4月8日の早朝、叔父が亡くなりました。
義母の姉の旦那さんなので、私と妻双方、
血の繋がりがない三等身姻族の叔父です。
亡くなられる数週間前に、何度か「危ない」と言う話を
妻から聞いていましたが、前日の土曜日の晩、
仕事帰りの妻からの電話で「いよいよ」と言う連絡を受けました。
死因は肺炎からの多臓器不全。
68歳という若さでした。
義母と同じ部落内に伯父伯母は住んでいるので、
毎年、正月には挨拶に伺っていましたが、
今年は妻からキツく「行ったらアカン!!」と
釘を差されて行くことが出来ませんでした。
なんでも、酔っ払った私は相当騒ぐらしく、
迷惑がかかるからだとか。
酔っていなくても普段から騒がしい私としては、
そんなに自覚がないのですが、酔うと一層拍車がかかるそうです。
「正月ぐらいはいいやないか!!」
そんなこんなで、今年の正月には、
まだ元気だった叔父の元へ、挨拶に行けなかったことが悔やまれます。
さて、我が国には、冠婚葬祭に六曜を重んじる風習があります。
六曜・・・つまり大安・仏滅などですね。
叔父が亡くなったのが4月8日の日曜日。
赤口でした。
法律では、失くなってから24時間は火葬できないので、
葬儀としては、9日の月曜日以降ということになります。
ここで、周辺の六曜を記しておきます。
4月8日 赤口 何事も良くない日。正午から前後1時間は吉とされる。
9日 先勝 午前は吉。午後からは凶。
10日 友引 友を引くとして、葬儀は行われない。
11日 先負 午前は凶。午後は吉。
12日 仏滅 一日通して凶の日。仏事には向く日。
13日 大安 何事にもいいが、仏事は行われない。
以上のような暦から、10日の友引を避け、
11日の先負に葬儀と言う日程で行われました。
つまり、日本古来の風習である六曜を重んじた日程となったのです。
ところが、一方で、六曜は差別につながるとして、
廃止する動きも見られます。
部落解放同盟は、かねてより「六曜は迷信で、差別につながる悪習」として、
六曜を排除する方針を打ち出していますし、調べてみると、
明治政府も六曜を禁止する方針だったとか。
古来から我が国に伝わる風習がナゼ差別につながるのか?
それには、こんな訳があります。
「六曜は、ハレやケを暦に記したもの。
ケガレを記すことが差別につながる。」
「鎌倉辺りに中国から伝来した六曜が現在のカタチに落ち着いたのは、
江戸時代になってから。比較的歴史が浅く、迷信である。」
と言うのが主な理由のようです。
かつては、役所が配布する手帳や暦に六曜が記載されていたのですが、
部落解放同盟の糾弾によって、今ではどの自治体も、
配布物には六曜の記載はありません。
この様な経緯から、近年では、六曜を記載していないカレンダーも
増えてきました。
「それじゃあ、部落の人は全員、六曜を否定するのか?」
答えは「否」です。
叔父の葬儀の例を見てもわかるように、
部落民だから六曜を否定すると言うことは決してありませんし、
むしろ、六曜を重んじています。
一般的に、部落解放同盟の主義主張が部落民の総意と
思われているフシもありますが、決してそうではありません。
確かに。部落解放同盟は、運動団体としては最大規模を誇っていますが、
解放運動全盛で『猫も杓子も解放同盟』と言う時代から見ると、
現在は部落内でもマイノリティです。
そのような訳で、コアな解放同盟員は六曜廃止主義でしょうが、
あまり運動に積極的じゃない解放同盟員の中には、
“迷信”とされている、六曜を重んじる方々は多いんじゃないかと思われます。
こう書くと、「運動に積極的じゃない同盟員が居るのか?」
ということになってしまいますが、事実、それは有るでしょうね。
私の義母は、遠縁が支部長をやっていたため、
付き合い的に入っていましたし、周りがやっていたから
「なんとなく」ってのはあったと思います。
また、『過密で、新しい住居が必要になった際に、
同盟員には優先で部屋をあてがわれる』などのメリットもありました。
特に近畿地方では、過去に同和枠として公務員の優遇採用がありましたが、
その絶対条件として、同盟員や旧全解連などの運動団体に
所属していることが挙げられます。
又、これは同和利権に当たるので、批判に値する事例ですが、
税金の優遇措置を受けるために同盟員になるケースも有りました。
あの手この手で、同盟員の獲得拡大に努めいて来た解放同盟ですが、
このように書くと、まるで『悪の団体』であるかのようです。
しかし、解放同盟を始めとする各運動団体が、
差別の解消に邁進し、部落改善に大きな働きをしてきたことは事実ですし、
多いに評価されるべきだと考えます。
ただ、再度言いますが、”利権”に関しては、これを完全否定するもので、
部落解放運動に於ける汚点で有ることに間違いはありません。
明治4年の解放令が出てから、約150年と言う歳月が流れました。
しかし、ナゼ今も差別が残るのか?
