見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑:その3―
さて、前回の終わりに「・・・ただ、2か所を除いては」
(八鹿闘争勝利記念碑:その2)と書いたが、
この2か所というのが、何処にでもありそうな、
のどかな山農村のこのムラを“被差別部落”であることを決定づけているのだ。
その一つが隣保館である。
隣保館は、かつて、「差別をなくす為」の拠点として、
同和地区を中心に建設された。
当時は、隣保館・解放センター・解放会館・教育集会所などと呼ばれたこの施設も、
同和対策終了後の現在は、市民会館・文化センター・ふれあいセンターなどと名を変え、
同和地区住民のみならず、広く市民にも一般開放されている。
だが、それはかつて差別解放の拠点として存在した隣保館が、
逆に、同和地区のランドマークとして存在するが故に、
そこが、同和地区であるという「特定」につながっているということだ。
もちろん、隣保館がこれまで担ってきた役割は、
言葉で言い表せない程多大のものがあるし、
差別解消に大きな推進力となってきたことも事実である。
しかし、差別が完全解消されぬまま、
同和対策が終了し、行政により大きくその位置等を告知されることで、
善意の利用者のみならず、差別者にも同和地区(部落)の場所を
認知させるに至っている。
この、S部落の隣保館(現在はA福祉会館)も、ご多分にもれず。
小さな山農村部落にあって、明らかに目立つ
“白い外壁に覆われた鉄筋コンクリート造り”の建物は、
語らずとも、此処が部落であることを感じさせるに充分である。
ただ、このS部落の場合は、他の大多数の部落とは幾分違う点がある。
それが、集落から少し離れていると言うことだ。
例外もあるが、たいていの部落は、
その集落内に隣保館が存在するのだが、
まれに、何らかの理由で、集落(部落)から離れた場所に造られた場合がある。
大多数と言うのはそう言う意味で、
このS部落の場合は、前回、“集落内住宅の立地事情”の辺りにも書いたが、
どうやら状況から、「集落(部落)内に、建設スペースが無かったからではないか?」
と、推測される。
*さらに、余談であるが、隣保館と言えば、同和地区(部落)特有の施設のように
一般的に認知されているようであるが、
キリスト教関連の施設には、隣保館・隣保園・隣保事業などと言うように、
『隣保』をと言う言葉を好んで使う傾向にあり、
これは隣人への“博愛”という教義にのっとったもので、
隣保が、同和地区限定のものではないことを断わっておく。
地図上から見ると、S部落と隣の集落の丁度中間あたり、
田畑のど真ん中にA福祉会館は存在する。
私の不勉強で、申し訳ないが、
私は、当初、隣の集落も合わせてS部落であると認識していた。
訪問当時も、その認識でどちらの集落も回ってみたが、
なぜ、左右に分かれているのだろう?という程度で、特に違和感がなかった。
それに、今までの先入観で、この程度の離れた所なら、
部落が手狭である場合、「過密」として本所から離れた場所に、
新たに住宅を建設するケースが多いからだ。
その為、その中間にA福祉会館が存在すると思っていたが、
その後の調査で、どうやら、隣の地区は一般地区のようなのだ。
なにより、隣の集落名が「S」では無いところからも、そう思い直したのだ。
これも、左右の集落の中間にA福祉会館があるために勘違いをしてしまったのだが、
これとて、過密の為に、部落内に建設用地が確保できなかったのであろう。
このような、私の推測であるが、
このあたりの事情に詳しい方がおられたら、
ぜひともご教示願いたい。
======================
さて、一通り地区内を見て回り、車へ乗り込む。
車を走らせる(と言っても、狭い地区内なのですぐ近くなのだが)頃には、
雲は未だ厚く掛かっているものの、雨はすっかり上がっていた。
S地区の北のはずれに、地区の氏神だろうか?
