頻度は分かりませんが、同和教育が行われました。
これは、他の学校でもやっているのかもしれませんが、
とにかく、授業時間を使って部落のことを学ぶのです。
・どうして、差別がいけないのか?
・なぜ、部落があるのか?
なんていうような、内容だったと思います。
中学校を卒業して約30年になるせいもあって、
ほとんど内容は覚えていませんが、
ただ一つだけ、覚えている内容があります。
穢多・非人
この言葉だけは、しっかりと焼き付いています。
おそらく、他の生徒もそうかもしれません。
こんな話も覚えています。
その頃、校内で流行っていたのがトランプ。
特に「大富豪」と呼ばれるゲームをよくやりました。
本来は、ゲームに勝ち、ランクが上がると、
「大富豪」になり、その下には「富豪」「平民」「奴隷」と続きます。
しかし、同和授業を受けた後は、
「大富豪」「富豪」「平民」そして、「奴隷」が
皆さんの想像の通り・・・そうです
「穢多・非人」
になるわけです。
「次は、〇〇が大富豪で、☓☓が穢多非人な!」とか、
「うわーっ!!穢多非人になってしもた!」などと使う訳です。
又、意味もなく「士農工商穢多非人」などと、
まるで呪文のように唱えることもしばしば見受けられました。
だが、これらの語を使っていた当人たちは、
全く深く考えていませんし、むしろ面白がって使っていました。
そして、生半可な知識を得た彼らは、やっぱり部落ってコワイね、
などと言うわけです。
一体全体、同和教育ってなんでしょうね?
何も知らない生徒に「差別心」を植え付けるのが、
同和教育なんですかね?
生徒全員が、面白がって差別語を連発する事が、
どう、人権意識を持たせることにつながるのでしょうね?
結局、教育って言うのは、机上の空論ばかりで、
本当にこのような授業内容で、差別がなくなるとでも思っているのでしょうか?
同和教育は授業ですから、当然、
部落居住のクラスメートも一緒に授業を受けるのですが、
彼らはどういう気持で授業を受けてたのでしょうか?
「そんな授業しないでくれ!」
「そっとしといてほしい」
「いや!差別を理解してもらうまでとことんやって欲しい!」
どんな気持ちでしょう?
クラスでは、彼らは少数派です。
40数人に対して多くて二人程ですから。
今となって見たら、こんな授業内容であれば、
本当は彼らは、針のムシロだったかもしれません。
ともすれば、スケープゴートになる可能性だってあるわけですよね?
複数の本で読みました。
当時の教師は、部落民にしきりに「部落民宣言」を
させたそうです。
部落民を登壇させて「私は部落民です!!!」と宣言させるのです。
いわゆる、カミングアウトです。
教師としては、それが部落民のアイデンティティを
自覚することになると思っているのか?
それとも、教師の「生徒を解放してやった!」と言う
自己満足であるのかは、分かりませんが、
当の本人たちは、一様に「嫌だった!そっとしておいて
ほしかった」と口をそろえて言っておられます。
結局のところ、同和教育って何だったのでしょうね?
「部落解放同盟がウルサイから、何かやっとけ!」的な
ノリではなかったかと、今となっては思います。
今は、私も差別意識はありませんので、
このような言葉は使いませんが、
当時は、正直言って口にしたことは有ります。
部落に対する差別意識もあったので尚更です。
部落の同級生に直接は使いませんが、
やはり、面白半分で・・・。
再度繰り返しますが、当時の同和教育って、
やはり、差別を助長するものでしかないと思います。
現在の授業内容は分かりませんが、
ひょっとすれば、同和教育自体無くなっているのでしょうか?
同和対策の法律が切れてからは、
国 ・行政も「同和問題は解消された」と言う
向きになってきているので、障がい者や
外国人などの総合的な人権教育は施されていても、
同和だけに特化した授業はないかもしれませんね。
兎にも角にも、このような授業や、日常での
部落生徒との接触、そして部落に対する
嫌悪感の中で、今後、数々の葛藤が
生まれてくるのでした。
部落を皆さんに知ってもらいたい!
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2 件のコメント:
藤村の『破戒』を読んで知識がないため今一つ小説内容を理解できず、色々ネットで検索しているうちにこちらに辿り着きました。
知識はありませんが、ふと思うところはありました。それは例えば大正生まれの父がタレントや不動産(興産)業、靴屋、食肉、葬儀関係、普通ならどうってことないと思われる職業のはずなのに、眉を顰めたりしていたからです。また私が中学の時(昭和48年だったか)に隣のクラスの女子生徒が「同和出身と言われ転校していった」事件がありました。それでもその時同和って何? と特に気にした覚えはありません。私は東京都渋谷区出身です。
上手く話を書くことが出来ないのですが、今一つこの部落差別がよく分からないのは、例えば『破戒』の中でも主人公は教師ですし、現実の世界でも穢多でもお金持ちだったり政治家になれたりしていますよね。確かに私が就職する頃の昭和59年でも本籍地を書かせたり、あなたの親戚は同じ地域に多く住んでいますかと面接で聞かれたことがあるので、さりげなく確認していたのかな? と今では思いますが、でもそれが何になるのでしょうとも思うのです。
革職人と言われてもじゃあ「エルメス」は? と思ってしまいますし、お金持ちになった人も教師になった人もいるのだから、出自の差別と言われても、今一つ分からなくなってしまって…。個人的には出自より、今現在、人を騙したり見下したり狡猾に振舞う人間の方がよほど卑しいかと思われるのです。それこそ非正規雇用を良しとするような人達、自己責任と言って一部の富裕層と多くの貧困層を生み出すような人達。こういう人達こそ賤人ではないでしょうか。どうしてもそう思ってしまうです。
なのでどうしても単に生まれだけで差別されてしまうってよく分からないんですよね…。
でもこれから色々、学んでみたいと思いました。
誠におっしゃるとおりです。
困ったことに、全く根拠のないことが今の部落差別です。
職業や地位ではなく、自分ではどうすることも出来ない出自ということで
差別を受けるというのは、全くバカげたことですが、
そのバカげたことが今も残っているんですよね。
ただ、被差別部落の歴史を知り、部落ってものを理解するに従って
被差別部落のいいところ、優れたところもたくさんあるわけですよね。
匿名さんが書かれた職業についても、差別はあっても、
皆誇りを持ってやってきたと思いますよ。
職人ですから。
部落は、優れた職人集団だと言えますね。
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