『おう!シンちゃん帰ってきたんか』
私は、学校から帰ってくるとランドセルもそのままに、
おじさんの元へ駆け寄ります。
「おっちゃん。これは何?あっちは何?」・・・
私が矢継ぎ早に質問するので、おじさんは仕事になりません。
それでも、おじさんは、機械油で真っ黒になった手を動かしながら、
『これはなぁ、車のエンジンや!』
『それから、こっちはなぁ・・・』
と、説明してくれます。
「うわっ、面白そ~、これレジやんか、触られて!」
ガシャガシャ・・・チーン!
おじさんの家の前には、所狭しとガラクタが積まれており、
車のエンジンや電気機器に混じって、商店のレジ(当時は懐かしの機械式レジ)
や古金庫などがあり、私の好奇心は否が応でも高まるのでした。
車が通らない、家の前の細い路地がおじさんの仕事場です。
今日は、先日「長屋【生立ち編‐33】」で紹介した私が育った家。
例の長屋の話の続きです。
私の家の隣のおじさんは、私が学校から帰るころには、
いつも家の前でスパナやハンマーを手に仕事をしていました。
「おっちゃん。僕にもやらせて~」
好奇心旺盛な私は、ときに、私が仕事を手伝う・・・と言うか、邪魔をするのでしたが、
機械いじりが好な私は、おじさんの仕事に興味津々。
父親も鉄工所に勤務していましたが、
遠くの会社へ出かけ、どんなことをするのかわからない父の仕事よりも、
真近で見ることが出来るおじさんの仕事が本当に好きでした。
特に、私がもっとも期待したのは、車での遠征(?)でした。
「おっちゃん。連れてって~」
「おう、シンちゃんか。ほなら行こか~」
てなわけで、トラックに乗り込み出発です。
車での遠征は、古紙の処理工場や屑鉄屋などへの搬入することと、
反対に、工場などを回って、不要機械や鉄屑などを引き取るのが仕事でした。
あるとき、おじさんの家に上がりこんでいると、
筆と墨汁を取り出し、おもむろに新聞紙を広げながら
「シンちゃん。字はなぁ、大きい書かんとあかんで。大きい書かな、大きい人間になれへんで」
なんて、字を書きながら教えてくれました。
おじさんは新聞紙に目いっぱい大きな字を書くと、
「ウチのなぁ、ノブ(おじさんの次男で、私より10歳位上のお兄さん)にもそう言うてんのやぁ」
その後、確かに、ノブ兄さんは、テレビでも度々見かける、
宮大工関係の著名な棟梁になりました。
一方、私の方は、なぜ大きい人間になれなかったのは別にして、
そのころから、とにかく字は人一倍大きく書くようになりました。
これは、以前【生い立ち編-5続・部落を知らない差別主義者】で記事にしましたが、
ノブ兄さんのお兄さん、つまり、おじさんの長男が、お嫁さんをもらったのもその頃です。
登場人物が多くてややこしいですが、
ノブ兄さんのお兄さんは、部落出身のお嫁さんをもらいましたので、
近所のオバサン連中が、井戸端会議で心無い事を言っているのを聞いたことがあります。
私は、子供ながらも、そのような中傷を聞いて、
私の叔母や従兄弟が部落民であることを、
“決して口外してはいけない”と悟ったものです。
さて、話を戻しますが、屑屋さんという仕事は、
被差別部落民や在日韓国朝鮮人が多く従事していました。
例えば、大阪府と京都府の境にある「Y」と言う部落は、
自動車解体業が盛んな部落で、その成り立ちは、
やはり、廃品回収業が始まりでした。
今でも、ちり紙交換や「家電引き取ります」のような、
廃品回収を生業とされている方がおられますが、
このような業務は、タダで引き取ってきたものをお金にするので、
とても儲かりそうな感じがあるのですが、実は、
非常に不安定な仕事なのです。
まず、廃品や古紙を回収できなければ、お金になりません。
もしかしたら、その日のガソリン代も出ないかもしれません。
それに、買い取り相場も変動が激しいようです。
「回収損」と言うことも当然あるでしょうね。
雨が降れば仕事にならないでしょうし、
その日暮らし的な側面がある仕事です。
それでも、私が子供のころは、
まだ景気がよくて、隣のおじさんも、毎日忙しそうにしていました。
私の育った長屋は、被差別部落ではありませんでしたが、
もしかしたら、おじさんは、部落出身の方だったかもしれません。
根拠はないのですが、今思えば、なんとなく・・・
なんとなく、そんな感じがします。
そんな、おじさんの仕事も、いつのころからか、
外で「カンカン」やっているのを見なくなりました。
おじさんも、だいぶ年だったので、仕事を辞めてしまったのか、
それとも、儲けが少なくなったのか、
今となっては、私は知る由もないですが・・・。
