~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2019年12月27日金曜日

同和事業を放棄した部落~ある未指定地区の話

被差別部落は行政上、2つの地区に分けることができます。
もちろん行政上のことですので、どちらも被差別部落であることには変わりません。

◎同和地区・・・
過去、同和事業を受け入れ(運動団体的に言うと「勝ち取り」)、税金によって住環境の整備・生活の向上が図られた被差別部落。
(現在、同和事業は終了しましたので、言葉は適切ではないかもしれませんが、
慣例に従い、同和地区とさせていただきます)

◎未指定地区・・・
同和事業を放棄し、自主的改善を行った、或いは改善等を行わずとも、ある一定の生活水準を維持できた被差別部落。
(厳密には、同対法以前に社会事業の下、同和事業が行われた例があるが、大規模な地域改善というよりも、小規模な補修程度のものが多い)

私事ですが、縁あって現在は未指定地区に居を構えております。

なるほど。
未指定地区は被差別部落でありながら、同和事業を放棄した地区でありますから、隣保館や浴場と言った、所謂同和モニュメントが一切ありませんし、住宅も一般的な戸建住宅です。
私の居住部落も元々50戸程の小さな被差別部落でしたが、住宅難の高度成長期を経て400戸迄に膨れ上がり、住環境的には被差別部落と一般地区の境をなくしました。
しかし、差別の壁は越えることができませんでした。
いや。一時は超えるかもしれないと思っていたのですが、例の「全国部落調査」にて蘇ってしまいました。

私見としては、部落を無くすのではなく、差別を無くすと言うスタンスです。
部落には非常に素晴らしい文化や技術、担ってきた役割があり、現在の我々の生活に於いても様々な分野で、その技術等が用いられています。

そういった面からも、部落というものを卑下することなく、むしろ誇れるべき存在であると考えます。
いつか、私の子達も声を大にして「私のルーツは部落です!」と言える日が来るのを望んでやみません。

さて、少々話が脱線しましたが、本題に戻しましょう。

同じ被差別部落でありながら、一方は同和事業を受け入れた同和地区と、事業を放棄した未指定地区に別れたのでしょうか?

各部落によって理由は様々ですが、概ね「自立するだけの資金力があった」と言うのは、
多くの未指定地区で聞かれる話です。
勿論、部落内でも資金力の差があったことでしょうが、地区内の実力者や多勢に無勢で受け入れを放棄せざるおえなかったという部分はあったでしょう。

また、地方においては(特に農漁山村)部落戸数が数戸という極小規模の被差別部落も多く、同和事業の窓口となる運動団体が組織できない部落もありました。
あとは、政治・思想的な部分もあったでしょう。

本日紹介するAさんは年の頃60代後半。
関西の、ある政令指定都市の被差別部落で生まれ育ちました。
現在では住宅が立ち並ぶ地区周辺も、昔は15戸程の小さな部落だったと言います。

『差別?う~ん。。受けたことなかったですね。』

幸い、ご自身は差別を受けたことがないせいか、柔らかい物腰と笑顔でお話されています。しかし、部落の事、先祖の事は常に気にかけておられ、被差別部落の勉強は欠かさないとのこと。

「同和事業を受け入れず、未指定地区の道を歩むことになった理由は何でしょうか?」

『それが、よくわからないんですよ。ただ言えることは、ムラ全体は貧しくなかった。農家でね。小作じゃなくそれぞれが自分の田畑を持っていました。』

「ムラで同和事業の話は出なかったのですか?」

『出なかった・・・と思いますよ。聞いたこともなかった。他部落や運動団体からのオルグも無かったと思います。もしかしたら来ていたのかもしれませんが、自分の耳には入ってこなかったし、家族の間でもそんな話は無かったですね。』

『ただ・・・』と話を続けるAさんの口から、同和事業を受け入れなかった"部落気質"の片鱗を垣間見ることができました。
それが次のエピソードです。

『小学校の頃、同じ部落から通っている同級生が3人居ましてね。いつだったか、先生が鉛筆やら消しゴムをくれたんですよ。「何で僕らだけにくれるん?」と聞くと先生は「キミらは遠いところから来てるやろ。そやしご褒美や!」と言って。』

「同和事業前でも学用品の補助があったわけですね。」

『それが、一緒に持って帰った同級生の父親が火が点いたように怒ってね。それはもう凄かったですよ。「ウチは物貰いちゃうぞ!!!」って。』

「なる程、そういった部落気質が後の同和事業を受け入れなかったことに繋がるのでしょうか?」

『それはあったと思います。農家で自立していましたから。周りの大人達にはそういった思いがあったのかもしれませんね。』

短い時間でしたが、ある未指定地区の話をAさんにお伺いしました。
全国に数多ある被差別部落が、同和地区指定を受けて同和地区になる、また地区指定を受けずに未指定地区の道を歩むのは、それぞれの部落により理由は様々で、とてもじゃないですがステレオタイプで語れないところがあります。

Aさんの部落でも、あくまでも推測の話で、もしかしたら違う理由で同和地区指定を受けなかったのかもしれません。

ただ、同和事業を受けた地区が劣っていて、地区事業を受けなかった未指定地区が優れている等という事は全くありません。
部落には様々な事情があったのは先に述べたとおりですが、同和事業を本当に必要とした、当時の住環境・生活の劣悪さは、もはや自力改善出来ないレベルまで至っていたことは確かなのです。





今にも崩れそうな家々、常に氾濫の危険に晒された川の上に建つ住宅、一度火事が出れば消防車も入れない密集住宅、トイレや台所もなく共同利用・・・etc

中学校時代、同和地区から同級生が通い、その「優遇された(と思っていた)」事業に疑問を持っていました。
しかし、部落のことを知り、学び、理解するうちに、本当に必要な事業であったことに気が付きました。

ただし一方で、同和事業は非常に許しがたき事態を招いてしまいました。
それが同和利権と呼ばれるものです。

私は、同和地区住民がおしなべて住環境・生活の向上を享受する同和事業を「権利(ケンリ)」と考えています。しかし一方の「利権(リケン)」については、一部の特権階級や、部落とは全く関係ない者までもが魑魅魍魎と同和利権に群がり、公金をせしめてきました。

このことが、他大多数派の被差別部落民(・・・運動団体に所属しない方々も多い。今では運動団体所属派は少数)すべての部落民が行った"悪事"であるかと思われるケースがあることを非常に憂います。
同和事業が終結し、今では完全に一般地区と同じく「一般施策」が取られている"(旧)同和地区"ですが、未だ事業が継続していると思っておられる方も多く見受けられます。

それらの誤解を解くために、微力ながら私は活動しております。






2019年9月14日土曜日

白山比咩神社を詣る~部落で信仰される白山神社の総本宮~ 


見て記・行って記・被差別歩記-6
白山比咩神社を詣る~部落で信仰される白山神社の総本宮~ 



【自然崇拝】

日本がまだ神の代だった時代。

素戔嗚尊の暴れっぷりに怒った天照皇大神(太陽神)は、
天の岩戸に隠れてしまわれた。
途端にあたり一面漆黒の闇となり、草木は枯れ果て、
悪神がはびこり様々な災禍が起こり、
八百万の神々は大いに困った・・・

記紀に記される天岩戸伝説を見てもわかるように、
古来から人々は自然を敬い、感謝し、時に恐れ慄いた。

太陽・岩・樹木・海・山・川・諸々

神道の世界で今でも見られる自然崇拝は、
ありとあらゆる自然物が神となり仰がれた。
例えば、大きな岩や奇岩は「磐座」大木は「御神木」と呼ばれ、
神々が宿るとして尊ばれている。


同時に自然は時として牙を剥き、
人々に恐怖と落胆を与える存在でもあった。
台風や地震、大雨による水害や土砂崩れも神の仕業とされ、
それを鎮める為の崇拝・信仰でもあったし、
日照りが続けば神に舞を捧げ雨乞いをした。

私が産まれた鳥取県(里帰り出産で産まれただけだが、それでも鳥取は
感慨深いものがある)では、神に捧げた雨乞いの舞が「傘踊り」となり、
祭りへと昇華して毎年夏に行われているが、
元々の神事が祭りとして面々と続いている例は、枚挙にいとまがない。


【白山信仰】

石川県・岐阜県・福井県・富山県。
四県にまたがる霊峰『白山』も、いにしえの頃から
人々に感謝され、そして恐れられてきた自然信仰の象徴であった。

いつしかそれは、白山(しらやま・はくさん)信仰と呼ばれ、
全国に広まっていく。

白山比咩神社表参道鳥居

【被差別部落と白山信仰】

特に関東では、被差別部落に多く祀られていることから、
白山神社=部落と思われがちだが、実際には沖縄を除く
全国2000箇所に存在し、部落外でも氏神として祀る地区は多い。

表参道 鳥の囀りを聞きながら本殿までゆっくりと歩みを進める。

では、なぜ被差別部落に白山神社が多く存在し、
氏神として祀られているのだろうか?


