~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年12月30日水曜日

被差別部落にて~今年1年を振り返る

今年も残りあと僅か。
私は今、未だに差別が残る「被差別部落」にて、
この文章を書いています。

今年一年、私は、“差別をなくす”ための活動の一つとして、
このブログを通じ、広く皆様に被差別部落の現状や歴史、
文化など、『被差別部落の暮らし』をお届けしてきました。

思い起こせば、私が、このブログを始めたのが2年前の12月。
今月で、丁度2周年を迎えました。

この2年間で、一日約1000~2000PV、
今日現在、累計で68万PVを頂きました。

多くの方にご覧頂いて、非常にありがたい限りであると同時に、
「部落問題」に高い関心を持っていただいている事に、
敬意を表する次第であります。

さて、このブログを御覧の皆様は、ご存知かと思いますが、
平成14年に、最後の同和関連法「地対財特法」が終了したと同時に、
国や地方自治体は、「同和問題は解消された」との見解を示しています。

果たしてそうなのでしょうか?
同和問題=部落差別は本当に無くなったのでしょうか?

先にも書きましましたが、「部落問題」に
多くの方々が、非常に高い関心を持っていただいていることからも見て取れるように、
残念ながら、「部落問題」は過去のものではありません。

今も尚、『差別』で悩み苦しむ人々がおられるのです。
又、将来その『痛み』を背負うことになる人々がいるかも知れないのです。

私に出来ること・・・
それは、これまで以上に、
多くの方々に「本当の部落」を知ってもらうこと。
部落の良さを知ってもらうこと。
部落の人々が、何ら我々と変わりの無いことを知ってもらうことなのです。

そのためには、私自身が“もっと部落について学ぶ”を心がけた一年でした。
今年も、現地フィールドワークに何度も足を運び、
書籍に目を通しました。

時に、部落の方々や各資料館の方々とも話をして、
被差別部落について、正しい知識を得るための活動をしてきました。

拙い文章で恐縮ですが、
このような活動で得た知識を、
皆様に伝えることができれば・・・。
微力ながら、このブログが、差別解消の為になれば、
この上ない幸せです。

近い将来、それが現実になることを祈り、
今年一年の挨拶とさせていただきます。

本年も、お読みいただきありがとうございました。

平成27年12月
スギムラ シンジ


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2015年12月25日金曜日

朝日新聞「隠れた部落差別、今もふるさとの料理出したら離れた客」という題名で

こんばんは。「被差別部落の暮らし」のスギムラです。
今日は、クリスマスですね。
皆さんそれぞれ、楽しんでいらっしゃることと思いますが、
どうも私は、人より変わっているせいか、
子供の頃よりクリスマスなどのイベントが苦手で。

妻や子供は、ケーキとかプレゼントとか、
何やかんだで盛り上がっているのですが、
私一人は冷め冷めムードなのです。

でも、子供が、「クリスマスプレゼントが枕元に置いてあった」と
嬉しそうに話しているのを聞くと、ホノボノとしますね~。
もちろん、プレゼントは、妻が用意しますので、
私はノータッチですが(*_*)

子供たちも、特に、小学5年の上の子は、
「サンタさんは不法侵入やんなぁ~」などと言っているくらいですから、
サンタの存在を信じてはいないと思うのですが、
下手なことを言うと、「来年からプレゼントがもらえない」などと考えるのでしょうか?
笑いながら「サンタさん来たで~」と言っています。
全く、したたかなものですね。

さて、昨日、いつもは1000件前後のアクセス数が、
40,000件と驚くほどに伸びました。

はじめは訳がわからず、「サイバー攻撃」でも受けたかと思いました。
このような状況の時は、テレビやメディアで取り上げられた時の反応ではないか?と、
被差別部落関連で、いろいろ手がかりを頼りに検索をかけてみましたが、
その日は、遂にわからずじまい。

統計情報を見てみると、24日の午後1時~2時から伸びていたので、
その時間帯のテレビ番組表などを探していたのですが、
今日、「これじゃないかなぁ」と言うのを見つけました。

それが、“朝日新聞デジタル版”に
「隠れた部落差別、今もふるさとの料理出したら離れた客」
という題で24日付で掲載された新聞記事です。
記事がUPされた時間帯も合致しますから。

なぜ、今回このような記事が書かれたのかはわかりませんが、
文面から判断するに、『解放同盟愛知連合会が40週年』とあるので、
それに関連してでしょうか?

