~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

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2017年9月4日月曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その5/見て記行って記被差別歩記-5

前回、「丹波マンガン記念館」の話で少し寄り道をしたが、
今回から、本題である「江戸時代の牢屋を訪ねて」に話を戻そう。

江戸時代の牢屋が残るのは、京都市・京北の“*川向(かわむこう)”と言う地区。
【*地区特定に繋がるおそれがあるので、仮名とさせていただく。】

“川向”と言う名が示す通り、川を挟んだ向こう岸、山の斜面に沿った20世帯弱ほどの
小さな集落が、かつて役人村であったこの部落なのだが、この地名の由来こそが、
この部落から見ても『向こう岸』である、本村の枝村(枝郷)だったからである。

即ち、江戸時代以前のムラの相関関係としては、本村が第一で、
枝村は本村に隷属する存在であった。
その為、本村から見た「川の向こう側」と言う地名となっているのだ。

部落(かつての穢多村)は、概ねどこかのムラの枝村となっていることが多く、
独立村はかなり少なかった。

例えば、“安倍晴明の母”とされる『葛の葉(白ぎつね)伝承』が残る、
大阪府和泉市のM部落は独立村であったが、それは村制度上だけの話で、
「独立した穢多村だから差別を受けない」ということは全く無く、
他の枝村の部落と同じく、非常に厳しい差別を受けていたことは、
改めて此処に書くまでもないだろう。

私の手元に2冊の冊子がある。

一つは、『わかば』と題された冊子。
川向地区の識字学級の活動をまとめたもので、
識字で学ばれた方々の作文や、川向の歴史、識字学級で演じられた団体劇のシナリオなどが、
カラー写真付きでまとめられた、非常に貴重な一冊である。
1995年に発行されたもので、些か古い書物ではあるが、
当時の、この地区の詳細を知るには、十分過ぎる資料だ。

ちなみに、識字学級とは、子供の頃、差別や貧困で学校に通えず、
“学ぶ機会”を失った方々が、「無くした時間」を取り戻どす、人生二度目の学校のことである。

「識字」と言う言葉に我々はピンと来ない。
なぜなら、それが当たり前になっているからだ。
読み書きすることが、当然のことであり、常識として意識しないからであるが、
その常識でさえ、部落差別というものは、奪ってしまった。
地域の改善運動が実り、部落の子弟が“当たり前”に学校に通える様になるまでは、
部落では、読み書きができない方々がほとんどであった。

余談であるが、私は部落関係の書物をよく読む。
そのような書物には、決まって古文の資料が出てくるのだが、
学のない私にはチンプンカンプン。
何が書いてあるのか、「なんとなく」さえわからないことが多い。
親切な著者の方であれば、おおよその説明を入れていただいていることもあるが、
その多くは、原文のまま掲載されており、泣く泣く飛ばし読みをしている始末である。

識字学級と比べるには、かなりの飛躍であるが、
学級で学ばれている方々の気持ちが、少しではあるが、わかるような気がする瞬間だ。

そして、もう一冊が、『川向の歴史(建造物の調査)』で、
こちらも1992~3年頃の出版で、発行元が、今はなき京北町になっている。
(現在は、京都市右京区京北)

この冊子こそが、川向に現存する江戸時代の牢屋について、
詳細に調査された報告書なのだ。

今回のテーマである「江戸時代の牢屋を訪ねて」は、
この冊子と、現地でのフィールドワークを元に記述していく所存である。

【その6へ続く】

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2017年8月16日水曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その4・丹波マンガン記念館関連資料/見て記行って記被差別歩記-5

★はじめに★
【前回の投稿から、かなりの時間が経ったことをお詫びします】

さて、前回「江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その3/見て記行って記被差別歩記-5」
の中で、少々本題から外れるが、付記事項として、
『丹波マンガン記念館関連会社によるサイレン問題』について掘り下げて書いてみました。
今日は、その関連資料を添付致します。

=======

◎報道番組「ゆう+」“ウラドリコーナー”アーカイブ
http://archive.fo/Pjjx3

当日の報道内容が、まとめて掲載されている。

=====

◎丹波マンガン記念館HP中に、「発破報道について」というページが設けられれている。
http://tanbamangan.sakura.ne.jp/happahoudou.html

丹波マンガン記念館とは別法人で、発破騒動とは全く関係無としているが、
その割には、かなり詳しく釈明文章が書かれている。
それが証拠に、文章途中から、“当社は・・・”と言う言葉が使われており、
完全に当事者の表現になっている。

=====

◎丹波マンガン記念館の概要が分かる動画がUPされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=Levs-Xn3FD8

個人の方が撮影・投稿されているようだが、
私は現地へ行ったことがない(これからも行く予定はありません)ので、
このような動画はありがたい。
サイレン問題や政治問題を抜きに、遺構として見る分には非常に興味をそそられる施設である。

=====


◎この件に関して、在特会がいち早く抗議行動を行っている動画が、
Youtube・ニコ動などに複数UPされている。
https://www.youtube.com/watch?v=4py0CbDXZWg

在特会については、賛否両論・肯定否定あると思うが、
時系列的な資料として掲載する為、此処では是非を問わない。

尚、昨年施行された『ヘイトスピーチ解消法』制定のキッカケは、
在特会であることに間違いはないのであるが、
今回、抗議活動を行っている西村・荒巻両氏を中心とした、
“チーム関西”の影響が、特に大きいと思われる。

=====

◎2017年2月14日付・ソウル聯合ニュースより
従軍慰安婦像・竹島問題などで冷え込む日韓関係だが、
更なる関係悪化の火種になりうる可能性が高い「強制徴用労働者像」が、
丹波マンガン記念館に設置されているという。
また、先日、新たに韓国国内に同じく「強制徴用労働者像」が設置された。
最後に資料として、この2つの記事を掲載しておこう。


韓国二大労組 強制徴用労働者像をソウルと平壌に設置へ

2017/02/14
【ソウル聯合ニュース】日本による植民地時代に強制動員された、
少なくとも70万人に達する朝鮮人を記憶するため、韓国労働組合の二大全国組織、
韓国労働組合総連盟(韓国労総)と全国民主労働組合総連盟(民主労総)がソウルと
北朝鮮・平壌への「強制徴用労働者像」設置を推進する。両組織は14日、
像の建立推進委員会を発足させた。

強制徴用朝鮮人労働者像(資料写真)=(聯合ニュース)
強制徴用朝鮮人労働者像(資料写真)=(聯合ニュース)
 韓国労総と民主労総の委員長が常任代表を務め、
旧日本軍の慰安婦被害者支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」や
「靖国反対共同行動」の代表、革新系の最大野党「共に民主党」所属国会議員らが
共同代表として加わる。1000人以上の推進委員を募集する。

 推進委は、日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた独立運動を記念する
「3・1節」に合わせ、ソウルの竜山駅前広場で労働者像の除幕式を開催する。また、
来年には平壌に像を設置することで南北の労働者が合意したと推進委は伝えた。

 推進委は「社会の各界・各層との連帯を深め、強制徴用問題を広く伝えるとともに、
日本による植民地(支配)の謝罪と賠償問題、朝鮮半島の平和実現に一層努力していく」
としている。

 韓国労総と民主労総は昨年8月、京都市の「丹波マンガン記念館」に
強制徴用朝鮮人労働者像を設置した。

=====

◎先日、同じ像が韓国に設置
(ヨミウリ・オンライン8月12日付)

ソウルの駅前に徴用工の像…仁川の公園にも
2017年08月12日 20時42分
12日、ソウルの龍山駅前に設置された「徴用工像」(中島健太郎撮影)
12日、ソウルの龍山駅前に設置された「徴用工像」(中島健太郎撮影)

 【ソウル=中島健太郎】日本の植民地時代に朝鮮半島から動員された徴用工の像が12日、
ソウル市中心部の龍山ヨンサン駅前に設置され、除幕式が行われた。

 労働組合などでつくる韓国の市民団体が設置を進めていたもので、
式には労組や市民団体関係者のほか、文在寅ムンジェイン政権の
与党「共に民主党」の議員らが参加した。

 一方、聯合ニュースによると、ソウル近郊の仁川インチョン市内の公園にも12日、
徴用工の像が市民団体によって設置された。

 韓国国内では、ソウルの日本大使館や釜山プサン、済州チェジュの日本総領事館前に徴用工像を設置する動きがあり、日本政府が韓国政府に対応を求めている。

=====

本日、この記事を書いている間にも、『従軍慰安婦像が路線バスに設置された』と言う
ニュースが飛び込んできた。
このブログでは、異なるテーマであるため、個人的見解および、
これ以上の言及は行わないが、これらの問題が解決しないかぎり、
真の日韓友好は訪れない。

また、丹波マンガン記念館に於いても、「人権」を掲げている以上、
手段を選ばない営利行動や、政治色が強い行動は控えていただくことを望む。
何度も言うが、遺構としての価値は非常に高いだけに、誠に残念である。