水平社や部落解放同盟と言った運動団体がナゼ必要であったのか?
また、今日のテーマである『被差別部落と六曜』について、
ナゼ書く必要があったのか?
叔父の死~葬儀を見て、
今一度、考えさせられる今回の出来事でした。
~~~はじめに~~~
「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。
2018年4月19日木曜日
2018年4月1日日曜日
江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その9/見て記行って記被差別歩記-5
これは、どこの部落でもそうなのだが、
近年、少子高齢化の波は部落にも例外なく押し寄せ、
部落内の高齢化及び、地区内の空洞化が目立っている。
ここ川向(地区特定につながるので仮名とさせて頂く)もご多分に漏れず、
活動時間帯の朝だと言うのに、とにかく人がいない。
もともと、戸数20個ほどの小さな部落であるが、
実際に、現在住んでおられる方はもっと少ないに違いない。
それが証拠に地区内を回っている時、
幾つかの家に「販売中」の看板が掲げられているのを目にした。
その何れもが、玄関に草が生い茂り、窓はホコリで曇っている。
長く買い手がつかないのであろう。
理由は、此処が「部落」というだけでは恐らくない。
京都市と言えども、市内中心部から遠く離れた辺境の地で、交通の便が著しく悪く、
おまけに生活の基盤となる食料品や日用品を買いに行くにも一苦労となれば、
部落じゃなくても「住みたい」人は極端に少なくなる。
それでも、この地に生まれ、今も生活している方々にとっては“住めば都”で、
先祖代々受け継いだ大切な土地であることに違いない。
さて、肝心の江戸時代の牢屋であるが、
わずか20戸ほどの小さな部落とは言っても、
不案内な場所であるが故、どこにあるのか探しあぐねていたところ、
教育集会所の近くで、一人の女性に詳しく話を聞くことが出来た。
年の頃、60代後半とおぼしき初老の御婦人は、
田舎と言っても流石に京都。
どこか上品で、受け答えもハキハキとされており、
大変貴重なお話を伺うことが出来た。
「この辺りに、江戸時代の牢屋があると言う話ですが・・・」
婦人は一寸考える素振りを見せた。
(後に、振り返って考えてみると、婦人の間は、取りも直さず、
此処を訪れる人がほとんどいない事を物語っていたのだった)
「あぁ、牢屋ね。そこの家の奥に・・・」と、婦人は向かいの旧家を指さした。
なんと、丁度、家の前まで来ていたようだが、牢屋は奥に有る土蔵に併設していた為、
表の路地からは見えなかったのである。
スギムラ「牢屋の見学は出来るのでしょうか?」
婦人「今は、持ち主が変わられてね・・・」
何でも、この牢屋が発見されてから暫くは、見学者が怒涛の如く訪れ、
居住者はかなり辟易されていたとのこと。
当時を知る事情通に後日伺った所、部落関係者・学者・教育関係者などが、
連日、観光バスで押し寄せたらしい。
「・・・そんな訳で、牢屋は何年か前に取り壊されたんですよ」
思いがけない婦人の答えは、牢屋目当てで訪れた私のワクワクを
瞬時にかき消す勢いであったが、当の家主の気持ちを考えれば、
十分に納得出来る、いや同情さえしてしまう具合であるから致し方ない。
きっと、牢屋が発見されてからは、生活も一変したことだろう。
見ず知らずの人が、連日大挙をなして、山村の旧家へ押し寄せるわけだから。
それともう一つ。
これは、後で知ったことだが、地区の中でも「牢屋が有るから差別が残る」
と言う意見があり、取り壊しを所望する住民もおられたらしい。
或いは、この様な事も相まって、取り壊しに至ったのかも知れない。
先に「発見」と書いたが、ここで、この建物が、
どうしてにわかに注目を集めることになったのか少し触れておこう。
調べていくと、この建物が「牢屋らしい」と言う話が出たのが、
どうも、識字学級内でのことのようだ。
恐らく、字が読めるようになった部落の先人諸氏が、
牢屋(当時は農機具の倉庫として使われていたらしい)に
字が書いてあることを発見し、話題になったのであろう。
では、何と書いてあったのか?