一説には、浅草弾左衛門が信仰していた為、
多くの部落で信仰されるようになったと言われているが、
実際には弾左衛門期以前に、既に白山神社が存在する被差別部落もあり、
通説の一つとしての域を脱しない。

また一説に言うには、白山神社の祭神である白山比咩大神
(シラヤマヒメノオオカミ)は、菊理媛神(ククリヒメノカミ)と同一神
なのであるが、日本書紀に於ける菊理媛にまつわる伝承こそが、
「被差別部落で祀られるようになった所以」とするむきもある。

私も含め、菊理媛と聞いて菊姫酒造の「菊理媛」を思い浮かべる方は、
無類の酒好きに間違いないだろう。
定価で一升5万円の値が付けられたこの酒は、
現在発売されている中でも、高額日本酒の一つと言える。
【菊理媛】

菊理媛は、幾つかある日本書紀の一書に、
たった一度だけ登場する謎多き神である。

媛と付くことから女性神で有ることは間違いないのであるが、
それ以外のことは全くわからない。

(取り敢えず、菊理媛が登場する部分を要約したのが以下である)

火の神を産んだ際に焼死したイザナミを追い、
黄泉の国へやって来たイザナギであるが、
イザナミのあまりにも変わり果てた姿を見て一目散に逃げてしまう。
数多の追手と共に追いついたイザナミは、イザナギと争いになるのだが、
ここで登場するのが菊理媛である。

イザナギとイザナミの仲裁に入った菊理媛が、
イザナギに「何か」を言うと、イザナギは同意して黄泉の国を後にするのだった。
ところが、日本書紀には菊理媛が何を言ったのか記述がなく、
何故イザナギが引いたのか、重ねがさね全くわからないのである。

緩やかに登る山道を登りきったところで白山比咩神社本殿が現れる。
今回は一部工事中で視界が悪いのが残念であった。

この様に、日本書紀の伝承から「菊理媛は穢れを祓う神」と信じられており、
中世以来、穢を払う役割を担った被差別部落の先人(穢多)達が祀ったのではないか…
と言う説も甚だ尤もらしいが、真相は謎だ。


本殿

大きな注連縄が掛かっている。
二礼二拍手一礼。参拝の作法に乗っ取り拝礼する。
夏休みとあってか、想像していたより参拝者が多い。
家族連れも多く、この地に於いて如何に白山比咩神社、
及び白山信仰が大切にされているのかが、よく分かる光景であった。


【奥宮】

実は、白山比咩神社には奥宮があるのだが、簡単には参拝できない。
なぜなら、奥宮は標高2702mの白山御前峰山頂に位置するからだ。

白山は奈良時代、泰澄という禅師が開山したと伝えられており、
以来、数々の修験者や民衆が修業の場として、或いは信仰の場として
白山を尊んできた。

本筋としては、白山比咩神社~奥宮と参拝することで、
はじめてご利益があるのかもしれないが、
3000m近くの山を登るのは至難の業である。
白山神社奥宮
(お宮さんcomから引用)

その為だろう。
神社境内の片隅に、白山比咩神社奥宮が設けられている。
ここへ参れば、山頂の奥宮参拝と同じご利益が得られるのだ。



手軽に?奥宮を参拝できるとあって本殿同様人気だった

カナカナカナカナ・・・

ひぐらしが鳴く夏の午後、厳かな気持ちとともに白山比咩神社、
並びに奥宮を参り、帰路についた。

(令和元年8月1日)





2019年8月22日木曜日

職人歌合に見る中世被差別民の姿-1 紺掻

第4番 紺掻 vs 機織
【紺掻(こうかき)】



「職人歌合にみる中世被差別民の姿」と題したシリーズの第一回には、
もしかしたら相応しくないのかもしれませんが、
とにかく歌合の順番通りにやるには、
被差別民に関連しうる職人は避けて通れない訳で・・・


なぜ、相応しくないのかと言いますと、
「紺掻は果たして被差別民だったのだろうか?」
と言う、そもそものコンセプトを揺るがす疑問が出てくるのです。


網野善彦氏はその著書の中で、特殊な能力を持った職人は、
当時から、やはり特別な存在だっただろうと書いておられます。

とは言うものの、機織りに関しては、
私的には被差別民では無かったとの認識でおりますので、
ここでは紺掻に対しての検証になります。

とにかく、このシリーズに関しては、研究者の皆様には大変失礼ではありますが、
これまでの定説にとらわれず、独自解釈でやってみようと言う趣旨ですので、
ご無礼を承知で好き勝手書かせていただこうと思います。

紺掻・・・「こうかき」紺屋とも言われています。
所謂、染物屋さんです。

染物で被差別民と言えば「青屋」が知られています。
青屋は藍染を生業とする人々でしたが、地域によっては差別の対象とされ、
江戸時代には「エタと同等」と言う判例も出て、主に行刑の役を担いました。

元京都国立博物館学芸課長の下坂守氏は「紺屋と青屋は違う」と指摘されています。
紺屋は藍もやるが染物全般。
対して青屋は藍染めの傍ら、エタと共に行刑にあたった。
その道具についても、甕を使うのが紺屋で、桶を使うのが青屋ということですが、
実際にはweb上で藍染屋さんの写真や映像を見る限りでは、
(藍液で染まっているのでわかりにくいが・・・)甕様にも見えます。

Website:「しゃかいか!」より引用

職人歌合が書かれた時代は中世でしたので、
時代に伴って桶から甕へ変化したか、地域的なものなのかもしれません。

若しくは、紺掻が甕を使っている事から見て、
「紺掻が時代の流れとともに青屋へ変化した」とも考えられます。
ここは、更に研究の余地がありそうですが。

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さて、青屋が差別の対象であったのは、それ以外にも理由がありました。
藍というのは、抽出した液体(染料)は限りなく黒に近い緑、
或いは濃紺なのですが、染め終えて空気に当て酸化させると、
お馴染みの鮮やかな藍色に変わります。

科学が・・・いや、そもそも科学という概念自体が無かった時代、
「黒いものが時間を経て鮮やかな藍色に変わる⁉」
庶民にとって青屋の仕事は摩訶不思議に写ったに違いありません。
それだけでは済まずに、西洋の魔女狩りの如く畏怖嫌厭だった事でしょう。

また、染料に繊維をどっぷりと浸ける訳ですから、
腕が青く染まってしまいます。
そのような日常から離れた職人達の姿も、見方によっては
差別の対象になるには十分だったのかもしれません。

勿論、今は藍染の実用性や芸術性も広く認知されているので、
差別の対象にはなり得ないですが。

(何度も掲載してますが)紺掻

さて、歌合せに描かれた紺掻は甕を用いています。
そして甕に貯められた染料は薄い青色。
手に持った布も薄い青色=浅葱色をしています。

幕末に岡山で起こった渋染一揆は、
「衣服は無紋の渋染又は藍染」とした藩令に怒った
部落の先人達=エタが起こした反対一揆なのですが、
部落解放人権研究所 歴史部会学習報告(2008年1月19日)の中で、久保井規夫氏が
渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる』
と指摘した上で、『渋染又は藍染は囚人服の色であった』と記述されています。
その事も、部落民に怒りを覚えさせるに、
十分すぎる理由の一つであった事でしょう。

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先にも書いた通り、これからは私の全くの独自解釈ですが、
歌合わせが描かれた中世に、少なくとも紺掻は被差別民ではなかった。
しかし、時代の流れと共に次第に青屋と同化していき、
やがて賤視される存在になったのではないか・・・
そう考えるのです。

いずれにせよ、一度藍染屋さんにもフィールドワークしてみなければなりません。

【職人歌合に見る中世被差別民の姿-1 紺掻】

2019年6月17日月曜日

職人歌合にみる中世被差別民の姿 序章

【職人歌合(しょくにんうたあわせ)】
職人歌合は、中世・鎌倉時代から室町時代にかけて描かれたもので、
職人の歌と共に、働く職人の姿が描かれた大変貴重な史料。
時代に応じて、いくつかの種類がありますが、
特に有名なのが「七十一番職人歌合」ではないかと思われます。

写真がなかったこの時代、克明に描かれた絵は、
仕事に精出す職人達の姿を生き生きと描写し、かつ
庶民の暮らしさえ連想させます。

中でも特筆すべきことは、職人歌合の中に、
多くの被差別民が描かれていることです。

武家の力を石高で表すとおり、
中世から近世にかけての我が国のスタンダードは、
田畑を耕し農作物を生産する農民達でした。

一方で、モノを作り販売する職人達も無くてはならない存在でしたが、
「農作物を生産する」という基準から外れた人々は、
時に差別の対象となりました。

もちろん全ての職人が被差別民というわけではありませんが、
ケガレ意識がすでに根付いている中世において、
穢れや呪縛などに関わる職人・仕事は賤視されていました。
イタカとエタ
傘にほっかむりは非人の装束

ここでは、江戸時代に模写された国立博物館蔵の
「七十一番職人歌合」デジタルアーカイブを引用し、
独自の解釈を加え、紹介していこうという趣旨です。

*独自の解釈
網野善彦先生など専門の研究者の方も、
多くの本や論文を書かれていることですが、
それらにこだわらず、新説でやってみたいとかねがね思っていました。
これから少しずつではありますが、
「(新説)職人歌合に見る中世被差別民の姿」をお届けしていく所存です。


2019年4月28日日曜日

部落の食文化-6:油かす(あぶらかす)その3【北出昭氏のお話編】

前回の投稿では「油かすこぼれ話」とでも申しましょうか…
当方の食肉顧問からの聞き取りとして、
油かすに関するエピソードをいくつかご紹介いたしました。

今日は、かの名作「ある精肉店のはなし」にご出演の
北出昭氏とお会いした時に聞いた、油かす話をしてみたいと思います。
当ブログの読者諸氏はご存知かと思われますが、改めて。
映画「ある精肉店のはなし」Websiteはコチラから。

ポスターの左から2番めの赤い服のかたが昭さんです。
ちなみに、昭さんの左隣のかたはお兄様の新司さん。
女性は、お姉様と新司さんの奥さんと、「肉の北出」の店名通り、
ご家族で営業されています。

現在は北出精肉店。敷地内の牛舎跡に「太鼓屋 嶋村」を構えておられる。


お仕事で忙しい中、お時間を取っていただき、
昭さんの太鼓工房「太鼓屋 嶋村」にてお話を伺いましたが、
すっかり話し込んでしまい、気がつけば2時間半(笑)
話術が巧みな昭さんの話に、ついつい時間を忘れてしましました。
所狭しと皮や胴が積まれた明氏の工房「太鼓屋 嶋村」
その時の模様は又、いずれ。
今日は、その中でも油かすについての話を書いてみたいと思います。