◎  ◎  ◎  ◎  ◎

少々寄り道をしましたが、次回は、「江戸時代の牢屋を訪ねて」本編に戻ります。
また、当方の都合で、更新頻度が低いことを改めてお詫び申し上げます。

更新頻度は低いですが、このブログは、私のライフワークとして必ず書き続けますので、
これからも、よろしくお願い致します。

スギムラシンジ

2016年10月31日月曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その4/見て記行って記被差別歩記-4

さて、改めて北山十八間戸の考察をしている間、
15分ほどで、「奈良県同和問題史料センター」へ到着した。

・・・いや、実は、簡単には到着しなかったのである。

と、言うのも、奈良県同和問題史料センターは、
県道から一段下がった場所に立地しており、
不覚にも、一度通り過ぎてしまったのだ。
グーグルマップより
少し走ってから気がつき、
同和問題史料センターの裏をぐるっと回る形で、
史料センター迄戻ってきた。

近隣を一周し、史料センターへ入るスロープを下ってビックリ。
駐車場には車が満杯で、人の出入りも多く、
かなりの混雑ぶりを見せていたからだ。

しかし、人々が出入りしているのは、
史料センターではない。

この敷地には、隣接して「奈良県人権センター(旧奈良県解放センター)」があり、
そこへの人の出入りが激しいのである。



些か、話は変わるが、
過去は、解放センターとして、
部落解放同盟の拠点であった「奈良県人権センター」は、
現在は公益財団法人となっており、
人権センターのHPを覗いてみると・・・

行政・教育・運動にたずさわる各機関・
団体の有機的連携を図るための施設を提供及び同和問題等について、
より一層県民の理解、協力を得るための普及・啓発活動の促進等。

差別・偏見の防止・根絶:人種、性別その他の事由による不当な差別
又は偏見の防止及び根絶を目的とする事業

と、その存在理由がうたわれており、
人権センター二階には、部落解放同盟の奈良県連が置かれている。

平時の昼下がりに、多くの人々が出入りしているのには、
かなりの違和感を覚えたのだが、
それよりも、なにより私の目を引いたのが、
建物正面に置かれた「荊冠旗」を掲げた彫刻である。

と、言うのも、かの「同和関連」の法律が全て終了してからは、
それまで大きく掲げられてきた荊冠旗が、
旧解放センターや、同盟事務所、関連施設から次々に取り外されており、
今となっては、建物に掲げられた荊冠旗を、
殆ど見なくなったからである。

余談ではあるが、今から、約20年ほど前、
浪速部落にあった、芦原病院の荊冠旗を初めて見た時、
そのスケールの大きさに度肝を抜いたのが、
昨日のように懐かしい・・・。


又、ここには、「奈良県人権センター」、「奈良県同和問題史料センター」に加え、
(後に、ネット検索をしていて分かったのだが)
もう一つ、一般財団法人「奈良県人権部落解放研究所」と言う施設があるようだ。

Wikによると、一般財団法人とは、

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(一般社団・財団法人法)に基づいて
一定の要件を満たしていれば、事業目的に公益性がなくても設立できる法人である。
機関は理事、監事、評議員から成る。

原則として、株式会社と同様に、全ての事業が課税対象となる。
設立許可を必要とした従来の財団法人とは違い、
一定の手続き及び登記さえ経れば、主務官庁の許可を得るのではなく
準則主義によって誰でも設立することができる。

この様に説明されている。
部落解放同盟との関係はどうなんであろう?

HPからは、よくわからなかったが、
唯一、書籍紹介のページに、以下の本が紹介されており、
「テキストとしても活用されています」等というくだりを読む限り、
部落解放同盟との関係云々と言うよりも、
どうも、解放同盟内の研究機関のようである。

とにかく、この地は、
人権・部落関係の施設が集まっており、
さながら、奈良県に於ける、「人権銀座」の様相を呈している。

さて、気になる、人権センターへの“人の出入り”の真相であるが、
残念ながら、今日は、夜も更けてきた。

今回のテーマ『坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸』
とは、大きく異る展開になってきた感がなきにしもあらず。
キチンと本編も押さえることを約束して、
次回に続きたい。

