“大音量サイレン”の一件から程なくして、
サイレンの主が、「丹波マンガン記念館」を運営する李龍植氏であることを知った。
その事情を知った以上、私の感情は「ひどい!!」から「憤り」へと変化するに至ったのだった。
いや、李氏が在日韓国・朝鮮人だからと言う、在日外国人への差別では決して無い。
李氏が、「人権」と銘打って資料館を作り、本を書いていることへの憤りなのである。
「丹波マンガン記念館」の存在自体は、早くから知っていた。
機会があれば、一度訪れてみたいとも思ったことがある。
このような事情を知る、ずっと前の話であるから、在日・部落・人権と言う枠組みではなく、
これまでに訪れた「富士の氷穴」や「沖縄の玉泉洞」よろしく、
単に、“マンガン坑”の見学という、冒険的・好奇心的な範疇である。
しかし、先に述べたように、テレビ報道から程なくして、『その事実』を知ってから、
ある一冊の本の存在に気がついた。
「丹波マンガン記念館の7300日-李龍植」が、その本である。
この本は、驚く無かれ、差別に徹底抗戦する“解放出版社”から出ているのである。
この本は、驚く無かれ、差別に徹底抗戦する“解放出版社”から出ているのである。
解放出版社は、部落解放同盟の出版部門であるが、現在は部落問題のみならず、
障がい者・在日・いじめ等、人権問題全般の本を出版している。
件の出来事は、おおよそ「人権」を謳う出版社から本を出していた人物とは思えない
「暴挙」といえるのではないだろうか?
障がい者・在日・いじめ等、人権問題全般の本を出版している。
件の出来事は、おおよそ「人権」を謳う出版社から本を出していた人物とは思えない
「暴挙」といえるのではないだろうか?
肝心の本の内容であるが、読んだのがもう随分前のことなので詳細は忘れてしまい、
此処では紹介することは出来ないが、断片的に覚えているのは、
強制的(本の記述による)に半島から徴用された韓国・朝鮮人が坑内夫として働いていたこと。又、“周辺”の被差別部落民が、マンガンの選別作業にあたっていたこと。
強制的(本の記述による)に半島から徴用された韓国・朝鮮人が坑内夫として働いていたこと。又、“周辺”の被差別部落民が、マンガンの選別作業にあたっていたこと。
そして、氏の父親が私財を投じて記念館を興し、その後、
運営を氏が引き継いだと言うことなどだ。
運営を氏が引き継いだと言うことなどだ。
興味がある方は一読してみては如何であろう。
さて、マンガンと聞いて、ずぐに思い浮かぶのは「マンガン乾電池」であるが、
乾電池に使われるのはごく一部で、産出されたマンガンの殆どは、
鉄を強くする添加物として使用されている。
その為、戦時中は翼賛体制のもと、戦艦や兵器を作る大切な軍需産業として大いに奨励された。
しかし、炭鉱労働と同じく、その作業は熾烈を極め、
過酷な労働環境の元、タコ部屋状態で労働に駆りだされていたという。
筑豊・田川の炭鉱を舞台にした、五木寛之の「青春の門」。
映画冒頭に描かれている、炭鉱崩落事故さながらの、マンガン鉱崩落事故もあったに違いない。
もしかしたら、明るみに出ていないが、今で言う「じん肺」の問題もあったであろう。
「青春の門」では、ヤクザ・在日・日本人鉱夫(部落民が多かった)が描かれているが、
遠く離れた京都・京北のこのマンガン鉱でも、労働者は同じ構成であった。
それは、“命と引換えの過酷な労働環境”であった事を繰り返し書き留めておこう。
そんな、過酷な労働環境で働いてきた龍植氏の父親が、
「人権」の大切さを訴えるために、私財を投じて作ったのが「丹波マンガン記念館」だったのだ。
(更に、丹波マンガン記念館は、全国の人権団体が加盟する「人権ネット」と言う団体にも加盟している。)
しかし、龍植氏の父親から代替わりした今日、今でもマンガンを掘ってはいるが、
近代化や機械化の力も伴って、その労働環境は驚くほどに改善したはずだ。
もしかしたら龍植氏は、労働環境な改善とともに、
「人権」の心を忘れてしまったのかも知れない。
私利私欲のために、人の痛みや悲しみが見えなくなってしまったのだとしたら、
それは非常に憂う事態である。
何度も言うが、李氏が在日だからではない。
たとえ、このような事態を日本人が引き起こしていても、私は憤りを感ずる事は言うまでもない。
なぜなら、「人権」と銘打った活動をしてるからである。
人権を看板にあげている以上、非人権的な行動には到底賛同できないのは当然である。
せっかくなので、丹波マンガン記念館のゲート写真だけ紹介しておこう。
国道162号線から、更に10分ほど山道を走った先に、
入口ゲートが有る。
これ以上先は、施設敷地内の為、見学者以外の進入不可。
「丹波マンガン記念館」に興味がありながら、断固として入場を行わないのは、
私のささやかな抵抗である。
そんな経緯もあり、私は「丹波マンガン記念館」周辺の被差別部落の
調査を行っていた最中、今回のテーマである「江戸時代の牢屋」が現存する
役人村(=即ち被差別部落)が存在する事を知るに至ったのである。
【つづく】
{*本題から少し外れますが・・・
次頁には「丹波マンガン記念館」HPに記載されている李氏のコメントと、
その他の資料を添付する予定です}
それは、“命と引換えの過酷な労働環境”であった事を繰り返し書き留めておこう。
そんな、過酷な労働環境で働いてきた龍植氏の父親が、
「人権」の大切さを訴えるために、私財を投じて作ったのが「丹波マンガン記念館」だったのだ。
(更に、丹波マンガン記念館は、全国の人権団体が加盟する「人権ネット」と言う団体にも加盟している。)
近代化や機械化の力も伴って、その労働環境は驚くほどに改善したはずだ。
もしかしたら龍植氏は、労働環境な改善とともに、
「人権」の心を忘れてしまったのかも知れない。
私利私欲のために、人の痛みや悲しみが見えなくなってしまったのだとしたら、
それは非常に憂う事態である。
何度も言うが、李氏が在日だからではない。
たとえ、このような事態を日本人が引き起こしていても、私は憤りを感ずる事は言うまでもない。
なぜなら、「人権」と銘打った活動をしてるからである。
人権を看板にあげている以上、非人権的な行動には到底賛同できないのは当然である。
せっかくなので、丹波マンガン記念館のゲート写真だけ紹介しておこう。
国道162号線から、更に10分ほど山道を走った先に、
入口ゲートが有る。
これ以上先は、施設敷地内の為、見学者以外の進入不可。
「丹波マンガン記念館」に興味がありながら、断固として入場を行わないのは、
私のささやかな抵抗である。
そんな経緯もあり、私は「丹波マンガン記念館」周辺の被差別部落の
調査を行っていた最中、今回のテーマである「江戸時代の牢屋」が現存する
役人村(=即ち被差別部落)が存在する事を知るに至ったのである。
【つづく】
{*本題から少し外れますが・・・
次頁には「丹波マンガン記念館」HPに記載されている李氏のコメントと、
その他の資料を添付する予定です}
0 件のコメント:
コメントを投稿