山裾に沿って小さな神社がある。
その前に車を停め、“もう一つのランドマーク”へ向かう。
氏神の隣を綺麗に造成し、国道から一段高い位置に、
そのランドマークは、高々と誇らしげに建っている。
造成された広場には、植林が施され、丁寧に敷石が敷詰められており、
その姿に更なる(ある人が見れば、畏怖かもしれない)『威圧感』を与えている。
八鹿闘争勝利記念碑
高さが、ゆうに5mを超えるだろうこの建造物は、
何度も書くように、小さな田舎の山農村集落にはあまりにも不釣り合いで、
このS地区が被差別部落であるということを、如実に物語っているのであった。
周りは静かだ。
誰もいない。
空は相変わらず曇ってはいるが、とにかく明るい。
山裾を造成した高台にあるため、木々で“鬱蒼”というわけでもない。
それは、裏を返せば、意図的にこの碑を『誇示』する事を意味する。
「八鹿闘争勝利記念碑」と大きく彫りこまれた表面から裏へまわってみる。
そこには、この碑を建立した理由が彫りこまれていた。
1974年11月
八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑を建立する。
よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会
誰もいない静かなこの碑の前で、私は声をあげてこの碑文を読み上げてみた。
この碑の存在は知っていたが、碑文の内容までは知らなかった。
私の読解力の至らなさもあるだろうが、
碑文を読んでも、その場では、正直、
にわかにどう言う意味か理解ができなかった。
いや、書いてある内容自体は、文章を読めば理解できる。
この碑を建立した側からすれば、(それが正しいかどうかは別にして)
この出来事の「正当性」を訴えたいという気持ちは伝わってくる。
意味がわからないと言ったのは、「建立」の意味だ。
事件からかなりの年月が経った今、
なぜこの碑が建立されなければならなかったのか?
もちろん、事件はとっくに風化してしまっている。
事件自体を知らない、もしくは、忘れてしまっている部落民も、
私の周りでは大多数を占める有様であるから、
一般地区住民にとっては尚更であろう。
たまに、部落関係の雑誌やインターネットで、
過去の振り返りとして目にする程度だ。
しかし、この事件のもう一つの組織、すなわち共産党では、
今もこの事件を「部落解放同盟が行った忌まわしい暴力事件」として、
度々俎上に挙げ、部落解放同盟を批判するプロパガンダとして用いている。
共産党員であり、「同和利権の真相」「誰も書かなかった部落」などの
著者である寺園氏のブログには、「誰のための何に対する勝利か」と題し、
この建造物に対する批判記事を載せている。
確かに、この事件を起こしたS部落のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』のメンバーは、
傷害で逮捕されており、怪我をした教師から起こされた民事裁判でも、
賠償金の支払いが命じられている。
更に、事件を重くみた部落解放同盟の執行部から「除名」の処分を受けている。
これだけ見れば、八鹿高校事件は、一方的にM氏側の“敗北”であろう。
しかし、M氏をはじめとする当時の同盟員達は、
民事判決で出た賠償金については一切支払っていないという。
設置場所の造成や、この碑の荘厳さは先にも書いたとおりである。
つまり、かなりの『カネ』がつぎ込まれているということだ。
おそらく、100・200万ではないはずだ。
八鹿闘争勝利記念碑建立委員会が、どのようなメンバーで
構成されているのか私には分からない。
(もしかしたら、M氏個人が名乗っているのかもしれないが・・・)
ただ、彼らの思惑としては、
「賠償金を払わずにこの立派な石碑を建立した!」
それが、『我々の勝利である!!』と言うことでは無いだろうか?
