~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2014年9月11日木曜日

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差別歩記-1

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差歩記-1

 行って記・見て記・被差歩記「水上勉の生家を訪ねて:その1」
からのつづきです。(その1は、↑上記リンクをクリックして下さい↑) 
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集落内は、非常に狭かった。
田舎の集落は道が広いイメージがあり、意外に思うかもしれないが、
山が近くにある集落は、案外どこでもこのような造りになっている。

少しでも農地が広いようにと、平地は田畑にしているから、
自ずと民家は山裾に張り付くように建つことになる。
私がフィールドワークで回っている農村型部落もまた、然りである。

だが、一軒一軒の家屋は大きく立派で、
土蔵を備えている家も少なくない。
かつて、ここが「乞食谷」と呼ばれていたとは思えないほどにだ。

案内板から100mも車を進めていないだろう。
おじいさんが教えてくれた公民館が現れた。
「公民館に車を停めて」と言う話だったが、
そこには「駐車禁止!」の看板が。
まぁ、地区住民の方が「良し」としておられたので、
少々気が引けたが、公民館の空き地へ車を停めた。
隣には地元の氏神であろう小さな神社がひっそりと佇んでいた。

車を降りて、私はうろ覚えのままその辺りをウロウロし、
おじいさんが目印に、と教えてくれたビニールハウスを探す。
程なくビニールハウスを見つけたが、どうも様子がおかしい。
「たしか、おじいさんはビニールハウスを左にと言っていたような・・・。」
まぁ、いいかと、右に曲がり、舗装が途切れた山方向へ歩き出す。 

左手に小川が流れる山道は、
周りを覆う竹林のせいで日がほとんど差し込まず薄暗い。
その上、天気が良いのに地面もジメジメと歩きにくいが、
それが、かえって水上の言う「乞食谷」にふさわしい
道のりであるように思えたのだった。

舗装道から山へ入り50mほど歩くと道がなくなり、
(今は忘れてしまったが)そこには鉄塔だったか何かが建っていた。

その場所は、事前に調べた生家跡の写真とは全く異なる光景だったので、 
さすがの私もどうやらコレはおかしいと思い、来た道を引き返した。
山を降り、車へ戻ろうと歩いていると、
前方から件のおじいさんがやってきた。

「あの~。わからなかったです」
というや否や、おじいさんは先程より幾分大きな声で、
「ソッチって言うてへんじゃろ!コッチじゃ!」と。
私の不案内さに呆れたかのように、
おじいさんは反対側の方向を指さした。

すると、その場からでも少し先にビニールハウスがあるのが見えるではないか!
どうやら、“ビニールハウス違い”をしていたようである。 
この間私は、てっきり“おじいさんがわざわざ教えに来てくれたのか”と思ったが、
おじいさんは話し終えるとスッと公民館前の民家に入っていった。
どうもおじいさんの家だったようだ。 

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車を停めた公民館から僅か30mほどのその場所は、
きっと普通に探しても探しきれないであろう。
左右に民家が建てられた僅か50cm程の獣道のような
“通路”が水上家へ続く“道”である。

左隣にある小さな水路と右手の土蔵の壁に
挟まれた舗装もない通路。
水上生家跡への入り口は、まさに貧困への入り口に相応しいものであった。

そこから少し山へ上がった所に少し広けた場所があり、
おじいさんの言う通り、ざくろの木が数本あった。 
位置的に言うと、先ほどの“土蔵宅”の裏手方面に当たるようだ。
しかし、間に幾ばくかの農地や草叢があることからも窺い知ることが出来るように、
水上の生家は、村からはじき出された様な格好で、
ポツンと一軒だけ存在していたようだ。

水上は、10歳で口減らしのために京都の寺に
出されるまでを、電気も水道もない、
乞食谷のこの地で過ごすことになる。

そこには、相当な貧困と謂れ無き差別があったことは
容易に想像できるのだった。 

水上はこう続ける・・・。
「人間は暮らせないところだということか、
死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、
谷の所有者でM林左衛門(注:著書中では実名)という素封家の
薪小屋を借りて住居にしていた。」

先ほどの集落案内図に戻ろう。
確かに、集落案内図には現在もM林左衛門さんの名が記されているし、
丁度、立地的にも間違いない。

私としては、「公の出版物(水上の著書)に実名を載せても大丈夫なのだろうか」などと 
余計な詮索をしてしまうのであるが、水上とMさんの関係はさておき、
「乞食谷」の「さんまい谷」ということから、益々穏やかではないのである。

ここまでは予備知識として知っていたし、
写真を見たこともあり、大方の想像も働いていたのであるが、
名前から想像するような、暗くジメジメしたイメージと大きく異なり、
実際の「さんまい谷」は明るく、初夏の太陽が目一杯降り注いでいた。

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その3へ続く。
行って記・見て記・被差歩記
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