~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2016年2月25日木曜日

ジブリ・宮﨑駿氏ハンセン病を語る:その2~ハンセン病と被差別部落

かつて、ハンセン病は、日本では癩病(らいびょう)と呼ばれており、
世界的に見ても、間違った認識や偏見から、差別や畏怖の対象と
されてきました。

その歴史は相当古く、日本書紀『推古天皇』の項には、
既に「らい」の記述が見られます。
おそらく、有史以来、世界各国でも差別の対象になっていたことは
間違いありません。

日本国内でも、その病史を紐解けば、
既に、聖徳太子の時代に建立された「悲田院」の周りに、
癩者をはじめとした、非人のルーツに繋がる人々が生活しておりました。

癩病が恐れられた原因の一つが、その病変で、
癩病にかかると、神経の麻痺や皮膚のただれや壊疽などで、
顔や身体の至る所が変形ないし、損失し、
健常者とは大きく風貌が変わることから、
「業病」と呼ばれ、恐れられてきました。

医療が確立していない太古の時代
『“業病”は、前世の悪事で起こる病気』と長く信じられており、
その考えは、世間のみならず、患者自身も同じような認識でした。

又、同時に癩病は、後世に繋がる遺伝病であると考えられてきました。
そのため、癩者は輪廻転生・因果応報と自身を恨み、
仏教にすがる事で、この現状を打破しようとする動きが見られましたが、
実は、癩病(=ハンセン病)はらい菌による感染性の伝染病で、
西洋医学会では、既に1873年(明治6年)に、
ハンセン氏がらい菌を発見しており、
癩病は細菌性の病であるということがわかっています。
なおかつ、伝染病であっても、らい菌の感染力は極めて弱く、
仮にらい菌を取り込むようなことがあっても、
その免疫力で、ほとんど感染に至ることはないそうです。

しかし、日本では、まだまだ上記のような考えが主流を占めていたわけです。
私が以前読んだ、元ハンセン病患者「近藤宏一」氏の著書“闇を光に”の中には、
驚くなかれ、そのような考え方が昭和に入ってからも、
世間一般の認識であったことが書かれています。

ただ、感染力が弱く、発症しにくい病気であっても、
ひと度発症してしまえば、治癒が困難で、
非常に厄介な病気であることに間違いはありませんでした。

医学の進歩とともに、ハンセン病治療の研究が重ねられ、
やっとのこと1943年に、癩病治療薬「プロミン」が開発され、
癩病は不治の病から、治る病気へと劇的な変化を遂げました。

我が国でも1947年には、それまで主流であった
植物由来の「タイフウシユ」と言う、大して効き目のない薬に変わり、
プロミンの治験が始まりました。

しかし、その間、国をあげて、悲惨極まりない『差別施策』が取られてきたのです。
例えば、明治40年には、“らい予防に関する件”と言う法律のもと、
癩患者は強制隔離されるのです。

家族は、近所へ知られるのが嫌なことや、
患者との離別を惜しみ、納屋などへ患者を匿いましたが、
内務省は警察権力と結託し、近所の噂などで患者を見つけ出し、
強制的に施設へ入所させました。
現在でも〇〇園などと存在するハンセン病療養所がそれです。

療養所とは、名ばかりで、一度入所してしまえば、
ほぼ、園からの出所は不可能で、
死ぬまで、園の中で暮らすことになります。

そのため、園には、食堂や宿舎と言った基本的な施設の他に、
学校や売店、果てには火葬施設に納骨堂まで完備されていました。

そのため、例えば、恋愛や結婚も入所者同士で行われましたが、
優生保護法により、子供が罹患するのを防ぐ意味で、
断種(所謂パイプカット)や堕胎が、
患者の意思無しで強制的に行わていました。

それ程までに、癩病は社会的にも差別を受け続けていた病なのでした。

いにしえより、癩病は、業病とされてきたのは、先に申したとおりです。
そして、長きに渡り社会的に差別を受けていたのも紛れも無い事実であります。

江戸時代には、癩者は非人身分に組み込まれ、
後に穢多村の支配下にあったことは間違いありません。

江戸期以前にも、そのような弱者(身障者やその他の罹患者、経済的困窮者)は、
賤民という認識がなされてきました。

実は、被差別部落の起源は、未だ解明されておらず、
ハッキリとしたことが、わかっていないのが現状です。

しかし、私の私見ではありますが、
そのような弱者が、後世の被差別部落民へと連なったと考えるのが
自然ではないでしょうか?
(被差別部落民の根源は、朝鮮半島などからの移民だという、
全く根拠のない『珍説』もあるようですが・・・)

いずれにせよ、癩病者と被差別部落の繋がりは、
かなり深いもであったことは確かであると信じてやみません。

おまけに、国策により、長年差別されてきた歴史も、
被差別部落とかなる部分が多いですね。

そんな、国策差別が、平成の世に入っても続けられてきたこと、
皆様は信じられますか?

