現在最も多いのが、「同和地区」と呼ばれる形の部落です。
これは、過去、国の法律に基づいて行政が地区指定した部落です。
行政により地区指定された部落は「同和地区」と呼ばれ、
多くの施策や施設の建設が行われた訳です。
ただし、2002年に同和法が完全終了してからは、
実情はともかく、国や行政の見方としては、
同和問題は解決した事になっています。
今日のお話は、そんな時代に作られた同和施設
「学習センター」についてお話します。
学習センターとは、文字どおり「部落内の学習施設」なのですが、
地域によっては、「教育集会所」「教育会館」「学習室」などと
呼ぶところもありますし、独立した建物がない所や
比較的小さな部落では、隣保館内に「学習室」を
設けるところもありました。
当地域の学習センター、というよりも、
一般的な同和学習施設の役割は、
すなわち部落児童の学力向上のためでした。
この様な取り組みは、独立した学習施設が
設けられる前から、各部落で任意に行われてきました。
法律制定前の多くの部落では、非常に貧困かつ劣悪な環境で、
勉強どころではありませんでした。
子どもといえども、大切な働き手の一人であった訳です。
それに、たとえ学校へ行っても今度は学校での「差別」がある。
とてもとても勉強する環境ではありません。
しかし、一部の融和団体や教師達は、
部落の貧困や差別の原因は、
「学力の無さ」にも大きな要因があると考え、
今で言う「ボランティア」のような形で
部落内の児童に勉強を教えてたそうです。
やがて、時代が移り、同和法が制定される頃には、
今度は、一般地区より「非行の多さや進学率の低さ」が
問題となり、学習施設もその役割を大きく変えていきます。
それが、「同和学習施設の進学塾化」 になっていきます。
ただ、街にある進学塾と大きく異なる点は、
塾講師を“同和指定校の教職員が務める”ことにありました。
つまり、昼間は学校で教鞭をとっていた教師が、
夜には同和地区の学習施設へ出向き、
「部落児童」だけに勉強を教えるわけです。
また、一方で、これまで勉強する機会に恵まれず、
字もロクに読めない方々への「識字学級」も
同時に行われるようになりました。
今では、「字が読めない!」なんて方は少ないでしょうが、
おじいさんおばあさん、とりわけ部落民は字が読めない方も
未だに多くおられます。
大阪の人権博物館だったか、
奈良の水平社博物館だったか忘れましたが、
そこに、識字学級で大人になってから
字を覚えた方の作文が展示されています。
そこには、私達には当たり前過ぎて気づいていない、
「字を書くこと、読むことの」喜びが満ち溢れた
文章が綴られています。
この様な、同和学習施設ですが、
同和法の終結とともに、その役割を部落民だけから、
一般地区民へ対象を広げていきました。
そこには、部落内の施設で部落子弟と一般子弟が
共に学ぶ姿があったことでしょう。
その後、数年の経過期間を経て、
現在、この様な学習施設は行政により
廃止されその役目を終えることになりました。
幸い、現在の同和地区児童の学力・進学率は
一般地区と変わりないほど向上しています。
これは、生活環境や地区住民(生徒自身も)の
意識の変化があげられるでしょうが、
しかし、その陰には「同和学習施設」が
大きな役割を担っていたことも忘れることが出来ません。
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