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2016年9月30日金曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その3/見て記行って記被差別歩記-4

~~~はじめに~~~
長らく、当ブログを休んでしまった事、お許し下さい。
理由は、一にも二にも、「ズルズル病」です。
忙しさにかまけ、「明日書こう、明後日書こう」と言っている間に、
ズルズル・ズルズル・・・こんなに期間が過ぎてしましました。
又、「見て記・行って記・被差別歩記:北山十八間戸」の
話の途中で休眠してしまったことも、併せてお詫び申し上げます。

これからも少しずつではありますが、
前進していく所存でありますので、
皆様、これからも引き続き、よろしくお願いいたします。
スギムラ シンジ

===============

さて、奈良県同和問題研究所へ向かう間に、
もう一度、北山十八間戸について整理しておこう。

先ずは、下の文章を読んでいただきたい。

「鎌倉時代の中頃、僧「忍性(にんしょう)」が不治患者救済のため、
北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、
はじめ、般若寺の東北に建立されたが、
永禄十年に焼けたため、寛文年間に、
東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、
不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、
鎌倉時代の遺風を承け継いで建てられたものである。
建物は、十八の間数のほかに仏間をつけ、
裏戸に『北山十八間戸』と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された」

これは、北山十八間戸に掲げられた、
案内看板の文言である。

先にも書いた通り、鉄門扉の中に設置されている上に、
案内板の字が、今にも消えかかっており、
些か読みにくかったが、それは、取りも直さず、
ハンセン病が過去の病として、社会からの忘却がなされるが如く、
北山十八間戸も、世間の関心を失いつつ有るようにも感じ取れるのであった。
グーグルマップより

この案内板からもわかるように、
北山十八間戸は、最古級の癩者救済の為の福祉施設なのであるが、
この施設を語る上で、忘れてはいけないのが、
鎌倉期に、生涯をかけて福祉事業に尽力した孤高の僧、忍性の存在である。

良観房忍性坐像
忍性像:ウィキペディアより
折しも、先日まで、奈良国立博物館において「忍性生誕800年記念展」
が行われていた。
次の文章は、そのHPより忍性の略歴を抜き出したものである。

良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)は、
建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。
早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、
西大寺の叡尊(えいそん)を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、
貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。
特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話
(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。 
 後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、
より大規模に戒律復興と社会事業を展開しました。
人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。
(奈良国立博物館 忍性展HPより引用)

◎9月19日に終了した忍性展であるが、
HPは現在も残っている。
アドレスを記しておくので、興味が有る方はご覧頂きたい。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2016toku/ninshou/ninshou_index.html

文中にも有るように、西大寺・叡尊を師と仰ぎ、
福祉活動に尽力したのであるが、
一説に、その根底には、奈良時代・聖武天皇の后、
光明皇后の存在があったと言われている。

光明皇后(光明子)は、あらゆる策を用いて、
出身母体である藤原家(これまでは、内親王から皇后が選ばれていた。
皇族意外からの皇后は光明子が初めてである)の
威信を守るべく奔走した「政争人生」を送ったが、
その反面、仏教信仰にも熱心で、
法華寺の建立や東大寺の大仏建立を成し遂げた他、
福祉活動にも精力的で、同じく仏教による国造りを行った聖徳太子に習い、
皇后宮職として、施薬院や悲田院を官職として制定した慈悲深い人物でもある。

特に、光明皇后が、ハンセン病患者(癩者)に施した行いは、
光明皇后の人物を語る上でも有名なエピソードである。
簡単ではあるが、そのエピソードを紹介したい。

福祉活動に熱心であった光明皇后は、
法華寺の「から風呂」(サウナのようなもの)で、
千人の病人や浮浪者の体を洗い清めることで、
「病気治療や民の幸せを願う」と言う願掛けを行った。

ところが、999人目を洗い終えたところで、最後の一人。
皇后の目の前に現れたのは、重い癩病者であった。

癩者の皮膚はただれ、そこからウミが吹き出し、
「から風呂」の中は、異様な臭気に包まれた。

千人目の癩者は、「体中が痛くてたまらん。
どうか、私の膿を吸い出してくれないでしょうか」と、
皇后に悲願した。

それを聞いた皇后は、何の迷いもなく、
癩者のウミを吸いだした。

すると、程なくして、
癩者は阿閦如来(あしゅくにょらい)に姿を変えたと言う・・・・。

もちろん、これは、後に作られた物語の類いであるが、
このような話が語り継がれるように、
非常に慈悲深い皇后であったことに間違いはないであろう。

===============

さて、忍性に話を戻そう。

忍性の福祉精神の根底は、光明皇后であるが故に、
仏に帰依しても尚、癩者をおぶりまちに向かい、
北山十八間戸やその他の救済施設で、
病人や孤児の面倒を見る事こそが、
彼のライフワークであったのだ。

その活動ぶりは、忍性が師と仰いだ叡尊をもってして、
修行そっちのけで、福祉活動を行う忍性を、
「慈悲二過ギタ」と言って批判している。

つまり、独立した共同体のように思われている非人宿であるが、
実は、この忍性のように、或いは、
各地の寺院の庇護のもとに成立していたのである。

北山宿に設けられた、癩者救済所「北山十八間戸」の
概要は以上であるが、詳細については、
同和問題研究所でお伺いした話とともに、
次回、お伝えしたい。


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2016年4月2日土曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その2/見て記行って記被差別歩記-4

遠くに若草山を望む朝の遺構は、行き交う人もなく、
ただただ静かに朝日を受け、光り輝いていた。

「1.2.3・・・」
私は、3年前に訪れた時と何一つ変わらないその遺構を、
もう一度、端から端まで歩いてみた。

「4.5.6・・・
確かに18に仕切られている」

改めてゆっくりと数えながら歩いてみると、
その名の通り、18に仕切られた小部屋があった。

その一つ一つに“裏扉”が設けられており、
今にも消えそうな字で、一扉毎に「北山十八間戸」と縦書きされていた。

“裏扉”・・・
そう、ここは、十八間戸の裏側なのだ。

道路より一段低い建物は、
手を伸ばせば屋根にこそ、手が届きそうではあるが、
残念ながら、周りをぐるりと金網フェンスで取り囲まれているため、
建物正面を覗くことは出来ない。

しかし、一見すると寺のようにも見えるそれは、
建築物としては、独自の構造を持つものであった。

(グーグルマップより)

それを説明するには、まず、立地を見てみよう。

坂の中腹に位置する十八間戸は、
丁度、海の岬のように、丘陵の突き出た場所に、
崖側を正面にして建てられており、
裏側が通りに面するという特異な建て方であること。

又、今でこそ、周りには家が立ち並ぶ住宅街となっているが、
古くは、この地には墓が立ち並ぶ葬送の場であった事があげられる。

次に、建物であるが、
「十八間戸」というだけあり、平屋建ての非常に長い建物であるが、
内部は、仕切られた部屋だけなので、それに見合う奥行きがなく、
見た目には、古城の渡り廊下のようで、
「妙に“薄い”建物」と言う印象があるが、
最も、現在で言うならば、アパートやマンションのように、
横長の建物が普通に見みられるので、
言うならば、十八間戸は、住居効率のよい集合住宅のハシリみたいなものであろう。

ただ、先程も述べた通り、その立地に於ける建物構造は、
建物自体が『塀』のようになっており、
あたかも、外界との接触を拒んでいるかのように見て取れる。

===============

私は、しばらくその場に佇んだあと、
しばしあたりを見回し、中への入り口を探したが、
建物西側に、どうやらそれとわかる鉄門扉を見つけた。

しかし、意外にも、その鉄門扉の辺りには、
十八間戸の由来を示す案内板と、名を記した石碑とともに、
大量の植木鉢やプランターなどが置かれており、
隣接したお好み焼き屋さんの庭のようになっていたのである。
(グーグルマップより)

いや、隣接と言って良いのだろうか?
十八間戸は、この、お好み焼き屋(以下“お好み”と略)さんと、
一部敷地を共有しているようで、
権利関係が一体どうなっているのか知る由もないが、
どうやら、このお好みさんが、十八間戸を管理しているようであった。

私は、再度辺りを見回したが、
どうもそれ以外に出入り口はないようなので、
お好みさんの引き戸に手をかけた。

暖簾が掛かっていないばかりか、
幾ばくか商いを営んでいるような気配がないお好みさんの扉は、
案の定開くことがなく、呼び声にも応答がなかった。

私は、がっかりと肩を落としながらも、
とりあえず、全貌を見ようと、
お好みさん横の階段状の道を降り、