昨年の話だったと思うのですが、
実家へ行ったときに、(現在の実家は、以前の長屋から車で20分ほどの場所。
引っ越して早20数年になります)母親が、
「谷さん(おじさんの苗字)なぁ、ここの近くに住んではるんやで~」と。
私は、「えっ!?そうなんやぁ。結構長いんか?」
母「私らが、引っ越してからすぐ見たいやで」
・・・そんなやり取りがありました。
なんでも、例の有名棟梁のノブ兄ちゃんが、
ご両親に家を建ててあげたそうな。
今は、悠々自適な生活をされているようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前回と今回。私が育った長屋時代の思い出を書いてみました。
以前にも書いたように、記憶を頼りに、
今から40年近く前のことを書いておりますので、
話が前後してわかりにくいかもしれませんね。
すいません。
でも、これからも、時系列を超えて
思い出すことがあるかもしれませんので、
その際はよろしくお願いいたいますm(__)m
S,スギムラ
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3 件のコメント:
私が以前パートとして働いていた京都の清掃会社の話です。
長くなりますがどうか聞いてください。
その会社の課長が、ある女性40代のパートさんのことを
『彼女は部落民であり自由に結婚が出来ない身分だから、あの年齢まで売れ残った。』
と、堂々と言って驚いたことがあります。
それから私は部落について関心を持つようになりました。
そのパートさんは美人さんで、とても性格が良く
男性に人気がありました。
彼女が現場で設備の男性と不倫をしたことで課長の怒りに触れました。
しかし、どうも変な話で、他のパートさんも不倫がバレている
人はいるとのこと。彼女だけが課長の逆鱗に触れたのです。
課長は兎に角、彼女のことを怒っていて全く関係の無い私にまで
彼女が部落民であることや、聞くに耐えない悪口を言いました。
なんとなくですが、私は課長は彼女を気に入っていたような気がします。
好意を持っていたパートさんの裏切りと思えたのかも。
しかし酷い言い方でした。
私は聞いているうちに腹が立ってきたのですが、
言い返せませんでした。
相手が上司であること、自分に部落の知識があまり無いことなどが
理由かもしれません。普段の生活で部落問題について考えることは皆無でした。
『部落の女は美人が多いが自由に結婚出来ない。
そのために、水商売や風俗をやる女が圧倒的に多い。』
課長は50代前半の人ですが、こんな意見を持った人がこの年代には多いのかと
嫌な気持ちになりました。不倫は彼女の個人的な問題です。
上司がここまで言うのは人権に関わる気がします。
エヴァさん
コメントありがとうございます。
これは、いつ頃の話でしょうか?
文面から察するに、そんな過去の話でもないですよね。
それだけに、今でも、こんな直接的な差別発言をする人が存在するとは、
驚きのあまり声も出ません!
しかも、「課長」という部下を持った人物とは・・・。
これは、本当に、人権問題ですよ。
さぞかし、エヴァさんも不快な思いをされたことでしょう。
しかし、そんな課長の差別発言に感化されず、
当ブログへ、こうしてコメントいただけるとは、
エヴァさんは、素晴らしい人権意識をお持ちだと思います。
今回は、貴重なお話ありがとうございました。
S.スギムラ
はい、大昔ではありません。2年程前のことです。
そのとき私は課長に『まだそんな差別的なことがあるのですか?!』と、
真顔で言ってしまい大顰蹙を買いました。無知ゆえです。
課長の話によれば男性は就職などで比較的自由に動けるのですが、
女性はまだまだ難しいらしいです。
私は人権意識で投稿したのではなく、何も言えなかった自分の不甲斐なさを
誰かに告白したかったのだと思います。仕事を親切に丁寧に教えてくれた彼女の
ことを庇うことが出来なかったのが悔やまれます。
私が働いていた清掃会社は京都では優良企業として知られています。
信頼して働いていた会社の上司からこのような言葉が
出たことに大きなショックを受けました。
『清掃会社は部落のややこしい人間を相手にする仕事だから
勉強のために一緒に京都駅周辺のホテルを見に行きましょう。』と何度も言われて
怖くなり辞めました。意味もわからないし業務と関係無いと思います。
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