~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2017年2月26日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40

はじめに・・・
■実はよく実態が分からない未指定地区の現状

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40」
と、題してお送りしてきました『被差別部落の暮らし』ですが、
ここで、もう一度、テーマの確認と、整理をしておきたいかと思います。

なぜ、今回、鳥取ループ=宮部氏の検証に、
あえて、生い立ち編を持ってきたのか?
それは、今後、まとめ本編において、
この事が重要になってくると、考えております。

それには、未指定地区について、
詳しく述べる必要があるのですが、
実は、現在では、未指定地区の実態が、
わからなくなりつつあるのが実情なのです。

例えば、同じ被差別部落である、
地区指定された「同和地区」に関する本や行政資料・論文は、
それこそ、山の数ほど存在しますが、
いかんせん、未指定地区のことに関してまとめられたものは、
現在のところ、皆無といっていいのではないでしょうか?

タマに、ひと昔、ふた昔前の本で、その存在を、
僅か小稿に見ることができる程度です。

もしかしたら、何処かの大学などで、
専門に研究されている方がおられるかもしれませんが、
それは、とりもなおさず、
「実態が分からなくなっている」と言うことの裏返しなのです。

先に申しました通り、
被差別部落の大部分を占める“同和地区”に関しては、
それらの記録は、こと細かに残っているのです。

それは、何故か?
以下、簡単ではありますが、説明させていただきます。

最後の同和関連の法律である、
地対財特法が終了して、早十余年の月日が流れました。

その法律が終了するまでは、
同和行政は、国・行政の事業であることから、
国や地方公共団体によって、
毎年、詳細な報告書を作成・公開する必要がありました。

その内容は・・・
地域住民の世帯・人口にはじまり、
主な職業や、進学率と言った国勢調査様の事から、
改良住宅の仕様や、同和事業、又その予算など、
多方面にわたる同和地区の実態が、
事細かに記載されていました。

ある地方公共団体では、これらの報告書は、
地対財特法が終了するまで、
約60年程、毎年作成されていました。
(この地域では、昭和44年の同和対事業策特別措置法制定・施行以前の
昭和20年代から、同和地区実態調査として、報告書が作成されていた)

このように、現在は、作成されていない同和地区の実態調査ですが、
これまでの、膨大かつ、長年の調査の積み重ねや、
推移傾向により、現在でも、
同和地区の生活実態を推測することは容易です。

また、同和地区に関しては、部落解放同盟をはじめとする、
各運動団体も、莫大な数の独自の資料を持っており、
そちらの方向からも、同和地区の実態については、
アプローチすることが可能です。
(ただ、運動団体の内部資料については、
関係者=運動員以外、入手・閲覧は難しいが、
知り合いに運動員が居れば、
閲覧ぐらいはさしてもらえるかもしれない)

■翻って、未指定地区の場合はどうだろう?

各種の同和事業や、国行政の補助を、
一切排除し、一般地区化の道を選んだ未指定地区においては、
とにかく、資料の作成という点では、
全くと言って言い程なされていないと思われます。

まず、行政資料ですが、
同和法の施行期間中も、それ以降も、
行政の対応とすれば、「一般地区」という扱いになるので、
前途したような、詳細な資料・報告書の作成がなされていない。

それに加え、運動団体の組織化も行われていない為、
運動団体の報告書・資料にも全く、
存在が挙がってこないのです。

また、現在は、同和地区に対する補助は一切無くなったが、
法律が生きていたころの同和事業は、
税金を投入して行われたため、各市町村の例規集で、
その存在意義の説明をはじめとして、旧隣保館や、
或いは改良住宅の場所や戸数までも、詳細に謳っています。

このような例規は、インターネットでも、
非常に詳細な内容を確認することができるが、
一切の同和事業や、補助を排除した未指定地区については、
それらの記述は、まったく見ることがありません。

以前、部落解放同盟の地方本部施設で、
未指定地区の実態について、お話を伺った事があるが、
対応いただいたプロ?の方も、やはり、
未指定地区の実態は、よくわからないということでした。

部落のプロ?でも、わからないので、
我々自称・素人研究者が、わかるわけがない。

ただ、全国の大学などの研究機関を探せば、
未指定地区に詳しい方がおられるかもしれないが、
もし、そのような方をご存じの、読者様がおられたら、
教えていただければありがたいです。