周りを一周してみることにしたが、
だが・・・と言うか、しかし・・・と言うか、崖の上の建物が見えるはずもなく、
うなだれながら、再度、十八間戸の裏口へ戻ってきた。

すると、それまで人っ子一人見なかった私の前に、
腰を曲げたおばあさんが、ゆっくりと歩いてきた。

「あぁ、あそこなら、町内会長さんが鍵持ってますよ」・・・

などという、嬉しい言葉を期待していたが、
返ってきた言葉は、
「あのお店に声掛けはったらよろしいいわ」・・・と言う、
ある意味、当然といえば当然の答えが返ってきたのだった。

これで、お好みさんの管理が決定的になったわけで、
その肝心のお好みさんが居ないことにはどうしようも無いので、
私は、このフィールドワークで見出した幾つかの疑問を晴らすべく、
その足で、北山十八間戸の研究に明るい
『奈良県同和問題関係史料センター』へと向かった。

【その3へ続く】
================

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2016年3月9日水曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その1/見て記行って記被差別歩記-4

坂・・・

坂は、まだ見ぬ新しい土地への玄関口であり、
文化の流入点でもある。

他の国から人が入り、そして出て行く。
他の国で作られた物が、坂を通ってこの国に入り、そして出て行く。
坂には、関所が設けられ国を守る要所にもなった。

だから、昔から坂には人が集まり、物が集まった。
人が集まるところに、更に人が集まるのが自然の摂理である。

==================

奈良に本格的な春の訪れを告げる東大寺の「お水取り」を前に、
冬籠りで閑散としていた奈良の街にも、
ようやく行き交う観光客の活気が戻ってきた。

2月中旬。
私は、久しぶりに『坂』へ向かった。

『坂』には、過去3~4回訪れている。
前回の訪問から、おそらく3年は経っているだろうが、
数百年間も風雪に耐え忍んできたその建物は、
3年ほどの月日では、前回訪問時と、
何も変わらない佇まいを見せていた。

ここは、奈良坂。
奈良阪という名が示す通り、
この坂は奈良県を代表する坂である。

かつて、大阪へ続く西之阪に対し、
奈良阪は東之阪とも呼ばれ、
その先は、京の都に続いた。

坂には、そのものズバリ『坂』、或いは『坂の者』、
又ある時には、『宿・夙(どちらも読みはシュク)』
と呼ばれる集団の本拠地があった。

やがて彼らは、近世の身分制度下では、
広義に「非人」と呼ばれひとくくりにされるが、
宿の成立自体は意外と古く、
既に、中世頃には、宿が形成されていたと言う説が有力である。

ただ、宿の形成には、まだまだわからないことが多く、
いずれも、有力な“説”の一つであるのだが、
少なくとも、その構成に大きく携わったのが、
癩者(ハンセン病患者)であったことは間違いない。

今でも続く元ハンセン病患者への差別・・・
いや、
この話を語る前に、もう一度ハンセン病のおさらいをしておこう。

===================

ハンセン病は、かつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、
その病状から、有史以来、我が国のみならず、
世界各国で差別の対象とされてきた歴史がある。

ハンセン病は、らい菌による細菌性の病で、
感染力は極めて弱いが、人から人へとうつる伝染病である。

ただ、感染力は極めて弱く、幼少期に頻繁にらい菌保有者と
接触しない限り、発病まで至るケースは少ないが、
ひと度発症してしまえば、その病状は劇的で、
手や足の発疹から始まり、神経麻痺、
皮膚のただれや壊死などで手足を失い、
顔面の変形や失明などで姿形が著しく変わることから、
古の頃より、ハンセン病は「業病」と言われ、
『前世の行いが悪かった』・『信心不足』・『呪い』など、
その人の悪行によりかかる病として、
人々の畏怖の対象であり、差別の対象であった。

ハンセン病患者自身も、輪廻転生・因果応報と、
その境遇を恨み諦めた。

又、遺伝性の病気であると長く信じられ、
明治期に施行された「らい予防に関する件」と言う法律により、
らい療養施設への強制隔離政策が取られ、
家族とも引き離され、文字通り強制収容された。

しかし、療養施設とは名ばかりで、
そこは、シベリア抑留所さながらの強制労働施設であり、
多くの患者は、病気を悪化させ、
療養所内で命を落とすものも少なくなかった上、
遺伝性の病気であるという理由から、
子供の強制堕胎や断種(所謂パイプカット)が、
患者の意思なしに、強制的に行われた。

ハンセン病は、栄養状態が悪いと感染しやすく、
アフリカなどの発展途上国では、
現在もこの病の発生が深刻な状況であるが、
戦後、急速に生活環境が向上した我が国では、
新規患者はほぼ出ておらず、もはや過去の病気になりつつある。

又、1943年にハンセン病の特効薬「プロミン」が生まれると、
ハンセン病の治癒が容易に行われ、
“不治の病から、治る病気”へと変化を遂げた。

しかし、差別は残った・・・。

それは、今も尚、綿々と続く差別と後遺症で、
治癒に成功し、菌陰性者となった方々も、
社会復帰どころか、家族にさえ未だに会うことが出来ないという。

十数年前に熊本のホテルで起きた、
元ハンセン病者への宿泊拒否事件は、
メディアによって大々的に報道され記憶に残っているが、
報道に乗らない小さな差別は、現在も日常的に起こっている。

最も、先程も書いたように、
新規の患者が殆ど出なくなって久しい我が国では、
元ハンセン病患者の方々もかなりの高齢になっており、
親族と縁を切り、断種や堕胎によって子を持たぬ身の上では、
到底生活もままならないため、
療養所から出たくても出れないのが現状なのだ。

これも、長く続いた国の差別政策の結果といえるだろう。
ハンセン病が根絶し、療養所の必要性が無くなりつつある今、
今も療養所で暮らす元ハンセン病患者さんは言う。
「近い将来、我々が死んでしまったらこの施設はどうなるのだろうか?、
仲間や、妻が眠る納骨堂の面倒を誰が見てくれるのだろうか?・・・」

================

さて、話を続けよう。
冒頭、坂には人が集まり、
それが更に人を呼ぶと書いたが、
ここ、奈良阪の場合は、京の都へ続く坂。

人や物の流通も半端なく、
決して広く大きいとは言えない“大道”を
日々行き交っていたことだろう。

そして、その行き交う人々に「更に呼ばれる人」、
それが坂の者だった。

つまりはこうだ。
当時、自活することが出来ない癩者や障がい者、
又、浮浪者などの社会的弱者は、
施しを求め、より多くの人々が往来する「坂」周辺に集まりだした。
やがて、時代と共に、それが組織化され、集団化していった。

坂の者の成立は、このように自然発生的なものであったと考えるのは、
当然の成り行きではないだろうか。

【その2へ続く】
================

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2015年9月9日水曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その3/見て記・行って記・被差別歩記-3

←その1 【八鹿闘争勝利記念碑】 その2→


見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その3―


さて、前回の終わりに「・・・ただ、2か所を除いては」
(八鹿闘争勝利記念碑:その2)と書いたが、
この2か所というのが、何処にでもありそうな、
のどかな山農村のこのムラを“被差別部落”であることを決定づけているのだ。

その一つが隣保館である。
隣保館は、かつて、「差別をなくす為」の拠点として、
同和地区を中心に建設された。

当時は、隣保館・解放センター・解放会館・教育集会所などと呼ばれたこの施設も、
同和対策終了後の現在は、市民会館・文化センター・ふれあいセンターなどと名を変え、
同和地区住民のみならず、広く市民にも一般開放されている。

だが、それはかつて差別解放の拠点として存在した隣保館が、
逆に、同和地区のランドマークとして存在するが故に、
そこが、同和地区であるという「特定」につながっているということだ。 

もちろん、隣保館がこれまで担ってきた役割は、
言葉で言い表せない程多大のものがあるし、
差別解消に大きな推進力となってきたことも事実である。

しかし、差別が完全解消されぬまま、
同和対策が終了し、行政により大きくその位置等を告知されることで、
善意の利用者のみならず、差別者にも同和地区(部落)の場所を
認知させるに至っている。

この、S部落の隣保館(現在はA福祉会館)も、ご多分にもれず。

小さな山農村部落にあって、明らかに目立つ
“白い外壁に覆われた鉄筋コンクリート造り”の建物は、
語らずとも、此処が部落であることを感じさせるに充分である。

ただ、このS部落の場合は、他の大多数の部落とは幾分違う点がある。
それが、集落から少し離れていると言うことだ。

例外もあるが、たいていの部落は、
その集落内に隣保館が存在するのだが、
まれに、何らかの理由で、集落(部落)から離れた場所に造られた場合がある。
大多数と言うのはそう言う意味で、
このS部落の場合は、前回、“集落内住宅の立地事情”の辺りにも書いたが、
どうやら状況から、「集落(部落)内に、建設スペースが無かったからではないか?」
と、推測される。
*さらに、余談であるが、隣保館と言えば、同和地区(部落)特有の施設のように
一般的に認知されているようであるが、
キリスト教関連の施設には、隣保館・隣保園・隣保事業などと言うように、
『隣保』をと言う言葉を好んで使う傾向にあり、
これは隣人への“博愛”という教義にのっとったもので、
隣保が、同和地区限定のものではないことを断わっておく。

地図上から見ると、S部落と隣の集落の丁度中間あたり、
田畑のど真ん中にA福祉会館は存在する。

私の不勉強で、申し訳ないが、
私は、当初、隣の集落も合わせてS部落であると認識していた。
訪問当時も、その認識でどちらの集落も回ってみたが、
なぜ、左右に分かれているのだろう?という程度で、特に違和感がなかった。
それに、今までの先入観で、この程度の離れた所なら、
部落が手狭である場合、「過密」として本所から離れた場所に、
新たに住宅を建設するケースが多いからだ。

その為、その中間にA福祉会館が存在すると思っていたが、