以下は、記事の抜粋です。

部落差別の解消に向けて運動してきた部落解放同盟愛知県連合会(吉田勝夫委員長)が今年、結成40年を迎えた。生まれた場所などで忌避される部落差別。国や自治体に働きかけて、住環境などの改善や啓発を進めてきた。差別の実態は見えにくくなったが「様々な日常の場面で差別は残っている」と解放同盟県連幹部は話す。
 名古屋市居酒屋を経営する山本義治さん(38)は今年6月、生まれ育った地域で親しんできた料理をメニューとして紹介した。とたんに離れた客がいた。ふるさとは被差別部落とされた地域だ。
 「またか。まだ差別は残っているんだな」と感じた。「出身地を恥じることはない」という信念に基づく行動だったから、メニューはそのままで「スタイルは変えない」と言う。「生身の人間を見て、つきあってほしい」
 県西部の男性(40)は、小・中学生の娘2人には自分が結婚した時の体験を、まだ伝えられていない。
 20代の頃、妻にプロポーズした際「できないかもしれないよ」と出身地を告白された。自分の両親には「親族の結婚の妨げになる」と認められず、家を出た。披露宴に男性の両親や親族の姿はなかった。
 「結婚したい人と一緒になれたことが一番幸せ」と結婚は後悔していないが、娘たちには「いつか言わなきゃとは思う。だけど、娘の友だちやその親の反応が怖い」。
 同和対策事業特別措置法に基づき、1969年に環境改善が必要な地区に指定された県内のある地域では80~90年代、約4割が共同住宅に建て替えられた。1棟で2世帯用の共同住宅が軒を連ねる。消防車も入れない狭い道は一部残るが、主な道は広げられた。
 こうした状況を受け、全国地域人権運動総連合議長の丹波正史(せいし)さん(68)は「差別は全くなくなったわけではないが、部落差別の問題は大きく克服した」と話す。同団体は、解放同盟から運動方針を巡り分立した全国部落解放運動連合会(全解連)を受け継ぐ。全解連は2004年、「社会問題としての部落差別は解消した」として解散した。
 だが、この地区より、隣接する他の地区の路線価は2・5倍も上回る。付近の不動産会社は「まず購入する人がいない。価格の差より価値は低い」と明かす。
 07年には、被差別部落として地名などを掲載したホームページ「B地区にようこそ!in愛知県」の作成者が名誉毀損(きそん)の疑いで逮捕される事件が起きた。インターネット上には今も、差別的な書き込みが絶えない。解放同盟では、書き込みを見つけるたびに削除依頼などの対応を続ける。
 解放同盟県連の支部長加藤吉雄(きちお)さん(70)は、最近知り合った人に出身地を明かすと「あそこの人には見えんね」と言われた。「胸を張ってふるさとを語れないことがどれほど悲しいか。自分に置き換えて考えてほしい」(小若理恵)
機会はどうであれ、こうして、被差別部落について、
多くの方々に知っていただけるのは嬉しい限りです。

それと、被差別部落の食べ物。
ホント美味しいものがたくさんありますよ。

なんてったって、食肉に関しては、
私達よりも長い歴史を持ってますから!

先日も、本場の羽曳野で『かすうどん』を食べましたが、
ほんとうに美味い!!

刻んだ“油かす”をうどんダシで煮込んだだけのシンプルな料理なのですが、
シンプルなだけに、美味いのです。

油かすと言っても脂分は結構残っており、
油かすの油(ややこしいですね(-.-;))が溶けただし汁は、
思わず全て飲み干してしまいます。

『かすうどん』は阪南が発祥の地ですが、
この一帯は精肉業が盛んで、
特に羽曳野は、現在も沢山の業者さんが活躍しておられます。

その他に、馬肉を燻製にした「さいぼし」や「煮こごり」、
現在はかなりメジャーになりましたが、「モツ(ホルモン)」も
部落が長い食文化の中で培ってきた素晴らしい食べ物です。

上記、朝日新聞の記事中に
生まれ育った地域で親しんできた料理をメニューとして紹介した。
とたんに離れた客がいた。
とありますが、全く馬鹿げた話です。

私は、被差別部落出身ではありませんが、
こんな珍しい料理を出してくれる居酒屋なり料理屋さんがあれば、
ぜひとも進んで行ってみたいですね(*^^*)

部落だ!差別だ!何だで美味い料理にありつけない方は、
全く損な人生だと思います。


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2015年12月17日木曜日

未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈

いつも「被差別部落の暮らし」を応援いただきありがとうございます。さて、“被差別部落”と言う言葉は、
現在、『部落』の一般名称として、書籍などでもよく目にするのですが、
タマに見かける古い書籍では、
“未解放部落”と言う言葉が使われている物もあります。

被差別部落が一般化している現在では、
あまり馴染みがない“未解放部落”とは、
一体どういう言葉なのでしょうか?