今日は、まとめの序章も3回目になりました。
未指定地区の研究は、まだまだ未知数なことが多く、
これらの事項は、全くの一部も一部。
かなり、ショボイ研究結果になっておりますが、
少しでも、未指定地区の現状を、
理解していただけるお手伝いができれば光栄です。

スギムラシンジ

■解放には程遠い
~農漁山村の未指定地区~

私は、未指定地区は、2つに別けられるのではないかと、
常々考えている。

一つは先述したように、私が住むような都市型の未指定地区である。
これについては、混住化が進み、もはや、
解放され、一般地区化したと言っても過言ではない。

しかし、未指定地区にはもう一つの型がある。
それが、農漁山村型の未指定地区である。

元々、人口が少なく、人の出入りもない農漁山村は、
被差別部落も零細な部落が多く、
戸数僅か2~3戸と言うような部落が多く存在する。

そのような部落では、今でも劣悪な住環境、
そして、重大な差別に悩まされているケースが多いと思われる。

想像をしていただきたいが、
元々人口が少ない農漁山村では、
その近隣の人々の顔や、名前、或いは居住地までも、
容易に認識することが出来るであろう。
それを承知の上で、以下の記事をお読みいただきたい。

実は、これら地方の農漁山村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。


当然、小さくて閉鎖的な農漁山村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人が存在しない、

閉鎖的な農漁山村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありませんし、

所謂、村八分のような状況に置かれることも珍しくありません。


今でも、このような地方の農漁山村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けられなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。


これは、以前「未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈」
と言う記事の中で書いた、農漁山村の未指定地区の現状に、
一部加筆したものである。

■地区指定をなぜ受けなかったのか?

「それぞれの部落によりそれぞれの理由がある」
一言で言えばこのような表現になってしまうが、
1000箇所の未指定地区が有るということは、
1000個の理由があると言える。

これが本当の答えなのであろうが、
それでは、説明にならない。

ここでは、幾つかの例を交えて解説していきたいが、
一つ言えることは、地区指定を“受けなかった”、
或いは“受けられなかった”のは、
地区住民の意向が優先されたと言うことだ。

つまり、同和地区指定は、行政からの働きかけ以上に、
地区住民(運動団体)からの働きかけで行われたことで、
行政は、それらを認定するだけの役割となってしまったのだ。

◎農漁山村型部落の場合
同和地区指定を受けるには、部落解放同盟をはじめとする、
行政との窓口になる運動団体を設置せねばならなかったが、
農漁山村型の部落の場合、戸数2~3戸の部落が多く、
実質的に、運動団体を組織することが出来なかった。

◎同じく農漁山村型の部落
都市との隔たりがあり、温度差があった。
情報の伝播が遅れていた。

◎都市近隣部落・都市型部落の場合
産業や農業基盤がしっかりと確立しており、
部落といえど、経済的には恵まれており、
一般的水準の生活が営まれていた。
そのため、同和地区指定を受け、
同和施策を享受する必要がなかった。

◎思想的な背景
所謂。「寝た子を起こすな」的な考え方をする住民が多い場合、
同和地区指定を受けることは、事を荒立てるとして、
これを拒否した。

◎政治的な背景
政治的に、地区指定を拒んだケースも有る。
特に、共産思想の住民が多い場合には、
地区指定を受けなかった。

◎地域の有力者
地域の有力者が、地区指定を拒むケースが有る。
特に、指導的な役割をしていた「寺社」の意向が
反映される事が多かったという。

◎利権(地域の有力者Ⅱ)
利権というと、同和利権が頭に浮かぶだろうが、
例えば、このようなケースも有る。

ある部落で、その部落の住民を多数雇う
土建業の親方(ボス)がいたとしよう。

土建業の親方は、
相場より安い賃金で部落の人を雇い、
膨大な利益を得ていた。

そんな中、下手に同和施策を受け入れ、
住民の生活が向上し、オマケに仕事まであてがわれたら、
商売上がったりである。
そのため、ボスの意向で、
同和施策を受け入れる事を拒んだ。

幾つか、例を上げたが、
このような理由で、同和地区指定を受けなかった
(受けられなかった)わけであるが、
中には、部落を二分する、
激しい抗争が起こった地区があったことを
付け加えておかなければならない。

