前回、「丹波マンガン記念館」の話で少し寄り道をしたが、
今回から、本題である「江戸時代の牢屋を訪ねて」に話を戻そう。
江戸時代の牢屋が残るのは、京都市・京北の“*川向(かわむこう)”と言う地区。
【*地区特定に繋がるおそれがあるので、仮名とさせていただく。】
“川向”と言う名が示す通り、川を挟んだ向こう岸、山の斜面に沿った20世帯弱ほどの
小さな集落が、かつて役人村であったこの部落なのだが、この地名の由来こそが、
この部落から見ても『向こう岸』である、本村の枝村(枝郷)だったからである。
即ち、江戸時代以前のムラの相関関係としては、本村が第一で、
枝村は本村に隷属する存在であった。
その為、本村から見た「川の向こう側」と言う地名となっているのだ。
独立村はかなり少なかった。
例えば、“安倍晴明の母”とされる『葛の葉(白ぎつね)伝承』が残る、
大阪府和泉市のM部落は独立村であったが、それは村制度上だけの話で、
「独立した穢多村だから差別を受けない」ということは全く無く、
他の枝村の部落と同じく、非常に厳しい差別を受けていたことは、
改めて此処に書くまでもないだろう。
私の手元に2冊の冊子がある。
一つは、『わかば』と題された冊子。
川向地区の識字学級の活動をまとめたもので、
識字で学ばれた方々の作文や、川向の歴史、識字学級で演じられた団体劇のシナリオなどが、カラー写真付きでまとめられた、非常に貴重な一冊である。
1995年に発行されたもので、些か古い書物ではあるが、
当時の、この地区の詳細を知るには、十分過ぎる資料だ。
ちなみに、識字学級とは、子供の頃、差別や貧困で学校に通えず、
“学ぶ機会”を失った方々が、「無くした時間」を取り戻どす、人生二度目の学校のことである。
「識字」と言う言葉に我々はピンと来ない。
なぜなら、それが当たり前になっているからだ。
読み書きすることが、当然のことであり、常識として意識しないからであるが、
その常識でさえ、部落差別というものは、奪ってしまった。
地域の改善運動が実り、部落の子弟が“当たり前”に学校に通える様になるまでは、
部落では、読み書きができない方々がほとんどであった。
余談であるが、私は部落関係の書物をよく読む。
そのような書物には、決まって古文の資料が出てくるのだが、
学のない私にはチンプンカンプン。
何が書いてあるのか、「なんとなく」さえわからないことが多い。
親切な著者の方であれば、おおよその説明を入れていただいていることもあるが、
その多くは、原文のまま掲載されており、泣く泣く飛ばし読みをしている始末である。
識字学級と比べるには、かなりの飛躍であるが、
学級で学ばれている方々の気持ちが、少しではあるが、わかるような気がする瞬間だ。
そして、もう一冊が、『川向の歴史(建造物の調査)』で、
こちらも1992~3年頃の出版で、発行元が、今はなき京北町になっている。
(現在は、京都市右京区京北)
この冊子こそが、川向に現存する江戸時代の牢屋について、
詳細に調査された報告書なのだ。
今回のテーマである「江戸時代の牢屋を訪ねて」は、
この冊子と、現地でのフィールドワークを元に記述していく所存である。
【その6へ続く】
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