行って記・見て記・被差歩記
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《その2から続く》
サンマイ谷という記述からして、私がまっさきに思い浮かぶのは
-現在の部落民につながる-江戸時代、「穢多・かわた」同様に
被差別民であった「隠坊(おんぼう=隠亡)」の存在である。
隠坊は、各村に少人数存在する「葬送儀礼」に携わる職掌で、
墓場に居住して墓守をし、死者が出れば埋葬を行った。
村にとっては必要不可欠な存在でありながら、
「身分制度と穢れ意識」により“差別”される人々であった。
隠坊も、詳しく書けば一つの文章になるので、
今回は簡単な記述にとどめておくが、
いずれ、改めて紹介したいかと思う。
水上の生家跡に立ち、先ず目に入ったのは、
青々と茂ったザクロの木と、その背後に迫る鬱蒼と茂った竹やぶだった。
竹やぶは、どうやら先程間違えた場所に続くようだ。
その竹やぶから幾分下方に視線を移すと、
初夏の太陽が照りつけ、明るく開けた現在の生家跡には相応しくない
5.6基程の古めかしい墓石があった。
墓地の区画はもう少し多く、10箇所ほどの区画が切ってあったが、
水差に枯れた花が手向けられている所を見ると、
墓石はなくとも、仏様が眠っておられる事は想像に難くない。
敷地内に墓場があるので、一瞬、
水上家は隠坊か?と思ってみたが、
よくよく考えれば「薪小屋を借りていた」と言うのだから
その線は否定される。
墓石に刻まれた戒名に目を通す。
部落問題を学んでいくにつれ、古い墓石を見ると
「差別戒名では?」と自然に目が行くようになるのだ。
長きに渡り、穢多・かわた(現在の部落民)は、死しても尚、
○○畜男・☓☓革女と言った「差別戒名」を付けられ、
墓に刻まれ差別されてきた。
部落解放運動の高まりとともに、
流石に今では差別戒名が残っている墓が無いことはわかっているが、
人権博物館で墓のレプリカを見て以来、
どうも確認することが癖ずいてしまったようだ。
現在私は、信仰する神仏を持たない無宗教者であるので、
戒名に関する知識は、あまり持ち合わせていない。
少ない知識ながらザッと見たところ、
どうやら、これまで学んだ差別戒名とは異にするようだ。
しかし、定かではないので、念のためメモに書き取っておく。
(後日、確認した所、通常の戒名であることを確認する)
確かに、敷地内に墓があるところから、
一見「サンマイ谷」の名称に相応しいかと思われるが、
村の墓にしては、墓の規模がかなり小さすぎる。
竹やぶの奥まで確認する事を怠ってしまい何とも言えないが、
どうも、この墓は先述の「M林左衛門さん」個人の
墓所であるのではないかと思われる。
ただ、墓の規模の大小はあろうが、水上は幼少時代を、
相当劣悪な住環境で育ったことには間違いない。
この事全てが、水上の残した作品に影響を与えたわけではないだろうが、
少なくとも、水上が生涯持ち続けた差別解消への思いは、
サンマイ谷での暮らしが大きなファクターであることは
想像に難くない。
《人は、人が住まない場所に住み、「乞食」と周りから言われ
差別されたからこそ人の痛みがわかるのだ。》
一瞬・・・。
ほんの一瞬だが、私にはそう聞こえた。
夕焼けに照らしだされる若狭湾に向って微笑む、
貧しいながらもたくましく生きる在りし日の水上少年の姿は、
今も私の心から離れない。
【終】
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