元々「油かす」は、油を取ったあとの副産物。
部落の人々は、日常の食事の中でそれを上手く利用してきました。
それが今や、B級グルメブームやなんやかんやで、
ずいぶんメジャーな食材になりつつあります。
お好み焼き・焼きそば・かすうどん、水菜と焚いてハリハリ風に。
とにかく噛めば噛むほど味が出て・・・
あ~ぁ、食べたくなってしまったので、この辺で昭さんのお話を。

「牛の油は昔は一缶一万円ぐらいで買い取ってくれた、それが今はタダ。
逆にお金取られんだけマシや(笑)」
とは、昭さんのお話。

牛の腸から取った油は、主に石鹸の材料になったそうですが、
ある頃を境に、外国から安価なパーム油がその座を奪ったそう。
そして、油の買取価格もどんどん下落し、
今は無料引き取りになってしまったのです。

「石鹸以外の使い道はあるんですか?」
「線屋が使ってましたな。線(ワイヤー)に塗って錆止めやね。
それから食用油」

北出さんのお店でも、以前は油を取るための鍋があったそうですが、
そんな事情で、今では取るのを止めてしまったそうです。
代わりの需要としては食用。
いわゆるホルモンですね。
今ではそちらの方が主流なのです。

「油もそやけど、骨も膠や骨粉にして肥料になったんです」

牛って"鳴き声以外は捨てるところが無い”って言いますよね。
実は、食肉・皮(革)はもちろん、骨や血までも有効に使っていたのです。

今回、昭さんにお会いし、お話を伺っている中で、
度々「いのちをいただく」「いのちの大切さ」を感じ取ることができました。
牛の飼育から屠畜までを一貫して担ってこられた昭さんだからこそ
語れる言葉であり、聞いている私も、心から納得する事が出来たのでした。

2019.1.18 貝塚市

2019年2月7日木曜日

部落の食文化-5:油かす(あぶらかす)-その2【顧問からの聞取り編】

以前、『部落の食文化-2:油かす(&写真集「屠場」の紹介)』と題し、
「油かす」の紹介を行いました。

まず、油かす(あぶらかす)の復習から。

油かすは、牛馬の腸などの「放るもん(ホルモン)」を
じっくり炒り出して油を取った残りカス。
残りカスと言うからには、元々は「油」を取った後の副産物なんですが、
被差別部落の方々は上手に利用し、料理に生かしてきました。

しばしば、油かすは「被差別部落のソウルフード」なんて言われています。
生産地区が食肉産業が盛んな部落に限られるため、
該当部落はもちろん、近郊部落では馴染みがある食材なのでしょうが、
全国津々浦々の部落ではどうなんでしょうね?

例えば、近年のB級グルメブームなんかで、
油かすやさいぼしなど、被差別部落の伝統食材も一躍フューチャーされ、
今や全国区のメジャー食材の一つに昇格した感がありますし、
油かすを使った焼きそばとしてB-1グランプリ殿堂入りを
果たしている「富士宮やきそば」はあまりにも有名ですよね。

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さてさて、本日はですが、、、
前回の「油かす」特集から、新たに学んだことを書いてみようと思います。

羽曳野市のM部落(食肉産業が非常に盛んな被差別部落)で生まれ育ち、
精肉店を営んでおられる、当「被差別部落の暮らし」の食肉担当顧問から、
非常に興味深いお話を伺いました。

顧問の家の近くに「油かす」製造工場があるそうなのですが、
昨年末、顧問の家の前を含む近辺一帯で、
「下水が溢れ出す」という出来事がありました。

調べてみると、油かす工場から出た廃水に含まれている脂分が
長年に渡り下水管に付着。
結果、下水が詰まり溢れ出したということです。
動物性油脂っていうのは冷えると固まりますからね。

余談として。。。
M地区を流れるH川の古い航空写真が、ネット上でタマに話題になります。
「赤い川」「血の川」って。

つまり、地区の屠場から屠畜の際に出る血液を含む汚水が
直接、川に流されており、川が赤く染まっているという事なのです。

以前、この辺りの事も顧問に聞いてみたのですが、
「事実」ということでした。

顧問が子供の頃には、屠場の川側に廃液を貯めるプールがあり、
そこから川に直接排水されていたそうです。

いや、例え事実であったとしても誤解をしないでください。
これは、「部落だから」とか「屠場だから」とかいうことではなく、
当時の時代背景・・・どの企業も衛生・環境管理に無頓着な時代であったのです。
それが、公害病や環境破壊を生むことになったのですが。
いずれにしても、企業の環境に対する意識が低い時代でもありました。
今は勿論、厳格な廃水管理がなされています。

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油かすは「ホルモン(内臓)を炒り出して油を抽出した残りカス」ということは、
先程述べたとおりですが、羽曳野の顧問からは、もう一つ興味深い話を聞きました。

『昔、隣のおばさんがバケツに入れたお湯を川に捨てているのを見た』
つまり、もう一つの「油かす」作り方ではないかと・・・

要約すれば、バケツに入れた内臓に熱湯を掛け、
浮き出した油を川に捨てて「油かす」を作っていたという事なのです。
ただ、これには顧問も確証が持てず、
”恐らくそうに違いない”と推測の範囲の話なのですが、
実は、なまじ推測とは言い切れないのではないかと、
私も思う次第であります。

その根拠として・・・

部落の食文化-3 フク・フクゼン・フクカスで紹介しましたフクなんですね。
フクというのは、上記のリンクをクリックしていただくと詳しく書いておりますが、
牛の肺のことで、地方名としてフクゼン・フクカス・フワ等と呼ばれています。

部落の「天ぷら」と言えば、エビやかぼちゃではなく、
フクやミノなどのホルモンを用いた天ぷらが部落流。
(もちろん、エビもイカもかぼちゃも食べます)

私も好きで、素材を買ってきて自宅でも調理しますが、
やはり、専門である部落の肉屋さんで売っている天ぷらが美味しいですね。

上の写真は、奈良県の食肉産業が盛んなT部落で購入したフクですが、
表記を見てもらうと分かる通り「油かす(店主はフクカスと言っていました)」
と記載されています。
しかし、商品自体は炒ってあるのではなくてボイル。

さて、ここで顧問の証言とフクカスが繋がった訳です。
ここからは、私の推測ですが・・・

【おばさんは】
1、フクを作っていた。
2、やはり、腸を用いた従来の油かすのボイルタイプを作っていた。
の2点でほぼ間違いないと思われるのでしょうが、いかがでしょうね?

いずれにしても、部落には、我々が持ち得る食肉文化の何倍もの
知識・技術・伝統が蓄積されており、
非常に素晴らしい食文化の一つであると言えます。

思えば、明治以前は穢れに対する忌避意識があり、
食肉もおおっぴらには出来ず(実際は隠れて食べていましたが)
皮革業に携わる被差別部落の先人達をエタ・カワタ等と賤視してきました。

ところがどうでしょう?
今私達は、ほぼ毎日と言っていいほど何らかの肉を食べ、
ホルモンに舌鼓を打ちます。
しかも、靴や鞄・衣服など多くの革製品に身を包みながら。

こうなると、
穢れって一体なんなんでしょうね?
差別って一体何なのでしょうか?

被差別部落問題に限らず、全く意味も根拠もない差別意識によって、
今、こうしている瞬間にも多くの差別が生まれています。

あの人よりいい会社に努めている。
あの人よりお金持ちだ。
あの人より学歴が良い。

他人と比べ、他人の劣っているところを見つけるのが差別の根源であるならば、
「差別」は人が元々持っている性かもしれません。
しかし、だからと言って、なくす努力を怠ってはいけません。
だから、私は今日もこうして書いています。
差別が無くなる日まで。

少し説教臭くなってきましたので、今日はここまでにしたいと思います。

次回は、部落の食文化-6:油かす(あぶらかす)その3【北出昭氏のお話編】
と題し、映画「ある精肉店のはなし」ご出演の北出昭氏に
教えていただいた油かす話をお届けする予定です。
どうぞ、お楽しみに!!

2018年12月26日水曜日

最近の部落事情

確か11月の終わりだっただろう。
アベマTVでシェリーさんが司会の「Wの悲喜劇」で、
部落特集が放送された。

ご覧になった方も多いと思われるが、
当方も、初めてその番組を見てみた。

その放送が好評だったのか、
ここのところ、立て続けにヤフー・ニュースを中心にで
部落についての特集が組まれている。

壁に「部落の学校消えろ」落書き、口伝え、レッテル…出身者が語る被差別部落の姿

12/22(土) 9:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181222-00010004-abema-soci


「家系図や写真まで…」ネットの部落差別が消えない理由とは? YouTubeの“部落探訪”に「悪意がすごい」の声

12/24(月) 9:01配信

もし結婚相手が“部落出身”だったら? 「子どもがいじめに遭う」の声に、SHELLY「いじめる側を怒らないと」



該当番組は既に視聴期間が過ぎているようで、
現在は視聴できない状態になっているが、
記事は読めますので、ぜひご一読を。

2018年12月24日月曜日

スギムラシンジ ツイッターの紹介

「被差別部落の暮らし」をご覧頂きありがとうございます。
最近、記事更新が滞りがちになっていますが、
日々のつぶやきはツイッターにて行っております。
よろしければ、是非フォローお願いします。



2018年9月26日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その10(完)/見て記行って記被差別歩記-5

この連載を始めてから1年以上が経った。
10回という、これまでにない長編に加え、
私の遅筆も重なり、この様な期間を要してしまった。
しかし、「江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村」も、
遂に今回が完結となる。
次作からは、もう少し簡潔にまとめようと思う。

さて、前回は、牢屋の所在地を知ることが出来たが、
残念ながら、既に取り壊されてしまっていた所までお話した。
私も現物を見てみたかったのは山々だが、無いものは仕方がないので、
此処からは、前出の資料を元に、牢屋の解説を行いたい。