実は、未解放部落は、被差別部落という言葉が一般化する
1950年代以前に用いられた言葉で、
意味は、全く一緒です。

部落の呼称は、時代ごとに変遷をたどっていきます。
それは大いに差別性と関係が有ることなのですが、
エタ→新平民→特殊部落などと、新しい語が作られるたびに、
それが、部落を差別する言葉へと変わっていき、
そのたびに、部落に対する“更に”新しい呼称が生まれて来ました。
(部落の呼称については、後日まとめて発表しようと思います)

その一つとして、未解放部落があるわけですが、
この言葉は、『被差別部落』と言う語が一般化した後は、
ある出版物で、特に見ることができます。

それが、『部落問題研究所』の出版物です。
部落問題研究所とは、読んで字の如く、
部落問題を研究する団体で、公益社団法人に認定されています。

所在地は、京都市左京区。
京都の中心街を流れる鴨川の上流、高野川岸にあり、
近くには、部落解放運動史上欠くことのできない超大物人物、
朝田善之助氏の生まれ育ったT部落があります。
(朝田氏は、松本治一郎氏の後を継ぎ、部落解放同盟中央執行委員長
として数々の現代部落史に残る活動を行った)

朝田氏の詳しい経歴等は、又機会を設けるとして、
今回は、部落問題研究所の話に戻しす。

研究所は、先ほど、朝田氏の生まれ育ったT部落の近くにあると書きましたが、
それは、研究所の設立に朝田氏が大きく関わり、
当初は、朝田氏の自宅が研究所として使われていたからでしょう。

実は、研究所はその後、内紛・闘争などの右葉曲折を経て、
現在は、共産党系の運動団体「全国地域運動総合連(=以前の全解連)」の
指揮下に置かれています。

この団体には、朝田氏を始め原田伴彦氏・奈良本辰也氏など、
部落研究の第一人者が所属していましたが、
1960年代後半から表面化した内紛により、
「部落解放同盟」と
「部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連=後の全解連)」に
袂を分かちます。

つまり、部落解放同盟を後押しする社会党と、
正常化連を後押しする共産党との政治闘争に他ならないわけですが、
この頃から、両運動団体の活動にも大きな違いが現れます。

60代以降、行政闘争を本格化させる解放同盟に対し、
同和施策の放棄を全面に押し出した全解連は、
度々対峙。
学生運動の内ゲバさながらの、
暴力を伴う勢力争いが活発化していきました。

前回「見て記・行って記・被差別歩記(みてき・いってき・ひさべつあるき)
でも書いたように、八鹿高校事件もそのような闘争の一つです。

============

さて、研究所では、研究成果が本として出版されていますが、
この状況、何かによく似ていますね。

そうです。
解放同盟が母体である「解放出版社」です。

つまり、運動での対峙関係が“部落解放同盟VS全解連”であるならば、
言論での対峙が“解放出版社VS部落問題研究所”と言うことになるのではないでしょうか。
私は、解放同盟系の解放出版社の本も多く読みますが、
対局する部落問題研究所の本も別け隔てなく読んでいます。

ここに、部落問題研究所が1984年に出版した写真集「写真記録 部落」があります。
写真家・藤川清氏が長年撮りためた各地の部落の写真に、
研究所の主要研究者であり、理事を務めた東上高志氏が解説を加えて、
一冊の本に仕上がっています。

今は多分絶版でしょうね。
古本屋を丹念に探せばあるかもしれません。

この本は、不良住宅時代~改良住宅が建ち、
生活の向上が見られ始めた頃迄の、部落の人々や町並、
生業、生活を写し出したとても貴重な写真集です。

写真は、白黒とカラーがありますが、
見どころは、なんといっても白黒写真。
改良住宅が建設される以前、1950年代の写真達です。

・今にも崩れそうな家
・つっかえ棒がしてある家
・屋根に大きな穴がいくつも開いている家
・傾き、戸が閉まらない家
・漆喰が剥がれ雨に洗われ削れた外壁
・屋外に設けられた朽ち果てそうな共同便所
・道端で水を汲み、家事をする人々
・雨がふらずともぬかるんだ道を鍋を持って歩くお母さん
・小さな部屋で雑魚寝する家族
・うず高く積まれた下駄の山
・皮なめし
・熱心に寺社で説法を聞く老人たち
・雨に煙るボタ山
・炭鉱事故で並ぶ棺の数々
・そんな暮らしでも、明るくはしゃぐ子供たち・・・

