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さて、今日は被差別部落と学校の歴史:その2です。
では、どうぞ。
》》昭和~同和関連法施行時代
さて、貧困や、差別により学校へ満足に通えなかった部落の子達は、
大正に入り、水平社の登場により、学校へ通える下地はできつつありました。
水平社は、教師や生徒からの差別事例に対し、一つ一つ「糾弾」と言う形で、
差別の解消に取り組みました。
水平社設立からしばらくすると、水平社内での対立や意見の相違が表面化し、
段々と、過激になるグループも現れるようになりました。
それらのグループでは、糾弾が高じ、中には、
直接的な武力闘争へ発展することもありました。
この頃には、西光万吉や南梅吉と言った水平社創設メンバーの意思とは、
大きくかけ離れ、水平社は彼らの理想とは全く違った道を歩み始めます。
そして、創設メンバーの手に負えなくなった水平社は、やがて分裂し、
初期メンバーの殆どが水平社を後にすることになります。
そのような時代背景でしたが、教育現場でのあからさまな差別は
少なくなりつつあったのですが、まだまだ貧困によって学校へ
行けない状況は続いていました。
また、部落の親や周りの者も、「教育の重要性」という事に無関心な時代でもありました。
『はぁ、学校?・・・何寝ぼけたこと言うてんねん。勉強なんかで飯が食えるか!
そんなもん言うてるヒマあったら、早う仕事手伝わんか!!』
『アホかぁ~。学校なんかでてもなぁ、俺らの仕事は決まっとるんじゃ!
なんぼ勉強しても貧乏からは、抜けられんのじゃ!』
あるいは・・・
『あんたとこ、学校なんか行かしとるんやて?ムラのモン皆して笑うてんで!
あそこの家は変わりモンやって。悪いことはいわんから、学校行かすの止めなはれ」
なんて、こんな感じだったようです。
昭和なんて、部落にかぎらず貧困なんて当たり前の時代。
それに戦争が拍車をかけます。
皆がろくに学校なんて行けなかったのですが、
それでも、部落の教育水準の低さは、際立っていました。
なんせ、親達もろくに学校へ行っていないのですから、
「教育の重要を理解せよ」という方が、どだい無理な話です。
それよりも、手に職をつける事を優先されたのが、
部落の“教育”でありました。
それから時代が過ぎ、終戦を迎え日本も戦後復興&高度成長を迎えると、
部落内の仕事も多様化していきます。
例えば、皮革業でも、外部の会社との取引が生まれる。
「スギムラさん。コレ企画書です。この様に加工お願いします」
なんて、注文が来るわけです。
そうすると、「なんや、俺。字も読めんやんか!」なんて事が至るところで起こるわけです。
このころから、教育の重要性というものが、部落内でも認識されるようになってきました。
また、部落が差別される理由として「勉強ができひんから、いい職にも付けへん。そやから、
いつまでたっても貧乏から抜けだせず差別されるんや!」という考え方うまれ、
部落内でも教育の重要性が部落解消につながるという認識に変わりました。
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余談ですが、差別によって学校へ通えなかった方々に対して、数十年前から「識字学級」という取り組みも行われております。
大阪の人権博物館か、奈良の水平社博物館でしたでしょうか?
若しくは、その両方かもしれませんが、そこでの展示で、
識字学級で字をマスターした方々の作文が展示されており、
手にとって読むことが出来ます。
皆さん年配方ですが、それはもう真剣に取り組まれ、
文面からは、字を書くこと&読むことの楽しみや希望が、いきいきと読み取れます。
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部落の就学率を劇的に上げたのは、昭和44年の同和対策事業特別処置法の施行です。
改良住宅が建てられ、部落内が整備されると、
自ずと学校へ行くムード(心の余裕)が生まれる。
狭い長屋~1件に数家族・大人数が同居するような~の殺伐とした暮らしから一転。
子供部屋も確保された改良住宅では、今までとは、全く違う生活が営まれることとなりました。
それは、学業だけでなく、憲法25条にも書かれているように、
「健康で文化的な最低限度の生活」つまり、最低限の普通の生活が
やっと得られた瞬間でもありました。
辛くて逃げ出したくなるような、暗くジメジメした路地の生活。
これからは、明るく陽の光が差し込む部屋での暮らし。
活力が湧かないわけがありません。
しかし、次の時代。
部落の子弟は、新たな時代に入っていきます。
次回、被差別部落と学校の歴史:その3をお楽しみに。
子供部屋も確保された改良住宅では、今までとは、全く違う生活が営まれることとなりました。
それは、学業だけでなく、憲法25条にも書かれているように、
「健康で文化的な最低限度の生活」つまり、最低限の普通の生活が
やっと得られた瞬間でもありました。
辛くて逃げ出したくなるような、暗くジメジメした路地の生活。
これからは、明るく陽の光が差し込む部屋での暮らし。
活力が湧かないわけがありません。
しかし、次の時代。
部落の子弟は、新たな時代に入っていきます。
次回、被差別部落と学校の歴史:その3をお楽しみに。
部落を皆さんに知ってもらいたい!
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3 件のコメント:
48歳の関西人です。26年前、大阪府警に就職した友人が言ってたのですが、警察の寮で飲み会の話題は、芸能人の部落出身者は誰かとかで盛り上がるとか、それは警察官には部落民はいないからだとか、
交際相手が出来たら、上司に報告。
相手が在日韓国、朝鮮人、被差別部落民だと別れるか退職を余儀なくされると言ってました。
その3年前に、ひとつ年下の後輩が被差別部落民で、高校卒業前に担任の教師に進路の件の面談で警察官を志望したら、涙ながらに諦めないといけない旨を伝えられたことを私に打ち明けてきたのだが、その頃は事実だったのか。
果たして、現在はどうなのか。
ご存知なら教えて頂きたいです。
4月25日の匿名さん。
これは、非常に難しい問題ですね。
国が就職差別をすることになるので、シークレットになっている部分が非常に多いと思われますが、
個人的な見解としては、
当時は、「事実だろう」と考えます。
実は、警察官を始め、
公務員全般は、公安調査庁の監視下に置かれている団体に属する者、及び、
その親族を採用しないという、規定があります。
大阪府のA部落を本部とする
部落解放の運動団体が1991年に設立されていますが、
この運動団体も、公安調査庁の監視団体に指定されています。
その様な理由で、当時、先の団体関係者やその親族は、警察官及び、
公務員になれなかったと思われます。
これは、あくまで想像ですが、
どこの職場でも、人事に権力を持っているのは、案外、一個人の場合が多いです。
それは、国の機関でも同じだろうと思います。
当然、現在でも、その内規はありますので、
公安監視団体関係者及び、親族は、
警察官・公務員になれません。
これは、あくまでも私的な見解であることを、再度、付け加えておきます。
ありがとうございます。
職業に就くのには当然、いろいろな条件が求められるのは当然のこと。
性別はもちろん身長、といった容姿から、視力、聴力、知識、学力等
しかし、生まれたところで希望する職に就けない、振り落とされるというのは悲しい現実ですね。
親が共産党員ってだけでも警察官にはなれないってことですね。
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