尚、再度お断りしておくが、地区特定を防ぐため
部落名は「川向部落(仮名)」とさせて頂く事をご了承願う。

まずは、下の写真をご覧頂きたい。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」表紙より
この写真は、既出の資料である『京北町教育委員会編:「川向区の歴史」』の
表紙に使われた”江戸時代の牢屋”の全景である。そして、下の写真が、
私が撮影した現在の牢屋跡である。
背後の蔵は現在も残っており、車が停まっている場所に、かつて牢屋があった。
発見当時、牢屋は農機具収納庫として利用されていた。

被差別部落に蔵があることを見てもわかるように、
村年寄りとして、ある程度の財を築いていたことが伺い知れる。
蔵には、捕物に使われたであろう武具が収められていた事が、
報告書には記載されている。
映画:人間みな兄弟より
警刑吏役を担った被差別部落の捕物武具

牢屋屋の実寸は4420×3760。
場所柄だろうか?。
時代劇などに見る数部屋ある大き牢屋と比べると、
かなり小ぢんまりした印象がある。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より

牢屋内部は2つに仕切られており、その一つは一般牢。
そしてもう一つが揚り屋であった。
揚り屋は、武士・僧侶・公家など身分が高い罪人を収容した牢で、
当時の罪人には、貴貧の差がつけられていたことがよく分かる。
京北町教育委員会編:「川向区の歴史」より
寸法は各部屋とも1880×1970であるから、
人ひとりがなんとか寝れる位のサイズである。
「入牢は長むしいやいや」と書かれた墨書きを見る限り、
このサイズの牢で、長期の入牢はかなり辛いものがあったろうが、
そこは罪人。
それだけの罪を起こしての入牢なのだから致し方あるまい。
以上が牢屋の概要である。

被差別部落の先人たちは、
警刑吏役と言う今で云う警察業務を担ってきた。
又、池番・山番・峠の番などをして、村や都市の警護にあたってきた。
これは治安維持という点で素晴らしい働きをしていたのだが、
村民からは「幕府の犬」として「番太」などと呼ばれ、
差別の対象にされてきた。

当時の穢多たちは、お上の命に忠実に従ったまでで、
もちろん、謂れなき差別であることには間違いない。
(尤も、お上としては、農民と穢多を分断する為に
巧みに仕組んだのは言うまでも無いが・・・)

被差別部落の先人たちは、言わば幕府の、
いや、この国の「役職的殉教者」なのである。

【見て記行って記被差別歩記-5】
江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村(完)

2018年8月12日日曜日

お盆です・被差別部落の墓事情

世間はお盆休み。
私は、仕事のために大型連休には縁がないのですが、
皆様はいかがお過ごしでしょうか?
海外・国内旅行?帰省?それとも家でゆっくりって方も。
お盆に過ごし方は様々ですが、お墓参りに行かれる事も
多いと思います。
今日は、被差別部落の墓事情を書いてみます。

差別が厳しかった時代、部落民は
「来世こそは差別のない世の中に」との思いから信仰心が厚い方が多く、
『家は貧乏だけど寺は立派にしたい」と、
それぞれが苦しい家計からお金を出し合い、
信仰に心の拠り所を求めてきました。

しかし、せっかく建てた寺も穢多寺、僧侶は穢僧と呼ばれ、
宗教界でも差別される存在でした。
しかも、それほどまでに信仰しても、
亡くなった時には「差別戒名」がつけられ、
死して尚、差別される事となるのでした。

近年、各宗派は、これまでの宗教界の差別を改め、
今は部落差別解消に努めています。

さて、本日の本題である墓事情です。

◎都市型部落
都市型部落の特徴として、土地が非常に狭いことが挙げられます。
そのため、改良住宅もアパート・マンション型の縦に長い形になります。
当然、墓地にも十分な土地が確保できないことも多く、
寺の中に納骨堂が設けられていることがあります。

妻の祖父はこの納骨堂に入っております。
納骨堂は寺の地下にあり、コインロッカーのような形態をしており、
拝む時に扉を開けて礼拝しますが、寺の地下なので、
いつでも自由に墓参という訳には行きません。
日時が決められており、その時間内で礼拝いたします。
改良住宅もアパート型であれば、納骨堂も又、
アパート型と言えるかもしません。

又、先述した通り土地が不足しているために、
十分な墓地が確保できず、他所・・・地区外に墓所を求める
ケースもあります。
被差別部落と六曜~叔父の死から見る~
で紹介した義母の姉の家は、一般地区の寺内に墓を持っています。

◎郊外及び農漁山村型
比較的土地に余裕がある郊外・農漁山村は、
部落内に大きな墓所を持っていることが多く、
寺とは他に、大きなお堂や葬祭会館を併設しているケースもあります。
多宝塔のようなオブジェが設けられている事も。

一般地区の墓所と比べて特徴的なのが墓所管理。
被差別部落の内、同和地区指定されている部落では、
墓所は市町村など、公的に管理されている事が多いです。

これは、同和地区指定された後、地区改良時に墓所を含めた土地を市町村が買い上げ、
改良事業を行った為で、そのような土地に、
改良住宅・隣保館等が設けられました。

また、郊外・農漁山村型部落墓所の特徴として、
三昧(=火葬場)を併設しているケースもあります。
つまり、部落の墓所で火葬し納骨するわけです。
当方の食肉担当顧問をしていただいているN氏の住まいである
大阪府のある部落にも三昧施設があり、
お話を聞いたことがあります。
それによると、三昧は部落の者だけが使用し、
今でも使われているとのことでした。

三昧施設がどのような理由で設置されたかはわからないそうですが、
もしかしたら、部落差別と関係があったのかもしれません。

ここに上げた例は、わたしが知る限られた地区・家庭での話です。
きっと、全国津々浦々の部落には、もっと多様な墓所があることでしょう。
「こんな墓もあるよ!」って方おられましたら、
コメント欄にて教えていただけたら幸いです!
以上、簡単ですが、被差別部落の墓所事情でした。



2018年4月19日木曜日

被差別部落と六曜~叔父の死から見る~

4月8日の早朝、叔父が亡くなりました。
義母の姉の旦那さんなので、私と妻双方、
血の繋がりがない三等身姻族の叔父です。

亡くなられる数週間前に、何度か「危ない」と言う話を
妻から聞いていましたが、前日の土曜日の晩、
仕事帰りの妻からの電話で「いよいよ」と言う連絡を受けました。
死因は肺炎からの多臓器不全。
68歳という若さでした。

義母と同じ部落内に伯父伯母は住んでいるので、
毎年、正月には挨拶に伺っていましたが、
今年は妻からキツく「行ったらアカン!!」と
釘を差されて行くことが出来ませんでした。

なんでも、酔っ払った私は相当騒ぐらしく、
迷惑がかかるからだとか。
酔っていなくても普段から騒がしい私としては、
そんなに自覚がないのですが、酔うと一層拍車がかかるそうです。

「正月ぐらいはいいやないか!!」

そんなこんなで、今年の正月には、
まだ元気だった叔父の元へ、挨拶に行けなかったことが悔やまれます。

さて、我が国には、冠婚葬祭に六曜を重んじる風習があります。
六曜・・・つまり大安・仏滅などですね。

叔父が亡くなったのが4月8日の日曜日。
赤口でした。
法律では、失くなってから24時間は火葬できないので、
葬儀としては、9日の月曜日以降ということになります。

ここで、周辺の六曜を記しておきます。
4月8日 赤口 何事も良くない日。正午から前後1時間は吉とされる。
  9日 先勝 午前は吉。午後からは凶。
 10日 友引 友を引くとして、葬儀は行われない。
 11日 先負 午前は凶。午後は吉。
 12日 仏滅 一日通して凶の日。仏事には向く日。
 13日 大安 何事にもいいが、仏事は行われない。

以上のような暦から、10日の友引を避け、
11日の先負に葬儀と言う日程で行われました。
つまり、日本古来の風習である六曜を重んじた日程となったのです。

ところが、一方で、六曜は差別につながるとして、
廃止する動きも見られます。

部落解放同盟は、かねてより「六曜は迷信で、差別につながる悪習」として、
六曜を排除する方針を打ち出していますし、調べてみると、
明治政府も六曜を禁止する方針だったとか。

古来から我が国に伝わる風習がナゼ差別につながるのか?
それには、こんな訳があります。

「六曜は、ハレやケを暦に記したもの。
ケガレを記すことが差別につながる。」

「鎌倉辺りに中国から伝来した六曜が現在のカタチに落ち着いたのは、
江戸時代になってから。比較的歴史が浅く、迷信である。」
と言うのが主な理由のようです。

かつては、役所が配布する手帳や暦に六曜が記載されていたのですが、
部落解放同盟の糾弾によって、今ではどの自治体も、
配布物には六曜の記載はありません。
この様な経緯から、近年では、六曜を記載していないカレンダーも
増えてきました。

「それじゃあ、部落の人は全員、六曜を否定するのか?」

答えは「否」です。

叔父の葬儀の例を見てもわかるように、
部落民だから六曜を否定すると言うことは決してありませんし、
むしろ、六曜を重んじています。

一般的に、部落解放同盟の主義主張が部落民の総意と
思われているフシもありますが、決してそうではありません。
確かに。部落解放同盟は、運動団体としては最大規模を誇っていますが、
解放運動全盛で『猫も杓子も解放同盟』と言う時代から見ると、
現在は部落内でもマイノリティです。

そのような訳で、コアな解放同盟員は六曜廃止主義でしょうが、
あまり運動に積極的じゃない解放同盟員の中には、
“迷信”とされている、六曜を重んじる方々は多いんじゃないかと思われます。

こう書くと、「運動に積極的じゃない同盟員が居るのか?」
ということになってしまいますが、事実、それは有るでしょうね。

私の義母は、遠縁が支部長をやっていたため、
付き合い的に入っていましたし、周りがやっていたから
「なんとなく」ってのはあったと思います。

また、『過密で、新しい住居が必要になった際に、
同盟員には優先で部屋をあてがわれる』などのメリットもありました。

特に近畿地方では、過去に同和枠として公務員の優遇採用がありましたが、
その絶対条件として、同盟員や旧全解連などの運動団体に
所属していることが挙げられます。

又、これは同和利権に当たるので、批判に値する事例ですが、
税金の優遇措置を受けるために同盟員になるケースも有りました。

あの手この手で、同盟員の獲得拡大に努めいて来た解放同盟ですが、
このように書くと、まるで『悪の団体』であるかのようです。

しかし、解放同盟を始めとする各運動団体が、
差別の解消に邁進し、部落改善に大きな働きをしてきたことは事実ですし、
多いに評価されるべきだと考えます。

ただ、再度言いますが、”利権”に関しては、これを完全否定するもので、
部落解放運動に於ける汚点で有ることに間違いはありません。

明治4年の解放令が出てから、約150年と言う歳月が流れました。
しかし、ナゼ今も差別が残るのか?
水平社や部落解放同盟と言った運動団体がナゼ必要であったのか?
また、今日のテーマである『被差別部落と六曜』について、
ナゼ書く必要があったのか?