その後の調査で、どうやら、隣の地区は一般地区のようなのだ。
なにより、隣の集落名が「S」では無いところからも、そう思い直したのだ。

これも、左右の集落の中間にA福祉会館があるために勘違いをしてしまったのだが、
これとて、過密の為に、部落内に建設用地が確保できなかったのであろう。

このような、私の推測であるが、
このあたりの事情に詳しい方がおられたら、
ぜひともご教示願いたい。


======================

さて、一通り地区内を見て回り、車へ乗り込む。
車を走らせる(と言っても、狭い地区内なのですぐ近くなのだが)頃には、
雲は未だ厚く掛かっているものの、雨はすっかり上がっていた。
S地区の北のはずれに、地区の氏神だろうか?
山裾に沿って小さな神社がある。
その前に車を停め、“もう一つのランドマーク”へ向かう。

氏神の隣を綺麗に造成し、国道から一段高い位置に、
そのランドマークは、高々と誇らしげに建っている。
造成された広場には、植林が施され、丁寧に敷石が敷詰められており、
その姿に更なる(ある人が見れば、畏怖かもしれない)『威圧感』を与えている。

八鹿闘争勝利記念碑

高さが、ゆうに5mを超えるだろうこの建造物は、
何度も書くように、小さな田舎の山農村集落にはあまりにも不釣り合いで、
このS地区が被差別部落であるということを、如実に物語っているのであった。

周りは静かだ。
誰もいない。
空は相変わらず曇ってはいるが、とにかく明るい。
山裾を造成した高台にあるため、木々で“鬱蒼”というわけでもない。
それは、裏を返せば、意図的にこの碑を『誇示』する事を意味する。

「八鹿闘争勝利記念碑」と大きく彫りこまれた表面から裏へまわってみる。
そこには、この碑を建立した理由が彫りこまれていた。

1974年11月
八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑を建立する。

よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会

誰もいない静かなこの碑の前で、私は声をあげてこの碑文を読み上げてみた。
この碑の存在は知っていたが、碑文の内容までは知らなかった。
私の読解力の至らなさもあるだろうが、
碑文を読んでも、その場では、正直、
にわかにどう言う意味か理解ができなかった。

いや、書いてある内容自体は、文章を読めば理解できる。
この碑を建立した側からすれば、(それが正しいかどうかは別にして)
この出来事の「正当性」を訴えたいという気持ちは伝わってくる。

意味がわからないと言ったのは、「建立」の意味だ。
事件からかなりの年月が経った今、
なぜこの碑が建立されなければならなかったのか?

もちろん、事件はとっくに風化してしまっている。
事件自体を知らない、もしくは、忘れてしまっている部落民も、
私の周りでは大多数を占める有様であるから、
一般地区住民にとっては尚更であろう。

たまに、部落関係の雑誌やインターネットで、
過去の振り返りとして目にする程度だ。

しかし、この事件のもう一つの組織、すなわち共産党では、
今もこの事件を「部落解放同盟が行った忌まわしい暴力事件」として、
度々俎上に挙げ、部落解放同盟を批判するプロパガンダとして用いている。
共産党員であり、「同和利権の真相」「誰も書かなかった部落」などの
著者である寺園氏のブログには、「誰のための何に対する勝利か」と題し、
この建造物に対する批判記事を載せている。

確かに、この事件を起こしたS部落のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』のメンバーは、
傷害で逮捕されており、怪我をした教師から起こされた民事裁判でも、
賠償金の支払いが命じられている。
更に、事件を重くみた部落解放同盟の執行部から「除名」の処分を受けている。
これだけ見れば、八鹿高校事件は、一方的にM氏側の“敗北”であろう。

しかし、M氏をはじめとする当時の同盟員達は、
民事判決で出た賠償金については一切支払っていないという。

設置場所の造成や、この碑の荘厳さは先にも書いたとおりである。
つまり、かなりの『カネ』がつぎ込まれているということだ。
おそらく、100・200万ではないはずだ。

八鹿闘争勝利記念碑建立委員会が、どのようなメンバーで
構成されているのか私には分からない。
(もしかしたら、M氏個人が名乗っているのかもしれないが・・・)

ただ、彼らの思惑としては、
「賠償金を払わずにこの立派な石碑を建立した!」
それが、『我々の勝利である!!』と言うことでは無いだろうか?

碑の建立の意図は、関係者以外、今のところ誰もわからないようである。
しかし、人により取り方は様々であるのは当然のこと。
この碑を否定する人、又肯定する人あって良しだが、
これが、あの碑を見てから5年間考え続けた、私なりの解釈である。

碑を見学していた時間は10分少々だろうか。
それ以外には、見学する場所もないので、
早々車へ向かった。

その10分の間に、速い流れの雲の隙間から、
幾分薄明かりが顔をのぞかせた。
振り返れば、その弱々しい陽の光が、
“八鹿闘争勝利記念碑”を、やはり弱々しく照らしていた。


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←その1 【八鹿闘争勝利記念碑】 その2→

見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑・終―

2015年8月1日土曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その2/見て記・行って記・被差別歩記-3

←八鹿闘争勝利記念碑:その1はコチラから


見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その2―

今から、5年程前。
私が、但馬のこの被差別部落を訪問したのは、
7月半ば過ぎた頃だった。

未だ梅雨が明けきらない但馬の地は、
周りを山に囲まれているせいか、
街中より幾分涼しく感じられ、山々は、ガスで覆われていた。

それにしても、この豪雨である。
朝方は、曇り空であったが、午前10時ごろから降ったりやんだり。
雨脚はきつく、時折このような豪雨にも遭遇。
車のワイパーを最大にするが、それでも追い付かない程だ。

私が山陰方面に向かうときは、いつもこのように雨が降っているのだ。
しかも、初日が雨で、次の日が晴れと言う状況が、ここ2回も連続している。
一日目にフィールドワークの大半を組み込んでいるので、
「両日晴れがベストだけど、せめて反対やったらまだいいのに」
と思うこともしばしばである。

八鹿高校事件(部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件。
しかし、このブログでは、便宜上、八鹿高校事件とさせていただきます。)は、
それ単体で、突発的に起こった事件ではない。
実は、それ以前から続く、部落解放同盟vs共産党の
一連の出来事の一つのなのである。
前回は、八鹿事件の概要を簡単に説明したが、
訪問の前に、それ以前の流れについて加筆しておこう。

=================

1960年~70年代に掛けて、全国的に部落解放同盟をはじめとする、
部落解放運動団体の結成が加速していく。

ここ但馬の地でも同じく、八鹿高校事件が起こる前年、
つまり、1974年7月に、南但馬地域の部落が
“一致団結し、差別の解消に当たる”目的で
「部落解放同盟南但馬支部連絡協議会」が結成された。
そのイニシァチブを取ったのが、S部落のM氏であった。

結成後間もなく、この地域で2つの差別事件が発生する。
いずれも、恋愛に対する差別であるが、
そのうちの一つは、「差別が原因で、女子生徒が死亡」するという、
あってはならない“事件”に発展した。

これらを機に、M氏率いる行動隊は、糾弾から暴力へと、
次第に行動をエスカレートさせていく。

決して、暴力を肯定する訳ではないが、
その根底には、差別に対する怒りや憎しみがあったに違いない。
だが、それを上回る行き過ぎた行動が、
差別糾弾闘争を“事件”へと追いやってしまった。
『暴力に訴える』これは、大きな過ちである。

だが、何度も書くようだが、そこに至った大きな要因の一つと言えるのが、
共産党との対立=政治闘争と言うことになる。

この辺りの時代は、部落に限らず、
日本全土到る所で共産党系団体が勢力をふるっていた。
成田空港反対などの公共施設闘争、労働組合による会社闘争・
過激派による学内闘争・やや時代は遡るが炭鉱闘争など、その殆どが、
暴力とは無縁ではなかった。

現在の、共産党はクリーンなイメージを前面に押し出し、
議席・党員の増加に力を注いでいるが、
以前は、共産党=過激派=国賊と言うイメージが、
世間一般の認識であった。
そんな時代である。

M氏率いる行動隊の闘争は、次第に教育現場への介入・糾弾、
そして共産党との戦いに発展していく。
そこには、学生達も動員されたことを付け加えておこう。

=======================

さて、雨もやまないまま、車はS部落周辺へさしかかった。
S部落のある地区は、周りを山に囲まれ、
山間を縫うように但馬~山陰へ抜け、
日本海にそそぐ但馬随一の大河、円山川が流れ、
その谷地、つまり両岸に僅かばかりの平地が和田山まで続く。

円山川と並行して国道と、現在の播但道が走る。
そのような、立地であるから、
時折見られる平野部に小さな集落が固まって存在するのである。

但馬と言う言葉は、シマを“島”ではなく“馬”と書く。
地図を見てみると、山の稜線が永遠と続く。
それを見てみると、あたかも馬の背のようである。
そこから、タジマの『但馬』の字をあてたのではなったのではないかと、
勝手に思ってみる。
もしくは、逆に、円山川にそって続く、わずかな平地が、
馬の背のように見えるからかもしれない。

その平野と言っても、本当に小さななもので、
農地とて、人口比に対して充分に確保できないのは見てわかる。

竹田の地は、同時に「家具の街」としても有名である。
竹田の歴史を紐解いてみると、
『今から400年前に、竹田城主が木地師を招いて作らせた漆器が始まり」となっているが、
農業よりも林業が盛んなことも、これとは無関係ではないであろう。

さて、S部落がある、そんな小さな平野の一つには、
僅かな土地に、3つの集落がひしめき合っているが、