どれも貴重な写真であり、
実際にあった部落の暮らしなのです。

この本の中、東上高志氏の解説には部落が
「未解放部落」と表記されています。

いや、部落問題研究所の書籍には、
未解放部落が好んで使われています。

=========

そんな、未解放部落ですが、
私独自の新解釈として、(あくまで、私独自の使い方なので一般的には全く使えません)
次のような解釈をしております。

皆さんは、同和地区という言葉はよくご存知かと思います。
所謂、行政に同和地区指定された部落のことですが、
部落には、もう「一つの部落」があります。

それが、『未指定地区』です。
これは、行政上の言葉ですから、“部落”になんらかわりがありません。
しかし、未指定地区は何らかの事情で、
同和地区指定を受けなかった、
若しくは受けられなかった部落のことです。

だから、同和地区指定が始まる以前は、
どちらも部落で統一されていたわけですが、
指定以降は、地区指定部落(同和地区)と、
未指定地区にわけられるのです。

更に、未指定地区は現在、二極性を持って存在しております。
一つは、地区指定がなされなかったために、部落が解消された地区です。

「えっ!?同和地区指定がなされなかったのに部落解消?」
と思われる方がいるかもしれませんが、
これは実際の話しです。

特に、都市部の部落に多く見られるのですが、
地区指定されず、改良住宅や隣保館などの所謂「同和モニュメント」が
建てられなかったことにより、一般地区化してしまい、
現在では、部落問題の専門家であっても案外「知られていない」事が多いのです。
専門家でも知らないのですから、
一般地区住民には到底わからない。

そんな訳で、現在は、一般地区からの転入者が、
元の部落民を大きく上回っている所が多いですね。

知っているのは、地区または、部落近隣地区の古老だけ。
その古老達も結構な年の方が多いので、
ゆくゆくは、ここが部落であったことが葬り去られるでしょう。

同和地区指定された部落が、
部落問題解消の為にと造られた「同和モニュメント」のせいで、
未だに部落差別や地区差別があるのは皮肉なものですが、
兎にも角にも、未指定地区の一端はこのような状況です。

ここで、
「ん?やけにスギムラは、未指定地区の現況に詳しいなぁ!?」
と思われる方々もおられるでしょう。

そうなんです。
私、スギムラは・・・・

いや、いや、この話の続きはいずれ生立ち編で書くことにして、
未指定地区の続きです。

未指定地区のもう一端。
こちらは、先の未指定地区と両極端をなすのですが、
今尚、差別に苦しみ、且つ同和施策が受けられなかった未指定地区です。
これは、地方や農漁村部落に多いのですが、

◎地区が同和指定を受け入れなかった
◎地区戸数があまりにも少なく、解放同盟が組織できなかった
◎部落の顔役(ドン・ボス)の意向で地区指定を受けられなかった
など・・・

各部落によって種々の事情がありますが、
いずれも、現在も尚、多くの差別事象が見られます。

それはナゼか?

実は、これら地方の農漁村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。

当然、小さくて閉鎖的な農漁村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人々が存在しない閉鎖的な農漁村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありません。

今でも、このような地方の農漁村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。

==============

さて、ここからが私の独自の解釈ですが、
この『未解放部落』という言葉、
実は、「このような劣悪な未指定地区を表す語として使ってもいいのでは」
と考えております。

つまり、同和施策を受け、法律面では同和問題は解消され
(事実は別として)“部落解放”されたとする旧同和地区、又、
大都市に於いて完全解放された未指定地区を解放部落とするならば、
今でも、上記のような劣悪な環境下の未指定地区を
未解放部落と呼んでもいいんじゃないか」ということです。

言葉というものは生き物です。
時代により変化をしていきます。

昨今、度々国語の乱れが指摘されています。
“役不足”や“流れに棹さす”などの言葉が、
実際とは逆に使われているケースが半数を超えたとか・・・

でも、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
国民の半数以上が逆の意味で使っているのなら多勢に無勢。
違った使い方が、今度は本流を占めるのです。

国語の将来を憂う学会関係者達は、
多分に危機感を覚えており警鐘を鳴らすのでしょうが、
私などは、このような考えです。

かつて、新たな言葉を作ってきたのは女性達だといいます。
例えば、紫式部の源氏物語などでは、
数々の新語が使われ、
当時の常識から逸脱した言葉とされてきたそうです。
しかし、時代を経るに従って、
それらの言葉が一般語として定着したのです。
なので、『未解放部落」にも新たな解釈ができてもいいのではないでしょうか?