叔父の死~葬儀を見て、
今一度、考えさせられる今回の出来事でした。

2018年4月1日日曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その9/見て記行って記被差別歩記-5

これは、どこの部落でもそうなのだが、
近年、少子高齢化の波は部落にも例外なく押し寄せ、
部落内の高齢化及び、地区内の空洞化が目立っている。

ここ川向(地区特定につながるので仮名とさせて頂く)もご多分に漏れず、
活動時間帯の朝だと言うのに、とにかく人がいない。
もともと、戸数20個ほどの小さな部落であるが、
実際に、現在住んでおられる方はもっと少ないに違いない。

それが証拠に地区内を回っている時、
幾つかの家に「販売中」の看板が掲げられているのを目にした。
その何れもが、玄関に草が生い茂り、窓はホコリで曇っている。
長く買い手がつかないのであろう。

理由は、此処が「部落」というだけでは恐らくない。
京都市と言えども、市内中心部から遠く離れた辺境の地で、交通の便が著しく悪く、
おまけに生活の基盤となる食料品や日用品を買いに行くにも一苦労となれば、
部落じゃなくても「住みたい」人は極端に少なくなる。
それでも、この地に生まれ、今も生活している方々にとっては“住めば都”で、
先祖代々受け継いだ大切な土地であることに違いない。

さて、肝心の江戸時代の牢屋であるが、
わずか20戸ほどの小さな部落とは言っても、
不案内な場所であるが故、どこにあるのか探しあぐねていたところ、
教育集会所の近くで、一人の女性に詳しく話を聞くことが出来た。

年の頃、60代後半とおぼしき初老の御婦人は、
田舎と言っても流石に京都。
どこか上品で、受け答えもハキハキとされており、
大変貴重なお話を伺うことが出来た。

「この辺りに、江戸時代の牢屋があると言う話ですが・・・」
婦人は一寸考える素振りを見せた。
(後に、振り返って考えてみると、婦人の間は、取りも直さず、
此処を訪れる人がほとんどいない事を物語っていたのだった)

「あぁ、牢屋ね。そこの家の奥に・・・」と、婦人は向かいの旧家を指さした。
なんと、丁度、家の前まで来ていたようだが、牢屋は奥に有る土蔵に併設していた為、
表の路地からは見えなかったのである。

地区で一番大きな旧H家住宅(現在は持ち主が変わっている)
かつては、枝村の庄屋を務め、寺の代わりに村人の集会所となっていた。

スギムラ「牢屋の見学は出来るのでしょうか?」
婦人「今は、持ち主が変わられてね・・・」

何でも、この牢屋が発見されてから暫くは、見学者が怒涛の如く訪れ、
居住者はかなり辟易されていたとのこと。

当時を知る事情通に後日伺った所、部落関係者・学者・教育関係者などが、
連日、観光バスで押し寄せたらしい。
「・・・そんな訳で、牢屋は何年か前に取り壊されたんですよ」
思いがけない婦人の答えは、牢屋目当てで訪れた私のワクワクを
瞬時にかき消す勢いであったが、当の家主の気持ちを考えれば、
十分に納得出来る、いや同情さえしてしまう具合であるから致し方ない。

きっと、牢屋が発見されてからは、生活も一変したことだろう。
見ず知らずの人が、連日大挙をなして、山村の旧家へ押し寄せるわけだから。
それともう一つ。
これは、後で知ったことだが、地区の中でも「牢屋が有るから差別が残る」
と言う意見があり、取り壊しを所望する住民もおられたらしい。
或いは、この様な事も相まって、取り壊しに至ったのかも知れない。

=======================

先に「発見」と書いたが、ここで、この建物が、
どうしてにわかに注目を集めることになったのか少し触れておこう。

調べていくと、この建物が「牢屋らしい」と言う話が出たのが、
どうも、識字学級内でのことのようだ。
恐らく、字が読めるようになった部落の先人諸氏が、
牢屋(当時は農機具の倉庫として使われていたらしい)に
字が書いてあることを発見し、話題になったのであろう。

丸岡忠雄氏の詩「ふるさと」を版画にした識字学級諸氏の作品。
子供の頃に学校に通えなかった部落の方々は、
無くした時間を取り戻すため、ご高齢になってから識字学級へ通った。
では、何と書いてあったのか?
下の冊子「川向(仮名)の歴史」表紙写真の右側に注目いただきたい。


牢屋内の柱の一本に『入牢も長むしハいやいや』と墨書きされていたのだ。
(スギムラ注:文中のハは、漢数字の八ではなくカタカナのハ)
識字学級内でこれが、牢屋ではないかと話題になり、
直ちに、地元の教育委員会・部落問題研究所が中心となって、
本格的な調査がなされた。平成三年のことだ。

=====================

一端、牢屋の話は置いておいて、婦人に伺ったお話を紹介しよう。
川向には、僅かばかりの改良住宅がある。
戸数6戸の二戸一住宅だ。

二戸一の改良住宅。総数6戸

家の前には、八重桜と、この地方名産の園芸用の杉「台杉」が植えられている。
地区一の高台に位置し、とにかく静かで見晴らしが良い反面、
徒歩や自転車では上りが辛く、安全対策派がなされているとは言え、
背後の山からは土石流の危険もないとは言えない。
部落にありがちな立地である。
今現在も入居されている状態では有るが、
御婦人の話では,今後の入居者の募集は行っていないとのこと。
耐用年数の関係で、入居者がなくなり次第、解体の方針であるという。

又、このような話も有る。
「差別の話はありますか?」との問に、
「最近はないけど・・・」と言いつつ、
差別が厳しかった頃の話を聞かせてくださった。

「昔は、川の向こう側の本村の田んぼへ手伝いに行っていたの。
休憩の時にお茶を出してくれるけど、茶碗は欠けてるし、
明らかに洗ってないのね。それでも文句言わずに飲んだって話を聞いたわ」

「もしよかったら、昼から教育集会所で編み物教室があるのね。
その時に姉が来るから、差別の話は、姉の方が詳しいので聞いてみたら」
と、お話をいただいたが、残念ながら時間の関係でお伺いは出来なかった。
代わりに、前出「川向区の歴史」に差別の聞き取りが有るので書き出してみよう。

◎『Kさんのお爺さんは医者だったが、患者の家に上げてもらえず、
玄関先で患者を診た』

◎『患者に触ることが許されず、杖で脈を測った』

◎『雨宿りをしていたら、(部落のモンは)あっち行けと言われた』

◎全国的に、祭りや神事に参加できなかった事例は多々あるが、
此処でも例外なく神社の氏子として長く認められなかった。
その理由が『部落のモンは汚い』と。
ただ、大正13年には氏子として認められたと言うから、
同様の差別事象よりは、比較的早く神事に参加することが出来てはいるが、
本来、地域住民なら、古の頃から平等に氏子になっていなければならないわけで、
差別によって排除されたこと自体が問題なのである。

【続く】

2018年2月8日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その8/見て記行って記被差別歩記-5

八千代橋が流失した翌年の昭和35年。
この部落では、一つの大きな事業の誘致活動をきっかけに、
またもや差別と言う辛酸を嘗めることになってしまう。
それが「京都府職員住宅誘致運動」である。
概要は以下の通りだ。

京都府は、府職員住宅建設を計画。
京北町から要請を受けた周山大区は、
川向部落を含む近隣区での建設地の選定に入った。
その要請にいち早く答えたのが、川向部落の地主H氏だった。
H氏は「川向の発展の為になるのであれば」と、所有地を無償提供
することを決意、村をあげて職員住宅の誘致に乗り出した。

府の担当者は「住宅地が無償で手に入るなら」と言うことで、
川向への建設を進めようとするが、当の府職員連がこれに反対することになる。
「実際に入居するのは自分達なのに・・・」と不満を口にする職員連は、
「夜道に街灯がない」「タバコを買うにも一苦労」「近くの駅に急行が停まらない」
などと難クセをつけて建設を阻もうとする。