碑の建立の意図は、関係者以外、今のところ誰もわからないようである。
しかし、人により取り方は様々であるのは当然のこと。
この碑を否定する人、又肯定する人あって良しだが、
これが、あの碑を見てから5年間考え続けた、私なりの解釈である。
碑を見学していた時間は10分少々だろうか。
それ以外には、見学する場所もないので、
早々車へ向かった。
その10分の間に、速い流れの雲の隙間から、
幾分薄明かりが顔をのぞかせた。
振り返れば、その弱々しい陽の光が、
“八鹿闘争勝利記念碑”を、やはり弱々しく照らしていた。
終
←その1 【八鹿闘争勝利記念碑】 その2→
(八鹿闘争勝利記念碑:その2)と書いたが、
この2か所というのが、何処にでもありそうな、
のどかな山農村のこのムラを“被差別部落”であることを決定づけているのだ。
その一つが隣保館である。
隣保館は、かつて、「差別をなくす為」の拠点として、
同和地区を中心に建設された。
当時は、隣保館・解放センター・解放会館・教育集会所などと呼ばれたこの施設も、
同和対策終了後の現在は、市民会館・文化センター・ふれあいセンターなどと名を変え、
同和地区住民のみならず、広く市民にも一般開放されている。
だが、それはかつて差別解放の拠点として存在した隣保館が、
逆に、同和地区のランドマークとして存在するが故に、
そこが、同和地区であるという「特定」につながっているということだ。
もちろん、隣保館がこれまで担ってきた役割は、
言葉で言い表せない程多大のものがあるし、
差別解消に大きな推進力となってきたことも事実である。
しかし、差別が完全解消されぬまま、
同和対策が終了し、行政により大きくその位置等を告知されることで、
善意の利用者のみならず、差別者にも同和地区(部落)の場所を
認知させるに至っている。
この、S部落の隣保館(現在はA福祉会館)も、ご多分にもれず。
小さな山農村部落にあって、明らかに目立つ
“白い外壁に覆われた鉄筋コンクリート造り”の建物は、
語らずとも、此処が部落であることを感じさせるに充分である。
ただ、このS部落の場合は、他の大多数の部落とは幾分違う点がある。
それが、集落から少し離れていると言うことだ。
例外もあるが、たいていの部落は、
その集落内に隣保館が存在するのだが、
まれに、何らかの理由で、集落(部落)から離れた場所に造られた場合がある。
大多数と言うのはそう言う意味で、
このS部落の場合は、前回、“集落内住宅の立地事情”の辺りにも書いたが、
どうやら状況から、「集落(部落)内に、建設スペースが無かったからではないか?」
と、推測される。
*さらに、余談であるが、隣保館と言えば、同和地区(部落)特有の施設のように
一般的に認知されているようであるが、
キリスト教関連の施設には、隣保館・隣保園・隣保事業などと言うように、
『隣保』をと言う言葉を好んで使う傾向にあり、
これは隣人への“博愛”という教義にのっとったもので、
隣保が、同和地区限定のものではないことを断わっておく。
地図上から見ると、S部落と隣の集落の丁度中間あたり、
田畑のど真ん中にA福祉会館は存在する。
私の不勉強で、申し訳ないが、
私は、当初、隣の集落も合わせてS部落であると認識していた。
訪問当時も、その認識でどちらの集落も回ってみたが、
なぜ、左右に分かれているのだろう?という程度で、特に違和感がなかった。
それに、今までの先入観で、この程度の離れた所なら、
部落が手狭である場合、「過密」として本所から離れた場所に、
新たに住宅を建設するケースが多いからだ。
その為、その中間にA福祉会館が存在すると思っていたが、
その後の調査で、どうやら、隣の地区は一般地区のようなのだ。
なにより、隣の集落名が「S」では無いところからも、そう思い直したのだ。
これも、左右の集落の中間にA福祉会館があるために勘違いをしてしまったのだが、
これとて、過密の為に、部落内に建設用地が確保できなかったのであろう。
このような、私の推測であるが、
このあたりの事情に詳しい方がおられたら、
ぜひともご教示願いたい。
======================
さて、一通り地区内を見て回り、車へ乗り込む。
車を走らせる(と言っても、狭い地区内なのですぐ近くなのだが)頃には、
雲は未だ厚く掛かっているものの、雨はすっかり上がっていた。
S地区の北のはずれに、地区の氏神だろうか?
山裾に沿って小さな神社がある。
その前に車を停め、“もう一つのランドマーク”へ向かう。
氏神の隣を綺麗に造成し、国道から一段高い位置に、
そのランドマークは、高々と誇らしげに建っている。
造成された広場には、植林が施され、丁寧に敷石が敷詰められており、
その姿に更なる(ある人が見れば、畏怖かもしれない)『威圧感』を与えている。
八鹿闘争勝利記念碑
高さが、ゆうに5mを超えるだろうこの建造物は、
何度も書くように、小さな田舎の山農村集落にはあまりにも不釣り合いで、
このS地区が被差別部落であるということを、如実に物語っているのであった。
周りは静かだ。
誰もいない。
空は相変わらず曇ってはいるが、とにかく明るい。
山裾を造成した高台にあるため、木々で“鬱蒼”というわけでもない。
それは、裏を返せば、意図的にこの碑を『誇示』する事を意味する。
「八鹿闘争勝利記念碑」と大きく彫りこまれた表面から裏へまわってみる。
そこには、この碑を建立した理由が彫りこまれていた。
1974年11月
八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑を建立する。
よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会
誰もいない静かなこの碑の前で、私は声をあげてこの碑文を読み上げてみた。
この碑の存在は知っていたが、碑文の内容までは知らなかった。
私の読解力の至らなさもあるだろうが、
碑文を読んでも、その場では、正直、
にわかにどう言う意味か理解ができなかった。
いや、書いてある内容自体は、文章を読めば理解できる。
この碑を建立した側からすれば、(それが正しいかどうかは別にして)
この出来事の「正当性」を訴えたいという気持ちは伝わってくる。
意味がわからないと言ったのは、「建立」の意味だ。
事件からかなりの年月が経った今、
なぜこの碑が建立されなければならなかったのか?