■【参考】法律施行以前にもあった同和事業

ここでは、同和地区指定の話に関連して、
参考として、以下のコラムを設けることとしよう。

実は、同和事業は、1969年の同和対策事業特別措置法の
施行により開始されたという見解が一般的だが、
実は、それ以前にも、同和事業が行われていた例がある。

京都市では、行政闘争の先鋒となった昭和26年の
『オールロマンス事件』を契機に、
早くも、2年後の昭和28年、K部落に於いて、
団地型改良住宅の建設を行っている。
その後、順次、市内の被差別部落でも、
改良住宅が建設されている。

又、それに伴い、昭和35年には、市内5箇所の
同和地区指定を行っている。
同法施行の9年も前の話だ。

また、それ以前の記録では、
京都市に於いては、社会事業の名の下、
既に大正8年には、H部落で、託児所が建設されているし、
大阪府に於いても、大正7年には、
部落改善事業の兆しが見え始めている。

特に、三重県では、明治38年に、
全国に先駆けて行政主導の
部落改善事業が行われたと言う記録がある。

何らかの資料からの覚え書きによると、
明治・大正期に主流を占めた、
民間主導の融和事業とは異なり、
言わば、後の同和事業のハシリであると言えよう。

この様に、国による本格的な同和対策事業以前に、
国及び、地方自治体に於いては、
独自に社会事業或いは、同和事業の名目で、
部落の生活改善に取り組んだケースもあったが、
それは、まだまだ、断片的なもので、
本格的な部落改善事業によって、
部落民全体の生活向上が見られるようになるには、
やはり、同和対策事業特別措置法の施行を待たねばならなかった。

部落を皆さんに知ってもらいたい!
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2017年2月17日金曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2&生立ち編-39


前回は、私の住まいが、
被差別部落であることを書いてみました。

それと同時に、私に関する「被差別部落との縁」に
ついても書いてみました。

ホント、つくづく思います。
私って、「部落に縁があるのだな~」って。

なぜなら、ここが、部落って知らずに、
家を買ったからなんです。

何かに引き寄せられて、
被差別部落に住むようになったんだと思います。
繰り返しになりますが、それが縁なのですね。

今日は、そのあたりを中心に書いてみたいと思います。


■わからなかった被差別部落

私が、家を購入した理由は前回書いたが、
この物件にしたのは、
一言で言えば「惚れた」からであった。

一軒目の融資が、担保価値が無いと言う理由のもとに、
融資が通らず契約破棄になったのに対し、
現在の住まいの物件に関しては、
文句なしの一発融資だったことも、
大きな要因であった。
買う気はあっても、融資が通らにゃ話しにならない。

しかし、分からなかった。
ずっ~っとわからなかった。
住んでからも10年間もわからなかった。
まったく、そんな素振りも、この地区は見せなかった。
分かったのは、今から7年程前。
本当につい最近だ。
部落研究を語っていても、まったく恥ずかしい限りであるが、
でも、それ程までにわからなかったのだ。

ここが、被差別部落であることを・・・

購入当時、今から17年前のことであるが、
その頃は、もう既に私は、部落差別者から足を洗い、
逆に、部落差別反対者になっており、
スタンス的には、今と全く変わらない立ち位置であった。

だから、部落に住むことを何とも思っていない。
と、いうか、素晴らしいことだとさえ感じている。

なぜなら、毎日が「被差別部落の暮らし」なのであるから。

もちろん、そのころから、部落研究も行っていたし、
市内の同和地区は、全て頭に入っていた。

でも、わからなかったのだ。
市内全ての同和地区は頭に入っていたはずなのに・・・

全ての同和地区は。。。


全ての同和地区。。。


同和地区。。。


ん!?同和地区!?

被差別部落だけど、同和地区じゃない?


そう、ここは、未指定地区なのだった。


■同和地区と未指定地区

このブログをご覧の方なら、既に承知の事柄かもしれないが、
被差別部落は、行政によって2つの形に別けられている。
別けられていると言っても、国や地方公共団体が、
同和関連の法律を施行するのに、
「便宜上別けただけ」の話であって、
現実には、何れも被差別部落であることには変わりない。

これらの用語は、行政用語であることを
ご承知のうえでお読みいただきたい。

同和地区というのは、国或いは、地方公共団体に
同和地区指定された被差別部落であって、
地区指定部落ともいう。

多くは、住環境をはじめとする生活改善、
所謂、同和施策を受けるために、
住民(運動団体)の意志により同和地区化の方向へ進んでいったが、
中には、何らかの理由により、
地区指定を受けなかった被差別部落がある。

