ただただ静かに朝日を受け、光り輝いていた。
「1.2.3・・・」
私は、3年前に訪れた時と何一つ変わらないその遺構を、
もう一度、端から端まで歩いてみた。
「4.5.6・・・
確かに18に仕切られている」
改めてゆっくりと数えながら歩いてみると、
その名の通り、18に仕切られた小部屋があった。
その一つ一つに“裏扉”が設けられており、
今にも消えそうな字で、一扉毎に「北山十八間戸」と縦書きされていた。
“裏扉”・・・
そう、ここは、十八間戸の裏側なのだ。
道路より一段低い建物は、
手を伸ばせば屋根にこそ、手が届きそうではあるが、
残念ながら、周りをぐるりと金網フェンスで取り囲まれているため、
建物正面を覗くことは出来ない。
しかし、一見すると寺のようにも見えるそれは、
建築物としては、独自の構造を持つものであった。
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(グーグルマップより) |
それを説明するには、まず、立地を見てみよう。
坂の中腹に位置する十八間戸は、
丁度、海の岬のように、丘陵の突き出た場所に、
崖側を正面にして建てられており、
裏側が通りに面するという特異な建て方であること。
又、今でこそ、周りには家が立ち並ぶ住宅街となっているが、
古くは、この地には墓が立ち並ぶ葬送の場であった事があげられる。
次に、建物であるが、
「十八間戸」というだけあり、平屋建ての非常に長い建物であるが、
内部は、仕切られた部屋だけなので、それに見合う奥行きがなく、
見た目には、古城の渡り廊下のようで、
「妙に“薄い”建物」と言う印象があるが、
最も、現在で言うならば、アパートやマンションのように、
横長の建物が普通に見みられるので、
言うならば、十八間戸は、住居効率のよい集合住宅のハシリみたいなものであろう。
ただ、先程も述べた通り、その立地に於ける建物構造は、
建物自体が『塀』のようになっており、
あたかも、外界との接触を拒んでいるかのように見て取れる。
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私は、しばらくその場に佇んだあと、
しばしあたりを見回し、中への入り口を探したが、
建物西側に、どうやらそれとわかる鉄門扉を見つけた。
しかし、意外にも、その鉄門扉の辺りには、
十八間戸の由来を示す案内板と、名を記した石碑とともに、
大量の植木鉢やプランターなどが置かれており、
隣接したお好み焼き屋さんの庭のようになっていたのである。
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(グーグルマップより) |
いや、隣接と言って良いのだろうか?
十八間戸は、この、お好み焼き屋(以下“お好み”と略)さんと、
一部敷地を共有しているようで、
権利関係が一体どうなっているのか知る由もないが、
どうやら、このお好みさんが、十八間戸を管理しているようであった。
私は、再度辺りを見回したが、
どうもそれ以外に出入り口はないようなので、
お好みさんの引き戸に手をかけた。
暖簾が掛かっていないばかりか、
幾ばくか商いを営んでいるような気配がないお好みさんの扉は、
案の定開くことがなく、呼び声にも応答がなかった。
私は、がっかりと肩を落としながらも、
とりあえず、全貌を見ようと、
お好みさん横の階段状の道を降り、
周りを一周してみることにしたが、
だが・・・と言うか、しかし・・・と言うか、崖の上の建物が見えるはずもなく、
うなだれながら、再度、十八間戸の裏口へ戻ってきた。
すると、それまで人っ子一人見なかった私の前に、
腰を曲げたおばあさんが、ゆっくりと歩いてきた。
「あぁ、あそこなら、町内会長さんが鍵持ってますよ」・・・
などという、嬉しい言葉を期待していたが、
返ってきた言葉は、
「あのお店に声掛けはったらよろしいいわ」・・・と言う、
ある意味、当然といえば当然の答えが返ってきたのだった。
これで、お好みさんの管理が決定的になったわけで、
その肝心のお好みさんが居ないことにはどうしようも無いので、
私は、このフィールドワークで見出した幾つかの疑問を晴らすべく、
その足で、北山十八間戸の研究に明るい
『奈良県同和問題関係史料センター』へと向かった。
【その3へ続く】
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