近年、少子高齢化の波は部落にも例外なく押し寄せ、
部落内の高齢化及び、地区内の空洞化が目立っている。
ここ川向(地区特定につながるので仮名とさせて頂く)もご多分に漏れず、
活動時間帯の朝だと言うのに、とにかく人がいない。
もともと、戸数20個ほどの小さな部落であるが、
実際に、現在住んでおられる方はもっと少ないに違いない。
それが証拠に地区内を回っている時、
幾つかの家に「販売中」の看板が掲げられているのを目にした。
その何れもが、玄関に草が生い茂り、窓はホコリで曇っている。
長く買い手がつかないのであろう。
理由は、此処が「部落」というだけでは恐らくない。
京都市と言えども、市内中心部から遠く離れた辺境の地で、交通の便が著しく悪く、
おまけに生活の基盤となる食料品や日用品を買いに行くにも一苦労となれば、
部落じゃなくても「住みたい」人は極端に少なくなる。
それでも、この地に生まれ、今も生活している方々にとっては“住めば都”で、
先祖代々受け継いだ大切な土地であることに違いない。
さて、肝心の江戸時代の牢屋であるが、
わずか20戸ほどの小さな部落とは言っても、
不案内な場所であるが故、どこにあるのか探しあぐねていたところ、
教育集会所の近くで、一人の女性に詳しく話を聞くことが出来た。
年の頃、60代後半とおぼしき初老の御婦人は、
田舎と言っても流石に京都。
どこか上品で、受け答えもハキハキとされており、
大変貴重なお話を伺うことが出来た。
「この辺りに、江戸時代の牢屋があると言う話ですが・・・」
婦人は一寸考える素振りを見せた。
(後に、振り返って考えてみると、婦人の間は、取りも直さず、
此処を訪れる人がほとんどいない事を物語っていたのだった)
「あぁ、牢屋ね。そこの家の奥に・・・」と、婦人は向かいの旧家を指さした。
なんと、丁度、家の前まで来ていたようだが、牢屋は奥に有る土蔵に併設していた為、
表の路地からは見えなかったのである。
地区で一番大きな旧H家住宅(現在は持ち主が変わっている) かつては、枝村の庄屋を務め、寺の代わりに村人の集会所となっていた。 |
スギムラ「牢屋の見学は出来るのでしょうか?」
婦人「今は、持ち主が変わられてね・・・」
何でも、この牢屋が発見されてから暫くは、見学者が怒涛の如く訪れ、
居住者はかなり辟易されていたとのこと。
当時を知る事情通に後日伺った所、部落関係者・学者・教育関係者などが、
連日、観光バスで押し寄せたらしい。
「・・・そんな訳で、牢屋は何年か前に取り壊されたんですよ」
思いがけない婦人の答えは、牢屋目当てで訪れた私のワクワクを
瞬時にかき消す勢いであったが、当の家主の気持ちを考えれば、
十分に納得出来る、いや同情さえしてしまう具合であるから致し方ない。
きっと、牢屋が発見されてからは、生活も一変したことだろう。
見ず知らずの人が、連日大挙をなして、山村の旧家へ押し寄せるわけだから。
それともう一つ。
これは、後で知ったことだが、地区の中でも「牢屋が有るから差別が残る」
と言う意見があり、取り壊しを所望する住民もおられたらしい。
或いは、この様な事も相まって、取り壊しに至ったのかも知れない。
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どうしてにわかに注目を集めることになったのか少し触れておこう。
調べていくと、この建物が「牢屋らしい」と言う話が出たのが、
どうも、識字学級内でのことのようだ。
恐らく、字が読めるようになった部落の先人諸氏が、
牢屋(当時は農機具の倉庫として使われていたらしい)に
字が書いてあることを発見し、話題になったのであろう。
丸岡忠雄氏の詩「ふるさと」を版画にした識字学級諸氏の作品。 子供の頃に学校に通えなかった部落の方々は、 無くした時間を取り戻すため、ご高齢になってから識字学級へ通った。 |
下の冊子「川向(仮名)の歴史」表紙写真の右側に注目いただきたい。
牢屋内の柱の一本に『入牢も長むしハいやいや』と墨書きされていたのだ。
(スギムラ注:文中のハは、漢数字の八ではなくカタカナのハ)
識字学級内でこれが、牢屋ではないかと話題になり、
直ちに、地元の教育委員会・部落問題研究所が中心となって、
本格的な調査がなされた。平成三年のことだ。
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一端、牢屋の話は置いておいて、婦人に伺ったお話を紹介しよう。
川向には、僅かばかりの改良住宅がある。
戸数6戸の二戸一住宅だ。
二戸一の改良住宅。総数6戸 |
家の前には、八重桜と、この地方名産の園芸用の杉「台杉」が植えられている。
地区一の高台に位置し、とにかく静かで見晴らしが良い反面、
徒歩や自転車では上りが辛く、安全対策派がなされているとは言え、
背後の山からは土石流の危険もないとは言えない。
部落にありがちな立地である。
今現在も入居されている状態では有るが、
御婦人の話では,今後の入居者の募集は行っていないとのこと。
耐用年数の関係で、入居者がなくなり次第、解体の方針であるという。
又、このような話も有る。
「差別の話はありますか?」との問に、
「最近はないけど・・・」と言いつつ、
差別が厳しかった頃の話を聞かせてくださった。
「昔は、川の向こう側の本村の田んぼへ手伝いに行っていたの。
休憩の時にお茶を出してくれるけど、茶碗は欠けてるし、
明らかに洗ってないのね。それでも文句言わずに飲んだって話を聞いたわ」
「もしよかったら、昼から教育集会所で編み物教室があるのね。
その時に姉が来るから、差別の話は、姉の方が詳しいので聞いてみたら」
と、お話をいただいたが、残念ながら時間の関係でお伺いは出来なかった。
代わりに、前出「川向区の歴史」に差別の聞き取りが有るので書き出してみよう。
◎『Kさんのお爺さんは医者だったが、患者の家に上げてもらえず、
玄関先で患者を診た』
◎『患者に触ることが許されず、杖で脈を測った』
◎『雨宿りをしていたら、(部落のモンは)あっち行けと言われた』
◎全国的に、祭りや神事に参加できなかった事例は多々あるが、
此処でも例外なく神社の氏子として長く認められなかった。
その理由が『部落のモンは汚い』と。
ただ、大正13年には氏子として認められたと言うから、
同様の差別事象よりは、比較的早く神事に参加することが出来てはいるが、
本来、地域住民なら、古の頃から平等に氏子になっていなければならないわけで、
差別によって排除されたこと自体が問題なのである。
【続く】
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