もちろん、事件はとっくに風化してしまっている。
事件自体を知らない、もしくは、忘れてしまっている部落民も、
私の周りでは大多数を占める有様であるから、
一般地区住民にとっては尚更であろう。
たまに、部落関係の雑誌やインターネットで、
過去の振り返りとして目にする程度だ。
しかし、この事件のもう一つの組織、すなわち共産党では、
今もこの事件を「部落解放同盟が行った忌まわしい暴力事件」として、
度々俎上に挙げ、部落解放同盟を批判するプロパガンダとして用いている。
共産党員であり、「同和利権の真相」「誰も書かなかった部落」などの
著者である寺園氏のブログには、「誰のための何に対する勝利か」と題し、
この建造物に対する批判記事を載せている。
確かに、この事件を起こしたS部落のM氏を中心とする、
『部落解放同盟南但馬支部連絡協議会』のメンバーは、
傷害で逮捕されており、怪我をした教師から起こされた民事裁判でも、
賠償金の支払いが命じられている。
更に、事件を重くみた部落解放同盟の執行部から「除名」の処分を受けている。
これだけ見れば、八鹿高校事件は、一方的にM氏側の“敗北”であろう。
しかし、M氏をはじめとする当時の同盟員達は、
民事判決で出た賠償金については一切支払っていないという。
設置場所の造成や、この碑の荘厳さは先にも書いたとおりである。
つまり、かなりの『カネ』がつぎ込まれているということだ。
おそらく、100・200万ではないはずだ。
八鹿闘争勝利記念碑建立委員会が、どのようなメンバーで
構成されているのか私には分からない。
(もしかしたら、M氏個人が名乗っているのかもしれないが・・・)
ただ、彼らの思惑としては、
「賠償金を払わずにこの立派な石碑を建立した!」
それが、『我々の勝利である!!』と言うことでは無いだろうか?
碑の建立の意図は、関係者以外、今のところ誰もわからないようである。
しかし、人により取り方は様々であるのは当然のこと。
この碑を否定する人、又肯定する人あって良しだが、
これが、あの碑を見てから5年間考え続けた、私なりの解釈である。
碑を見学していた時間は10分少々だろうか。
それ以外には、見学する場所もないので、
早々車へ向かった。
その10分の間に、速い流れの雲の隙間から、
幾分薄明かりが顔をのぞかせた。
振り返れば、その弱々しい陽の光が、
“八鹿闘争勝利記念碑”を、やはり弱々しく照らしていた。
終
部落を皆さんに知ってもらいたい!
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見て記・行って記・被差別歩記―3
―八鹿闘争勝利記念碑・終―
1 件のコメント:
「日本の闇スペシャル 筑豊のどろぼう部落」という言葉で検索してみてください。
ラジオ番組で、部落の人間が日々の暮らしを話しています。
ちょくちょく車をぬすまれたり、わざと指を切り、その金で家を建てただの、若者は集団万引きをするなど、
常識からは考えられない話が沢山です。
そしてそれを当然に思っている部落民の考え方が浅ましく、卑しいとしかいえません。
そんな人たちとも仲良くしなければならないのですか?
あなたは部落を差別するなとおっしゃいますが、他人の物を盗んでも平気な人たち、他人を傷つけても平気な人たちが
集まった地域をじゃあまず何とかしてくれませんか?
差別するなと叫ぶんじゃなくて、自浄作用をはたらかせようと思わないんですか?
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