生い立ち編を絡め、未指定地区の現状等をお送りしてきましたが、
本日は「まとめ序章」の最後として、
なぜ、私が住んでいる場所が被差別部落と分かったのか?
その疑問にお答えしたいと思います。
■ここが被差別部落と知った出来事
それは、今から7年前。
私は歴史が好きで、自宅近くの廃寺跡を探しに行った時のことだ。
暫くあちらこちらとウロウロしたが、
結局廃寺跡はわからなかった。
残念に思い歩いて帰路についていたら、
近くで作業されていた初老の男性がおられ、
「何か手掛かりがないか」・・・と、
廃寺について聞いてみた。
無事、廃寺についての情報も得ることができ、
おおよその場所も教えていただいた。
いくつか地域の話や世間話なども交え、
15分ほど話しただろうか?
何かの拍子に私が自分の住まいが、
〇〇町であることを伝えた。
すると初老の今までの笑顔が陰りを見せ、
急に神妙な面持ちでゆっくりと語り始めた。
「あんたら引っ越してきた人は知らんやろうけど、あそこは部落なんや」
そう聞いた途端、私のこの地区に対する
長い間抱えていた違和感が
すっーと氷解していくのが分かった。
袋小路になった細い路地も、
同和地区に立っているような
隣保館によく似た立派な公民館も、
その時全てが瞬時に理解できた。
点と点が繋がり線になった感覚だった。
私は、これから語られるだろうことが
差別的な内容であることを十二分に予測したが、
同時に、真実の話として、
自分の住まいについての情報、
それがさらに、被差別部落に関することであるということが優先し、
そのまま静かに初老の話を聞くことにした。
「それは私が小さかった頃の事。小学生ぐらいだったと思う」
そう語り始めた初老は、
少しずつ記憶を手繰るように、
ひと粒ひと粒、
言葉を探りながら話しだそうとしている。
しかし、その表情は、
決して思い出したくないであろう昔の記憶。
そう。
まるで昔あった出来事が、
あたかも目の前で再現されているようで、
初老の顔のシワが、
より一層深くなったように見えた。
『ワシは、そこが部落であることを知っていたが、
ある時、好奇心から一人でそこの部落へ入ってみたんや。
親兄弟からも、あぁ、そう言えば友達同士でも
そこが部落であるから絶対に近寄ったらアカンって言うとったが、
好奇心には勝てなかったし、
並んどる家も普通の家で、
街並みも周りと変わらんように見えたしなぁ。
部落に入ってしばらくすると
自分よりもホントに小さい子供。
幼児に近い位の小さい子やった。
その子がワシの前に寄ってきて、
いきなり「ワレどこのもんや、勝手に入ってくるな」と
頭ごなしに怒鳴りつけたんや。
私はいきなりのことで気が動転したんやが、
自分よりもずっとずっと小さい子供に怒鳴りつけられたことが恐ろしくなり、
一目散に逃げ出したんや。
それから60年ほど経つが、
駅の向こう側は今まで一切足を踏み入れたことがない、
正直今でも怖いんや』
その話を聞いて私はこう言った。
『私は、そこに引っ越して10年になるんやけど、
危ない思いをしたことも全くないし、
普通の地区と全く変わりませんよ』と言ったが、
初老は「その時の人らもまだ住んでるやろ」とポツリと言って
口を閉ざしてしまった。
初老は、幼少期のこの出来事を
今でもトラウマとして深く心に残っている。
彼の場合は実体験として受けた出来事が、
60数年経った今でも、
差別と偏見の源になっているようだ。
■“部落”と聞いたその後の話
それから私の部落研究はより一層の熱を帯び、
部落研究とともに、自らの地域の研究に力を入れるようになった。
しかし、前回の頁で書いたように、
未指定地区であるが故、
史料がほとんどと無いのである。
いや、
「残っている・残っていない」の話ではなく、
そもそも、そのような史料が存在しないのである。
ただ、二・三の史料は見つけることができた。
例えば、
江戸時代、隣のエタ村と草場*の取り合いがあり、
奉行所に仲裁を求めた事、
同和関連法施行以前に
幾つかの改善事業が行われていた事等だが、
同和地区指定され、行政の統計報告書が毎年作られる上に、
多くの研究者の研究対象になっている同和地区に比べ、
未指定地区についての史料は見つけ出すことすら困難である。
*草場・・・エタ村の縄張り。
斃牛馬が出た場合、その草場のエタ村が処理権を得た。
旦那場とも言う。
そう言う意味では、
“聞き取り”が一番の史料である。
しかし、地域の古老の口は固い。
過去についてあまり話したがらない。
仲の良い三軒先の古老に昔話を聞くこともあるが、
こちらから何となく部落系に持っていこうとすると、
古老はそれをやんわりと否定するかの如く、
話題を違うほうへ持っていく。
きっと、過去の事、
部落の事について話したくないのが実情であろう。
住民総意で、同和地区指定を受けずに
一般地区として生きていく道を選んだのだから。
声に出さずとも「ここは、部落ではない!!」
と言っているのが気迫として伝わり、
私はそれ以上聞くのをためらって今に至っている。
■“部落”では無くなったのか?
