如何でしたでしょうか?
「学校教育と部落問題」については、各学校によってもそれぞれの歴史や出来事があり、
私もその全てを把握しているわけでもなく、一まとめに出来ないテーマですが、
私なりの解釈を持って記事にさせていただきました。
その中でも、“これは!!”と思うところに、
八鹿高校事件(部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件といいますが、
便宜上、八鹿高校事件とさせていただきます)があります。
八鹿高校事件に関しましては、本文中にも記述しておりますが、
当時の新聞報道等によれば、学校における、
教師に対する部落解放同盟員の暴力事件とされており、
一般的にもそのような解釈がなされております。
私は、事件が起こった当時は5歳。
事件については、それから後、
部落問題の勉強を始めてから知ることになるのですが、
未だ持って、事件の概要のみしか理解が出来ていません。
八鹿高校事件自体は、多くの書物等で解説がなされているのですが、
部落解放同盟側及び、教師側(共産党側)で書かれている内容が反するため、
概要のみしか理解できないのかもしれません。
いや、八鹿高校事件を知る方、それぞれがそのような解釈しか出来ないのかもしれません。
もしかしたら、事件と言うものは、最終的には、
当事者しか理解することが出来ないのかもしれません。
でも、そんな事件の真相に少しでも迫りたい・理解したいと、
私は、事件の舞台に向かいました。
【これから書く事は、今から5年ほどに訪問した時のものです】
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天空の城・日本のマチュピチュと形容される竹田城址。
近年、ネットやテレビの影響も手伝い、これと言った観光資源のなかった
この小さな田舎町にも、多くの観光客が押し寄せる“ブーム”をもたらした。
しかし、その反面、短期間に多くの人々が押し寄せた代償として、
登山道や城壁に傷みが目立ち、今や、入城制限まで課せられる事態となっている。
文化財と言うものはおおむねそのような末路を辿るようである。
例えば、高松塚古墳の壁画。
今から、1400年以上も、美しい飛鳥美人の絵を保ってきたものが、
ほんの数年にして、カビだらけにしてしまったことは記憶に新しい。
「発見・ブーム」と同時に「破壊」となるのが、どうも今の文化財のありようの様だ。
その昔、京の都から西へ向かう街道を「山陰道」とはよく言ったもので、
なるほど、山陰への玄関口であるこの地も、山々に囲まれた間に、
小さな町や村が点在する。
さらに、南からは、姫路と当地を結ぶ「播但道」が交わる交通の要衝でもあった。
その様な場所に築城された竹田城は、
軍事上も、非常に重要な城であったに違いない。
その昔、京の都から西へ向かう街道を「山陰道」とはよく言ったもので、
なるほど、山陰への玄関口であるこの地も、山々に囲まれた間に、
小さな町や村が点在する。
さらに、南からは、姫路と当地を結ぶ「播但道」が交わる交通の要衝でもあった。
その様な場所に築城された竹田城は、
軍事上も、非常に重要な城であったに違いない。
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さて、この竹田城址ブームで一躍脚光を浴びた但馬地方であるが、
実は、それよりずっと前、今から約40年前に“事件”と言う形で、
有名になったことがある。
「八鹿高校事件」
(=部落解放同盟側からは、八鹿高校教育差別事件と言うが、
ここでは、便宜上、八鹿高校事件を用いる事とする)
このブログの読者諸氏においては、
八鹿高校事件は、ある意味聞きなれた出来事かもしれない。
今回の訪問記については、事件そのものを振り返り、
検証・批判するものではない。
あくまでも、その舞台のフィールドワークをまとめたものであるが、
やはり、事件に触れなければならない場面も出てくるだろう。
そこで、先ずはじめに、簡単に事件を振り返っておくこととする。
新聞報道等での「事件」としての扱いでは、
