に施した行いは、
光明皇后の人物を語る上でも有名なエピソードである。
簡単ではあるが、そのエピソードを紹介したい。

福祉活動に熱心であった光明皇后は、
法華寺の「から風呂」(サウナのようなもの)で、
千人の病人や浮浪者の体を洗い清めることで、
「病気治療や民の幸せを願う」と言う願掛けを行った。

ところが、999人目を洗い終えたところで、最後の一人。
皇后の目の前に現れたのは、重い癩病者であった。

癩者の皮膚はただれ、そこからウミが吹き出し、
「から風呂」の中は、異様な臭気に包まれた。

千人目の癩者は、「体中が痛くてたまらん。
どうか、私の膿を吸い出してくれないでしょうか」と、
皇后に悲願した。

それを聞いた皇后は、何の迷いもなく、
癩者のウミを吸いだした。

すると、程なくして、
癩者は阿閦如来(あしゅくにょらい)に姿を変えたと言う・・・・。

もちろん、これは、後に作られた物語の類いであるが、
このような話が語り継がれるように、
非常に慈悲深い皇后であったことに間違いはないであろう。

===============

さて、忍性に話を戻そう。

忍性の福祉精神の根底は、光明皇后であるが故に、
仏に帰依しても尚、癩者をおぶりまちに向かい、
北山十八間戸やその他の救済施設で、
病人や孤児の面倒を見る事こそが、
彼のライフワークであったのだ。

その活動ぶりは、忍性が師と仰いだ叡尊をもってして、
修行そっちのけで、福祉活動を行う忍性を、
「慈悲二過ギタ」と言って批判している。

つまり、独立した共同体のように思われている非人宿であるが、
実は、この忍性のように、或いは、
各地の寺院の庇護のもとに成立していたのである。

北山宿に設けられた、癩者救済所「北山十八間戸」の
概要は以上であるが、詳細については、
同和問題研究所でお伺いした話とともに、
次回、お伝えしたい。


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