ことS部落に関しては、円山川へそそぐ地区内を流れる谷川と、
山裾に挟まれた小さな場所に押し込まれるように、
たくさんの家が建っている。
このような立地は、S部落に限らず、多くの農村部落で見ることができる。

多くの部落は、本村に属する「枝村」として存在していた。
本村が、豊かな大地に存在する反面、
枝村であるエタ村は、河原・崖下・傾斜地など、
人が住めず、農地にも適さず、かつ、危険極まりない場所をあてがわれた。
だが、それは、彼らの生活に必要不可欠の場所であった事も、
併せて書き留めなければならない。

当時の部落民つまり、エタは、皮革業を主な生業とすることを、
幕府より命ぜられていた。
(他に、牢屋番・町の治安維持・水場の管理・処刑人などを担ってきた。
つまり、現在の公務員の走りである)

牛馬を解体し、「皮から革」を作るのには、
広い場所と、大量の水を要した。
そんなわけで、河原というのは、
危険であるのに違いないが、カワタ(部落民)にとっては、
大切な生業の場所でもあったのだが、
国策による差別が公然とまかり通っていた時代には、
「解体・製革の際の臭いがキツイ!」という理由で、
より、本村から離れた場所へ、村を移転させられた記録が残っている地域もある。

かつて、S部落の先祖さまも、谷川で“なめし”をしていたのだろう。
この時代、出来上がった革は、大切な軍事用品であった。
甲冑や馬具にもちいられ、そのほとんどが、藩主のもとへ献上された。
今でも、城の周りに皮革産業が盛んな部落が残っているのは、
このような理由によるものである。

危険な地域で、製革業を営む代償として、
エタ村は、除地と言って年貢、つまり税金が免除されていた。
時代劇なんかでも、よく見るが、年貢の取り立てというのは非常に厳しく、
生活に困窮した貧しい農民たちは、逃亡して野非人にならないように、
5人組制度を作って互いに監視させたり、
逃亡までに至らなくとも、口減らしのために、
子達を売り飛ばすことは日常茶飯事であった。

エタ身分の人々には、この悲惨な年貢は課せられなかった。
代わりに、農民よりも下の位におかれ、
そして、虐げられ、憂さ晴らしの対象にされた。
それは、悲惨な農民よりも、さらに悲惨極まるものであった。
幕府に不満が行かぬように、巧妙に作り上げられた身分制度は、
「差別」という形で、現在に至るまで、長きにわたり存在することになる。

住居は、圧倒的に谷川と山裾に挟まれた場所に集中しているが、
谷川の反対方面にも、少数の住居がある。
そこには、比較的新しい住居と共に、10戸ほどの同じつくりの集合住宅が並ぶ。
或いは、これは、公営住宅かもしれないが、いずれにせよ、
川の向こう側は、過密により、近年築された住居であろう。

しかし、静かである。
部落内を周っている間に、雨が小雨になったせいもあるのだろうか、
または、平日の昼間ということもあるのかもしれない。
かつて、この部落を中心として、糾弾闘争が繰り広げられたとは思えないほど、
極々ありふれた農村である。

・・・ただ、2か所を除いては。

===================

「被差別部落の暮らし」見て記・行って記・被差別歩記-3
「八鹿闘争勝利記念碑:その3」へ続く。

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2015年7月15日水曜日

八鹿闘争勝利記念碑:その1/見て記・行って記・被差別歩記-3

以前、「被差別部落と学校の歴史」と題し、4回に渡ってお送りしてきましたが、
如何でしたでしょうか?

「学校教育と部落問題」については、各学校によってもそれぞれの歴史や出来事があり、
私もその全てを把握しているわけでもなく、一まとめに出来ないテーマですが、
私なりの解釈を持って記事にさせていただきました。

その中でも、“これは!!”と思うところに、
八鹿高校事件(部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件といいますが、
便宜上、八鹿高校事件とさせていただきます)があります。

八鹿高校事件に関しましては、本文中にも記述しておりますが、
当時の新聞報道等によれば、学校における、
教師に対する部落解放同盟員の暴力事件とされており、
一般的にもそのような解釈がなされております。

私は、事件が起こった当時は5歳。
事件については、それから後、
部落問題の勉強を始めてから知ることになるのですが、
未だ持って、事件の概要のみしか理解が出来ていません。

八鹿高校事件自体は、多くの書物等で解説がなされているのですが、
部落解放同盟側及び、教師側(共産党側)で書かれている内容が反するため、
概要のみしか理解できないのかもしれません。

いや、八鹿高校事件を知る方、それぞれがそのような解釈しか出来ないのかもしれません。
もしかしたら、事件と言うものは、最終的には、
当事者しか理解することが出来ないのかもしれません。


でも、そんな事件の真相に少しでも迫りたい・理解したいと、
私は、事件の舞台に向かいました。
【これから書く事は、今から5年ほどに訪問した時のものです】

=======================

天空の城・日本のマチュピチュと形容される竹田城址。
近年、ネットやテレビの影響も手伝い、これと言った観光資源のなかった
この小さな田舎町にも、多くの観光客が押し寄せる“ブーム”をもたらした。

しかし、その反面、短期間に多くの人々が押し寄せた代償として、
登山道や城壁に傷みが目立ち、今や、入城制限まで課せられる事態となっている。

文化財と言うものはおおむねそのような末路を辿るようである。
例えば、高松塚古墳の壁画。
今から、1400年以上も、美しい飛鳥美人の絵を保ってきたものが、
ほんの数年にして、カビだらけにしてしまったことは記憶に新しい。
「発見・ブーム」と同時に「破壊」となるのが、どうも今の文化財のありようの様だ。

その昔、京の都から西へ向かう街道を「山陰道」とはよく言ったもので、
なるほど、山陰への玄関口であるこの地も、山々に囲まれた間に、
小さな町や村が点在する。
さらに、南からは、姫路と当地を結ぶ「播但道」が交わる交通の要衝でもあった。

その様な場所に築城された竹田城は、
軍事上も、非常に重要な城であったに違いない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、この竹田城址ブームで一躍脚光を浴びた但馬地方であるが、
実は、それよりずっと前、今から約40年前に“事件”と言う形で、
有名になったことがある。

「八鹿高校事件」
(=部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件と言うが、
ここでは、便宜上、八鹿高校事件を用いる事とする)
このブログの読者諸氏においては、
八鹿高校事件は、ある意味聞きなれた出来事かもしれない。

今回の訪問記については、事件そのものを振り返り、
検証・批判するものではない。
あくまでも、その舞台のフィールドワークをまとめたものであるが、
やはり、事件に触れなければならない場面も出てくるだろう。
そこで、先ずはじめに、簡単に事件を振り返っておくこととする。

新聞報道等での「事件」としての扱いでは、
 
―1974年11月22日―
兵庫県・八鹿高等学校にて、生徒から要望があった
『部落解放研究会』設置に反対した教職員を、
部落解放同盟員が中心となり、
教職員に対し、監禁・暴力を加えた。

と言う事になっている。
しかし、事件は、そんな単純なものではないようだ。

先ず、大前提として言えることは、
一見、≪部落解放同盟vs教職員≫の対立と見てとれるこの事件も、
実は、部落解放同盟vs共産党という、政治闘争であったと言うことだろう。

当時、学生運動や労働組合をはじめとする、各種の社会運動は、
それまでより、一層過激になり、ヘルメットにゲバ棒で武装した勢力は、
他勢力とのぶつかり合いを度々起こす一方、
少しでも意見が違う場合は、仲間同士でも容赦なく血の制裁を加え、
その過激さは、日に日に拡大の一途をたどった。
(実際、あさま山荘事件に連なる、山岳ベース事件に象徴されるように、
多くのリンチ殺人事件を引き起こしていた)

それらの事件に大きくかかわったのが、日本共産党である。
共産党自身も、過去にリンチ殺人事件を起こしており、
驚くなかれ、国会に議員を送る「国政政党」でありながら、
今でも、過激派やオウム真理教関係団体などと並び、
公安当局の監視対象になっている。

現在の志位体制下では、そのような過去の過激な
イメージを一新しようとする努力も見れるが、
国から、「国家転覆を狙う危険な団体」と言うレッテルは、
現在も貼られたままである。

一方、部落解放同盟も、糾弾から、
暴力事件へと発展するケースがあったことは事実であり、
一部において、過激な行動をとる「武闘派」集団によって、
部落解放同盟=暴力団体と言うイメージが出来上がってしまったことも事実である。
また、部落解放同盟自体は、公安の監視団体には入っていないが、
そこから分派したある部落解放運動団体は、事実公安の監視対象になっている。
(公にはなっていないが、部落解放同盟も監視対象になっていた時代が
あったかもしれない。これは、あくまでも私の想像ではあるが・・・)

一方、当時の教員は、そのほとんどが日本教職員組合に加盟しており、
(現在は、日教組から分派した全教にも)
いずれの団体も、母体が日本共産党であることから、
組合活動をしている教員は、共産党員と言っても大きな間違いはない。

いまでも、卒業式や、入学式シーズンに、
教員が国旗掲揚・君が代斉唱に反対する一部教員が、
テレビニュース等で取り上げられるのはこの為である。

元々本人に共産思想がなくても、学校と言う特殊な労働環境の為、
周りの圧力により、必然的に組合に加入し、
次第に共産思想に染まっていくケースが多いようだ。
尾木ママをはじめとして、多くの方々が日教組解体を唱えているのは、
子供たちへの影響を考えた上でのことである。

この様な、時代背景の中で「事件」は起こった。

===================

冒頭、事件の概要を簡単に記述したが、
一方で、このような記述も掲載しておく。
八鹿高校解放研設立を訴えた生徒の手記である。

『この日、病院に入院された先生がいることはたしがである。
事実をもみ消すことはできない。しかし、この22日のことだけに焦点
を置いて考えることが正しいことなのだろうか?座り込み、
断食をおこなった21人の生徒の一人として私は先生たちの醜さ、きたなさ、