―1974年11月22日―
兵庫県・八鹿高等学校にて、生徒から要望があった
『部落解放研究会』設置に反対した教職員を、
部落解放同盟員が中心となり、
教職員に対し、監禁・暴力を加えた。
と言う事になっている。
しかし、事件は、そんな単純なものではないようだ。
八鹿高校事件は、ある意味聞きなれた出来事かもしれない。
今回の訪問記については、事件そのものを振り返り、
検証・批判するものではない。
あくまでも、その舞台のフィールドワークをまとめたものであるが、
やはり、事件に触れなければならない場面も出てくるだろう。
そこで、先ずはじめに、簡単に事件を振り返っておくこととする。
新聞報道等での「事件」としての扱いでは、
―1974年11月22日―
兵庫県・八鹿高等学校にて、生徒から要望があった
『部落解放研究会』設置に反対した教職員を、
部落解放同盟員が中心となり、
教職員に対し、監禁・暴力を加えた。
と言う事になっている。
しかし、事件は、そんな単純なものではないようだ。
先ず、大前提として言えることは、
一見、≪部落解放同盟vs教職員≫の対立と見てとれるこの事件も、
実は、部落解放同盟vs共産党という、政治闘争であったと言うことだろう。
当時、学生運動や労働組合をはじめとする、各種の社会運動は、
それまでより、一層過激になり、ヘルメットにゲバ棒で武装した勢力は、
他勢力とのぶつかり合いを度々起こす一方、
少しでも意見が違う場合は、仲間同士でも容赦なく血の制裁を加え、
その過激さは、日に日に拡大の一途をたどった。
(実際、あさま山荘事件に連なる、山岳ベース事件に象徴されるように、
多くのリンチ殺人事件を引き起こしていた)
それらの事件に大きくかかわったのが、日本共産党である。
共産党自身も、過去にリンチ殺人事件を起こしており、
驚くなかれ、国会に議員を送る「国政政党」でありながら、
今でも、過激派やオウム真理教関係団体などと並び、
公安当局の監視対象になっている。
現在の志位体制下では、そのような過去の過激な
イメージを一新しようとする努力も見れるが、
一見、≪部落解放同盟vs教職員≫の対立と見てとれるこの事件も、
実は、部落解放同盟vs共産党という、政治闘争であったと言うことだろう。
当時、学生運動や労働組合をはじめとする、各種の社会運動は、
それまでより、一層過激になり、ヘルメットにゲバ棒で武装した勢力は、
他勢力とのぶつかり合いを度々起こす一方、
少しでも意見が違う場合は、仲間同士でも容赦なく血の制裁を加え、
その過激さは、日に日に拡大の一途をたどった。
(実際、あさま山荘事件に連なる、山岳ベース事件に象徴されるように、
多くのリンチ殺人事件を引き起こしていた)
それらの事件に大きくかかわったのが、日本共産党である。
共産党自身も、過去にリンチ殺人事件を起こしており、
驚くなかれ、国会に議員を送る「国政政党」でありながら、
今でも、過激派やオウム真理教関係団体などと並び、
公安当局の監視対象になっている。
現在の志位体制下では、そのような過去の過激な
イメージを一新しようとする努力も見れるが、
国から、「国家転覆を狙う危険な団体」と言うレッテルは、
現在も貼られたままである。
一方、部落解放同盟も、糾弾から、
暴力事件へと発展するケースがあったことは事実であり、
一部において、過激な行動をとる「武闘派」集団によって、
部落解放同盟=暴力団体と言うイメージが出来上がってしまったことも事実である。
現在も貼られたままである。
一方、部落解放同盟も、糾弾から、
暴力事件へと発展するケースがあったことは事実であり、
一部において、過激な行動をとる「武闘派」集団によって、
部落解放同盟=暴力団体と言うイメージが出来上がってしまったことも事実である。
また、部落解放同盟自体は、公安の監視団体には入っていないが、
そこから分派したある部落解放運動団体は、事実公安の監視対象になっている。
(公にはなっていないが、部落解放同盟も監視対象になっていた時代が
あったかもしれない。これは、あくまでも私の想像ではあるが・・・)