下の冊子「川向(仮名)の歴史」表紙写真の右側に注目いただきたい。
牢屋内の柱の一本に『入牢も長むしハいやいや』と墨書きされていたのだ。
(スギムラ注:文中のハは、漢数字の八ではなくカタカナのハ)
識字学級内でこれが、牢屋ではないかと話題になり、
直ちに、地元の教育委員会・部落問題研究所が中心となって、
本格的な調査がなされた。平成三年のことだ。
一端、牢屋の話は置いておいて、婦人に伺ったお話を紹介しよう。
川向には、僅かばかりの改良住宅がある。
戸数6戸の二戸一住宅だ。
家の前には、八重桜と、この地方名産の園芸用の杉「台杉」が植えられている。
地区一の高台に位置し、とにかく静かで見晴らしが良い反面、
徒歩や自転車では上りが辛く、安全対策派がなされているとは言え、
背後の山からは土石流の危険もないとは言えない。
部落にありがちな立地である。
今現在も入居されている状態では有るが、
御婦人の話では,今後の入居者の募集は行っていないとのこと。
耐用年数の関係で、入居者がなくなり次第、解体の方針であるという。
又、このような話も有る。
「差別の話はありますか?」との問に、
「最近はないけど・・・」と言いつつ、
差別が厳しかった頃の話を聞かせてくださった。
「昔は、川の向こう側の本村の田んぼへ手伝いに行っていたの。
休憩の時にお茶を出してくれるけど、茶碗は欠けてるし、
明らかに洗ってないのね。それでも文句言わずに飲んだって話を聞いたわ」
「もしよかったら、昼から教育集会所で編み物教室があるのね。
その時に姉が来るから、差別の話は、姉の方が詳しいので聞いてみたら」
と、お話をいただいたが、残念ながら時間の関係でお伺いは出来なかった。
代わりに、前出「川向区の歴史」に差別の聞き取りが有るので書き出してみよう。
◎『Kさんのお爺さんは医者だったが、患者の家に上げてもらえず、
玄関先で患者を診た』
◎『患者に触ることが許されず、杖で脈を測った』
◎『雨宿りをしていたら、(部落のモンは)あっち行けと言われた』
◎全国的に、祭りや神事に参加できなかった事例は多々あるが、
此処でも例外なく神社の氏子として長く認められなかった。
その理由が『部落のモンは汚い』と。
ただ、大正13年には氏子として認められたと言うから、
同様の差別事象よりは、比較的早く神事に参加することが出来てはいるが、
本来、地域住民なら、古の頃から平等に氏子になっていなければならないわけで、
差別によって排除されたこと自体が問題なのである。
【続く】
近年、少子高齢化の波は部落にも例外なく押し寄せ、
部落内の高齢化及び、地区内の空洞化が目立っている。
ここ川向(地区特定につながるので仮名とさせて頂く)もご多分に漏れず、
活動時間帯の朝だと言うのに、とにかく人がいない。
もともと、戸数20個ほどの小さな部落であるが、
実際に、現在住んでおられる方はもっと少ないに違いない。
それが証拠に地区内を回っている時、
幾つかの家に「販売中」の看板が掲げられているのを目にした。
その何れもが、玄関に草が生い茂り、窓はホコリで曇っている。
長く買い手がつかないのであろう。
理由は、此処が「部落」というだけでは恐らくない。
京都市と言えども、市内中心部から遠く離れた辺境の地で、交通の便が著しく悪く、
おまけに生活の基盤となる食料品や日用品を買いに行くにも一苦労となれば、
部落じゃなくても「住みたい」人は極端に少なくなる。
それでも、この地に生まれ、今も生活している方々にとっては“住めば都”で、
先祖代々受け継いだ大切な土地であることに違いない。
さて、肝心の江戸時代の牢屋であるが、
わずか20戸ほどの小さな部落とは言っても、
不案内な場所であるが故、どこにあるのか探しあぐねていたところ、
教育集会所の近くで、一人の女性に詳しく話を聞くことが出来た。
年の頃、60代後半とおぼしき初老の御婦人は、
田舎と言っても流石に京都。
どこか上品で、受け答えもハキハキとされており、
大変貴重なお話を伺うことが出来た。
「この辺りに、江戸時代の牢屋があると言う話ですが・・・」
婦人は一寸考える素振りを見せた。
(後に、振り返って考えてみると、婦人の間は、取りも直さず、
此処を訪れる人がほとんどいない事を物語っていたのだった)
「あぁ、牢屋ね。そこの家の奥に・・・」と、婦人は向かいの旧家を指さした。
なんと、丁度、家の前まで来ていたようだが、牢屋は奥に有る土蔵に併設していた為、
表の路地からは見えなかったのである。
地区で一番大きな旧H家住宅(現在は持ち主が変わっている) かつては、枝村の庄屋を務め、寺の代わりに村人の集会所となっていた。 |