それらの地区は、行政用語では、
未指定地区・未指定部落と言い、
国や地方公共団体の一切の補助を放棄、
若しくは、放棄しなければならなかった被差別部落で、
現在は、全国で1000箇所ほどあると言われている。

私の住んでいるような、都市圏の未指定地区の場合、
旧隣保館や浴場などの、
所謂「同和モニュメント」が一切なく、
部落外の人々も多数流入して混住化が進んでおり、
もはや、被差別部落の面影は殆ど無く、
一般地区化していると言っても過言ではない。

翻って、住環境の改善を目指して数々の
同和モニュメントを擁した同和地区では、
皮肉にも、それらの公共施設が仇となり、
現在でも、差別解消どころか、
逆に差別を受けるランドマークとなっているのは、
いくらなんでも、皮肉な話である。

つまり、パッと見てわかる部落と、
パット見、わからない部落が存在するわけだ。

ついでに言うと、同和問題=部落問題と思われているフシがあるが、
同和問題は、同和地区にのみ限定される問題であって、
差別云々を問題視するというのであれば、
未指定地区を含む表現である『部落問題』を使うのが正しい。

■見えなくなった部落
~都市型未指定地区~

繰り返すが、私は、この地へ引越してから、
約10年の間、ここが被差別部落であることが、
全くわからなかった。

繰り返しになるが、すでに、その頃にも、
被差別部落の研究も細々とではあるがおこなっていたし、
近隣地域の同和地区へは、
実際にフィールドワークへ出かけ、
目で見て、足で歩いて学んでいた。

恥ずかしながら、それでもわからなかったのだ。
駅から4分で、人通りも多く、
全く一般地区と変わらない。
私が越してきた時は、わずかに田畑が見られたが、
年々、それを埋め立て、新しい暮らしが始まる。

興味本位の部落ウオッチャーが喜びそうな廃墟や、
バラックなども一件もない。
至って普通の地区である。

ただ、今となっては、
一部、道がやけに細く、袋小路になっている所や、
隣近所の地域には無い、とても立派な公民館が有ること、
(現在は公民館と記載があるこの建物も、
昔の住宅地図を見ると、○○市福祉会館と記載されている。
この市で福祉会館といえば、同和地区にしか無い。)
又、根拠が無いが、私には、感じるものがあった・・・
地区の寺が、なんとなく他の部落にありがちな雰囲気を醸し出していたこと。

これら、幾つかの、「部落であろう」ヒントがあったことは事実である。

地域の古老の話によると、5~60年前までは、
50世帯ほどの部落であったということだ。
都市といえども、周りは田んぼだった時代である。

それが、現在では400世帯にまで膨らんでいる。
半世紀の間に、8倍に膨れ上がったわけであるが、
その殆どが、田畑を埋め立て、
宅地化されたこの部落へやってきた、
部落外の人々である。

概ね、都市部の未指定地区はこのような状況になっている。

少なくとも、私が把握している限り、
当市には5~6箇所の未指定地区があるが、
何れも、現在は、同じように「一般地区化」していると言っても過言ではない。

結論から言うと、都市型の未指定地区の場合は、
概ね、“解放された”と言っていいと思われる。

それは、元の地区住民(部落民)の数よりも、
流入民がはるかに上回り、かなりの混住化が進んでいる事。

また、同和地区に見られるような、
改良住宅、隣保館や人権センター、浴場、福祉施設など、
所謂、同和モニュメントが見られない事。

もちろん、同和施策を受けていないので、
行政の例規集などにもその存在は上がってこない事。

そして、何よりも、被差別部落としての存在を知るもの(高齢者)が、
時代と共に少なくなり、又、何れ居なくなってしまう、
つまり、被差別部落であった事実が葬り去られるであろう事。

このような理由が挙げられるのではないだろうか。

=================

今回、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2&生立ち編-39」
と題して、未指定地区について解説してきましたが、
実は、これまでに書き続けていた文章が、
何故か忽然と消えてしまったのです。

最後に記事を書いた後も、キチッと保存して作業を終了しましたが、
サーバーの関係なのか、或いは回線事情か、
全くわからないのですが、とにかく文章が消えてしましました。