一見もっともらしいとも思えるが、この難クセは全て差別からくるもので、
職員連は、別地に職員住宅を建設するよう要望を出している。
府の担当者・入居予定の職員、そして川向の役員の三つ巴で協議は難航、
地域発展のためにと、無償で土地を提供しようとしたH氏の気持ちを、
公務員でさえ“差別”で踏み躙る。これが、当時の部落差別の実情であった。
川向地区の端に位置する府職員住宅と旧京北町庁舎
(鉄筋造りの大きな建物)
前出の資料「川向区の歴史」では、当時のやり取りを記録した議事録の掲載はあるが、
残念ながら、住宅が誘致出来たか否かは記載されていなかった。
しかし、現地のフィールドワークから、職員住宅と共に旧京北町庁舎を確認。
何れも現在はその役目を終えており、取り壊しを待つかの如く辺りには
フェンスが張り巡らされてはいたが、この様子から察すると誘致には
成功したようである。

~~~~~~~~~

多くの部落では、住民たちが金を出し合って寺を作るのが慣例であった。
その理由はこの場では書かないが、以前にこのテーマについて書いているので、
詳しくは、そちらを参照願いたい
burakunokurasi.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
寺は、部落民にとっても心の拠り所であったと同時に、
寄り合いを行う為の重要な場所であったし、時には、
抗議や闘争の決起集会の現場でもあった。

川向部落には寺がなかった関係で、住民たちが集まる場所がなかった。
(その後の調査で、川向の村年寄り宅の仏間が広く、
寺の役割を担っていたのでは?と言う報告がなされている)

寺がなく、住民が集う場が十分に確保されていなかったこの部落にも、
ようやく公的な公民館が設置されたのが、京都府職員住宅誘致運動から
2年後の昭和37年のことだ。

昭和40年同和対策審議会答申の政府提出、
昭和44年同和対策事業特別措置法施行・・・
国が、ようやく重い腰を上げ、本格的に部落改善の狼煙を上げる様子を、
この公民館は見守ってきたのだ。
住民たちが集い、議論し、ときに戦いの場として使われてきたであろうこの場も、
昭和53年に同和対策事業にて、教育集会所が設置されるまで使用された。
隣保館の役割を果たす川向地区教育集会所
~~~~~~~~~~~~

川向部落の解放運動は、かなりのスローペースであった。
地区世帯が少なかったせいか、はたまた、同和事業を受け入れない
方向に向かおうとしていたのか?
同対法施行から16年も経った昭和60年、
ようやく川向にも部落解放同盟の支部が結成された。

結成の経緯について詳しい内容は分からないが、支部結成の一年前、
昭和59年に「京北町差別言動事件起こる」の記述が見られる。

資料から読み取ることが出来る範囲での推測に過ぎぬが、
恐らく、川向としての意向は、同和対策事業尾を受け入れない・・・
つまり、未指定地区として存続していく道を歩もうとしていたのではあるまいか?

しかし、件の差別事件を契機に、解放同盟の支部が結成され、
部落として、差別と戦う道を選んだのではないだろうか。
(今回の取材では、江戸時代の牢屋がテーマであるから、
このあたりの事には触れていなかった次第。
何れ折を見て、解放同盟結成の経緯も取材したい)

同盟が結成された後は、地区内の整備が順次進められていき、
現在に至る。
その後、大きく変わったことと言えば、
このテーマの冒頭に書いた通り、
平成の大合併で、この部落が京都市に組み込まれたことだろう。
川向が属する右京区は、新たに同和地区を持つことになったのだ。

簡単ではあるが、以上が川向の歴史である。
次回は、いよいよ本題の『江戸時代の牢屋』の全貌に迫る。

【続く】    

★お知らせ★

★お知らせ★

初めに、長らく更新をしなかったこと、お詫び申し上げます。
以前もお知らせしましたが、此処で改めて経緯を報告いたします。

12月9日、午前3時。
救急病院からの電話で、私は目を覚ましました。
「お父さんが救急車で運ばれ重篤な状態です。すぐに来ていただけますか」
私は、電話口の医師に「それは、危ないと言うことですか?」と聞き返しましたが、
「意識レベルが低い状態ですので・・・取り敢えず、来ていただいたら説明します」
と言う返事。お酒を飲んでいたので妻を起こし、
寝起きの悪い子には、「じいちゃんのお別れに行こ」と、
着替えさせて病院に向かいました。

途中、病院にいる母に電話するも、
「待っているだけで、病状の説明は受けてないのでわからん」との返事。
20分ほどで病院に着き、待合で一時間ほど待ったでしょうか。
夜の救急病院には、我々以外に人はなく静かでしたが、
母親が一人、しきりに今日の出来事を説明していました。

ようやく医師に入室を認められ、救急処置室へ入ったのですが、
多くの管に繋がれた父親は、ストレッチャーの上で目を見開き、
瞬き一つもせずに、ずっと暴れていました。
所謂、意識障害、せん妄と言うやつでしょう。

担当した救急医から大まかな状況が説明され始めました。
PCの画面には、頭部の画像が映し出されていました。

医師からは、大きな脳腫瘍が見つかったこと、
そして、重度の感染症にかかっているので非常に危険なことが告げられました。

腫瘍については、検査をしなければわからないのですが、
縦5cm横6cmと言う巨大なもので、脳幹や血管をガッツリ覆っているため、
手術は不可能。悪性(ガン)であれば尚の事、良性であってもこの場合は、
悪性として診断が下ると言う旨の説明でした。

そして、「今は感染症のほうが重症で、正直いつ亡くなってもおかしくない。
むしろ、なくなる確率のほうが大きいので、
会わせたい方がいる場合は、今のうちに会わせてあげてください」と。

取り敢えず、病室に搬送され、改めて説明室で担当医になる脳外科医より説明。
腫瘍が大きくなり、頭蓋底骨を破壊しているために、
頭蓋内戸の隙間が何処かに出来て、菌が侵入して髄膜炎を起こした
可能性を説明されました。

一通りの説明を終え、最後に医師から「延命」について選択を迫られましたが、
救命はするが延命はしない事を決め、説明室を後にしました。
病院の夜は、暖房が非常に効き、12月と言うのにかなり暑く感じ、
説明室を出る頃には喉がカラカラ。
ミーティングルームの自販機で一息つき、取り敢えず一旦帰ることにしました。
自宅に着いたら午前6時半。
3時間でしたが、色々なことが怒涛のように起こり、
あっという間でした。

寝ている暇はなく、そのまま仕事に出ることになるのですが、
その間、ネットで葬儀の情報を仕入れていました。
正直、この時は父親は長くないという思いでしたし、
それなりの気持ちの整理もできていました。

その日の夕方、抗生物質の効果が現れたのか、
父親の意識が戻り、少しの会話が出来ました。
私は仕事終了後の午後9時半頃に病院に向かったのですが、
個室でしたので、気兼ねなく見舞うことが出来ました。
この日は、福井から出てきた妹が病室に泊まり込んでいましたが、
「老人(76歳)の様態は急変しやすいから、ある程度の覚悟はしといてくれ、
万が一、感染症が治っても腫瘍の治療は難しいから」
と言い、病院を後にしました。

月曜日、昼過ぎでしたが、病院から電話が。
案の定、様態が急変したとのこと。
これから、二週間ほど父親は意識が殆どない状態で過ごすことになるのですが、
途中、水曜日の夕方見舞った時には、意識がない上に口での呼吸でかなり早く、
看護師さんに聞いても、「いよいよかもしれません、でも最後まで頑張ります」と。

その日の夜中2時に、又病院から電話が。
実は、これまでに、「死の直前行動」とか、「余命一週間前の状態」などの、
色々なサイトを見ており、合致する点が多かったので正直、
「遂に来たな」問感じでした。

この日も、妻子を起こし、実家の母親を拾って病院へ向かいました。
病院に着き、ナースステーションへ行くと、
ICUに入っているので、待合で待つようにとの事でした。
しばらく待っていると、看護師さんが呼びに来ましたが、
子供達の入室は出来ないということなので、
仕方なく、待合で待たしておくことにして、
我々は、ICUへと入りました。

呼吸器が挿管された父親を前に、医師から説明があった説明の内容は、
次のとおりでした。

「腫瘍の生検をする為に、前日に鼻から採った部分の血が止まらず喉に溜まり、
窒息を起こした。非常に危険な状態であったが、すぐに処置をし一命はとりとめた」

ICUへ入るのは初めてだったが、そこは一般病棟とは大きく異なり、
非常に沢山の医療機器とパソコン。
そして、夜中だと言うのに、スタッフが絶え間なく動き回る。
部屋の電気は消えているが、PCのモニターの明かりに照らし出されながら、
説明をしてくれる医師は、緑色の処置着を着たままでした。

言わば、腫瘍から出た「鼻血」なのであるが、意識がない父親の場合は、
喉に溜まった血液を飲み込むことも、吐き出すことも出来ないがため、
やがてそれが固まりだし、窒息に至ったわけです。

ICUに居たのはそんなに長くない。
時間にして10分ほどだったでしょうか。
夜中の2時過ぎだと言うのに、担当の医師が隣県から駆けつけ、
処置医といくらか言葉をかわし、我々はICUを後にしました。

説明室では、件の担当医が今回の状況を説明いただきました。
説明内容は処置医とほぼ同内容であったが、
今後は、生検の為の組織採取が困難になり、
最終的な診断が遅れる可能性を指摘、
人工呼吸器の経口挿管は長く続けられない為、
病状の改善を見て、気管を切開して管を通す手術をすること。
それと、糖尿病により、感染症の菌が減らず、
依然、重篤な状態であると付け加えられたのです。

夜中でも、私達が病院へ向かうと同時に、医師も病院へ向かう事を知り、
大変ありがたい気持ちで一杯になった。
この夜の出来事は、これまで私が持っていた「病院の医師とは、
どこか冷酷で機械的に患者を診ているものだ」という、
先入観(多くは、これまでの経験から来ているものなのだが)を覆す出来事で、
これ以降、担当医を始めとする医師達の見方が変わったのでした。

次の日、前日に連絡を取っていた従兄弟が見舞いに来てくれた。
このブログにも度々登場する従兄弟は、父親の兄(私にとっては叔父)の子で、
勿論、私と血の繋がりがあるわけですが、同時に、被差別部落の血も継いでいる。
つまり、叔父の妻(叔母)が被差別部落の出身でした。