1960年台には、プロミンの効能が認知され、
一時退所者もいるにはいたのですが、
基本的に平成8年に、らい予防法が廃止されるまで、
このような、信じがたい事実があったのです。

====================
以上、かいつまんでですが、
癩病についての歴史と被差別部落との関係を書いてみました。

次回の「見て記・行って記・被差別歩記」のコーナーでは、
鎌倉時代から続く、奈良県の癩収容施設「北山十八間戸」を
レポートいたします。
乞うご期待。

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4 件のコメント:

物吉 さんのコメント...

物吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E5%90%89

物吉(ものよし)とは、江戸時代(17世紀 - 19世紀)の被差別民の一つ。門付をして金品を乞うことを生業とした。
生まれながらの賎民ではなく、ハンセン病などの疾病や、事故などで著しく容姿が変形した人々の集団であった。
祭事の際に「物吉」(縁起がいいという意味)と叫びながら物乞いをした。

略歴・概要

「物吉」は、その語の第一義的には「めでたいこと」を意味する祝福のことば、掛け声である。
「物吉」たちは、人家の門前に立って、報酬を目的として祝い言を叫んだ。

江戸時代初期の1603年 - 1604年(慶長8年 - 同9年)の時期に、長崎学林が刊行した『日葡辞書』には、「モノヨシ」イコール「ハンセン病」であると定義されているが、これは、当時すでに、同病の罹患者たちが「物吉」的活動を行っていたことを意味する。
大阪を中心とした関西地方でおもに活動したとされる。

京都では、「物吉」は、中世(12世紀 - 16世紀)期には清水坂(現在の京都市東山区清水)の非人宿の最末端に所属したが、江戸時代に入ると、清水坂から分離され「物吉村」と呼ばれる塀に閉ざされた空間に隔離されるようになる。
「物吉村」の内部にあった長棟堂清円寺があり、梅の名所とされ、「物吉」たちは敷地内で畑作・わらじ製造、節句に市内を門付して生活した。
同寺は1872年(明治5年)に廃寺となる。

奈良では、「物吉」たちは北山十八間戸と西山光明院に分かれて居住していた。

『加賀藩史料』によれば、加賀藩(現在の石川県ほか)では、「物吉」は乞食ではなく、七兵衛という人物が代々この集団を統率していた、という旨の記述が、1693年6月(元禄6年5月)の「異種徒取調書」にあるとしている。
しかし当初は祝い事の際に武家や町方に祝儀を受けて生活していたが、次第に配下の「物吉」が増加し、それだけでは生活が成り立たなくなり、「乞食札」を受けての乞食活動を行うようになったという。
同藩における「物吉」の身分の呼称は「��癩」(かつらい)であり、すなわち「かったい」であり「乞児」(ほかいびと、祝い言を発して金銭を乞う者)であるとした。
定住者ではない無宿のハンセン病患者が現れた場合は、この「乞食札」を発行して「かったい」(物吉)集団に引き渡して管理させたという。
同藩では、当時信じられていたように、ハンセン病の家は代々ハンセン病であると考え、「物吉」の家系はハンセン病者を起源とするものであって、「穢多」「非人」とは系統が異なると記述している。

身分としての「物吉」は、19世紀後半の明治政府によって廃止されている。
かつて「物吉」たちが患った「ハンセン病」についても、現在は不治の病ではなく、1996年(平成8年)4月1日に「らい予防法」を廃止、2009年(平成21年)4月1日には「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)も施行され、日本のハンセン病問題は解決に向かっている。

物吉村

物吉村(ものよしむら)は、かつて江戸時代(17世紀 - 19世紀)に存在した日本の通称地名である。
現在の京都府京都市東山区弓矢町・宮川筋五町目の一部にあたる。
宮川筋の西、鴨川の東岸にあった、安倍晴明の墓のひとつである「晴明塚」が移転・設置されたため、「晴明辻子」(せいめいつじこ)とも呼ばれた。
同地の範囲内、現在の松原通大和大路西入には、浄土宗の寺・長棟堂清円寺があり、この地区に「物吉」と呼ばれたハンセン病者たちが、集団的に居住していた。
同地は宮川町の花街に囲まれており、建仁寺の門前(勅使門)位置し、「物吉」たちは京都市中を門付してまわり、この勧進事業によってハンセン病者救済が行われた。

清円寺は廃寺になり、1877年(明治10年)、本尊の阿弥陀如来像や晴明像は、裏寺町通六角の長仙院に移され、村も解体された。

物吉 さんのコメント...

