~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年5月17日日曜日

被差別部落と学校の歴史:その3

》》闘争時代

同和関連の法律が施行され、各部落で同和対策事業が開始されると、
やっと、一般地区との格差是正が、徐々に見られるようになりました。
同和地区指定を受けた部落にとっては、大きな生活改善が行われ、
以前に比べて著しく住環境が改善されていきました。

※ただし、これは、同和地区指定を受けた部落での話で、
同和地区指定を受けなかった、小規模部落や未指定地区では、
この限りではありません。

この頃には、就学率も以前とは比べ物にならないくらい、
飛躍的な伸びを見せます。

大阪市立大学の名誉教授で、部落問題研究の権威「原田伴彦」先生の
著書の中に、改良住宅が建ち、引っ越しした時の気持ちを綴った、
ある少女の作文が紹介されています。
その中の一部を紹介しましょう。

(要約)
「団地に移って、その日は、家族全員が嬉しくて眠れませんでした。
前の家は、冬は寒く、夏は暑い。
雨が降ると、家やトイレで傘をささなければなりませんでした。
それに、前の道は、ドロドロで歩けないくらいにひどかった。
私は、この家にずっと住めると思うと、学校に行くのがとても嬉しいです」

原田先生は、この作文の最後の部分をフューチャーし、
『住環境が変わると、学校へ行くのが楽しくなり、
そして、彼女は自分でも気が付かないうちに、解放への一歩を踏み出した』 と
結んでおられます。

さて、この様に、被差別部落が大きな変化をみせる中、
学校教育においても、種々の変化が見られるようになりました。

その一つが、教育現場でも“部落解放闘争”が盛んになったことが挙げられます。
例えば、「ゼッケン登校」や「同盟休校」などがあります。

ゼッケン登校とは、子どもたちが、登校の際に「部落解放!」とか、
「石川さん無罪!」「狭山不当裁判!」などと言ったゼッケンを着けて登校します。
このゼッケン登校は、部落解放同盟の指導のもと、部落の学童を中心に行われていました。

※狭山事件は、埼玉県狭山市で起こった殺人事件。
被差別部落民の石川一雄氏が「部落民」と言うことで逮捕され、
不当な裁判が行われたとして、部落解放同盟を始め、左翼系政治団体(過激派)なども
闘争の象徴として取り上げている。
 
※部落の子供達だけではなく、部落の生徒比率が多い学校では、
一般地区住民の子供達も参加した。

また、同盟休校と言って、前途のようなスローガンを掲げ、
全国一斉に休校(授業ボイコット)が行われました。

その他には、ハンガーストライキや校舎内への抗議の泊まり込みなど、
労働闘争さながらの活動が校内で行われていました。

これらには、賛否両論があると思います。
悪く言えば、教育現場での部落解放闘争は、子どもたちを「利用」したとの
取り方ができますが、逆に言えば、これらの活動を通じ、子どもたちの中に、
「部落民としてのアイデンティティと、解放への決意」が芽生えたのも確かな事でしょう。

先にも書いた通り、これらの抗議活動は、部落解放同盟主導で行われましたが、
部落民全員が、必ずしも一枚岩という訳ではありませんでした。

部落解放運動団体の歴史を紐解いてみますと、
大正11年の「全国水平社結成」から、僅か数年後には内紛が起こり、
初期創設メンバーのほとんどが、水平社から離れています。
以来、運動団体は、分裂・細分化の歴史を歩んでいきます。

特に、大きな流れとしては、共産対反共産という事になります。

学校闘争の中でも、特に有名なのが「八鹿高校(差別)事件」 ではないでしょうか。
この事件は、皆さんも御存知かもしれませんね。
改めて、この場で、事件を振り返ることはしませんが、
これなどは、 学校という場を借りた、
共産対反共産の典型的な政治闘争に他なりません。

八鹿高校事件は、暴力事件として、当時のマスコミでも大きく取り上げられました。
暴力を肯定する事は決して無い上で書きますが、
当時の時代背景として、政治団体が細分化し、
いずれも暴力を伴った、過激な行動が多くなっていた時代でありました。

例えば、学生運動もゲバ棒を手に、暴力化していましたし、
他団体との抗争以外にも、各団体内の内部分裂で、
リンチ殺人なども多く起こっており、連合赤軍による浅間山荘事件に
象徴されるように、より過激に、より暴力的になっていた時代でした。

このような流れの中、部落解放同盟の中にも、
一部過激な集団ができたことも、ある意味、
自然な流れだったのかもしれません。

いずれにせよ、先にも書いたように、生徒も一緒に、
ハンストや泊まり込み、ゼッケン登校などで闘争に参加した教育現場への
闘争・糾弾は、この時期が最も多く、かつ過激になった時代でもありましたが、
これを機に、それまで細々だった同和教育への取り組みが、
真摯に行われるようになったことも付け加えておかなければなりません。

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4回に渡る「被差別部落と学校の歴史」シリーズも、
いよいよ次回が最終回です。
今回の闘争時代を経て現在に至るまでを書きたいかと思います。
次回もよろしくお願い致します。
                          S.スギムラ

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