この様な環境下でしたから、幼い頃の友人達の中でも、
いち早く部落問題に敏感でしたし、それが後に部落への関心、勉強へとつながり、
今日、被差別部落のブログを書くに至った一つの要因でもあります。

ICUへ入り一週間ほどして、ようやく抗生物質が効き、
感染症の症状が落ち着きはじめた頃、気管挿管の為の切開手術を受け、
(その後、意識が戻り、結局気管挿管での酸素吸入は一度も行わなかったが、
保険的な意味合いで、穴は暫く残しておくことになったのです)
一般病棟へ移ることになりました。
この時は、入院から2週間以上経った12月の下旬頃でした。

一般病棟へ移り、ようやく診断が下りました。
形質細胞腫という血液の癌で、白血球の内の一つ形質細胞が癌化したもので、
血流に乗り骨に付いて腫瘍化するということでした。

しかも、運悪く、父親の場合は頭蓋底に付いて腫瘍化、
上は脳内、下は鼻の方向へ向かって成長している。
抗がん剤をやらなければ、早ければ今月中、
遅くとも1月中には亡くなると言うことでした。

当初は、治療を行わないことも選択肢のうちの一つとして考えていましたが、
新港のスピードが早く、当方の予想を上回る余命一ヶ月ということで、
抗癌剤治療を行うことにしましたが、
リスクのほうがかなり多い旨の説明が有りました。

つまり、抗がん剤をやり、効いた場合、
頭蓋底骨の代わりにフタをしている腫瘍が縮み、
髄液漏・脳ヘルニア・脳内出血の恐れのほうが強いのです。
おまけに、開いた隙間から細菌が侵入し、
髄膜炎等の感染症を再発する可能性も高いという。
そうなれば、外科医と結託して穴を埋める手術もしなければならないし、
そうでなくとも、死の危険性のほうが高い。
治療を始めるにあたって、その点を覚悟しておくようにと。

まさに、四面楚歌の状態での治療となるわけですが、
以外にも私としては、初日に死の宣告をされていて、
ある程度覚悟はできていましたので、「ダメ元で」と言う気持ちで
治療をはじめました。

このときには、脳外科から血液内科に担当が変わっていましたが、
新たな主治医から、「世界で30例」しかない症例と言われ驚くと同時に、
治療がいかに難しいかということに改めて気が付かされました。

2週間、計三回の注射と点滴に寄る抗がん剤投与でしたが、
「途中経過を見る為に撮ったCT。腫瘍に変わりがない。
再度、検査をし直した所、どうも別の腫瘍であるような可能性がある」と
医師から電話がありました。

これまでに、何度か医師とのミーティングを重ねてきましたが、
今度は、内分泌科に担当が変わるという。
つまり、最終的に付いた診断は、
下垂体腫瘍で、プロラクチンというホルモンの向上を促す、
プロラクチノーマ・下垂体PRL分泌亢進症というものでした。

全く聞いたことのない名前でしたが、
結局は良性腫瘍。
しかし、縦5cm横6cmとかなり大きいく、
脳幹や血管を取り巻いている上に、手術不可能のこの手の腫瘍は、
良性でも悪性と診断がつくのだそうです。
年が明け、1月が始まって一週間ほど経ったときのことでした。

その間、父親の病状(感染症の方)は快方に向かい、
何とか、倒れる以前の生活水準に戻りつつ有りました。
腫瘍を除いては。

この間、先生方も、外部の権威の先生などに意見を伺っていただいたりして、
治療方針の検討をしていただきました。

私も毎週のように先生とミーティングを行い、
父親の年齢(76)や平均寿命の事を鑑み、又、父親の意向で
治療をしない選択をしましたが、
やはり、ホルモンの値が以前高いままなので、
その値を下げるために最低限の薬を投与するカタチで
最終的に治療方針が決まりました。

これが、2月6日。
つまり、つい先日のことなんです。

なぜ。此処までに治療方針が定まらなかったのかというと、
やはり、全ては腫瘍の大きさ。
つまりそれは、「手遅れ」を意味していたのです。

本来は、何らかの前兆や異変があり、
此処まで大きくならずとも受診をされ見つかるケースが多いこの腫瘍。

ある程度の大きさなら薬も効きやすく、
以外に完治が早いそうですが、
父親は年がいつていたことも有り、老化が重なり異変に気がつかずに
ここまで大きくなったのでしょう。

一応、退院のメドが付き、喉の装置も外して切開部を閉じました。
2月13日に退院し、自宅にて療養を行います。
この先、腫瘍の成長に合わせ、視神経が圧迫され失明の恐れがあります。
又、脳出血や感染症は、健常者よりかなり高いリスクがあります。
また、血糖値や血圧の管理も行わばならず、
自宅に帰ったら帰ったで、大変なことも多くなりますが、
基本的には、治療はしません。
寿命が尽きるのが先か、腫瘍が大きくなるのが先かって感じです。

スギムラシンジ

P.S
これからは、ブログも再開していきます。
以前にも増して、応援お願い申し上げます。

2017年12月9日土曜日

★お詫び★

★お詫び★
12月9日。
父親が倒れ救急搬送されました。
現在、非常に重篤な状態なので、
落ち着くまでブログを休止させて頂きます。

その為、それまでに公開を予定し書いていた記事を次の投稿で、
取り敢えずUPさせていただきます。

記事の途中で非常に申し訳ございませんが、
書ける状態になれば、続きから再開いたします。
よろしくお願いいたします。

2017年12月6日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その7/見て記行って記被差別歩記-5

前回、隣保館の話題で少し話が脱線してしまったが本題に戻そう。
教育集会所に車を停め、あたりをウロウロしてみる。
高台にある教育集会所から望む部落と川の向こう側の旧本村
前は川、後ろは山の狭小地に存在する川向地区。
(繰り返すが、地区特定に繋がる為仮名とさせていただく)
部落の全体を急な坂が覆うのは、農山村型部落に多い立地ではあるが、
道路が整備された現在でも登り降りに一苦労する。
昔の方の聞き伝えによれば、「道は常に湿り」という記述があるように
相当な悪路だった訳で、そこを農作業の道具や荷を持って或いは、
大八車を引いて歩くのは相当過酷な環境であったと言わざる負えない。
(水がでない部落では、毎日の水汲みだけでも重労働であった)

又、前を流れる桂川は、度々氾濫を起こし、橋も幾度と無く流された。
いにしえの地区写真を見ると、川の傍の家などは橋と屋根の高さがほぼ同じ。
大雨が降るとよく水に浸かったそうで、生きた心地がしなかったに違いない。
一方、急勾配の山側は、土砂崩れや土石流の危険もあった。
川や山の危険性は、なにも川向部落に限ったことではなく、
全国の部落に共通した立地であった。

此処で、もう一冊本を紹介しよう。
『川向区の歴史』と言う書物で、1990年代に川向区歴史調査委員会と言う
地区住民がまとめたものだ。
その書物を元に、川向の歴史を簡単に記してみる。

川向の歴史は古く、江戸時代以前には既に村として存在していたようだ。
“川向は山林を所持している”と言うのがその根拠で、
江戸時代以降に成立した村は山林を持たないという。

余談ではあるが、部落に関する歴史書を読まれた方は、
多くの部落で「山林を持たず、入会(いりあい)権も認められなかった云々」
という記述を目にされた方々もおられることだろうが、この根拠からすれば、
そのような地域は、江戸時代以降に成立した部落であるといえるのかもしれない。
持ち山や入会権を持たない部落が山林の入会権を持つには、
余りにも長い時を経なければならなかった。
川向とは別の地域の解放林。山林の解放には、
長い年月と幾多の「山林解放闘争」があった。
ひと口に、「持ち山・入会権」と言うが、ナゼ入会権が必要だったのか?
このテーマの冒頭、この地域は高級建材である「北山杉」の産地として
名を馳せた旨、書き記したが、それも一つの重要な財産であることには間違いない。
しかし、杉や檜は「爺さんの代に植林して孫の代にようやく切れる」と言われるように、
現金化するまでに莫大な時間がかかる。
それよりも、もっともっと重要な・・・日々の生活に直結する役割があったのだ。

それが、山に於ける燃料の調達である。

今でこそ、ガスをひねれば火がつき、煮炊き物や風呂の湯を沸かすのに
何の労も厭わない。
ボタン一つ押せば、電子ジャーで米が炊け、エアコンで暖を取ることが出来る。

しかし、ガスや電気がなかった時代、又あっても機器が十分に
発達していなかった昭和の中頃までは、部落にかぎらず、
何処の家庭でも、かまど・いろり・風呂などで薪や枯れ草、
山で焼いた炭を用い、燃料としてきた。

昔話「桃太郎」でも“おじいさんが柴刈り”に行く場面が一番はじめに語られるが、
それ程までに、燃料の調達は、日々の暮らしを営む為の重要な仕事の一つなのであり、
『生きていく為』のライフラインであったのだ。

農業をやっている部落では、ワラも一つの『燃料』という選択肢もあったろうが、
部落産業であった草鞋や注連縄を作るための材料であったため、
恐らく無下に使用することは出来なかったに違いない。

持ち山や入会権を持たない多くの部落では、
燃料の調達もままならず、川で僅かな流木を拾ったり、
河原のススキを刈って凌いでいたそうだ。
勿論、それで賄えない場合は購入するか、或いは金を払い山へ
入らしてもらうことになるが、いずれにせよ、
部落住民にとっては相当な出費であったことには間違いない。
この様に、その地域に住みながらも山を使う権利が認められなかったのは、
部落・部落民に対する差別の結果なのだ。

余談が少々長くなってしまったが、本題に戻そう。
江戸時代以前に村が成立したのは先に述べた通りだが、
江戸時代には、今回のテーマになった「牢屋が築かれる役人村」として、
幕府よりその任を受けていた。
この村に、牢屋が築かれた理由は後述するとして、
江戸時代の生業としては、ご多分に漏れず皮革業と、
僅かな土地を利用しての農林業であった。