話はそれてしましましたが、
今日は、未解放部落と部落問題研究所について
書いてまいりました。

最後に・・・
私の提唱する新たな『未解放部落』の使い方、
皆様はいかがお考えでしょうか?
よろしかったら、コメント欄にてご意見を聞かせていただければ幸いです。

これからも、部落の暮らしを通じ、
完全なる部落差別解消を唱えるスギムラシンジがお送りしました。


I believe to Buraku disappearance,
and all of racism too

Thank you so much.

My blog 「hisabetuburaku no kurashi」 presidency
Sinji Sugimura


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2015年12月14日月曜日

散髪屋【生立ち編-37】

散髪屋は男の社交場とはよく言ったものです。
ご近所さんが集まり、、客同士で話が盛り上がります。

私が小学校の頃,行きつけの近所の散髪屋でこんなことがありました。


そこは、店主1人でやっている小さな散髪屋で、私が待合で待っているとき、
散髪台にいた初齢のおじいさんと店主が話をしていました。


客「あそこの〇〇さん。“出”はいいんやで」
店主は、ハサミを動かしながら、すかさず客に応対します。


店主「そうみたいですね、〇〇さんはそうみたいですねぇ。
   でも☓☓さんは、あまりでは良くないはずですよ」


待合で待っている私は、その言葉を聞いた時、
散髪屋の待合に必ず置いてある“漫画本”をフッと伏せ、
店主たちの会話に耳を傾けました。


それ以前の会話はもちろんですが、それ以降の会話も、
今となってはあまり覚えていません。
それ程までに、その「部分」が鮮明に脳裏に焼き付いているのです。


部落に関しての知識が、他の誰よりもあっただろう小学校の頃の私は、
そのことが何を意味しているかすぐにわかりました。


店主たちが「出」と言っているのは出自の事ですが、
在日韓国朝鮮人とか、被差別部落民とは言わずに「出」という単語で表現することに、
かなりの差別性と悪意を感じます。


当時、私が住んでいた近所には在日韓国・朝鮮人の集落があり、
在日のクラスメイトもたくさんいました。
中の良い友達も数人おり、よく一緒に遊んだものです。
彼らは、通名を名乗っていましたので、
在日系の通名はある程度把握していました。


そう言う訳で、店主達が話す名前から、その対象者が
在日韓国・朝鮮人では無いことがすぐにわかりました。


そうです、店主と客は明らかに部落のことを言っているのでした。


話は変わりますが、私はこれまでに、学校や職場などで、
時折、在日韓国・朝鮮人や被差別部落民の
差別的な話をしているのを耳にしてきました。


はっきり言って、その手の話をしている彼らは、全く周りのことを考えていない。
周りに在日韓国・朝鮮人や被差別部落民がいることもあるだろうに、
そんなことお構いなし。
その空間に存在する周りの人すべてが、
「差別を受けていない人々」であると勘違いするのでしょうか?


散髪屋の店主たちもそのような状況であったと思います。
そこに、誰よりも“被差別部落”に敏感な『私』と言うものがいるにもかかわらず…


もしかしたら、店主と客は、私が子供だと思い油断していたのかもしれません。


ただ彼らの中に、差別の心があった事は事実だと思います。
話の対象となった〇〇さんや、× ×達は、被差別部落出身でありながら、
おそらくこの近所に居を構えていたのでしょう。


先にも書きましたように、この会話は、
その部分だけがすごく印象に残っており、
今から40年近く前の経験ですが、今でも私の心の中に残っています。
ただその部分のインパクトが凄く凄く強く、
それ以外の会話の内容はほとんど覚えていません。


でも、このことからわかるように、周りからの受け売りで、
その言葉・・・ここでは『出』と言う言葉だけが、
私の心に深く刻まれ、新たな差別の火種へと繋がっていきます。


差別とは、そういうことです。


・・・つまり、周りからの受け売り・先入観・偏見・噂などが、
差別の元凶なのです。


「部落は汚い」
「あそこの子とは遊んだらアカン」
「川の向こう側は怖いところやで」
「部落は穢れてる」
etc・・・

時に親から、時に近所さんから、
時に学校の友人から吹きこまれた噂や風評は、
全くのデマであるにもかかわらず、
子供の心には、それがあたかも真実のように、
簡単にインプットされます。

しかも、社会経験の少ない子供にとっては、
どんどんと、その小さな頭の中で“デマ”は増長し、
やがてそれは、畏怖という形で、
彼ら、彼女らの中で大きく大きく膨らみ、インプットされます。


これで、簡単に新たな『差別者』の出来上がりです。


部落について、正しい知識を持ってもらいうことが、
部落差別をなくす近道なのです。
そのことを皆様が正しく理解していただける迄、
私は、このブログを続けいていきます。

                 スギムラ シンジ

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