そこで、記憶を頼りに復旧作業を試みて書いておりますが、
最初の文章の出来が良かった為か、
納得のいく文章が書けていないような気がしてやみません。

記憶というものは曖昧で、中々、
当初通りの復元というわけには行かないのが実情です。

又、以下にも、このテーマで続く文章がありまして、
農漁山村の未指定地区の実情や、
地区指定を受けなかった理由、
そして、どのようにして、
此処が被差別部落と分かったのか・・・
それらを、執筆しておりましたが、
前途の通り、消滅し、
もう、悔しいやら泣きたいやら。

また、もう一度、書かねばならないと言う疲労感に潰されそうですが、
しっかりと、書いて、皆様に読んでいただきたい所存です。

と、言うわけで、本日はここまでで、
一度公開させていただきます。

これからも、被差別部落の暮らしをよろしくお願いします。

スギムラシンジ

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2017年2月5日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章1&生立ち編-38

『部落差別解消推進法の成立』に於ける、
キーパーソンの一人である宮部龍彦氏について、
「鳥取ループ(=宮部氏)は部落差別推進者か?」
との題目で、2回にわたって検証してきましたが、
いよいよ、まとめに入っていきます。

しかし、まとめに入る前に、
一度読んでいただきたい章があります。

本来なら、連載中の『生立ち編』で、
順を追って書くべきなのでしょうが、
今回、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?」の
まとめをする上で、非常に大切な事柄となっていくと思われますので、
今回、あえて、“まとめ”に『生立ち編-38』を絡め、
書いてみようと言う趣旨であります。

只今連載中である『生立ち編』の、
時系列からかなりずれ、
現在の話をしなければならないので、
読者諸氏には、誠に読みにくく、
内容が通じづらいこともあるかと思われますが、
それを承諾の上で、お読みいただければ幸いです。

                           スギムラシンジ


■被差別部落に住んで

私は、今現在、被差別部落に居を構えている。

もちろん、妻の実家がある被差別部落ではない。

いま、この記事を執筆している住まいは、
妻の実家から、車で30分ほど走った、
妻の出身部落とは、全く別の被差別部落である。

このブログでも、折にふれて“それらしいこと”を匂わしてきた。

例えば、一昨年12月30日に記した『被差別部落にて~今年一年を振り返る』
は、現在の住まいである「この家=被差別部落」で書いたものだし、
今、読み返してみれば、一昨年12月17日に記した文章
『未解放部落と部落問題研修所。そして独自解釈』では、

ここで、
「ん?やけにスギムラは、未指定地区の現況に詳しいなぁ!?」
と思われる方々もおられるでしょう。
そうなんです。
私、スギムラは・・・・
いや、いや、この話の続きはいずれ生立ち編で書くことにして、
未指定地区の続きです。


・・・等と、
何やら意味深な書き方をしている箇所も見受けられる。

そう、それらの全てが、今回、明らかになるのであるが、
私の妻に至っては、何年か前に「部落を出て、又部落に嫁いたなぁ」等と、
笑い話のつもりで声を掛けると、
どうやら、彼女には、冗談には聞こえないらしく、
結婚して暫くはあった“愛想笑い”も、今となっては全く無く、
いかにも邪魔くさそうに「何がおもろいねん!」と、
渾身のオヤジギャグは、木っ端微塵に粉砕されてしまうのであった。

■おいたちと部落の縁
そんな、被差別部落の暮らしであるが、
もちろん、私とは、全く縁もゆかりもない・・・
いや、間違えた。
「縁があっての部落暮らし」なのである。

そう。
このブログの“こけら落し”には、あえて、
「おいたちと部落の縁」と題した記事を書いたが、
その時には(物語がより、ドラマチックになるように)
あえて語っていなかった大きな縁の一つが、
このブログタイトル通り「被差別部落の暮らし」なのである。

では、なぜ、この部落へ住むことになったのか?

これに関しては、本当に、
不思議な『何か』で結ばれていたとしか考えられない。

それが、“縁”だと言うのはわかるが、
やはり、住むべくして住むことになったのであろう。


■家を買う

この部落へ住んでから、早くも17年の月日が過ぎた。

私が、育った長屋での暮らしが、20余年であったから、
そう少しでそれに迫るし、今の状況では、引っ越しの予定もないから、
このまま行くと、この部落での暮らしが、
あと数年後には、「人生で最も長い住まい」ということになりそうだ。

17年前、私は、前妻と二人の子供とともに、
この部落から、車で5分ほどの場所で、
アパートを借りて暮らしていたが、
幼稚園児の子供は、男兄弟ということもあり、
昼夜問わず大暴れするものだから、
次第に、近所から、苦情が来るようになった。
30歳の頃だ。

