「原発と共に・・・:その1」からの続きです。《その1へはコチラからどうぞ》
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だが、今・・・
あたりを見渡してみても、そんな“役人村”の面影は、
何一つ残っていない。
代わりに目立って多く見られるのは「旅館群」である。
駅前のシティホテルのような高い建物はないが、
いずれも大きくて立派。
しかも、比較的新しいものが多く、
外見上は創業○○年のような、所謂、老舗旅館の風体ではない。
いや、歴史的には、老舗的な年月を重ねた旅館もあるのかもしれないが、
現在の建物の綺麗さからは、その過去を窺い知ることは出来ない。
その旅館が、海と山に挟まれた狭小の地に林立してるのであるから、
まさに「旅館群」と呼ぶに相応しいのである。
(調べたところ、地区内には20軒もの旅館が存在する)
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話は変わるが、
ここで、ざっと地区の様子を記しておこう。
福井県T町NM地区は、隣接したHM地区と合わせて
M地区と呼ばれ、地区内にあるJR線の駅名もM駅になっている。
しかし、NMとHMは、名前こそ同じであるが、
村のあり方は全く異なるのである。
それはつまり、HM地区は一般地区、
一方のNM地区は被差別部落であることを意味している。
【追記】
本田豊著 「部落史を歩く」によると、
HM地区内には、かつて非人小屋があり、
近年に至るまでいがみ合いが有ったと言う。
以下、その点を留意して読み進められたい。
昔の行政区分けであれば、本村のHM村に対して、
枝村のNM村ということになろうか。
実際、M地区は、左右を山と山に挟まれ、
前方を海に面する扇状地のような三角形の土地で、
地区の中を流れるS川でNMとHMが分かれている。
当然、HMの方が地区面積は大きく、田畑などの農作地も多い。
その上、家の区画もゆったりとしていて、田舎ならではの
農村風景が見て取れる。
しかし、NM地区は兎に角土地が狭い。
しかも、村の成り立ちを見てみると、
大黒山※(仮名)を削って土地を造成した事になっている。
そんな訳で、多くの「旅館群」や住宅が
所狭しと並ぶことになってしまったのであろう。
地区の中心から、山手へ向った道路沿いに「Mセンター」と言う
T町立の施設が建っている。
これが、所謂「隣保館」であるが、
鉄筋コンクリートの役所様の建物は、
静かな海辺の村には些か不釣り合いなほど、
その存在感を示しているのだった。
“存在感”の一つが、建物正面に掲げられた「人権スローガン」である。
各地の部落の人権センターや隣保館を回っているが、
未だにこのような大きなスローガンが掲げてあるのはとても珍しい。
それだけ、この町内が部落差別問題に真摯に
取り組んでいる証拠なのであるが、
それは、NM地区の部落解放運動史からも知ることが出来る。
福井県嶺南には7箇所の被差別部落があるが、
福井県内で唯一「部落解放同盟」が結成されたのが、
このNM地区なのである。
実は、解放同盟の前進の水平社は、嶺南の部落でも組織されたが、
その後の融和ムードにより「部落解放同盟」の組織化には至らなかったのだ。
被差別部落全てに、部落解放同盟が組織されたわけではない。
行政による“同和地区指定”の条件には、
部落解放同盟を始めとする指定運動団体が組織されていることなのだが、
やはり、「そっとしておいてくれ!」と言う方々も多い。
同和地区に指定されると、地区改善事業など数々の施策が行われる。
住民の生活は劇的に向上する反面、
それと引き換えに「ここは部落です!」と言う事が一目でわかる各施設
=同和モニュメントが建てられる。
それを嫌う住民の方々、特に高齢の方に多かったと聞く。
水平社にせよ部落解放同盟にせよ、創世記の運動団体の中心を担ったのが
いずれも若い解放運動家達であったことを考えても、
このことは頷ける。
ある種“闘争”と言っていい、本格的な部落解放運動が起こる水平社結成以前、
部落の運動と言えば融和運動が中心であった。
つまり、差別される側の原因は、不良住宅に住み、
身なりも粗悪、ひと度伝染病が流行ると、
差別的にその“発生源”にされてしまう部落。
「原因は、我々とムラにあるのだ!」(*地域によっては、部落をムラと呼ぶ)
「私達は、このような生活環境であるから差別されるんだ!」
「私達が身なりを整え、住環境を整備することで差別はなくなるのだ!」・・・
このような考え方が部落内部で起こったのが融和運動である。
同じく、融和思想は、部落外でもそのように理解されており、
行政や一部の企業などが、慈善活動として部落改善に取り組むのであるが、
そこには、いつも部落に対する“憐れみ”がついて回った。
それに警鐘を鳴らし、部落の自主解放を目指して組織されたのが
水平社である。
水平社の運動方針は、これまでの“融和”を否定し、
部落差別は、差別する側に問題があるということで、
「差別者の徹底糾弾」をもって部落差別を解消する画期的な運動であり、
水平社の流れをくむ「部落解放同盟」も、
運動の基本方針として、現在も尚、この姿勢を継承しているのである。
このような運動団体の概要であるが、
前途した通り、地区によっては運動を嫌う共同体もあり、
その様な地区では、運動自体も盛り上がらなかった。
これには、種々の理由が考えられるであろうが、
その理由の一つが、部落の経済性にあったことが挙げられる。
つまり、行政介入による同和施策を行なわずとも、
住民の生活が成り立っていたということなのだ。
部落には、所謂「部落産業」と呼ばれる産業を持った地区がある。
例えば、「☓☓畜産」と言った畜産業者が多く盛んな部落、
「○○製革」などの製革業者が固まっている部落、「△△造園」と言った
作庭・造園業者が集まった地区。
他に、農地があり農業で生計が立てられる地域などは、
経済的にも自立しており、生活に窮する状況ではない部落もあった。
その様な地域では、「わざわざ寝た子を起こさなくとも・・・」
と言う考えを持つ方々も多かった。
実際のところ、このような方針を持ち、
地区指定を受けいていない部落は、
都市と周辺の郊外に限っては、
現在、一般住民との混住が進み、
「消滅」してしまった地区も少なくない。
福井県内で唯一の部落解放同盟が組織され、
部落解放運動が盛んであったNM地区には、
現在、部落解放同盟福井県連の本部が置かれている。
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センターの横手には、地区住民の拠り所となったR寺が建っている。
部落の場合、同和施策が施された地域では改良住宅や
同和関連施設、公園などが作られ、
昔の不良住宅時代の町並みとはスッカリ変わってしまう。
そのなかでも、唯一変わらないのが寺である。
他の部落同様に、このR寺も恐らく地区内最古の建造物であろう。
かつて、謂れのない差別をされ続けてきた被差別部落民の
信仰心は特に強く、地区の道場を「寺」へと昇格させるために、
貧乏ながらも住民が金を出しあい“寺をつくった”歴史がある。
ただ、「寺」とは残酷なもので、
それだけの信仰心を持ってしても「部落寺院・穢多寺」と呼ばれ、
僧侶は“穢僧”として扱われ、 部落民は死して尚、差別戒名を付けられるなど、
兎に角、差別的な扱いを受け続けてきたのである。
(勿論、今となってはその様な扱いは行なわれていないのであるが)
それでも、部落民は熱心に信仰を行ってきた。
今世での現状が、少しでも良くなるように、
そして来世には、差別のない世に生まれてこれる様にとの願いを込めて。
それが、差別という理不尽な世の中に対して、
彼らが出来うる精一杯の術だったのである。
「原発と共に・・・その2」 了
《その3へ続く 》
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見て記・行って記・被差別歩記-2
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