的ヶ浜事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E3%83%B6%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

的ヶ浜事件(まとがはまじけん)は、1922年(大正11年)に警察が山窩とハンセン病患者の集落を焼却した事件。

概要

大分県別府市的ヶ浜集落には、山窩や4名のハンセン病患者が混在して住み、いわゆるスラムが形成されていた。

1922年(大正11年)3月25日、赤十字の総裁閑院宮載仁親王が公務のため日豊線を利用することになり、公安による同地に共産主義セクトが集結し武器の集積や在郷軍人やセクトによる謀議が行われているとの内偵により、警備・風紀上問題のあるサンカ小屋を取り払うという名目で地元警察隊により実施された。

この問題を憲政会系の地元紙『大分新聞』が大きく取り上げ、当時の立憲政友会の高橋是清内閣の責任を追及。
浄土真宗木辺派の布教使篠崎蓮乗が抗議行動を起こし、全国水平社に支援を求めたが、このとき焼き払われた集落について、篠崎はサンカ系ではなく穢多系の被差別部落であると誤認していた。
1922年4月21日、篠崎は三重県水平社創立大会後の演説会で的ヶ浜事件について訴え、4月23日には大阪府の舳松村で、4月24日には大阪市の栄町で、5月4日には京都市の三条で、5月16日には大阪市の天王寺公会堂で的ヶ浜事件について訴えた。

しかしその後、5月23日に内務省が公式見解を発表し、

・的ヶ浜の住民が「山窩乞食」であったこと
・警察は風紀・保安・衛生上の理由から立ち退きを「懇諭」し、住民がこれに従い「任意」で住居を焼却したこと

が明らかになると、水平社による糺弾は沙汰止みとなった。

これについて藤野豊は「焼き払われた集落が、『穢多』系ではなく『山窩乞食』のものであることで、水平社はこの事件から手を引いたのではないか」と述べている。
その理由として藤野は、当時の水平社が「山窩乞食」を蔑視していたことを挙げている。

物吉 さんのコメント...

以上の事例からわかることは

物吉の例からもわかるようにハンセン病の家は代々ハンセン病であると考え、「物吉」の家系はハンセン病者を起源とするものであって、「穢多」・「非人」とは系統が異なるとされていること。

的ヶ浜事件では穢多をルーツとする全国水平社がハンセン病患者の部落をルーツが異なる者として差別していること。

被差別部落の暮らし さんのコメント...

物吉さん
Wikiからの転載ありがとうございます。
ご指摘のように、江戸時代以降、身分制度が確立してからの癩者(物吉)の位置づけは、
ほぼWikiのとおりですが(間違っている箇所もあります)、
残念がら、この時代の記述は、案外はっきりしておりまして、
癩者などの非人と、穢多は、きっちりと区別されていたことに間違いありません。

しかし、ここで私が申しているのは、それ以前のことなのです。
つまり、穢多のルーツ(・・・中世の皮多以前)が、
癩者や障がい者などの社会的弱者も含んでいたのでは?ということです。
エタの語が、鎌倉時代に初めて見られたとする現在の定説の一つから見れば、
鎌倉時代以前と言うことになるでしょう。

私見では、奈良時代の五賤、いや、
古墳時代くらいまで遡れるのではないかと考えています。

記紀の記述すべてを信じるわけにはいけませんが、
イザナギノミコトの禊に見られるように、
奈良時代には既に、カゲレ意識は存在していました。

その記紀の中には、天皇の死後のもがりの話や、
埋葬に携わった土師氏(部)の話が出てきますが、
彼らなどは、その最たるのもではないかと思われます。

記紀の話は、天皇家を中心とした皇族の話ですが、
一般の人々の中でも、同じような考え方であったことは、
十分察しが付きます。

このように考えると、既に、古墳時代あたりには、
ケガレ意識が存在し、そして、そのケガレ部分を担ったのが、
癩者や障がい者など、社会的弱者だったと考えます。