一方、当時の教員は、そのほとんどが日本教職員組合に加盟しており、
(現在は、日教組から分派した全教にも)
いずれの団体も、母体が日本共産党であることから、
組合活動をしている教員は、共産党員と言っても大きな間違いはない。
いまでも、卒業式や、入学式シーズンに、
教員が国旗掲揚・君が代斉唱に反対する一部教員が、
テレビニュース等で取り上げられるのはこの為である。
元々本人に共産思想がなくても、学校と言う特殊な労働環境の為、
周りの圧力により、必然的に組合に加入し、
次第に共産思想に染まっていくケースが多いようだ。
尾木ママをはじめとして、多くの方々が日教組解体を唱えているのは、
子供たちへの影響を考えた上でのことである。
この様な、時代背景の中で「事件」は起こった。
そこから分派したある部落解放運動団体は、事実公安の監視対象になっている。
(公にはなっていないが、部落解放同盟も監視対象になっていた時代が
あったかもしれない。これは、あくまでも私の想像ではあるが・・・)
一方、当時の教員は、そのほとんどが日本教職員組合に加盟しており、
(現在は、日教組から分派した全教にも)
いずれの団体も、母体が日本共産党であることから、
組合活動をしている教員は、共産党員と言っても大きな間違いはない。
いまでも、卒業式や、入学式シーズンに、
教員が国旗掲揚・君が代斉唱に反対する一部教員が、
テレビニュース等で取り上げられるのはこの為である。
元々本人に共産思想がなくても、学校と言う特殊な労働環境の為、
周りの圧力により、必然的に組合に加入し、
次第に共産思想に染まっていくケースが多いようだ。
尾木ママをはじめとして、多くの方々が日教組解体を唱えているのは、
子供たちへの影響を考えた上でのことである。
この様な、時代背景の中で「事件」は起こった。
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冒頭、事件の概要を簡単に記述したが、
一方で、このような記述も掲載しておく。
八鹿高校解放研設立を訴えた生徒の手記である。
『この日、病院に入院された先生がいることはたしがである。
事実をもみ消すことはできない。しかし、この22日のことだけに焦点
を置いて考えることが正しいことなのだろうか?座り込み、
断食をおこなった21人の生徒の一人として私は先生たちの醜さ、きたなさ、
そして差別性を見てきた中で、どうしても許されないことだと思う。
私たちがどうしてここまでやったか。そして、やらなければならなかったか・・・』
(同和利権の真相の深層より抜粋)
八鹿高校では、全国の例に倣い、
解放同盟が指導する「解放研」の設置を学校側に求めたところ、
既に共産党系のサークル(部落問題研究会=部落研)が有ることを理由に、
これをを拒否。
これをを拒否。
生徒たちの抗議や、解放同盟員たちの糾弾により、
一旦は設置を認めたが、今度は、教職員がストライキ。
授業を中止し、職員室前でハンストを続けていた生徒を跨ぎ、
集団で本部が設置された旅館へと向かった。
それに対して、部落解放同盟S支部のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』メンバーが教員を学校へ連れ戻し、
暴行事件は起こった。
再度、付け加えておくが、この事件は、
部落解放同盟対共産党と言う
政治闘争の一つに他ならない。
ただ、事件の舞台が、子供たちが通う「学校」と言うことに、
大きな問題があるのである。
====================
以上が、事件の振り返りである。
先にも述べたように、この訪問記では、
事件の検証・批判に主を置いたものではないので、
事件の振り返りは、このへんにしておこう。
―いよいよ次回は、その舞台となった但馬をレポートします―
見て記・行って記・被差別歩記―3 八鹿闘争記勝利念碑:その1
(みてき・いってき・ひさべつあるき)
部落を皆さんに知ってもらいたい!
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