~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2013年12月30日月曜日

差別の心が芽生え始めた少年時代(生立ち編-2)

私の妻は被差別部落出身です。
当然のことながら、「部落とは何たるものか?」と言う事も知っていましたし、
妻が部落出身であることも、十分承知の上での結婚です。
私が、結婚をするときには、
「部落出身だから」などと言う差別心は一切持っていませんでした。
その気持ちは、今でも何ら変わりません。

「部落民」と言う言い方は、あまり好きではありません。
何だか、この言葉自体が“差別”に聞こえるような気がします。

だが、あえて使うと、「私の妻は部落民です」という具合になります。
又、私の2人の子供も「部落民」と言う事になります。

講談社から発売されている、部落出身のライター角岡伸彦氏の
「被差別部落の青春」(何だか、当ブログタイトルと似ていますが・・)と言う本に、
部落出身の母が、子供に「あなたも部落民」と言う事を伝えるときに、
「お母さんは全ブラ、お父さんはノーブラやから、あんたは半ブラやな」と、
言っているのがすごく印象に残っています。
つまり、父も母も部落出身で自身も部落出身者である母と、
部落外出身の父が結婚して、生まれた息子が半分部落=半ブラと言っているのです。
すごく、イイ表現ですね。
私の子供の場合も、いわゆる半ブラになるわけです。

話を戻しますが、現在、私は、部落に対する差別心は一切持っておりません。

いつ頃からでしょうか・・・
はっきりとは覚えていませんが、ただ、一つ言える事は・・・
物心ついてから~少年時代は、
私は部落を、そして、部落出身者を差別していました。
その頃は、「部落」というものがどう言うものか分かりませんでしたが、
明らかに、感情的に「嫌」と言う気持ちがありました。
・・・差別心が芽生え始めたのでした。

つづく
部落を皆さんに知ってもらいたい!
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・

そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m

2013年12月21日土曜日

おいたちと部落の縁 (生立ち編-1)

昭和44年。
私は、A県の田舎村の病院で生まれました。
私の母がA県出身、警察官の祖父が転勤族で、
県内の署をいくつか変わっていた内の一つの村です。

母は、警察の社宅住まいだった祖父母のもとへ、
里帰り出産をしていたのでした。
祖父は、警察官と言う仕事柄、祖母を連れての転勤暮らしでしたが、
同じA県内に、実家がありました。

祖父の父、つまり私の曾祖父が、庄屋で村長だったこともあり、
かなり大きく立派な屋敷でした。
祖父は長男だったこともあり、いずれは家督を継ぐ身でありました。

一方、私の父親は、遠く離れたB市出身。
A県出身の母親とは、見合い結婚だったと聞いています。
私も、生まれこそA県ですが、今までずっとB市住まいです。
名家であった母とは違い、実は、父方の出自はあまり詳しくわかりません。

私も何度か聞いてみたことはあるのですが、
父親自体も、あまりわからないようでした。
出自を知られたくない場合、ごまかす方もいるかも知れませんが、
私の父の場合は、本当に知らないようです。
 ただ、断片的に話を聞いていても、
祖父の代までは、あまり裕福な家庭ではなかったようです。

父親の実家は、私が育った家から歩いて15分程の
C中学(父も私も通った)の向かいでした。
それこそ、私が中学生くらいまでは、
大工であった父の兄が、米屋さんに庭先を貸して居ました。
そんな賃貸関係などという事がが分から無かった子供の頃は、
叔父の仕事は、てっきりお米屋さんとばかり思っていました。

父方の祖父は、私が3歳の時に亡くなっているので、ほとんど覚えていません。
しかし、以前、父親に祖父のこんなエピソードを聞いたことがあります。
「戦後ヤミ米を隣県から運び、売っていた」
祖父は、 隣県のD県出身であり、そのD県から米を買いB市まで運んだそうです。
しかし、当時はヤミ米はキツく取り締まられており、
到着駅には、たくさんの警官が列車の到着を待っていました。

以下は、ある本からの覚書です。
「隣県からヤミ米を積んだ列車は、到着駅の鉄橋が近づくと
一斉に、河原へ向かってヤミ米を投げる。
下では、河原に住む被差別部落民が多数待機している。
商人は、無事駅に到着すると、スグに部落へ向かい、手数料を払って米を受け取る。」
このような仕組みが出来上がっていたそうです。
私の父方の出自はよくわかりませんが、
その頃の祖父が、部落と大きく関わっていたことは間違いありません。

それから先述の、父の兄である大工の叔父は、
部落出身の方と結婚していました。つまり、私の叔母にあたります。
また、中学時代に通うことになる学区内に、同和地区が含まれており、
その中学校で、部落の友人ができるなど、私の生い立ちの中でも、
小さな頃から“部落”と関わりがあったのも、何か運命的なものを感じます。


部落を皆さんに知ってもらいたい!
このブログを、多くの方に見てほしい。そして、
部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・

そんな気持ちで、ブログランキングに参加しました。
ブログランキング・にほんブログ村へ
どうぞ、クリックをお願いします。m(_ _)m