そして差別性を見てきた中で、どうしても許されないことだと思う。
私たちがどうしてここまでやったか。そして、やらなければならなかったか・・・』
(同和利権の真相の深層より抜粋)

八鹿高校では、全国の例に倣い、
解放同盟が指導する「解放研」の設置を学校側に求めたところ、
既に共産党系のサークル(部落問題研究会=部落研)が有ることを理由に、
これをを拒否。

生徒たちの抗議や、解放同盟員たちの糾弾により、
一旦は設置を認めたが、今度は、教職員がストライキ。
授業を中止し、職員室前でハンストを続けていた生徒を跨ぎ、
集団で本部が設置された旅館へと向かった。
それに対して、部落解放同盟S支部のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』メンバーが教員を学校へ連れ戻し、
暴行事件は起こった。

再度、付け加えておくが、この事件は、
部落解放同盟対共産党と言う
政治闘争の一つに他ならない。
ただ、事件の舞台が、子供たちが通う「学校」と言うことに、
大きな問題があるのである。

====================

以上が、事件の振り返りである。
先にも述べたように、この訪問記では、
事件の検証・批判に主を置いたものではないので、
事件の振り返りは、このへんにしておこう。

―いよいよ次回は、その舞台となった但馬をレポートします―

見て記・行って記・被差別歩記―3 八鹿闘争記勝利念碑:その1
(みてき・いってき・ひさべつあるき)


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2014年9月17日水曜日

水上勉の生家を訪ねて:その3/行って記・見て記・被差別歩記-1

行って記・見て記・被差歩記
        ←その1     「水上勉の生家を訪ねて:その3」    その2→

___________________________

《その2から続く》

サンマイ谷という記述からして、私がまっさきに思い浮かぶのは
-現在の部落民につながる-江戸時代、「穢多・かわた」同様に
被差別民であった「隠坊(おんぼう=隠亡)」の存在である。

隠坊は、各村に少人数存在する「葬送儀礼」に携わる職掌で、
墓場に居住して墓守をし、死者が出れば埋葬を行った。 
村にとっては必要不可欠な存在でありながら、
「身分制度と穢れ意識」により“差別”される人々であった。

隠坊も、詳しく書けば一つの文章になるので、
今回は簡単な記述にとどめておくが、
いずれ、改めて紹介したいかと思う。

水上の生家跡に立ち、先ず目に入ったのは、
青々と茂ったザクロの木と、その背後に迫る鬱蒼と茂った竹やぶだった。

竹やぶは、どうやら先程間違えた場所に続くようだ。

その竹やぶから幾分下方に視線を移すと、
初夏の太陽が照りつけ、明るく開けた現在の生家跡には相応しくない
5.6基程の古めかしい墓石があった。

墓地の区画はもう少し多く、10箇所ほどの区画が切ってあったが、
水差に枯れた花が手向けられている所を見ると、
墓石はなくとも、仏様が眠っておられる事は想像に難くない。

敷地内に墓場があるので、一瞬、
水上家は隠坊か?と思ってみたが、
よくよく考えれば「薪小屋を借りていた」と言うのだから
その線は否定される。

墓石に刻まれた戒名に目を通す。
部落問題を学んでいくにつれ、古い墓石を見ると
「差別戒名では?」と自然に目が行くようになるのだ。

長きに渡り、穢多・かわた(現在の部落民)は、死しても尚、
○○畜男・☓☓革女と言った「差別戒名」を付けられ、
墓に刻まれ差別されてきた。

部落解放運動の高まりとともに、
流石に今では差別戒名が残っている墓が無いことはわかっているが、
人権博物館で墓のレプリカを見て以来、
どうも確認することが癖ずいてしまったようだ。

現在私は、信仰する神仏を持たない無宗教者であるので、
戒名に関する知識は、あまり持ち合わせていない。
少ない知識ながらザッと見たところ、
どうやら、これまで学んだ差別戒名とは異にするようだ。
しかし、定かではないので、念のためメモに書き取っておく。
(後日、確認した所、通常の戒名であることを確認する)

確かに、敷地内に墓があるところから、
一見「サンマイ谷」の名称に相応しいかと思われるが、
村の墓にしては、墓の規模がかなり小さすぎる。

竹やぶの奥まで確認する事を怠ってしまい何とも言えないが、
どうも、この墓は先述の「M林左衛門さん」個人の
墓所であるのではないかと思われる。

ただ、墓の規模の大小はあろうが、水上は幼少時代を、
相当劣悪な住環境で育ったことには間違いない。

この事全てが、水上の残した作品に影響を与えたわけではないだろうが、
少なくとも、水上が生涯持ち続けた差別解消への思いは、
サンマイ谷での暮らしが大きなファクターであることは
想像に難くない。

《人は、人が住まない場所に住み、「乞食」と周りから言われ
差別されたからこそ人の痛みがわかるのだ。》
一瞬・・・。
ほんの一瞬だが、私にはそう聞こえた。

夕焼けに照らしだされる若狭湾に向って微笑む、
貧しいながらもたくましく生きる在りし日の水上少年の姿は、
今も私の心から離れない。

【終】
____________________________

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2014年9月11日木曜日

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差別歩記-1

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差歩記-1

 行って記・見て記・被差歩記「水上勉の生家を訪ねて:その1」
からのつづきです。(その1は、↑上記リンクをクリックして下さい↑) 
 __________________________

集落内は、非常に狭かった。
田舎の集落は道が広いイメージがあり、意外に思うかもしれないが、
山が近くにある集落は、案外どこでもこのような造りになっている。

少しでも農地が広いようにと、平地は田畑にしているから、
自ずと民家は山裾に張り付くように建つことになる。
私がフィールドワークで回っている農村型部落もまた、然りである。

だが、一軒一軒の家屋は大きく立派で、
土蔵を備えている家も少なくない。
かつて、ここが「乞食谷」と呼ばれていたとは思えないほどにだ。

案内板から100mも車を進めていないだろう。
おじいさんが教えてくれた公民館が現れた。
「公民館に車を停めて」と言う話だったが、
そこには「駐車禁止!」の看板が。
まぁ、地区住民の方が「良し」としておられたので、
少々気が引けたが、公民館の空き地へ車を停めた。
隣には地元の氏神であろう小さな神社がひっそりと佇んでいた。

車を降りて、私はうろ覚えのままその辺りをウロウロし、
おじいさんが目印に、と教えてくれたビニールハウスを探す。
程なくビニールハウスを見つけたが、どうも様子がおかしい。
「たしか、おじいさんはビニールハウスを左にと言っていたような・・・。」
まぁ、いいかと、右に曲がり、舗装が途切れた山方向へ歩き出す。 

左手に小川が流れる山道は、
周りを覆う竹林のせいで日がほとんど差し込まず薄暗い。
その上、天気が良いのに地面もジメジメと歩きにくいが、
それが、かえって水上の言う「乞食谷」にふさわしい
道のりであるように思えたのだった。

舗装道から山へ入り50mほど歩くと道がなくなり、
(今は忘れてしまったが)そこには鉄塔だったか何かが建っていた。

その場所は、事前に調べた生家跡の写真とは全く異なる光景だったので、 
さすがの私もどうやらコレはおかしいと思い、来た道を引き返した。
山を降り、車へ戻ろうと歩いていると、
前方から件のおじいさんがやってきた。

「あの~。わからなかったです」
というや否や、おじいさんは先程より幾分大きな声で、
「ソッチって言うてへんじゃろ!コッチじゃ!」と。
私の不案内さに呆れたかのように、
おじいさんは反対側の方向を指さした。

すると、その場からでも少し先にビニールハウスがあるのが見えるではないか!
どうやら、“ビニールハウス違い”をしていたようである。 
この間私は、てっきり“おじいさんがわざわざ教えに来てくれたのか”と思ったが、
おじいさんは話し終えるとスッと公民館前の民家に入っていった。
どうもおじいさんの家だったようだ。 

__________________________

車を停めた公民館から僅か30mほどのその場所は、
きっと普通に探しても探しきれないであろう。
左右に民家が建てられた僅か50cm程の獣道のような
“通路”が水上家へ続く“道”である。

左隣にある小さな水路と右手の土蔵の壁に
挟まれた舗装もない通路。
水上生家跡への入り口は、まさに貧困への入り口に相応しいものであった。

そこから少し山へ上がった所に少し広けた場所があり、
おじいさんの言う通り、ざくろの木が数本あった。 
位置的に言うと、先ほどの“土蔵宅”の裏手方面に当たるようだ。
しかし、間に幾ばくかの農地や草叢があることからも窺い知ることが出来るように、
水上の生家は、村からはじき出された様な格好で、
ポツンと一軒だけ存在していたようだ。

水上は、10歳で口減らしのために京都の寺に
出されるまでを、電気も水道もない、
乞食谷のこの地で過ごすことになる。

そこには、相当な貧困と謂れ無き差別があったことは
容易に想像できるのだった。 

水上はこう続ける・・・。
「人間は暮らせないところだということか、
死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、
谷の所有者でM林左衛門(注:著書中では実名)という素封家の
薪小屋を借りて住居にしていた。」

先ほどの集落案内図に戻ろう。
確かに、集落案内図には現在もM林左衛門さんの名が記されているし、
丁度、立地的にも間違いない。

私としては、「公の出版物(水上の著書)に実名を載せても大丈夫なのだろうか」などと 
余計な詮索をしてしまうのであるが、水上とMさんの関係はさておき、
「乞食谷」の「さんまい谷」ということから、益々穏やかではないのである。

ここまでは予備知識として知っていたし、
写真を見たこともあり、大方の想像も働いていたのであるが、
名前から想像するような、暗くジメジメしたイメージと大きく異なり、
実際の「さんまい谷」は明るく、初夏の太陽が目一杯降り注いでいた。

