【紺掻(こうかき)】
「職人歌合にみる中世被差別民の姿」と題したシリーズの第一回には、
もしかしたら相応しくないのかもしれませんが、
とにかく歌合の順番通りにやるには、
被差別民に関連しうる職人は避けて通れない訳で・・・
なぜ、相応しくないのかと言いますと、
「紺掻は果たして被差別民だったのだろうか?」
と言う、そもそものコンセプトを揺るがす疑問が出てくるのです。
網野善彦氏はその著書の中で、特殊な能力を持った職人は、
当時から、やはり特別な存在だっただろうと書いておられます。
とは言うものの、機織りに関しては、
私的には被差別民では無かったとの認識でおりますので、
ここでは紺掻に対しての検証になります。
とにかく、このシリーズに関しては、研究者の皆様には大変失礼ではありますが、
これまでの定説にとらわれず、独自解釈でやってみようと言う趣旨ですので、
ご無礼を承知で好き勝手書かせていただこうと思います。
紺掻・・・「こうかき」紺屋とも言われています。
所謂、染物屋さんです。
染物で被差別民と言えば「青屋」が知られています。
青屋は藍染を生業とする人々でしたが、地域によっては差別の対象とされ、
江戸時代には「エタと同等」と言う判例も出て、主に行刑の役を担いました。
元京都国立博物館学芸課長の下坂守氏は「紺屋と青屋は違う」と指摘されています。
紺屋は藍もやるが染物全般。
対して青屋は藍染めの傍ら、エタと共に行刑にあたった。
その道具についても、甕を使うのが紺屋で、桶を使うのが青屋ということですが、
実際にはweb上で藍染屋さんの写真や映像を見る限りでは、
(藍液で染まっているのでわかりにくいが・・・)甕様にも見えます。
Website:「しゃかいか!」より引用
職人歌合が書かれた時代は中世でしたので、
時代に伴って桶から甕へ変化したか、地域的なものなのかもしれません。
若しくは、紺掻が甕を使っている事から見て、
「紺掻が時代の流れとともに青屋へ変化した」とも考えられます。
ここは、更に研究の余地がありそうですが。
==========
さて、青屋が差別の対象であったのは、それ以外にも理由がありました。
藍というのは、抽出した液体(染料)は限りなく黒に近い緑、
或いは濃紺なのですが、染め終えて空気に当て酸化させると、
お馴染みの鮮やかな藍色に変わります。
科学が・・・いや、そもそも科学という概念自体が無かった時代、
「黒いものが時間を経て鮮やかな藍色に変わる⁉」
庶民にとって青屋の仕事は摩訶不思議に写ったに違いありません。
それだけでは済まずに、西洋の魔女狩りの如く畏怖嫌厭だった事でしょう。
また、染料に繊維をどっぷりと浸ける訳ですから、
腕が青く染まってしまいます。
そのような日常から離れた職人達の姿も、見方によっては
差別の対象になるには十分だったのかもしれません。
勿論、今は藍染の実用性や芸術性も広く認知されているので、
差別の対象にはなり得ないですが。
(何度も掲載してますが)紺掻 |
さて、歌合せに描かれた紺掻は甕を用いています。
そして甕に貯められた染料は薄い青色。
手に持った布も薄い青色=浅葱色をしています。
幕末に岡山で起こった渋染一揆は、
「衣服は無紋の渋染又は藍染」とした藩令に怒った
部落の先人達=エタが起こした反対一揆なのですが、
部落解放人権研究所 歴史部会学習報告(2008年1月19日)の中で、久保井規夫氏が
『渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる』
と指摘した上で、『渋染又は藍染は囚人服の色であった』と記述されています。
その事も、部落民に怒りを覚えさせるに、
十分すぎる理由の一つであった事でしょう。
========
先にも書いた通り、これからは私の全くの独自解釈ですが、
歌合わせが描かれた中世に、少なくとも紺掻は被差別民ではなかった。
しかし、時代の流れと共に次第に青屋と同化していき、
やがて賤視される存在になったのではないか・・・
そう考えるのです。
いずれにせよ、一度藍染屋さんにもフィールドワークしてみなければなりません。
【職人歌合に見る中世被差別民の姿-1 紺掻】
0 件のコメント:
コメントを投稿