部屋も手狭になってきたので、
意を決して家探しをすることになったのだが、
沢山の新聞広告やら、不動産屋があるなか、
予算に合わせて、数件をノミネートし、見て回った。

全く初めての事だったので、
何軒見て回っても、しっくり来るものがなく、
家を買うのは大変なことだと、つくづく思ったものである。

案外時間がかかったと思う。

ある一件に的を絞り、遂に契約へ至ったのであるが、
実は、「100%惚れ込んで」と言う訳ではなかった。

ある意味根負けだ。

広告を吟味し、家を見て回ることに辟易気味であった。

尾崎豊じゃないが、「早く自由になりたかった」のだ。


そんな訳で、やっと契約に至り、
あとは、引っ越しだけと、安堵したのもつかの間。
数日して、何故か支払ったはずの手付を持って、
不動産屋がやってきたのである。

「実は、銀行ローンが通りませんでした。
だから、今回の契約は破棄致します」と。

銀行から借金出来なければ、
買うことは出来ないので、
契約破棄は当然なのであるが、
当方に問題があるのではなかった。

彼の言い分としてはこうだ。
「今回は、物件に問題がありました。
前面道路が狭く、担保価値が無いということでした」

なるほど。
銀行も、先のバブルで痛い目を見ているので、
「闇雲には貸さないゾ」と言う姿勢は、致し方ないところであるが、
しっかりと、物件を見に来ての判断らしいので、
その対応も、半端ないものである。

また、当方が、幸運だったのは、
担保価値のない家を掴まされずに済んだことだが、
今となっては、きっと、誰かの手に渡っていることだろう。

ただ、付け加えておくが、終の棲家とするのであれば、
環境もよく、暮らしやすい良物件である。

しかし、困った事に、住宅購入は振り出しに戻ってしまった。

だが、それから程なくして、
とても惚れ惚れするような物件が出てきたのだ。
早速、不動産屋と共に、家を見に行ったが、
今度は、人がまだ住んでいるという。

これまで、空き家ばかり見て回っていたので、
今までにない展開に少々戸惑うが、
無事家を見終えて、更に気に入ってしまったのだ。

どこが、そんなに気に入ったのかというと、
今まで、比較していた数々の物件のどれよりも、
土地が広く、家も大きかったのだ。

それでいて築年数も浅くて、駅から徒歩4分の好立地。
オマケにガレージまであるので、駐車場代も掛からない。

なぜ、こんな物件が!?
何か、いわくつきの家か?

と、思ったのも案の定、
いわくつきの物件であることが判明した。
・・・とは言っても、大げさなものではないが、
初めて、家を買うものとしては、
売買を大いに迷うようなことだった。

実は、家主は賃貸として、かの物件を貸し出しており、
家を借りている方(私が、見に行った時は、
この方々が住んでいた)が、
賃貸契約中であることを理由に、
家を明け渡さないと言ってたらしい。

売り主は、賃貸契約中であるにもかかわらず、
なぜ、売り急がなければならなかったのかは、
今となっては知る由もないが、
とにかく、期日までに明け渡すことを拒んでいるという。

その辺りのことについては、
「売り主が責任をもって、期日までに明け渡すから」と言う、
不動産屋の言葉を信じ、
売買契約を結ぶ事になったのである。

*家は、無事期日までに明け渡された。
不動産屋に後日聞いた話では、
売り主が、賃貸契約者に立ち退き料100万円を支払ったという。

かくして、無事、家を手に入れることが出来た。

今回分かった事は、
家を買うとことは、何だか「恋愛」に
似ているのではないかと思ったことだ。

一方から「欲しい欲しいと」
いくら時間を掛けて、口説き落とそうとしても、
ダメなものはダメだし、
今回のように、「相思相愛」でスッ・パッと決まることもある。

これが縁だというものなのだろう。
お金を出せば買えるというものではないことが、
不動産には言えるのではないだろうか。

さて、世間的には、いわくとは言わないかもしれないが、
そんな出来事を経ての家購入であったが、
そんなことは些細な事で、
この物件が、お買い得なこととは、微塵も関係ない。

では、なぜこの物件が、
他の地域の物件より広く大きな、
お買得物件だったのか?

それは、この地が、
被差別部落であることに他ならないからであった。


【鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章2へ続く】

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