では、私の住んでいるこの部落は、
はたして被差別部落ではなくなったのか?
歴史上の事実としては、
被差別部落であることは間違いないし、
これからも、被差別部落であることに何の異論を唱えることはできない。
つまり、同和地区指定を受けなかったにせよ、
それは行政上の事だけであって、いわば手続きだ。
だから、永久に被差別部落であることには変わりないし、
属地主義の考え方に立てば私も部落民である。
では、住民の意識はどうか?
先に書いたとおり、
もともとは50世帯ほどの部落であったが、
戦後、経済の急成長とともにこの地区は開発され、
田畑が軒並み住宅へ変わっていった。
そして、現在は、400世帯を数えるまでになった。
およそ8倍にまで増えたわけだが、
350世帯は部落外からの転居者、
要するに、部落外の人々である。
しかも、駅から近い立地を生かし、
結構若い方が多く住んでおられる。
また、転居組のご近所さんと話をしていても、
(おそらく・・・おそらくであるが)
ここが部落あるということを知っている方はおられない。
そして、部落の象徴である、隣保館や改良住宅といった
公共施設も建っていない。
住民の意識レベルでは、
「被差別部落では無くなりつつある」というのが現在の状況であろう。
ただ、先ほど登場の初老や、
三軒先の古老(この方は部落民)の中では、
被差別部落はまだまだ生き残っている。
残ってはいるが、記憶から消し、忘れ去ろうとしている。
したがって、未指定地区では
“被差別部落意識”の二極化が起こっているわけであるが、
これは、住民の殆どが部落民であることを意識する
同和地区在住の部落民とは、明らかに意識の相違が見られる。
(法律が終了した現在、法律上は一般地区化した同和地区は、
一般地区住民への旧隣保館の開放、改良住宅の一般公募、
地区外からの同和保育所への受け入れなど、
開かれた同和地区を目指している自治体もある)
■消えゆく記憶と目覚めた記録
さて、これまで述べてきた理由から、
未指定地区の現況をおおよそ掴んでいただけたと思うが、
これからの未指定地区は、
どのような方向に進んで行くのであろうか?
一つは、農漁山村の未指定地区の場合。
これは、まとめ3でも書いたとおり、
おそらくであろうが・・・残念ながら、
これからも劣悪な住環境や
周りからの差別状況に大きな変化は期待できないであろう。
しかし、都市型の未指定地区の場合、
意識レベルでは、ほぼ一般地区といっても間違いないと思われるし、
行政資料や例規、或いは書籍にも登場することがない。
ここが部落と、知っているのは、
年老いた生き証人達。
ただ、失礼ながらこの生き証人達も、
近い将来旅立たれることを考えれば、
記憶については風化していくことであろう。
つまり史実の中では被差別部落であるが、
人々の意識からは消え去るのである。
これは、真の意味での“解放”と言えるに違いない。
いや、違いないはずだった。
しかし事は、突然起こった。
被差別部落であることが風化し、
消えゆく寸前であった未指定地区が、
“記録”として突如目覚めることとなったのである!
しかも、永久に風化することがないその記録が・・・
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ここまで、4回に渡って書いてきた「まとめ序章」ですが、
いよいよ次回は、まとめ本編に移ります。
多くの皆様に読んでいただき誠にありがたい限りです。
とりわけ鳥取ループ=宮部氏自身にも読んでいただいている事は、
このテーマも、意義のあるものになっているのではないかと感じております。
更新頻度が遅く申し訳ない限りですが、
これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願い申し上げます。
スギムラシンジ
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