_______________________

その3へ続く。
行って記・見て記・被差歩記
        ←その1     「水上勉の生家を訪ねて:その2」    その3→


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2014年9月7日日曜日

水上勉の生家を訪ねて:その1/行って記・見て記・被差歩記-1

前回、予告編を書きました「行って記・見て記・被差別歩記」。
記念すべき第一回はどこを書こうか悩みましたが、
いちばん最近に行った所を書こうと思います。

では、はじまりはじまり~。
 _________________________
 ◎行って記・見て記・被差歩記-1
(いってき・みてき・ひさべつあるき-1)

「水上勉の生家を訪ねて 」
_________________________

被差別部落から見た現代文学史において
外す事ができない2人の作家がいる。

一人は、自らも被差別部落出身を半ば公言し、
部落をモチーフにした作品を執筆している芥川賞作家「中上健次」。

そして、もう一人は直木賞作家の「水上勉」である。

今となっては、何であったかすっかり忘れてしまったのだが、
以前、何かの折に水上の言葉を見聞したことがある。
 「京都の大学に通っているとき、近くの部落からお母さんと娘とが手を繋いで出てきた。
その頃のことが今でも心に残っている・・・」
うろ覚えで申し訳ないが、たしかこの様な文面であったかと思う。

また、水上は、大阪・浪速部落にある「大阪人権博物館《リバティおおさか》」の
設立に関わり、その銘板を書いていることからも分かるように、
非常に被差別部落と関係が深い作家であるが、
それは、彼の生い立ちに由来するところが大であろう。
_________________________

NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台となった
福井県・小浜市から西へ車で30分。
目の前に広がる小浜湾を眺めながら一息つく。

福井県O町。
5月の太陽は、もはや夏が訪れたように大きく暑い。
海を眺めている空には大きなトンビが「ピーヒャラ」と鳴き、
時折、海面から魚が跳ねる。
それだけでも、この地が自然豊かな街であることを
窺い知ることが出来るのだ。

原発地帯である福井県は、
不思議と被差別部落のある地に原発が建てられている。
同和財源や雇用を確保するためか、
それとも単なる偶然か、理由はよくわからない。

ここO町も例外ではない。
地区内に原発を含むこの地域では、
東日本大震災による原発事故よりもずっと昔(誘致時)から
原発推進派と反対派が村を2分し、現在も尚、対立が続くと言う。

私は、以前から度々この地区を訪れることがあり、
地区内に暮らす人々の話を聞いたことがある。
初めの頃は、反対派の方に推進派寄りの話し方をして
気まずくなったり、又、その逆もしかり。

今は、この地では迂闊に派閥の話をしてはいけない事がわかり、
話し方にも大変気を使うのである。

________________________

海側から国道27号線を越え、地区内陸部へと向かう。
JR線までの所狭しと家が並ぶ地域を超えると、
風光明媚な田園風景が広がる小さな平野に出る。

平野の真ん中に流れるS川は、
水上作品にも度々出てくる、
この地区を代表する川である。

かつて水上が見たであろうS川を眺めながら
しばし物思いにふける。
田舎の川と言うわりには、
お世辞にも綺麗とは言いがたい流れの中に、
大きなニゴイが2匹、3匹と泳いでいる。

やがて、水上がこの地にとどまっていれば
通うことになっていただろうO中学の昼休みを告げる鐘の音に、
私は再度 水上の生家を目指すことにした。

先ほど「小さな平野」と書いたように、
川を中心にした田園から、
左右から迫る山裾に沿う様に小集落が見える。
そんな集落の一つ「O集落」が水上の生まれた地である。

水上曰く、
そのO集落は、「近隣から長く乞食谷(コジキダン)」と
呼ばれていたそうである。

乞食谷とは些か穏やかではないが、
かつてO町内には被差別部落が一箇所あり、
1973年、部落解放同盟の設立が準備されたが、
集落内の融和ムードに押され消滅したそうである。
 
水上が生まれた「乞食谷」がそうであるかどうかは
分からないが、少なくとも周辺から
「乞食谷」と呼ばれるほど貧しく、差別されていた様子は、
その記述を見れば一目瞭然である。
(ある報告によると、「O町内の被差別部落の戸数は30戸」
と言う記述が有ることから、水上の生家の集落ではないかと思われるが・・)

水上は又、こうも綴っている。
「何故、乞食谷と呼ばれているのか今もわからない」・・・と。

_________________________

丁度、O集落の入口に住宅の案内図が掲げられていた。
以前は割りにどこでも見られた光景であるが、
近年、個人情報保護の観点から都会では、
住宅案内板はほとんど見なくなった。
まだそれだけ、この地が長閑だということであろう。

案内図には周辺地区や中学などの公共施設にも、
通し番号が振ってあるのだが、ざっと見る限り、
この地区の戸数は70戸ほどである。
車で集落に乗り入れた限りではわからなかったが、
こうして見取り図を見てみると、
この集落が山と山に挟まれた“谷”であることがよく分かる。

見取り図の14番に「水上」の苗字が見て取れるが、
フィールドワークの前に学んだ知識では、
水上の生家は現在は取り壊され、建物が無い事と、
水上の親類が、今も尚この地区に住んでいるということから、
どうやら、この家は水上の親類宅であるようだ。

案内図にはそれ以上の情報がなく、
途方に暮れていると、道路の反対側でトラクターの
整備をしている方がおられた。
私は車を降り、そこへ駆け寄った。

年の頃なら70歳半ば位のおじいさんであったが、
トラクターの整備をされているところから見て、
まだまだ現役バリバリの農夫なのであろう。

「スイマセン。この辺りに“ミズカミツトム”先生の
生家があると聞いてきたのですが。」

普段は、水上=“ミナカミ”と読む私も、
現地では本名の方が通じるだろうと、
あえてミズカミの読み方で言ってみたのである。

おじいさんは「ミズカミ・・・?」
と、やや怪訝そうな顔をして、こう続けられた。
「ミズカミさんとこは、もう何にもないよ。
随分昔に家も壊してなぁ・・・。
今は空き地にざくろの木があるだけじゃ・・・。」

案の定、おじいさんはミズカミを使っている。
だが、私が気がかりになったのはおじいさんの
怪訝ぶりである。
なにやら、人に知られたはいけない・・・、
なにか重大な隠し事をしている事を知られたような
そんな雰囲気が漂っていたのである。

私は、そのおじいさんの怪訝さに違和感を覚えた。
想像していた応対とは明らかに違った応対だったからであるが、
それは、取りも直さず、水上の生家を尋ねる人がほとんどいないことを
物語っているようだった。

実はこの集落の近くに、
生前、水上が私財を投じて作った「若州一滴文庫」がある。

これは貧しくて本も買えなかった幼少期の水上の思い
-地域の子供達に心ゆくまで本を読んでもらいたい-
という、「長年の思い」が形になったもので、

言わば、私設図書館である。

10年ほど前までは、水上の弟さんが管理をされていたらしいのだが、
弟さんの死後は、町が買い取り運営管理を行っている。
どうやら、殆どの方々は若州一滴文庫止まりで、
生家まで足を運ぶ方は少ないことが
おじいさんの応対から見て取れた。

おじいさんの「お前なぁ・・・一体どこからそんな事聞いてきたんじゃ!」

と、言わんばかりの空気を察した私は、
すかさず「行かんほうがいいですかねぇ?」と聞き返した。

「いや・・・。行ってみてもええけど・・・」と、
おじいさんはゆっくりとした口調で道を教えてくれ始めた。

どうも、私の杞憂だったようだ。

「田舎の方は、案外話下手が多いんだよなぁ」なんて事を、
随分前に死んだ、生涯田舎者だった祖父と姿を重ね思い出した。
おじいさんは続ける。
「ここをまっすぐ行った先の公民館の前に車を停めて・・・云々」

だが、不案内な場所である為、
おじいさんの言っていることの半分しかわからなかったが、
聞き返した所でわからないのは失礼に当たると思い、
おじいさんに礼を言って車に戻った。

その2へ続く。
 __________________________

  
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2014年8月28日木曜日

行って記・見て記・被差別歩記

新コーナーのお知らせ!

いつも「被差別部落の暮らし」をお読みいただき
ありがとうございますm(_ _)m

現在、当ブログでは・・・
◎生い立ち編
◎部落の文化
◎部落の生業(なりわい)
◎部落関連施設
◎部落及び、他の被差別地区
などの、各コーナを設けて執筆しておりますが、
いよいよ新コーナーがスタートいたします!

名付けて
「行って記・見て記・被差別歩記」
多少当て字ですが、《いってき・みてき・ひさべつあるき》と読みます。

私は、フィールドワークと致しまして、
約20年ほど前から、
できるだけ多くの部落や同和地区、人権資料館、
人権博物館、部落以外の被差別地区などを回っています。

実際に自分の目で見て、確認することで
部落の時代背景や成り立ちなどがより理解しやすくなります。
いくら本とにらめっこしても、
このような事は、現地に行ってみなくては分かりません。
「百聞は一見に如かず」の通り、
沢山の部落や博物館へ行ってきました。

そんな、記録をここに記したいと思います!!

部落だけでなく、差別・人権一般に関するレポも書いていく予定です。

ただし、地区名は例によって
 「具体的地区名の公表は差別を助長するので公表はしてはいけない」 
と言う“法務省の見解”にのっとり、
具体的地区名は公表できませんが、
「差別の助長」にならない範囲で、
できうる限り公表をしていきます。

ただし、例えば・・・
奈良県御所市の「水平社博物館」がある柏原は、
部落・同和地区として広く認知されておりますので
このようなケースは公表させていただきます。

記事頻度としては、これまで通りランダムでの掲載になりますが、
一読いただければ幸いです(^^)

今後も「被差別部落の暮らし」をよろしくお願いいたします。



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