スギムラ「牢屋の見学は出来るのでしょうか?」
婦人「今は、持ち主が変わられてね・・・」
何でも、この牢屋が発見されてから暫くは、見学者が怒涛の如く訪れ、
居住者はかなり辟易されていたとのこと。
当時を知る事情通に後日伺った所、部落関係者・学者・教育関係者などが、
連日、観光バスで押し寄せたらしい。
「・・・そんな訳で、牢屋は何年か前に取り壊されたんですよ」
思いがけない婦人の答えは、牢屋目当てで訪れた私のワクワクを
瞬時にかき消す勢いであったが、当の家主の気持ちを考えれば、
十分に納得出来る、いや同情さえしてしまう具合であるから致し方ない。
きっと、牢屋が発見されてからは、生活も一変したことだろう。
見ず知らずの人が、連日大挙をなして、山村の旧家へ押し寄せるわけだから。
それともう一つ。
これは、後で知ったことだが、地区の中でも「牢屋が有るから差別が残る」
と言う意見があり、取り壊しを所望する住民もおられたらしい。
或いは、この様な事も相まって、取り壊しに至ったのかも知れない。
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どうしてにわかに注目を集めることになったのか少し触れておこう。
調べていくと、この建物が「牢屋らしい」と言う話が出たのが、
どうも、識字学級内でのことのようだ。
恐らく、字が読めるようになった部落の先人諸氏が、
牢屋(当時は農機具の倉庫として使われていたらしい)に
字が書いてあることを発見し、話題になったのであろう。
丸岡忠雄氏の詩「ふるさと」を版画にした識字学級諸氏の作品。 子供の頃に学校に通えなかった部落の方々は、 無くした時間を取り戻すため、ご高齢になってから識字学級へ通った。 |
下の冊子「川向(仮名)の歴史」表紙写真の右側に注目いただきたい。
牢屋内の柱の一本に『入牢も長むしハいやいや』と墨書きされていたのだ。
(スギムラ注:文中のハは、漢数字の八ではなくカタカナのハ)
識字学級内でこれが、牢屋ではないかと話題になり、
直ちに、地元の教育委員会・部落問題研究所が中心となって、
本格的な調査がなされた。平成三年のことだ。
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一端、牢屋の話は置いておいて、婦人に伺ったお話を紹介しよう。
川向には、僅かばかりの改良住宅がある。
戸数6戸の二戸一住宅だ。
二戸一の改良住宅。総数6戸 |
家の前には、八重桜と、この地方名産の園芸用の杉「台杉」が植えられている。
地区一の高台に位置し、とにかく静かで見晴らしが良い反面、
徒歩や自転車では上りが辛く、安全対策派がなされているとは言え、
背後の山からは土石流の危険もないとは言えない。
部落にありがちな立地である。
今現在も入居されている状態では有るが、
御婦人の話では,今後の入居者の募集は行っていないとのこと。
耐用年数の関係で、入居者がなくなり次第、解体の方針であるという。
又、このような話も有る。
「差別の話はありますか?」との問に、
「最近はないけど・・・」と言いつつ、
差別が厳しかった頃の話を聞かせてくださった。
「昔は、川の向こう側の本村の田んぼへ手伝いに行っていたの。
休憩の時にお茶を出してくれるけど、茶碗は欠けてるし、
明らかに洗ってないのね。それでも文句言わずに飲んだって話を聞いたわ」
「もしよかったら、昼から教育集会所で編み物教室があるのね。
その時に姉が来るから、差別の話は、姉の方が詳しいので聞いてみたら」
と、お話をいただいたが、残念ながら時間の関係でお伺いは出来なかった。
代わりに、前出「川向区の歴史」に差別の聞き取りが有るので書き出してみよう。
◎『Kさんのお爺さんは医者だったが、患者の家に上げてもらえず、
玄関先で患者を診た』
◎『患者に触ることが許されず、杖で脈を測った』
◎『雨宿りをしていたら、(部落のモンは)あっち行けと言われた』
◎全国的に、祭りや神事に参加できなかった事例は多々あるが、
此処でも例外なく神社の氏子として長く認められなかった。
その理由が『部落のモンは汚い』と。
ただ、大正13年には氏子として認められたと言うから、
同様の差別事象よりは、比較的早く神事に参加することが出来てはいるが、
本来、地域住民なら、古の頃から平等に氏子になっていなければならないわけで、
差別によって排除されたこと自体が問題なのである。
【続く】
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