特に、何度か紹介しているように、この地域の特産である北山杉の切り出し
運搬などの作業に多くの牛馬が使われていた所以で、他地域よりもより多くの
斃牛馬が出た故、この部落での皮革作りも隆盛を極めたことだろう。

やがて明治4年の解放令を迎える。
が、しかし、解放令とは名ばかりで、何処の部落も差別の現状は残ったまま
仕事や特権だけが取り上げられ、おまけにそれまで課せられていなかった税の
負担が重くのしかかり、部落は熾烈な差別と極度の貧困へと突入していく。

役人村として警察業務を担ったこの村も、その役を終える事になった。

激しい差別に劣悪な住環境そして極貧の時代は、明治時代の融和事業・社会事業などで
一部改善が試みられたものの、本格的・抜本的な生活環境の改善は昭和44年の
法律施行迄待たねばならなかった。
以降、暮らしぶりは一定の改善が見られた(未指定地区など一部地域は除く)が、
差別だけは、現在に至っても尚解消されていないのは周知のとおりである。

川に隔たれた川向は、川向地区から見て“川の向う側”である本村へ向かったり、
近隣地域へ向かうためには、地区内前に掛かる橋を渡らなければならなかった。
部落への入り口に架かる八千代橋
現在は八千代橋と呼ばれるこの橋は、度重なる橋の流出被害が出る間、
ビアン橋~睦橋~八千代橋と名を変えている。
雨がふる度に大きな被害が出る橋の修復に辟易した村の住民は、
大正11年にビアン橋を村道として編入するように村へ申請をしている。

しかし、ここでも差別を受ける事になった。
村議会での「なんであいつらの為に村の金を使う必要があるんや!」
という声もあり、村道編入と新橋の建設には8年の歳月を要した。

昭和5年、幾多の差別と困難を乗り越え、遂に睦橋として村道への
昇格を果たしたこの橋は、「被差別部落と他の地域が仲良く睦み合う
ようにとの願いで名がつけられたのでしょう」と川向識字学級発行の
記録集“わかば”に記載されている。

そんな願いが込められた睦橋も昭和24年の台風で流出。
翌年、八千代橋として架橋されるも昭和34年に再度流出。
この様に、長きに渡り流出・架橋を繰り返すことだけを見ても、
この地区の暮らしが、如何に危険と隣り合わせかということがよく分かる。

居住区を固定されていた江戸時代は勿論、
明治に入り自由に居住地を変えれる世になっても、
差別と貧困でこの地に住まねばならなかった。

【その8へつづく】

2017年11月30日木曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その6/見て記行って記被差別歩記-5

大阪では、もうすぐ造幣局の桜の通り抜け(大阪市・天満の造幣局には、
135種350本の桜が植えられており、期間中は一般開放されている。)
も終ろうかという4月の中頃。
都市部より気温が低いこの地では、季節が半月程遅いようで、
やっと桜が8分咲きというところだった。

4月も半ばというのに朝の空気は冷たく、
街なか仕様の薄着に容赦なく突き刺さる。
深山より流るる雪解け水があたりを冷やし、
より一層「川向(かわむこう)」の桜の開花を遅らせているように感じた。

京都市京北川向(地区特定につながる為、仮名とさせていただく)
ここが、全国的にも珍しい江戸時代の牢屋が
現存するという役人村(=被差別部落)である。

地区は、小さく狭い。
前は川、後ろは山という部落に在りがちな立地の中に、
改良住宅を含む20戸ほどの家が立ち並ぶ。
国道沿いに架かる川向への橋と地区全景
まずは、地区内を2周ほど回ってそれらしき建造物(牢屋)を探したが、
全くもってわからず。
丁度、橋のたもとの工務店前で、せわしなくトラックに
荷の積み込み準備をしていた作業服姿の方がおられたので問うてみたのだが、
「地区内の人間ではないから分からない」というご返事。

小さな地区であるから、すぐに見つかるとタカをくくっていたのもつかの間。
意外とてこずることとなってしまった。
だが、「江戸時代の牢屋がある」ということは、まぎれもない事実であるので、
車を降りて、歩いて調査することにした。

丁度、地区の教育集会所の前にガレージがあったので、そこに車を止めた。
川向地区教育集会所
教育集会所は、かつて隣保館の役割を担った施設で、
地域によっては、解放センター・文化会館・人権センターなどとも呼ばれたが、
おしなべて、隣保館機能をもった公共施設である。

隣保館は、会社組織でいえば総務部のような存在で、
地区住民の総合的な行政サービスを担った他、地区の集会や勉強会などに利用された。
また、解放運動が盛んだった時期は、その拠点として使用された。

しかし、平成14年に地対財特法の期限切れに伴い、
国や地方自治団体の同和施策が完全終了してからは、
隣保館はこれらのサービスを段階的に廃止。
現在では、各自治体とも、会議室や併設する体育館などを一般開放し、
地区住民以外にも広く利用される運びとなっている。

包み隠さす話をしよう。
今から15年ほど前までは、例えば「家の電球が切れたから交換してくれ」
と言う雑務依頼がたしかにあった。そのような雑務依頼にも答えていたり、
運動団体が施設内に本部を置くなど、公私混同があったのは事実である。
また、国・行政も「法律」を前に、それを見過ごしてきた・・・と言うか、
地区住民も行政職員もそれが当たり前だと思っていた時期があった。

しかし、地対財特法が終了して久しい今日では、
特定の運動団体や同和地区住民だけというスタンスからは一線を画し、
広く市民・町民に利用してもらえる施設へと生まれ変わったのと同じく、
地区住民の「隣保館を当てにしない」精神的自立が進んだことが挙げられる。

誤解がないように記しておくが、雑務依頼などは一つの細かい悪例であり全てではない。
大きな流れに沿って言えば、かつて不良住宅が立ち並ぶ貧困生活をしていた被差別部落にとって、部落民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法第25条)」に
隣保館が大いに貢献したことはまぎれもない事実であり、
決して公私混同の施設ではなく、必要不可欠な存在であったことを述べておこう。

*ここでの隣保館の記述は、昭和44年の同対法施行以降、
同和地区指定された被差別部落に対してのものであり、
同じ被差別部落でも、一切の同和施策を放棄した未指定地区に関しては
その限りではない。

【その7に続く】

2017年9月4日月曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その5/見て記行って記被差別歩記-5

前回、「丹波マンガン記念館」の話で少し寄り道をしたが、
今回から、本題である「江戸時代の牢屋を訪ねて」に話を戻そう。

江戸時代の牢屋が残るのは、京都市・京北の“*川向(かわむこう)”と言う地区。
【*地区特定に繋がるおそれがあるので、仮名とさせていただく。】

“川向”と言う名が示す通り、川を挟んだ向こう岸、山の斜面に沿った20世帯弱ほどの
小さな集落が、かつて役人村であったこの部落なのだが、この地名の由来こそが、
この部落から見ても『向こう岸』である、本村の枝村(枝郷)だったからである。

即ち、江戸時代以前のムラの相関関係としては、本村が第一で、
枝村は本村に隷属する存在であった。
その為、本村から見た「川の向こう側」と言う地名となっているのだ。

部落(かつての穢多村)は、概ねどこかのムラの枝村となっていることが多く、
独立村はかなり少なかった。

例えば、“安倍晴明の母”とされる『葛の葉(白ぎつね)伝承』が残る、
大阪府和泉市のM部落は独立村であったが、それは村制度上だけの話で、
「独立した穢多村だから差別を受けない」ということは全く無く、
他の枝村の部落と同じく、非常に厳しい差別を受けていたことは、
改めて此処に書くまでもないだろう。

私の手元に2冊の冊子がある。

一つは、『わかば』と題された冊子。
川向地区の識字学級の活動をまとめたもので、
識字で学ばれた方々の作文や、川向の歴史、識字学級で演じられた団体劇のシナリオなどが、
カラー写真付きでまとめられた、非常に貴重な一冊である。
1995年に発行されたもので、些か古い書物ではあるが、
当時の、この地区の詳細を知るには、十分過ぎる資料だ。

ちなみに、識字学級とは、子供の頃、差別や貧困で学校に通えず、
“学ぶ機会”を失った方々が、「無くした時間」を取り戻どす、人生二度目の学校のことである。

「識字」と言う言葉に我々はピンと来ない。
なぜなら、それが当たり前になっているからだ。
読み書きすることが、当然のことであり、常識として意識しないからであるが、
その常識でさえ、部落差別というものは、奪ってしまった。
地域の改善運動が実り、部落の子弟が“当たり前”に学校に通える様になるまでは、
部落では、読み書きができない方々がほとんどであった。

余談であるが、私は部落関係の書物をよく読む。
そのような書物には、決まって古文の資料が出てくるのだが、
学のない私にはチンプンカンプン。
何が書いてあるのか、「なんとなく」さえわからないことが多い。
親切な著者の方であれば、おおよその説明を入れていただいていることもあるが、
その多くは、原文のまま掲載されており、泣く泣く飛ばし読みをしている始末である。

識字学級と比べるには、かなりの飛躍であるが、
学級で学ばれている方々の気持ちが、少しではあるが、わかるような気がする瞬間だ。

そして、もう一冊が、『川向の歴史(建造物の調査)』で、
こちらも1992~3年頃の出版で、発行元が、今はなき京北町になっている。
(現在は、京都市右京区京北)

この冊子こそが、川向に現存する江戸時代の牢屋について、
詳細に調査された報告書なのだ。

今回のテーマである「江戸時代の牢屋を訪ねて」は、
この冊子と、現地でのフィールドワークを元に記述していく所存である。

【その6へ続く】

★部落を皆さんに知ってもらいたい!★
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